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私は現在城内の宿舎に住んでおり、私の兄は職場である王立学院の近くに部屋を借りている。
二十四歳と二十九歳の組み合わせの兄妹なんて、住む場所が違ってしまえば疎遠もいいところである。私たちも例に漏れず、会うのはせいぜい月に一、二回程度のものだった。
とはいえ、決して仲が悪いわけではない。私たち兄妹には、とてつもなく頼りない父親を支えるという重大な使命があるわけで、そういう意味では同志であった。
何しろあの親父、稼ぎが全く無いのである。好きな絵だけは腐るほど描き散らかしているが、その絵で食べていけるほど世間様は甘くはない。貧乏のあまり犯罪に走られても迷惑なので、必要最低限の生活費を私と兄で送っていた。
奇妙な絵の収集癖さえ気を付けていれば、他に浪費癖が無いのがせめてもの救いだ。これで賭け事が好きだったりしたら、冗談ではなく私たち兄妹は親父の首を絞めていたかもしれない。
「今月は絵が一枚売れたそうだ。だから金はいらないってさ」
いつものように父親に渡す生活費を持って訪ねると、開口一番、兄が言った。
「へ? 売れた? あのわけのわからない絵が?」
娘の私が言うのも何だが、父親に絵の才能は無いと思う。
根本的に構図が変なのだ。人物画を描けば顔から目や鼻が飛び出しているし、風景画を描けば樹木がピンク色だったり空が紫色だったりする。
これが芸術だと親父は言うけれど、五歳児だってもう少しマシな絵を描けそうなものである。が、そんな奇妙奇天烈な父親の絵に、何処かのお金持ちが結構な額の札束を貢いでくれたらしい。
世間って広い。人間ってすごい。私なら、お金もらってもあんな絵家に飾りたくない。だって気持ち悪いんだもん。顔から飛び出した目とうっかり深夜に見つめあってしまったりしたら、もうお手洗いに行けなくなること確定だ。ヤダヤダ。
「まぁ、売れたならいいけど。それにしてもあの絵がねぇ」
訪問回数は多くはないけれど、兄の部屋は居心地がいいので、訪ねたら長居することにしている。
大量の書物や、学院で使う教材の一部を家で保管するために、部屋がやたらと広いのだ。今のところ付き合っている女性の影もないので、好みの食器を並べたり、お泊りする服を大量に置いたり、妹のやりたい放題である。まぁ、小姑になる気はさらさらないので、兄に恋人が出来たら無論キレイに撤去する予定だが。……しかし残念ながら、今のところ、予定は完全に未定なのだった。
背は高いし、顔も良い方だし、学院の助教授なんてしているくらいだから、頭も稼ぎもいい。それに、一応、未来の伯爵様でもある。なぜ誰も嫁に来てくれないのだろう……性格だって悪くないのに。妹の私の方がよっぽど曲者なわけで……って。
はっ。もしかして、妹が曲者すぎて嫁の来てがないのか。え? え? 私のせい?
「仕事の方はどうだ? 頑張っているか? もし城仕えに嫌気がさしたら、俺に言えよ。学院の事務にお前を紹介するから」
私が官僚になってから四年も経つのに、兄は未だに心配らしい。苛められてないかとか、変な奴に言い寄られてないかとか、どうもずれた事を言ってくる。
私自身は職場で我が世の春を謳歌中なので、辞めるなどという選択肢があろうはずがない。時々モーリス上官からスコンと入る一撃さえも、愛の鞭と思えば有り難く頂戴できるほどである。
「みんないい人たちだって何度言えばわかるの。この前来たメルトレファス公爵にも良くしてもらっているよ。執務室の朝の入室許可だって頂いているんだから!」
この朝の任務は、他の誰にも教えていない私だけの秘密だ。でも、兄だけは別。そもそも官僚と無縁の兄には、かえって仕事のよもやま話は打ち明けやすい。
メルトレファス公爵が着任されてから、はや三か月が経っていた。私は相変わらずお部屋の掃除に勤しむ日々だ。穏やかに同じように流れる日常の中で、でも、一つだけ、変わったことがある。
公爵閣下がいらっしゃる時間が、当初よりも三十分ほど早くなった。ちょうど私が掃除を終えたころ見えられて、カイルさんが美味しい珈琲をご馳走してくれる。
私は、これを、朝のお茶会と勝手に命名して楽しみにしていた。初めは緊張してガチガチだったけど、今は、他愛ない世間話が出来るほど慣れ親しんでしまっていた。
「メルトレファス公爵……って。そうか、ユージン様か。左大臣様かぁ……まぁなるだろうな、あの方なら」
兄が呟いた。
私は、口の中に放り込んだ焼き菓子の一かけらを噛み砕くのも忘れて、懐かしそうに細められた兄の目元を見つめていた。
「……なに、ちょっと。ユージン様って……どゆこと?」
「ユージン様は俺のご学友だ。王立学院の大学部の時の。専攻も同じだったし、良くしてもらっていたよ」
「ぶへ」
待て兄貴。初耳なんだけど。
ご学友って……同級生かい!
「頭良くてなぁ……ものすごい論文書いていたぞ。先生方も思わず唸ってしまうような」
「ちょっと待って……。確か兄さんの専攻って、電気学だよね? 詳しくはわからないけど。それと同じこと公爵閣下もしていたってこと?」
「そうそう。身分が高すぎて、官僚の方に行かざるを得なかったみたいだけど。本当は研究者やりたかったんじゃないかな」
なんというお人だ。
とんでもない方だった。
「なぁ、マリー」
だいぶ温くなった紅茶のカップを両手で弄びながら、兄がいつになく真剣な目を向けてきた。
「俺が言うまでもないことだが……ユージン様には、誠心誠意お仕えしろよ。今の俺たちがあるのも、みんな、あの方のおかげなんだからな」
「……は?」
何だか意味がわからない。いや、もちろん、兄に言われるまでもなく、左大臣閣下には全力でお仕え申し上げる所存ではあるけれど。
上司云々は関係なく、私はただ純粋にメルトレファス公爵が好きなのだ。もちろん、男女間の妙に生々しい「好き」ではない。人として、上に立つ器を持つ長として、あの方を尊敬している。
でも、それとこれとは話が別で。
あの方のおかげ、という、その言葉の意図がわからない。
「兄さん……私に何か隠してない?」
「いや何も」
「嘘こけ! そもそも貴族のくせに官僚嫌いな兄さんが、閣下にだけ妙に傾倒しているのも明らかに変でしょ! いくらご学友っていっても……」
「人聞きの悪い。俺は別に官僚嫌いじゃないぞ。上に馬鹿とか事なかれ主義とか付く官僚が嫌いなだけだ」
「何気に酷いこと言ってるね……」
その後、兄から、公爵閣下の学生時代の話など聞けて、私はちょっと嬉しかった。
身分を隠して二人で何も知らない純朴な町娘を軟派したり、一晩中飲んだくれて公園の芝生の上で寝こけたり、今のお姿からは想像もつかないことを結構されていたらしい。
……というか、その悪の道に誘ったの、絶対に兄貴でしょ。そうでしょ。王家に縁続きの尊いお方に、なに教えてんの、この馬鹿兄貴。万一の事があったら……。
「あ、大丈夫。ユージン様、やたらめったら強いから。酒も腕っぷしも」
「あ、そう……」
弱点は無いのだろうか。あの完璧なる御仁には。