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Alexandrite  作者: 宮原 ソラ
本編
5/39


 今日の私はついていない。

 家を出てからわずか十分後、突如降られた大雨に打たれながら、しみじみとそう思った。

 素直に傘か雨具を取りに戻れば良かったのだけど、ここのところ晴天が続いていたこともあり、すぐに止むだろうと高をくくったのが間違いだった。期待を見事に裏切ってくれて、止むどころか雨足は酷くなるばかり。

 極めつけは、すぐ傍らを通り抜けた暴走馬車に、盛大に水溜まりの泥水を撥ね掛けられたことだろう。

 あっという間に真っ黒になった。あまりの汚れっぷりに、街中を縦横に走る辻馬車に乗車拒否されてしまったほどだ。他のお客様のご迷惑になりますので……と言われると、本当に迷惑なのがわかるだけに引き下がるしかない。


 このままでは本当に風邪をひきそうだ。

 これで私も晴れて馬鹿ではなくなるのか。……嬉しくない全然。


 季節は九月も終わり。

 さすがに濡れた体では肌寒い。

 どこかで雨宿りをしながら、雨が上がるのを待つべきだった。でももう遅い。上着も下着もべったりと水を含んで重く、今更どこの下に立とうが意味のない濡れ鼠の様相を呈していた。

 ああ、それにしても遠い。さっきからこんなに走っているのに、聳え立つ王城の影が、少しも近付いている気がしない。

 馬車に乗れないとこんなにも距離があるとは。とほほー……。


 一台、対向から馬車が近づいてきた。派手に水しぶきを上げながら。

 また泥を引っ掛けられるのだろうなぁ……まぁいいや。掛けたきゃ掛けろ! 

 

 横っ腹が痛くなって、走るのをついにやめた。

 とぼとぼと歩いているその横を、馬車が駆け抜けようとしたとき、不意に横から強い力で引っ張られた。視界が黒く大きなもので埋め尽くされる。ざぁ、と、水の跳ねる音が聞こえたけれど、私には届かなかった。


「何をしている。ずぶ濡れじゃないか!」


 黒い大きな影が怒鳴った。自分の目線よりかなり高い位置にある顔を、私は呆然と見上げた。

 よく知っている顔。よく知っている声。それなのに、あまりにも意外な登場の仕方で、すぐには思考が追い付かない。

 私がよく知っているその人物は、いつもパリッとした品の良い衣装を身に着けているはずだ。装身具の類はあまり好まれないようで、お立場の割には少し地味かなと思うこともあるけれど、たまに袖の奥に見える腕輪や腰紐はやはり上質で、ああさすがは公爵様だなぁと感心して見惚れていたものである。


 それが。


「公爵閣下に似た偽物?」

「咄嗟にその台詞が出てくるお前は、大物だと思う」

「お褒めいただき有難うございます」

「いや全く誉めていない」

「さようでございますか。残念です」


 真っ黒いフードに、防水仕様のマント。頑丈だけが取り柄のような、古びた革靴。腰に剣まで穿いている。

 どうしたんですか。その恰好。まるきり一般人ですよ。いえ、剣を持っている分、一般人より物騒です。せっかくの美貌が……って、そんな姿でもお顔はやはり綺麗ですね。さすがです。……じゃなくて!


「どどど、どうされたのですか。閣下。そのお姿はっ!」

「しっ、馬鹿。声が大きい」

「あ。あ。すみません。つい」

「いいから来い」


 ばさっと閣下がマントを広げた。私は特別小柄ではないけれど、閣下がかなりの長身なので、気がつけば懐の中にすっぽりと納まっているような状況になっていた。

 ひぃぃ!

 何ですか。何が起きているのですか。いえ、わかります。私がこれ以上濡れないようにとの配慮でしょう。でもですね。濡れた方がマシだと思えるほどに心臓に悪いのですが! ……というか、既に余さず漏らさずずぶ濡れですしね!


