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Alexandrite  作者: 宮原 ソラ
本編
6/39


 急にふっと思い立った。

 久しぶりに、父のもとに帰省しようと。

 親不孝な私たち兄妹は、毎月決まった額を送金してはいるものの、ここ数年、全く親元に帰っていない。一年に一度、国の守護神ロクシエルの生誕祭に、文字数の少ない挨拶状を送るだけの希薄な関係が続いていた。

 父は、子供らが成人して王都に住むようになっても、親戚の別荘から離れる気配がまったくなかった。親戚の方は、別荘を貸しているというよりは無料で管理してもらっている感覚らしく、そこには奇妙な共生関係が成り立って、さらに強く父をこの地に縫い止めているようだった。

 

「久しぶり、父さん。元気でやってる?」

「おお、マリーか。お前が来るなんて珍しいな。明日は雨が降りそうだ」

 

 父は相変わらずの絵を描いていた。

 大きく立派な石橋の上に、なぜか大量の林檎が転がっている絵だった。その林檎が、形は確かに林檎なのだが、実に鮮やかな色合いなのだ。

 赤と緑はまぁいい。これは実在している。しかし黄色と紫と黒は何だろう。というか、この色でも林檎とちゃんとわかるということは、父はやはり絵が上手いのか。……悩むところである。

「相変わらずの芸術作品だね」

「うむ。最近たまに売れるようになってきた。芸術のわかる人物が増えて何よりだ」

「……うん。アバタも笑窪だよね」

 一心不乱に油絵用の画布に向かっている父の背中を見つめていると、子供の頃のことを思い出す。

 母は私を産んで間もなく亡くなったので、私には構ってくれる家族は兄と父だけだった。その兄は十二歳から寄宿学校に入ってしまい、家にいる時間はめっきり減り、私は仕方なく父の周りをウロウロして有り余る時間を潰していた。

 


 お父さん、ひまー。

 遊んでー。


 今忙しい。

 ルーに遊んでもらいなさい。

 


 ルーは兄の子供の頃の愛称だ。本名はルーフレインという。そのままだと長いので、父も、親戚の人も、皆ルーと呼んでいた。



 お兄ちゃんいないよ。

 どっか行った。


 またか。たまの休みくらい、妹の面倒を見てやってもいいだろうに。

 ああ、そういえば、隣の敷地に大きな林檎の木があったぞ。

 お前、林檎好きだろう。見に行ったらどうだ?



 思い出した。私に隣地の林檎の巨木を教えたのは、この父だ。

 さすがに盗めとは言わなかったが、暗に唆しているだろう。とんでもない親父だ。

 この事を切っ掛けに、私は隣の林檎を掠め取るようになったのだ。……というか、小さな娘に登りやすそうな大木のことなんか言っちゃいかんでしょう。うっかり落ちたらどうするんだ。

 落ちなかったから、今こうして、五体満足で生きていられるわけだけど。

「あの木、どうなっているかな?」

「何を言っている。あの木はとっくの昔に切られたぞ」

「えっ……」


 何それ。どういうこと? 知らないよ。聞いてないよ。


 父が不思議そうに首を傾げた。

「おかしいな。お前は急にぱったりとあの木の所に行かなくなったから、切られたことを知っていたものとばかり……」

「いつ……いつ、切られたの」

「お前がちょうど十歳くらいの時だったか……」

「なんで切られたの。あんなに立派な大きな木だったのに」

「さぁ、そこまでは。お隣さんなら知っているだろうが」

 お隣さん、って言ったって、別荘地の隣家だから、恐ろしく遠い。

 しかも普段はほとんど無人だ。年に一度、休暇に遊びに来るくらいのものだろう。その証拠に、私が隣家の少年に怒られるのはいつも秋だった。春に登っても夏に登っても、少年は来なかった。秋だけ、見計らったように現れて、私のことを怒るのだ。

