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Alexandrite  作者: 宮原 ソラ
本編
32/39

最終話 楽園(視点・カイル)


「クリス?」


 気が付けば、四歳になる自分の息子がその場から消えていた。

「またちょろちょろと……!」

 目を離したのはほんの一瞬だ。馬具を調整するために、いったん息子を馬の背から降ろした。少し安定が悪いように見えた鞍の金具を締め直して、傍らに居るはずの彼を振り返ると……もういなくなっていた。

「誰に似たんだ。まったく……!」

 いや。その答えは既にわかっている。妻だ。

 私がマードック辺境伯を引き継いでまもなく出会ったヘザーは、何というか……活発な女性だった。男並みに馬を乗りこなし、男に混じって政治の話をし、男よりも遥かに早く難解な数式を解いた。

 彼女は王立学院の数学博士だった。メルトレファス公爵夫人とは学生の頃からの友人同士だったらしく、あの頭の良い女性たちが二人揃って何を話しているのか、想像すると空恐ろしいものがある。

 ともかく。

 クリスを急いで探し出さなければ。行先はわかっていた。私が今いるマードック別荘からほど近い……林檎の木の切り株だ。

 死んだと思っていたあの木は、実は生きていた。干からびた表皮の、そのもっと奥から、新しい芽が出始めていたのだ。


 それを初めに見つけたのが、クリスだった。


 妻が身籠っているとわかった時、それが男でも女でも、私はクリスと名付けたいと思った。カーティスでもなく、ソフィアでもなく、「クリス」と。

 私は、三人の従兄弟たちの中で、実は一番クリスを気にかけていたのかもしれない。

 兄弟の中で、ただ一人、母親が違う彼。同じく、兄弟の中で、ただ一人、父親が違う私。

(お前だけじゃないんだ)

 それを話していたら、あるいは何かが変わっていたのだろうか。全てに背を向け、自ら拒んでいた彼の心に、一陣の変化の風を呼び込むくらいのことは、出来たのだろうか……。

 ユージン様とマリー様にとっては、恐らく悪い印象しかないその名を付けることに、正直、少しばかり抵抗もあった。だが、ユージン様の一言が、迷う私の背を押した。


「クリストファーとクリスは違う。それがわからないほど、俺もマリーも馬鹿ではないさ。良い名だと思うぞ? 王立学院創設者の一人、偉大な数学者クリス・ロベルト・イングラムの名だ」


 妻は反対しなかった。私の息子に数学者の名を付けるなんてさすがね、と、むしろ笑っていた。


 クリストファーはもういない。

 逮捕された後、余罪の多かった彼は、調べが非常に長引いた。裁判になる前に、結局、病死してしまったのだ。実際には病死ではなく自決だったのかもしれないが……今となっては確かめる術もない。


