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父から、どうしても話しておかなければならない事があるから帰って来い、と手紙が来た。
貧乏なくせに、わざわざ値段の高い早馬を寄越すくらいだから、余程重要な話なのだろう。一瞬、「父危篤。すぐ帰れ」の文字が脳裏を過ぎり、肝を冷やした。
手紙に詳しい内容は書かれていなかったが、要は私の学院進学についてだった。私は父親が家計をやり繰りして行かせてくれたと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい……?
絶対に一人では出歩くなと閣下に念を押されていたが、市中の買い物ならともかく、半日もかかる別荘地までメルトレファスの従者たちを連れ回すのは気が引けた。次期公爵妃、なんて言われても、私はやはりその辺の感覚が庶民だったのだ。
三日後には、正式にメルトレファスの屋敷に迎えられることになる。まずは国王陛下への正式報告と婚約発表、その後結婚式、という手順になるらしい。
驚いたのは、式までの準備期間が一か月しかないことだった。しかも、その時間の無さで、列席者四千人を超える規模にするという。
いやいやいや。私は地味婚で良いのですが。華やかなドレスも高価な指輪も興味ないし。
……そう訴えると、閣下は、全てにおいて先妻ガブリエラを上回るものにする、と、私の要望をばっさりと一刀両断してくれた。
契約の花嫁ではなく、自ら望んで迎えた妻。
誰に文句も言わせない。後ろ指もささせない。
養子先、つまり後見人の候補として選んだ方々も、そうそうたる顔ぶれだった。エジンヴァラ公爵、ディオフランシス侯爵、そしてマードック辺境伯。
エジンヴァラ公爵は言わずもがな三公爵家の次席。ディオフランシス侯爵は先の左大臣閣下、現在も国王陛下のご意見番として宮廷に仕える内政の実力者だ。そして、マードック辺境伯は、最重要視されているクヴェトゥシェの国境を守護する十五大領主の筆頭。
ただ、マードック辺境伯は、やめた方が良い気がする。いずれクリスさんがその地位に就くからだ。
クリスさんは、間違いなく私と閣下に良い感情を抱いていない。結果的には、私はクリスさんの求婚を断った直後に、閣下の同じ申し出を受け入れてしまった事になる。あの人の言葉と態度の端々に現れる自尊心の高さを傷つけるには、十分すぎるはずだった。
そもそも、閣下が、それを知った上でマードック伯を候補に入れる理由がわからない。単なる意地悪なら、およそ、公正にして英邁なるメルトレファス公爵様らしくない……。
「少し考えている事があってな……」
閣下は、それについては、詳しいことは一切言わない。
真昼は緑、黄昏時を過ぎると緋に変化する、その不思議な色合いの瞳には、いったい何が見えているのか……。
「信じて、お任せします」
それが、私にできる精一杯。
城内の宿舎で栗毛の馬を一頭借りると、私は早速その背に跨った。父から散々お転婆だのはねっ返りだの挙句の果てには山猿だのと言われてきただけあって、私は体を動かすこと全般が得意だった。
特に乗馬は好きだ。子供の頃は、別荘地の厩舎番と仲良くなって、彼と一緒によく森の小道を走り回ったものである。
「閣下は乗馬得意かな? 得意というか、出来ないことないんだろうなぁ。あの方は」
いつか、二人で、駆けてみたい。
青い空の下を。なだらかな丘陵を。そして、ふと立ち止まって見上げるのだ。煙る緑の中に聳え立つ、林檎の巨木を……。
(何言ってんの、私。あの木はもう無いのに)
そう。もう無いのだ。あの大樹は。それなのに何だろう……この既視感。
馬! 馬乗りたい!
仕方ないな……。
速い! 走るよりずっと速いよ。
当たり前だ。
私も乗れる?
練習すればな。
教えて!
俺はあまり長くはここにいられないんだ。
そうなの……。
この付近一帯の厩舎番に頼んでおこう。お前が、いつでも好きな時に練習できるように。
わぁい!
閣下に初めてお会いした半年前から、私は頻繁に夢を見るようになっていた。夜も。昼も。
夢の中身は、はっきりと思い出せるようなものではなく、そのほとんどが、取りとめのない会話の切れ端だった。がばっと跳ね起きたら、何を見たかは覚えていないが、ただ楽しかったり怖かったりする印象だけが残っているといった具合だ。
それが、昨日の夜、初めて具体的な映像を見た。
黄昏時だった。鮮やかに色づいている葉もあるから、秋だろう。異様に夕日が赤かった。全てが、同じ色に染まって見えるほどに。
私は茂みの奥で息を殺していた。驚くほど近い場所に、黒い髪の少年が立っている。顔は見えない。
その少年の足元に、同じ年くらいの少女が横たわっている。仰向けで、虚ろに見開いた目がじっと空を睨んでいた。彼女の頭の下の地面が、落日よりも赤い何かで染まっていることに、気付かないわけにはいかなかった。
振り向かないで。
小さな私が、何かに祈る。
そして、祈りも虚しく、少年が振り向いて……。
赤い。
赤い……瞳。
馬上の人になっているにも関わらず、私は両手で顔を覆った。小さな揺れと共に、支えを失った体がゆらりと傾く。咄嗟に馬の首にしがみついて、落馬を免れた。
このまま走り続けるのは危険と判断し、私は馬から降りた。少し休憩した方が良いだろう。
思い出したい。けれど、同時に、それが恐ろしくてたまらない。
死んだ少女の傍らに佇む、赤い瞳の少年。
ほんの短い一時だけ、いつも側にいてくれた、黒い髪の少年。
似て非なる二つの像。あるいは、一人の同じ人間が持つ、異なる顔?
重なりそうで、重ならない。揺らめき、混ざり合い、真実を隠す。
貴方は、誰……?
蹲って動悸を整えている私の隣で、馬が、ぶるると不穏な鳴き方をした。
振り向くよりも早く、後ろから伸びてきた手に、布で口を塞がれる。空気の代わりに刺激臭のする何かの気体を嫌というほど吸い込んで、殴られたように頭が痛んだ。鼻と喉の奥がぴりぴりする。振り払おうと藻掻いたが、上手く手足に力が入らなかった。
くずおれる寸前に、視界の端に、自分を襲った者たちの姿が見えた。一人は男。……知らない顔。
もう一人は驚いたことに女性だった。しかも、どう考えても身分ある貴婦人なのだ。
艶やかな美貌。こんな雑木林には不釣り合いな豪奢なドレスを翻して、まるで妖精のように軽やかに舞う。彼女は笑っていた。地面に倒れている私を、この上もなく楽しげに見下ろしながら。
その異様な光景に、全身が総毛立つのを感じた。
おかしい。この人。これではまるで……。
「死んでるの?」
「気を失っているだけですよ」
「つまらないわ……。嫌いよ、その女。やっぱり後腐れなくここで始末して」
「傷は付けずに攫うだけ、って聞いていますが。奴に無断で勝手な事をしていいんですか?」
「勝手ですって? 私を誰だと思っているのよ?」
「薔薇の花のマグダレーナ、ですか。とんだ毒花だ。俺はこっちの金髪のお嬢さんの方が好みだけどね……」
マグダレーナ。
聞こえてきた名に、息が止まるほど衝撃を受けた。
アルムグレーン公の姪の姫? あのガブリエラ様によく似ているという……。
「悪く思わないでくれよ、お嬢さん。あんたに恨みは無いんだけどね」
猛烈な睡魔が襲ってきた。掌に爪を食い込ませて耐えようとしたけれど、駄目だった。
闇の中に、何処までも落ちて行く……そんな感覚だった。