「お隣さんって……誰だっけ」

「マードック伯爵の別荘だと聞いているが」

 なら、私を怒っていたあの少年は、マードック伯爵の子息ということになるのか。

 うろ覚えだけど、確かに良い服を着ていた気がする。綺麗な黒髪の、私よりたぶん五つくらい年上の……。

 当時十歳の女の子からすれば、既に十代半ばには達しているであろう少年は、ほとんど大人に見えた。体が大きく、声も低く、枝上という手を伸ばしても届かない高所から見下ろしているにも関わらず、ひどく怖かった覚えがある。

「木……ちょっと見てくる」

「もう無いぞ」

「切り株くらい残っているでしょ」

 なぜ、こんなに、昔のことが気になるのだろう。

 ずっとずっと忘れていた。

 思い出さなくても、不都合なんか何もなかった。

 だから、時々、穴が開いたように記憶が途切れていても、どうでもよかった。生きていくのに必要なものではなかったから。それなのに……。


「……どうしてかな。最近、貴方のことばかり思い出すよ……」











 この山は管理されている。

 定期的に下草をきちんと刈り取り、増えすぎた木を間引きし、歩きやすい林道を走らせて、その道なりに、ぽつんぽつんと別荘が点在する。

 十四年も前の記憶を手繰り寄せ、今は存在しない木を探しに出かける自分は、ほんの少し、馬鹿だと思う。

 その場所にたどり着けるかどうかだって怪しい。森は変わらないけれど、私は変わった。目線一つとっても、もう、幼いころとは、何もかもが違いすぎる。


「ああ……」


 あった。その場所は。

 思っていたよりも近かった。私が大人になった分、歩幅が広がり、距離を短く感じさせたのだろう。

 いつも目印にしていた尖った大きな岩も、そのままあった。少し離れたところに群生する膝丈ほどの白い花も、そのままあった。

 でも、大きく変わりすぎているものが、一つだけ。

 その一つが無いせいで、胸が締め付けられるような懐かしさが込み上げてくることも、なかった。


 主がいない。この場の主。林檎の巨木。

 主のいた場所に、そのなれの果ての切り株があるだけ。


「新しい芽もない……。枯れている……?」

 地面からたまに突き出している根はかさかさに乾いていた。

 残った切り株自体が水気が抜けて縮んだのか、地面との間に私の手が入るくらいの隙間が出来ていた。

「父さんから聞いてはいたけど……」

 この木に登って、その枝の上から見下ろせば、またあの少年に会える気がした。

 抜けたパズルのピースが丁度よく納まるように、遥か昔に置き去りにしてしまった大切な何かを、取り戻せると思ったのに。

「無理かぁ……」

 切り株の上に腰かける。

 目を閉じて、頭の片隅に埋もれた、あの日の少年の姿を追った。



 馬鹿。

 危ない。

 あまり身を乗り出すな。



 最近、まったく同じことを左大臣閣下に言われたことを唐突に思い出し、笑ってしまった。

 ああ、そうえいば、閣下の髪も艶やかな漆黒だ。王家に血が近いあの方は、瞳の色はとても独特で、昼の光の下では深い緑に、夜の蝋燭の明かりのもとでは炎のような深紅に、目まぐるしくその色合いを変化させる。

 公爵閣下の火の色の瞳を見たのは、私はただ一度だけだ。翌日の朝一で仕上げなければならない書類があり、モーリス班は全員深夜に近い時間まで残って黙々と仕事をしていた。ようやく一段落した後、私はふと思い立って、自分の宿舎に戻る前に三階へと足を運んだのだった。

 驚いた。ちょうど執務室を出てきた公爵閣下とばったり出くわしたのだ。無理するなよ、と、閣下はお声をかけて下さって、そのまますぐに立ち去った。

 蝋燭の明かりに揺らめく瞳の色が、赤かった。王家の濃い血の証である、金緑石の双眸……。


「マリー?」


 呼びかけられて、どきりとした。

 一瞬、閣下が現れたかと思ってしまった。

 無論、そんなはずはない。今頃、閣下は王城で精力的に執務をこなしているはずだ。執務室への出入りを頂いて初めて知ったことだけど、左大臣という職位の仕事量は凄まじいのだ。決済に回ってくる書類に目を通すだけでも、軽く一日が潰れてしまう。