「クリス」


 林檎の切り株を覗き込んでいた息子に声を掛けると、彼は手を振りながら駆け寄ってきた。

「新しい芽、また伸びていたよ。父さま。いつ大きな木になるのかな?」

「しばらく掛かるだろう。元の大きさになるためには……それこそ何十年、何百年も」

「えー。そんなに待てないよ。早く食べたいのに」

「実が目当てだったのか……」

 息子を抱き上げる。

 子供の成長は早いな、と、クリスの体重を感じるたびに考えてしまう。

 あと何年一緒にいられるのだろう。あと何年、こんな風に甘えてくれるのだろう。

 いずれ親の存在を面倒くさく感じてしまう時がくるのだろうか。いや、男の子はそれくらいで丁度良いのかもしれないが……今はまだ、この小さな手を離したくない。

「さて。今日はもう帰るぞ」

「えっ。乗馬は? 教えてくれるって言ったよね?」

「大人しく待てと言ったのに、それを守らないから時間が無くなった。罰として今日は終わりだ」

「えーっ!」

 卑怯だ、横暴だ、と、わめく息子を、有無を言わさず連れ帰る。

 どこでそんな言葉を覚えたのか……頭が痛い。


 マードック別荘に戻ると、こちらはこちらで、大声で息子を叱り飛ばしているユージン様に出くわした。


「こら、アレク! 降りてこい!」

 見れば、庭木によじ登っているユージン様のご子息の姿が。

 まだ四歳なのによくあんな高い位置まで登れたものだ。誰に似たかは……言うまでもない。

 真名アレクサンドル、貴族名レオニス、ユージン様と同じ翠と緋の瞳(アレクサンドライト)を持つ男の子は、枝の上から父を見下ろし、闊達に笑った。

「父上もおいでよ。あそこに鳥の巣があるんだ!」

「この馬鹿息子……!」

 お互い躾には苦労しそうだ。

 僕も見たい! と、たちまち走り出しそうな我が子の首根っこを掴まえ、私はそっと溜息を吐いた。

「どうしてこう次から次へと……。誰に似たんだ、まったく!」

「マリー様でしょうね……」

 問いではないユージン様の言葉につい反応してしまい、睨まれた。

「……やはりそう思うか」

「ええ。誰が見ても間違いなく。お顔立ちはユージン様似ですが」


「失敬な。中身だってユージンそっくりよ。私は、家畜小屋の鍵を壊して、中の鶏を五十羽も逃がしたりしないもの」


 私たち二人が束になっても敵わない、メルトレファス公爵妃様が、ご結婚前から少しも変わることのない愛らしい笑顔を振りまきつつ、現れた。足元には、彼女をそのまま小さく縮めたようなご長女のセラフィナ様がいる。

「子供は怒ったって降りてこないわよ。ほらアレク! 林檎のパイが焼けたって。こっちおいで!」

「えっ。ほんと」

 子供たちのあしらいは、奥方様の方が上のようだ。

 アレクサンドル様はするすると幹を降り、地面に着く前に父君に捕獲され、ちょうど今のクリスのように、その腕の中に抱え込まれた。


「あっ。捕まったっ」

「この悪戯小僧め。お仕置きだ」

「わっ。えーとえーと。罰として乗馬の練習なんてどう?」

「それは罰じゃないだろう……」


 奥方様のスカートに纏わりついていた小さな女の子が、不意に飛び出した。まだ安定感に欠ける足運びでひた走り、地面に人型の切り抜きが出来そうなほどの勢いで、見事に転んだ。

 息子を下ろし、今度は娘をユージン様が抱き上げる。父に持ち上げられた途端、セラフィナ様の目に盛り上がっていた涙があっという間に引っ込んだ。

 はしゃぐセラフィナ様の代わりに、寂しげな表情を見せたのはアレク様だ。が、自分は兄であり、親の関心は幼い妹に譲らなければとの思いがあるらしく、そこは堪えて何も言わない。

 ユージン様が、アレク様の方へと歩み寄った。

 セラフィナ様を片腕で支えたまま、空いた方の手でアレク様も抱え上げる。

「な、何? 一人で歩けるよ。セラじゃないんだから」

 狼狽えてご子息は文句を言ったが、父君は気にした様子もない。

「重くなったな」

 ただ、嬉しそうに呟いた。






「大丈夫? ユージン。さすがに二人同時に抱っこはきついんじゃ? セラは私が……」

「いや、大丈夫だ。もう少し大きくなったら、頼んでも抱かせてもらえなくなるからな」

「うーん。でも。三人目が出来たような出来ないような……」

「なにっ」


 平凡な家族の図。

 妻がいて。子供たちがいて。

 日々の他愛ないやり取りが、思い出という名を与えられ、途切れることなく積み重ねられてゆく。続いてゆく――……未来へと。


 贅沢で。

 幸福で。

 温かい……。


「叶うことはないと思っていたよ」


 それは、確かに、楽園の光景。






 ― fin ―

完結しました。

今後は、番外編(結婚後の生活など)を幾つか、と考えています。

甘く、楽しく、を目指して。


応援して下さった皆様、本当にありがとうございました。

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