27 夢見 ――十四年前――
気持ちの良い風が吹いている。
自分の胴ほどもある太い幹の上に腰かけて、私は、天蓋のように広がる枝葉の隙間から空を仰ぎ見た。
陽は思ったよりも低い位置にある。まもなく日没が訪れるだろう。その前に帰らなければ。たとえ、待ち人が来てくれなかったとしても。
「お兄ちゃん、遅いっ」
既に林檎の実二つを食べ終えた。さすがに三個目は入らない。
今日はもう来る気が無いのかもしれない……私はしぶしぶ木から降りた。
「お兄ちゃん」は明日帰ると言っていた。いま会えなければ、来年までその機会はない。今日こそ名前を聞くつもりだったのに。
短期間とはいえ三年も一緒に遊んでいるのに、私はまだお兄ちゃんの名前を知らなかった。そして、お兄ちゃんもまた私の名を知らなかった。私は彼を「お兄ちゃん」と呼び、彼は私を「おい」「お前」などと呼んでいた。何も不都合が無かったので、三年間、それは続いた。
均衡が崩れたのは、私が「おい」と呼ばれることに、今年になって初めて不満を覚えてしまったからだった。
「おいじゃないもん。ちゃんと名前があるもん」
そう言うと、彼は一瞬ひどく驚いた顔をして、それから、仕方ない奴だとでも言わんばかりに苦笑した。じゃあお前の名前は? と聞いてきたので、私はわざとそっぽを向いて答えなかった。
「お兄ちゃんが先に教えてくれなければ、言わない」
私はだっと駆け出した。
意地を張らずに先に名乗れば良かったのに。可愛げのない子供だと、我ながら嫌になる。
「いいもん。明日聞くもん」
その最後の日、結局、「お兄ちゃん」は来なかった。
木から降りた時、どこか遠くで馬の嘶き声がした。
何となく気配のした方に近付いて行くと、確かにそこには馬がいた。二人の人間もいて、恐ろしく険悪な雰囲気で何かを罵り合っていた。
こちらに背を向けている黒い髪の少年は、お兄ちゃんだろうか。背格好がよく似ていた。もう一人は見たことのない顔だが、真っ直ぐな黒髪の美しい少女だった。
「人殺し! 兄様を返して!」
少女が叫ぶ。突然耳に飛び込んできた物騒な言葉に、私は身を固くして近くの茂みに隠れた。子供ながらに、今のこのこ出て行くのは非常にまずいと、本能が囁いていた。
嵐が過ぎ去るのをじっと待つ小動物の気分で、息を殺す。
「私、見たのよ。あの夜、貴方が兄様の部屋から出てくるところを。次の朝に兄様は死んだわ!」
先程から、喚いているのは少女ばかり。
少年の方は、突っ立ったまま微動だにしない。
聞こえてないのか、無視しているのか……。あるいはまさか寝ているとか? 的外れなことを私が考え始めた時、不意に少年が動いた。
少女の肩を掴むと、彼はそのまま体重をかけて押し倒す。狙ったような正確さで、彼女の頭を地面から突き出た大きな岩に打ち付けた。
がつん、と物凄い音がして、瞬く間に少女の頭の下が赤く染まった。
落日の陽よりも、もっと、ずっと、鮮やかな赤だった。
「うるさいよ、姉さん」
少年が言った。ぐるりと辺りを見回したので、私は心臓が止まりそうになった。
お兄ちゃんではなかった。顔は完全に別人のそれだし、何よりも目の色が違いすぎる。
お兄ちゃんの瞳は、生命力に満ち溢れた夏の葉のような緑だった。だが、いま目の前にいる少年の双眸は、暗くくすんだ赤色で、似ても似つかない。
少年は、すぐ側の茂みの中で震えている私の存在には気付かず、間もなく立ち去った。
自分が命を奪った少女を、一瞥することもなかった。
その後、何処をどう走ったのかわからない。
自宅ではなく、何故か林檎の大樹の根元に私はいた。頼りない父親よりも「お兄ちゃん」に守ってもらおうと思ったのだろうか……。
一度はあの場を立ち去った少年が、また戻って追いかけて来そうで、恐ろしくてたまらなかった。
私は無我夢中で樹をよじ登った。日が暮れて闇が迫ってくると、葉のざわめきが何かの唸り声のようにも聞こえた。
私は昼の姿しか知らなかったのだ。雄々しく葉を広げ、美味しい実を惜しげもなく振舞い、そして珍しい鳥たちを懐奥深くに守る、さながら森の主のような、その神々しい姿しか。
下の方から声がして、振り向くと、そこには「お兄ちゃん」がいた。
「何やってんだ。危ない……! 早く降りて来い!」
枝から身を乗り出して、手を伸ばしかけ……そして私はその手を慌てて引っ込めた。
手近にあった熟してない実をもぎ取り、投げつけた。
「嘘つき!」
私は叫んだ。
「お兄ちゃんじゃない。お兄ちゃんの振りをするなんてひどいっ……!」
「何言って……」
「お兄ちゃんの目は、綺麗な緑色だもの。あんたみたいな気持ちの悪い赤じゃない!」
「これは……」
「近付かないでよ、人殺しっ!」
捕まったら、きっと殺される。あの髪の長い女の子のように。
うるさい、の一言で片付けられたのだ。あの少女は。道端の石ころを排除するがごとく。簡単に。何の躊躇いもなく。
「嫌あっ!」
足を掛けていた枝が、折れた。上へ上へと登りすぎて、十歳の子供の体重にも耐えきれなくなるほど枝が細くなっていたことに、私は気付かなかった。
落ちた私を、少年が受け止める。
右腕を真っ赤に染めて、それでも彼は、決して私を責める言葉を吐かなかった。
大丈夫。
大丈夫だから。
泣きじゃくる私を、何度も何度も励ましてくれた。
怖くない。
悪い奴はもう来ない。
優しく、穏やかに、響く声。
さながら、御伽の国の魔法のように。
忘れてしまえ。
そんなに恐ろしい記憶なら――……。
それは、強力な暗示となり。
十四年間、私を守った。
十四年前に起きたこと、やっと出てきました。
ラストまであともう少しです^^




