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フェルディナンドの街路を飾る木々が、ほんのりと色づき始めた。
日没は日々早まり、纏わりつく熱い空気が、いつの間にか涼しい風に取って代わられていた。夕刻になると全てのものが長く黒く影を引き、遥か西の稜線に沈みゆく太陽が、見事なまでの黄金色に輝いている。
秋が来たなぁ、としみじみ思う。
そして、私にとっての秋とは、読書でもなく芸術でもなく、ただひたすらに食欲を満たすためだけにある。
私は、広場のベンチに腰かけて、屋台で買ったトルテラに舌鼓を打っていた。
トルテラは、肉や野菜などの具を厚い小麦粉の皮で包んだフェルディナンドの郷土料理の一つだ。持ち運びしやすく、小腹がすいたときにも丁度良いので、学生たち御用達の一品でもある。
私も学院にいたころには、朝昼晩と世話になった。城仕えを始めてからは広場でまったりと暇を潰すような機会も減り、しばらくご無沙汰していたのだが……今日たまたま通りがかったら屋台が出ているのを見つけ、匂いに釣られて買ってしまったというわけである。
肉も捨てがたいが、私が一番好きな具材はラトゥという白身魚だった。ぷりぷりした身をたっぷりの野菜と一緒に頬張るのは、まさに至福の一言に尽きる。ソースが美味しいのだ。バターの風味がきいていて、ふわりと口の中に甘い芳香が広がる。
私と同じように匂いに釣られたらしい人影が、また一人、屋台に近づいた。人影はトルテラを買い、それを持ってなぜか真っ直ぐ私の方へと向かってきた。
目を凝らしてもどうせ逆光で見えないので、私は気にしないことにした。それよりもトルテラを堪能することの方が重要である。
「おい」
「はい?」
私は顔を上げた。
さすがにこの距離になると、目の前の人物が誰であるかはすぐにわかった。
「ゆっ……左大臣閣下っ!」
と言おうとした口元を、容赦なく大きな掌に塞がれた。
「むぐぐ」
「声が大きい……!」
「げほげほ……。申し訳ございません。つい」
閣下は私のすぐ隣に腰を下ろして、ばくっ、と、今しがた買われたトルテラに豪快に齧り付かれた。いい食べっぷりである。とても大貴族様とは思えない。
……というか、またお忍びだろうか。こんなにフラフラしていて良いのだろうか。思わず半眼になってじいっと見つめていると、何か激しく勘違いされたらしく、食うか? と閣下は肉入りのトルテラを私の方に差し出された。
そんなに食い意地が張っているように見えるのだろうか。私とて乙女の端くれ、少々悲しいものがある。
「閣下のトルテラを奪うなんて、そんな大それたこと出来ません。確かにお肉の良い匂いが食欲をそそってはくれますが」
「お前のそれは?」
「ラトゥです。ぷりぷりした身とソースの相性が抜群の、お薦めの一品です」
「魚のトルテラは食ったことがないなぁ……」
閣下が私の手を掴んだ。え? ときょとんしている私の目の前で、おもむろに、トルテラに食いついた。私の魚入りの方に。
「……かかか、閣下っ!」
「だから閣下と呼ぶなと」
「いえ、そうではなくっ!」
思いっきり、私の歯形が付いていたのですが。ラトゥのトルテラ。だって食べかけだったし!
「なるほど。これはこれで美味い。……だが俺はやはり肉の方がいいな」
いえ、そんな冷静に批評している場合ではなく!
「さっきから赤くなったり青くなったり忙しい奴だな……」
誰のせいですか!
「えー……」
こほん、と咳払いをする。
落ち着け自分。閣下は細かいことは気にされない性分なのだ、きっと。そんな閣下にとって、私の歯形など取るに足らない事なのだ。
ここは一つ話題を変えよう。そうしよう。天下の公爵様相手にドギマギしてしまうなんて、あってはならない事態なのだ。身の程を知れ、マリー・ピアソン! 私は忠実なる左大臣閣下の部下なのだから!
