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Alexandrite  作者: 宮原 ソラ
本編
3/39


 いきなりだが、寝坊した。

 私は色々な意味で残念な人間であると自覚しているが、そんな私にも、一つだけ他人様に誇れる取り柄がある。

 それは、無遅刻、無早退、無欠勤。

 官僚となってから、私はひたすらに仕事一筋で生きてきた。もともと体が丈夫であったので、その私の官僚人生を脅かすような病魔の類にも憑り付かれたことがなかった。

 風邪すら引いたことがない。何とかは風邪をひかないというが、あれは迷信などではなく真理ではないかと、我が身を振り返ってしみじみと思う今日この頃である。


 私は時計を見た。針は午前八時を指していた。私は城内の宿舎に部屋を頂いているので、出勤にはほとんど時間がかからない。そして勤務は九時からである。十五分で朝の支度を整えれば間に合うではないか!

 私は急いで顔を洗い、制服を身に着けた。朝食は食べないことにした。いつもは纏め髪にしているのだが、さすがにその時間はなさそうなので、梳いて首の後ろで縛るだけにした。

 本当に十五分で全て終わった。やれば出来るじゃん自分!

 そのまま私は宿舎を飛び出した。目指す場所は仕事場ではない。先に左大臣閣下の執務室である。

 出勤前に、私には重要なお役目がある。言わずと知れた、閣下の机の拭き掃除である。私はこれをいつも八時前には終わらせていた。閣下がお部屋にいらっしゃらないうちに完璧に仕上げる事こそ、私なりの矜持であったのだ。

 もう八時二十分だ。部屋で待ち構えていたらどうしよう……。執務室前の廊下を守る守備兵の方に挨拶すると、閣下はまだお見えではないとのことだった。

 よしよし。十分で終わらせるぞ!


 急いでいる時に限って水桶を蹴り飛ばすとかやりそうなものだが、この時は何事もなく、私のお役目は終わった。

 ほっとする間もなく、執務室と続きの秘書官控室の方で、人の話し声がした。

 あぁー……。


「マリー?」


 少し驚いた顔をして、左大臣閣下が入ってこられた。

 間に合わなかった。一生の不覚。






「申し訳ございません。今日は寝坊してしまいまして……今終わったところです」

 聞かれてもいないのに、思わず余計な事を言ってしまった。寝坊とか、さらに心証悪くするようなこと自分から暴露してどうするんだよぉ!

「いつも私が来た時にはいないと思ったら……。お前は一体何時にここに来ているのだ?」

「ふ、普段は、八時前には終わらせるようにしているのですが……すみません」

「いや。そもそも私は早く来て早く終わらせろと言った覚えはないぞ? この時間で十分だが」

「滅相もありません! 閣下がいらっしゃる時に掃除なんて……!」

 ぶるぶると首を振ると、

「ユージン様、珈琲はいかがいたしましょう? マリー殿の分もお淹れしても?」

 隣の部屋から、ひょいと顔だけ出して、秘書官殿が言った。

 あれ? ユージン……って、閣下のお名前? いくら一番近くにいる秘書官でも、左大臣閣下のお名前を呼ぶなんて、何だか変な違和感が……。

「ああ、そうだな。マリーの分も頼む」

 いやいやいや。考え事している隙に、なんか話が勝手に進んでいるんですけど。

 この執務室で閣下と向かい合って珈琲を飲めと? 恐れ多すぎて、なんかもうほとんど罰ゲームのような気分なのですが。

「あはは。まぁ、そう遠慮なさらずに。女性のお客様がいらっしゃった方が、私としても腕のふるい甲斐がありますので」

 秘書官さんが、にこやかにほほ笑む。部屋の主に代わり、さぁどうぞ、と椅子を勧めてくれた。

 何ですか。どうしてですか。その余裕綽々の態度はいったい……。

「カイルは私の乳兄弟だ。もともとメルトレファス家の執事だったのを、私が秘書官として引っ張ってきた」

 閣下の言葉に、私の中で疑問が一気に氷解した。

 妙に親しげに見えたのも当然だった。乳兄弟か……なるほど。

 子供のころから一緒だった、気の置けない間柄。私にはそういう人は居ないから、ちょっといいなぁと思う。一緒に勉強したり、一緒に悪戯したり、時には……。

 私は頭を押さえた。何だろう。今、何かが脳裏を過ぎった。

 私が林檎の実を採ろうとすると、いつも血相を変えて叱り飛ばしにきた少年のそばに、もう一人……いたような。



 駄目ですよ。

 まだ小さな女の子ではないですか。

 怖がっていますよ。

 そんな大きな声を出すから……。



「マリー?」

 