「だ、駄目ですよ。閣下が濡れてしまいます。私なら大丈夫ですから」

「大丈夫なはずがないだろう。お前は少し自分を過信しすぎだ」

「いえ本当に! 昔から丈夫で長持ち、頑丈さだけが取り柄です」

「そうやって無茶をするから、予想外の事故に見舞われる。あの時も……」

「え?」

「いや……」


 何でもない、と、閣下が呟いた。

 事故。あの時。何だろう……また、一瞬、何かを思い出しかけた。


 赤い。

 赤い……?


「着いたぞ」

 中央通りから二本ほど入った裏道に、ひしめき合うように佇む石造りの集合住宅。出入り口に表扉はなく、中に入ると、すぐに大きな吹き抜けの階段がある。その階段を上っていくと、幾つかドアが見えてきた。一番奥のドアの前で、閣下が止まった。


「あの、ここは?」

「俺が学生のころ使っていた部屋だ」

「は!?」


 またさりげなく爆弾発言かましてくれましたね……閣下。

 こんな裏通りの古くさい家で、まさかの一人暮らし? いや、幾らなんでもお立場的に無理だろう。たまに息抜きに使っていた……ということか。それでも十分すぎるほどに大胆ですが。


「とりあえず着替えてこい。女物の服は置いてないから、俺ので我慢してくれ」


 着替えと、濡れた体を拭くための大きな綿布を渡された。

 

「えーと。どこで着替えれば」

「別にここでも構わんが」

「いえ。お見せできるような大層なシロモノでもありませんので」

「冗談だ。真面目に答えるな」

「私はいつでも大真面目です」

 閣下に大笑いされた。お前と一緒にいると緊張感が抜けるなぁ、と。それは褒め言葉と受け取って良いのでしょうか。……すみません。褒めてないですね。どちらかと言えば呆れていますね、きっと。

 居間として使っている広い部屋の隣に、寝室兼本置き場の小さな部屋があった。とりあえずその部屋に入れてもらう。

 さて困った。体はともかく髪が乾かない。自前の服も絞る前の雑巾のごとく濡れている。借り着は当たり前だが男物なので、とにかく大きい。……今日中に家に帰れるのだろうか、私。


「ほら」

 

 目の前に、温かい紅茶が差し出された。

 公爵閣下なのに、お湯沸かして、茶葉の量を計って、カップを用意して。

 庶民的ですね、公爵様。

 私、公爵とか王族とか、そういう肩書を持つ方たちは、お湯なんて沸かせないと思っていました。


「雨、止みませんね……」


 一口、紅茶を口に含んだ。

 熱くて、甘くて、美味しかった。











 向かい合うこと、三十分。

 会話がない。

 執務室の朝のお茶会では、いつも色々喋っているのに。

 状況が違いすぎるからだろうか。時計の針の音が聞こえてくるくらいの静寂。

 こんなに静かだと、何といいますか……。


 がくん。


 あああ。睡魔に勝てず、首が思いっきり前のめりに傾いた。

 

「……眠そうだな」

「はい。少しどころではなく、かなり」

「隣の部屋のベッドを使ってもいいぞ」

「いえ。下っ端役人の分際で、公爵閣下の別宅の寝室を占領するわけには参りません」

「無理するな」

「一気に目の覚めるような会話を所望してもよろしいでしょうか」

「どんな話だ……」

「閣下はなぜご結婚されないのですか?」

 ちょうどカップを口元に運んでいた閣下は、そのままの姿勢で一瞬固まった。

 ゆっくりと器を戻し、目を瞑り、こめかみの辺りを手で揉んだ。そして、確かに一気に目が覚めた、と仰った。何というか、精神的に損害を被られてしまったようだ。ちょっと直接的すぎたか。