「閣下は肉食男子なのですね」
まだ動揺は治まっていなかったらしい。
閣下は魚派ではなく肉派なのですね、と言おうと思ったのだけど。……間違えた。
「……違う意味に聞こえて仕方ないんだが。これまでの流れから察するに、肉派か魚派かと聞いているんだよな、きっと」
「さすがです、閣下。素晴らしい洞察力です」
「お前のおかげで鍛えられた気がしてならん……」
「ありがとうございます」
「だから全く誉めてないと……」
気が付けば、閣下はもうご自分のトルテラを綺麗に平らげていた。
私の方が先に食べていたはずなのに。早いなぁ、と感心しつつ横目でちらりと見ると、なぜかこちらを見ている閣下と目があった。
私は慌てて目をそらした。そして、自分のトルテラに集中した。早く食べてしまおう。むぐむぐむぐ……。頬の辺りに視線を感じる。
何でしょう。ものすごく見られている気がするのですが。
「あのー」
「ん?」
「あんまり見られると、その、恥ずかしいというか、食べにくいというか……」
「意外に食べるのが遅いと思ってな」
「はぁ、すみません。気を付けないと、こう、中の具がぐにゃっと飛び出してきそうで」
「口が小さいからだろう」
「そ、そうですか? 普通の大きさだと思うのですが」
「……手も小さい」
「え、ええと、手も普通の大きさかと」
さっき、掴まれたことを思い出し、かあっと顔が熱くなった。
閣下は手が大きかった。大貴族様なのに、掌はかたく全体的にごつごつして、何だか剣を生業にしている武人のようだと思った。
自分で自分を守れる以上の鍛錬を、普段からされているのかもしれない。お忙しい身のはずなのに、そんな暇をどうやって捻り出しておられるのか、全くもって謎である。
何もせず、何も考えず、一見無駄にしか見えないけれど、ただぼんやりと時の流れに身を任せるようなこと、ないのだろうか。
閣下のように求められるものが大きすぎる方ほど、そういう時間が、必要な気もするのだけど……。
「食べ終わりました」
「そのようだな。さて帰るか」
「はい」
王城のほど近くまで、私は閣下にご同行した。
閣下は最近メルトレファス家の屋敷の方にはほとんど戻っておらず、ずっと城内に賜った私室で寝泊まりされているとのことだった。
外で会うと、私は、公爵様が公爵様であることをつい忘れそうになる。
だけど、巨大にして荘厳華麗なフェルディナンド城が目前に迫ってくるに従い、浮ついた気分は徐々に醒めていった。
今、私の隣におられるこの方は、大国フェルディナンドを支える重鎮のお一人なのだ。何食わぬ顔をして、歩く速度を私の歩幅に合わせてくれるようなお優しい方だから、時に図々しく甘えてしまうこともあるけれど……本来、親しげに言葉を交わすことすら恐れ多い方なのだ。
城に入ると、私は官の顔を取り戻す。こっそりと公爵様に憧れを抱いている貧乏令嬢マリー・ピアソンは、どこにもいない。
私室がある棟まで閣下をお送りし、私は恭しく頭を垂れた。
「本日は、私のために貴重なお時間を割いて頂き、ありがとうございました」
「……偶然会って、屋台で買い食いをして、帰ってきただけだろう」
「それでも、私にとっては、とても有意義な時間でした」
「マリー……?」
「また明日、執務室のお掃除に伺います。それでは失礼いたします」
実は、さっき、閣下を危うく名前で呼びそうになった。
乳兄弟でもなく、ご学友でもなく、ただの一部下、しかも最下層の一役人に過ぎないこの私が。
慣れ親しむって怖いなぁ、と思う。
気を付けよう。常に自分を制しておこう。いつかぼろっと言ってしまわないように。
ユージン様、と。