 声をかけられて、はっとする。と、当時に、私は大きく仰け反った。近い近い近い! 左大臣閣下、顔近いですってば!


「どうした? 気分でも悪いのか?」


 ちょっと悪かったのですが、今、その悪さも吹き飛びました。代わりに心臓がドキドキしています。凄いですね、閣下。その美しい顔には神経興奮作用でもあるのでしょうか。


「あ、いえ、何でもありません! 急に脈絡もなく昔のこと思い出したというか何というか……!」

「昔のこと?」

「子供のころ、木に登って……誰かに怒られて……」

「……誰か?」

「いえあの、そんな気がするのですけど。すみません。よく覚えていないのです」

 

 思い出そうとすると、なぜか、記憶は揺らめきながら遠ざかる。

 ところどころ、白くぽっかりと穴が開いて、昔から今へ、後ろから前へ、当たり前のその流れが定まらない。

 

 不自然なほどに成長しすぎた林檎の巨木によじ登っている、幼い自分。

 遥か下方から腕を振り上げて怒っている少年がいる。



 お前。

 危ないぞ。

 降りてこい。

 その木は……。



 がらんがらんと、どこか遠くで大きな鐘の音がした。

 始業を知らせる時計塔の鐘の音だ。

 遠い思い出を手探りで追いかけていた私は、一気に現実に引き戻された。

 九時だ。遅刻だ。私ってば何やってんの! 閣下のお部屋で珈琲なんて頂きながらアブラ売って、自分の職場に遅れてしまうなんて馬鹿でしょ! あほでしょ!

 誰に褒められるわけでもないけれど、密かに皆勤賞の記録更新していたのに。これで全て水の泡だ。うわーん!


「す、すみません! 仕事に戻ります! 美味しい珈琲ごちそうさまでした!」


 一礼して慌ただしく部屋を出て行く私の背中に、閣下がお声をかけて下さった。


「上の者に何か言われたら、私の仕事を手伝っていたとでも答えておけ。それで遅刻とは思われないだろう」


 私は深々と頭を垂れた。

 人を寄せ付けない圧倒的な美貌とは裏腹に、左大臣閣下は、とてもお優しい方だと思う。私のような下々の者にも心が配れるというか、気遣うことが出来るって、本当に、すごい事だと思うのだ。

 ああ、そういえば、こんな素敵な方なのに、まだ独身だって情報通の友人メイドが言っていたっけ。

 執務室の合鍵を預かっているなんて知れたら、公爵妃の地位を狙う高貴な女性たちに寄って集って袋叩きだ……。いや、彼女らは決して腕力に訴えたりはしない。ねちねちジワジワと、言葉と態度と時には友人親類の権力とで、真綿で首を絞めるように攻撃を仕掛けてくるのだ。ぶるぶる。タチ悪いよなぁ、もう!

 自分の身が可愛ければ、余計なことは言わないに限る。閣下と仲良く茶飲み休憩していましたなんて事実、ありませんとも、ええ!


 そういうわけで、仕事場に戻った私は、時間には厳しいモーリス次官にきっちりと焼きを入れられた。

 

 まぁ、寝坊したのは事実だし。

 皆勤賞逃したけど、別に何か貰えるわけでもないし。

 

「マリー先輩、髪おろすと可愛いですね」


 フレデリクが珍しく気の利いたお世辞まで言ってくれたし。

 遅刻もたまには悪くない、なんて、上司のお仕置きなど何処吹く風の私は、とことん幸せな人間だと思う。




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