「……それを聞いてどうする」

「えー……。好奇心、でしょうか」

「意外だな。お前はその手の話には興味がないと思っていた」

「いえ、私も一応夢見る乙女の端くれなので、素敵な独身の殿方が近くにいたらドキドキしてしまいます」

「……お前がか」

「そんな力いっぱい疑わしげな顔つきをしなくても。傷つくじゃないですか」

「では逆に聞くが、お前こそなぜ嫁がない? ピアソン家は、遡れば王家にも所縁のある歴史ある家だ。その一人娘ならば、欲しいという男は少なからずいただろう」

「はぁ……まぁ」

 私は、痒くもない頬のあたりをぽりぽりと掻いた。

 そうなのだ。実はいたのだ。こんな私を嫁に欲しがる奇特な男が。しかも何人も。

 そもそも社交界デビューもままならなかった私を何処で知ったのか、甚だ謎である。結婚という人生の一大事に、貴族の男なる生き物は、顔も見たことのない女を躊躇いなく選べるものなのか。

 まぁ、父親が絵の練習台として私の姿絵を何枚か描いていたので、それが出回っていた可能性は否定できない。しかし言わずもがな父の絵である。きっと顔から目と鼻が飛び出していたに違いない(私は怖いので完成品を見ていない)。

 ……そんな参考にならない肖像画をもとに申し込んできたのなら、それはまさしく勇者である。おお勇気ある者よ!

「確かに、申し込みは幾つか来ていたみたいです。蓼食う虫も好き好き……ですよね。ただ、私が、何といいますか……究極の結論に達してしまったわけでして。すなわち、玉の輿を目指すよりも自力で稼いだ方が早いし確実、という」

「……身も蓋もない……」

「私の選択は正しかったと思っていますよ。今、とても充実しています。仕事も楽しいし、同僚のみんな親切だし。こうして閣下のお側で働けるのも、官の道を選んだおかげです」

 にこ、と私が満面の笑みを浮かべると、公爵閣下はなぜかそそくさと視線を外された。

 世辞を言っても何も出んぞ、と、微苦笑と軽口を返されると思っていたのに。それどころか妙に不機嫌な声音で、


「この先も現状維持、誰のもとにも嫁ぐ気はない……ということか」

「はい。官として、閣下のために見事任務を全うしてご覧にいれます!」


「……」

 閣下が盛大に溜息を吐かれた。

 なぜ疲れたような表情をされているのだろう。左大臣閣下のために身を粉にして働く! と部下の鑑のような決意表明をしたというのに。そこは褒めて下さるところではなかろうか。

「……前途多難だな」

「何がですか?」

「もう面倒くさいから、権力を使って手に入れるか……」

「何か欲しいものでもあるのでしょうか?」

「……ああ、ある。もう八年にもなるが……我ながら諦めの悪さにうんざりしているところだ」

「八年経っても手に入らないものですか。それはきっとすごい貴重品なのでしょうね」

「……そうとう珍しいものではあるな」

 ではその珍品を手に入れるために私も微力ながらお手伝いします、と言うと、閣下はまたとてつもなく複雑な顔をされた。

 ううん。だいぶ仲良くなったと思うのだけど。時々、意思疎通が図られてないなぁ、と、もどかしく感じることがある。


「あ。雨があがりました。……うわぁ、閣下、虹ですよ。虹が出てます」


 私は窓辺に駆け寄った。建物の隙間に、七色の光彩が浮かび上がる。窓を開け大きく身を乗り出した。ここからでは遮蔽物が多くて、精一杯伸びをしてもそれ以上は見えなかった。

「馬鹿、危ない。あまり身を乗り出すな」

「外に出ないとよく見えませんねぇ……。それでは閣下、虹が出ているうちにお暇します。お洋服お借りしますね。すぐに洗ってお返しします!」

「その恰好で出る気か!?」

「大丈夫ですよ。いかにも借り着の風体ですが、誰も気にしませんよ」

 まだ生乾きの自前の服を丸めると、私はそれを胸に抱え、雨上りの気持ちの良い空の下に飛び出した。


「紅茶、ご馳走様でした!」




無邪気は武器。鈍感は最強。

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