 もう少し、ずる休みしてでも、お体を大事にして下さるといいのだけど……。


「マリー殿?」


 あ、誰かに呼びかけられたんだった。

 閣下のこと考えていて忘れていたわ。


「あー。はい。確かに私はマリーという名ですが。……どちら様でしょう?」

 目の前に、まったく見覚えのない青年が立っている。

 はて。何故この人は私の名前を知っているのだろうか。

「隣のマードック家のものです。クリストファーといいます」

「マードック伯爵……の」

 目の前の青年は、私より二つ三つ年上に見えた。二十代の半ばを少し過ぎた頃だろうか。閣下と同じ、艶やかな漆黒の髪を持っていた。

「貴女も、昔ここにあった林檎の木を悼みに来たのですね」

「え……」

「子供がよじ登ったりして危ないので、だいぶ前に切り倒してしまったのですよ。林檎の木は、通常あそこまで大きくはならないはずなので、今にして思えば勿体ないことをしましたね。突然変異の珍しい木だったかもしれないのに」

「子供が登って危ないから切っちゃったんですか……」

 なんてこと。それって私のせいじゃないか。

 妙に大きな木だと思っていたら、やっぱり珍しい種だったんだ、きっと。

 うわー、結構へこむかも。私が切らせちゃったんだ……あの聳え立つ大樹を。

「すみません。そのよじ登っていた子供、たぶん、私です……」

「え」

「悪気はなかったんです、本当に。何と言いますか、当時の我が家は食糧事情があまり芳しくなく……。いえ言い訳ですね。申し訳ないことをしました……」

「あ、いや。昔の話ですし。あまり気に病まないで下さい」

「あのー……もしかして、木によじ登っていた子供を怒ったりとかしました?」

 彼は少し考える素振りを見せた。

 顎に手を当て、空を仰ぎ、それからじっと私を見下ろしてきた。

 整った顔立ちをしてはいるが、何と言うか、表情の読みにくい人だと思った。灰色、という色彩の乏しい瞳のせいかもしれない。

 と、ふわりと彼が微笑んだ。笑うと、掴みどころのない雰囲気が和らいで、閣下の乳兄弟であるカイルさんに少し似ていることに気が付いた。

「昔、元気の良い女の子が木に登っているところは、何度か見かけましたね。危ないので注意しましたが……。あれは貴女だったのかな?」

「あぁー……」


 大当たりだった。あの時の少年は、目の前のこのマードック家の青年だったのだ。


「あの……私、何か貴方に大きな迷惑をかけたりとか、ありませんでした?」

 十歳の時のほんの一部分だけ、ぽつりぽつりと記憶が抜け落ちているのは、きっと、何か大事があったからだと思う。

 兄に聞いても、父に尋ねても、返事は思い当たることがないの一点張り。少なくとも、二人の目が届く範囲で事件は起きていないのだ。

 手掛かりは、あの少年。ある日を境に、私が林檎の木のもとにぱったりと行かなくなったその直前まで、恐らく会っていたであろう……黒い髪の男の子。

 貴方なら知っているはずだ。あの時、何が起きたかを。

 私は思い出さなければならないのだ。忘れたいほど恐ろしい記憶の向こうに、とても大切な何かが眠っているに違いないから。


 広がる赤色。

 閃く赤色。

 これは血の赤? それとも火の赤? あるいは……。


「いえ。私が覚えている限り、事件と呼べるような事は起きていませんよ」

「そう……ですか?」

「はい。少なくとも、貴女が私に迷惑を掛けたなどということはありません。そもそも子供の頃のことですし……あまり気にされない方がよろしいかと」

「は、あ……」

 あの時の男の子が、気にするなと言ってくれたのに。

 憂いは晴れないばかりか、何だろう……この違和感。

「そんな事より、貴女を我が家に招待したいのですが。知らぬ間柄というわけでもありませんし」

「はぁ」

 そんな事、なのか。貴方にとって。

 その一言に、私はあまりにもがっかりしてしまい、以後、マードック青年の話はほとんど耳に入ってこなかった。




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