7 回顧(視点・ピアソン伯爵)
※マリーの父親視点です。
一人娘のマリーは、とにかく子供のころからお転婆で、手を焼いた。
年頃になればあれの母親に似て少しは淑やかになるかと思ったら、むしろ知恵が変な方向に働いて、一層図太くなるばかりだった。
十六歳になる少し手前、私も兄のように王立学院に通いたいなどと言い出した時には、本気で娘の頬を張り飛ばしかけた。貴族の令嬢に教養は必要だが、知識は無駄に蓄えるべきではない。幸いにして中身はともかく見た目はマリーは十分に美しかった。持参金など無くとも、欲しいと望む男は間もなくすぐに現れた。
うちには金が必要だった。兄のルーフレインが学院大学部の博士課程を無事に卒業するまでに、あと二年も学費を払い続けなければならない。ルーは優秀だったから、奨学制度のおかげで費用は半分ほどに減ってはいたが、それでもうちには大金だった。
絵を描く以外に取り柄のない私には、その資金を用意できる手段がない。マリーを金のある男に嫁がせて、そこからルーの教育資金を捻出するつもりだった。
「……信じられない。あんたはどこまでクズなんだ」
私がマリーの結婚について相談を持ちかけると、開口一番、ルーの台詞がそれだった。
「俺は妹を人身御供にしてまで学校に行きたいなんて思わない。学院なんか今すぐ辞めてやるよ。マリーはあんたの人形じゃないんだ。勝手なことばかり言うな!」
ルーは、もともと、気性の荒い部分がある。だから、私の話に怒るだろうとは思っていたが、これほど激昂するとは意外だった。正直、それほどマリーを可愛がっていた様子は見られなかったのだ。どちらかと言えば、つきまとう妹を面倒くさそうに突き放している感じだった。
「学院を辞めるって。馬鹿なことを言うな。うちには土地も家もない。あるのはお前の頭くらいのものだ。ベアトリス教授がな、お前をいたく買っておられる。お前が卒業したら、まずは講師としてお前を迎え入れ、後々は教授の椅子をとまで言ってくれているんだ。それを辞めるなんて……」
「黙れ、この寄生虫野郎」
話はそこで打ち切りとなった。
良くも悪くも行動力のあるルーは、そのまま学院に向かい、あろうことか退学届を提出してしまったらしい。
私は慌てた。ルーにはしっかりと学校を卒業してもらい、給料の高い仕事に就いてもらい、我が家を没落貴族ではなく新興の知識階層として新たに盛り立ててもらおうと考えていたのだ。それがこうもあっさり水泡に帰すとは予想だにしていなかった。
そもそも、学校を辞めてあいつはどうするつもりなのか。
こうなったら官僚でも薦めるか。学院の教授ほど名誉職ではないが、ルーなら、ある程度上の方まで昇ることが出来るだろう……。
不安な日々が、一週間ほど続いた。
ルーから連絡は一切ない。学院を辞めるついでに、私とも縁を切るつもりなのか。……あれならやりかねない。
そんな折、新月に近い暗い夜、一人の青年が私のもとを訪れた。
せいぜい二十歳くらいと思われる青年は、家に入るなり、私の目の前に一枚の手紙を置いた。
いや、手紙だと思ったそれは、ルーが書いた退学届だった。
私は訳が分からなかった。この男は何なのだろう? 既に提出し、受理されてしまった届出書を、なぜ持っている? 取り戻したとでもいうのか。いや、そんな権限を行使できる人間は、このフェルディナンドにも数えるほどしかいないはずだ。
男は私にあまり顔を見られたくはないらしく、室内でも間深くフードを被ったままだった。
蝋燭の明かりに照らされた瞳が、不思議な赤色をしていたような気がしたが……私自身、動転していたこともあり、詳しくは覚えていない。
「ルーフレインは……まだ」
「彼はまだ学院に籍を置いている。……とはいえ、既に二期分学費を滞納しているからな。あまり時間はない」
そうなのだ。私は一年も前から既に学費を払えなくなっていた。
だからマリーの結婚を急いだのだ。三期分が滞納になれば、強制的に学院を退学させられる。それだけは避けたかった。その前に、気付いたルーが、自ら退学届を学院に叩きつけてしまったが。
「……金はないんだ。うちには」
「そのようだな」
もともと、寄宿学校を卒業したらルーはすぐに働くつもりだった。うちに金が無いのは重々承知していたから、当然の選択だろう。
それを私が止めたのだ。学費は何とかする。お前は学べ、と。子供のころから決して私に懐こうとはしなかった息子に、一つでも父親らしいことをして、見直して欲しかったのかもしれない。妻が遺した信託財産があったのも幸いした。四年目までは、それで何とか賄えた。
しかし、四年目、その信託財産が底をついた。母親の遺産を自分一人で食い潰してしまった事実に、ルーは少なからず衝撃を受けていたようだった。半分は、マリーのものだったのに、と。
「あんたは何だ? 何しに来た?」
「絵を買いに来た」
男が言い、私は大きく目を見開いた。
「絵、を?」
男は、一枚の紙を私の前に差し出した。
小切手だった。王都の中央銀行に行けば、この紙切れ一枚で現金と交換してくれる。一部の裕福な貴族や豪商が利用している制度らしいが、私は実物を見たのは初めてだった。しっかりとした厚い紙面には、中央銀の社判と、どこかの貴族の家の紋章印と、そして直筆のサインがあった。
金額は……小切手を持っている手に思わず震えが走るような、とんでもない額だった。ルーの学費を払って、なお莫大な釣りがくる。
「これ、は」
「絵を買いに来たと言っただろう。不足か?」
「いや、そうではなく……多すぎる。こんな額」
男は、微かに笑ったようだった。
「根っからの悪人ではなさそうだな。ならば結構。これは、ルーフレインと……その妹、マリーの学費に充ててくれ」
「マリー!?」
「学院に通いたいのだろう。あのはねっ返り娘は」
そう呟いた男の目が、ほんの少し、柔らかな光を帯びた気がした。
ルーの妹だから……ではない。彼は、マリーを、知っている……?
「しかし、なぜ、マリーまで」
「ルーフレインのついでだ。女だてらに、何処までやれるか……私も結果を見届けたい」
「マリーも貴族の娘の端くれだ。誰か、しっかりとした男に嫁いだ方が……」
「何が幸せか、それを決めるのは彼女自身だろう。まだ十代のうちから道を閉ざすべきではない」
何故だろうか。今目の前にいる男自身が、道を閉ざされて生きてきたのかもしれないと、ふと思った。
私は小切手に視線を落とした。
書かれたサインを改めて見て、再び手が震え始めた。
「あ、貴方は……」
とてつもない大貴族の名が記されてあった。
いや、貴族と一言で片づけられるような家柄ですらない。
メルトレファスは三公爵家の筆頭だ。唯一、大公を名乗れる家だ。フェルディナンド開闢の頃から、メルトレファスには重要な役目があった。すなわち、王家の血を決して絶やさないようにすること。王家に男児が生まれないときは、メルトレファスから次期国王が選出される。だから、かの家には、二、三代おきに第一王女殿下が降嫁されていた。
現在の若き公爵は、中でも特に王家の血が濃い。母、祖母、両者が降嫁された王女殿下なのだ。血が濃くなりすぎるのを危惧して、通常はこんな事態にはならないのだが……先代が従妹姫と恋仲になってしまい生まれたのが、現公爵様だった。
「し、失礼いたしました。知らぬこととはいえ、大変なご無礼を」
「よい。私は見ての通り忍びで来ている。他言無用だ」
「は……。しかし、このお金は受け取れません。このような事をしていただく謂れがございません」
「おかしなことを言うものだな。私はただ、絵を買いに来ただけだが」
メルトレファス公爵は、そう言うと、部屋の中を見回した。
ルーの学費に充てるどころか、一日分の食費にすらならない無価値の絵画が、さほど広くはない部屋の中に乱雑に置かれてある。
その中の一つに、公爵様の目が留まった。
「……」
それは、マリーの姿絵だった。
間もなく十六歳になる娘の姿を残しておこうと、二か月ほど前から少しずつ描き始めたものだった。私は抽象画が得意だが、これは出来るだけ実像に即して正確に模写した。我ながら良い出来だった……後にも先にも、これ以上のものは二度と描けないと、見る度に思い知らされるほどに。
「娘の絵です。お気に召しましたか」
彼が、公爵などという大層すぎる身分でなければ、私はマリーに彼を薦めていたかもしれない。
他人が聞いたら恐れを知らぬ者よと一笑に付しただろうが、脳裏に浮かんだ寄り添う二人の姿は、とても自然に見えたのだ。あるべき位置に、あるべきものが、ぴたりと納まっているかのように。
「そうだな……。よく描けている」
「ありがとうございます。ですが、その……まだ未完成でして」
「では完成したら届けてくれ。……いや、使いの者を取りに寄越す」
「かしこまりました。完成した暁には……一番に、公爵様にお知らせいたします」
私にもたらされた一枚の小切手は、私の息子と娘を、それぞれ望む未来へと向かわせてくれた。
勘の鋭いルーフレインは、何か釈然としないものを感じていたようだが、だからと言ってあいつが真実を知る手段はない。
私は嘘は言ってないのだ。私は確かに絵を売った。その絵の代金で、子供たちを学校に通わせた。そこで密やかに交わされた会話の中身を、誰に漏らすつもりもない。公爵様との約束だからだ。他言無用、と。
「一生、口にすることはありませんが……このご恩は決して忘れません」
それから二年後、風の噂で、あの方がご結婚されたことを知った。
お相手の令嬢は、生まれた時から定められた許嫁とのことだ。公爵様はメルトレファス唯一の直系男子であり、王家にも現在のところ王子は一人しかいないため、もはや意思など挟む余地もなく、妻帯は課せられた使命であっただろう。むしろ、学院を卒業する二十二歳まで独り身でいられたことの方が、奇跡に近い。
ふと、妻ではない女の姿絵など持っていては拙いのではないかと思ったが、公爵様からは何の連絡もなかった。
マリーが学院への進学を果たすと、私は公爵様に手紙を書いた。
他意はなかった。ただ、陰ながら支えて下さった公爵様に、マリーの近況を知らせたかっただけだった。
返事はなかった。それは当然のことであり、私は気にも留めなかった。次の月、再び私は手紙を書いた。更に、その次の月も。
無事学院に入学できたこと。
市井の友人がたくさん出来たこと。
外国語学科に進級したこと。
学院の修学期間は四年と決め、博士課程には進まないこと。
就職が決まったこと。
卒業すること……。
私は手紙を送り続けた。一か月に一度、四年間、欠かすことなく。
そして、マリーが卒業した日に送った最後の手紙に、初めて、お返事を頂いた。
この四年間、まるで親兄弟のような気分で、マリーの学院生活を見守ってきた。
会ったことがなくとも、話したことがなくとも、彼女が一人の人間として立派に成長できたことは、手に取るようにわかった。
あの夜に渡した以上のものを、既に受け取った。
だから、もう、十分だと。
恩を感じる必要はないのだと。
実のところ、私は不安だった。この四年間、ずっとずっと。
手紙を送ること自体、公爵様のご迷惑になっているのではないかと。
私は泣いた。
そのお優しい心遣いに。
四年間、手紙を書き続けた私の行為は、決して無駄ではなかった。他ならぬ公爵様がそれを認めて下さったことが、私は、ただひたすらに嬉しかったのだ。
そして、さらに四年後。
王宮文官として働くマリーの直属の上司として、公爵様が着任される。
これを運命と呼ばずして、何を運命と呼ぶのだろうか……。
公爵様は一度結婚しています。
でも、マリーの上司になった時には既に独り身でした。
何があったかは……次話で触れます。