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「噂」は、閣下が仰った通り、十日ほどであっさりと消えた。
何てことはない、あれからもっと華やかでもっと色っぽい醜聞が幾つも宮中を駆け巡り、皆の興味が瞬く間にそちらに移って行ったのだ。
良くも悪くも人から注目を浴びることに慣れていた閣下は、こうなる事を予期していたのだろう。狼狽える私とは対照的に、態度は常に平坦で冷静、終始一貫して動揺を示すことは無かった。
私といえば、未だに周りの目が気になって、つい人込みを避けていた。だから、昼食時は、自分の仕事部屋か無人の中庭に引き篭もることが多かった。
最近見つけたお気に入りは、高い建物に囲まれた閑散とした草地だ。そこそこ広さはあるのに、形が歪なせいか、庭として機能していない。花壇や東屋の代わりに古い木材や煉瓦が積み重ねられて置いてあり、その静けさが今の私には有り難かった。
角材の束を椅子代わりに座り、私は、昨日の買い置きのトルテラに食い付いた。
半日が経過しているので、包んでいる皮も具も少し固くなっている。今日よりもずっと暖かい秋の日、閣下と一緒に食べたトルテラは美味しかったなぁ……と、ひどく寂しい気持ちになった。
もう丸十日お会いしていない。遠目からちらりとお姿を拝見する機会すら得られなかった。執務室の朝の掃除が無ければ、本当に、すれ違うこともまれな別世界の方だと痛感する。
あまりに音沙汰がなさ過ぎて、十日前の一件すら、夢でも見たのだろうかと思えるほどに……。
「それが昼食か? そんな物ばかり食べていたら体を壊すぞ」
閣下の声が聞こえる。十日会わないだけで、禁断症状のあまり幻聴か。完全に病気だよ、これじゃ。
病名は間違いなく恋煩いだ。まさか私がねぇ……似合わなさすぎて、いっそ笑える。
「はぁ……」
「人が話しかけているのに、無視して溜息か。いい度胸だな、お前……」
「へっ!?」
私は慌てて振り向いた。閣下がすぐ後ろに立っていた。
うわぁ。本物だ。どうしよう。急に心臓が早鐘を打ち始めた。嬉しいのに、自分の顔が引き攣っているのがわかる。
駄目だ、正視できない。色々思い出してしまって……。
とりあえず普通に挨拶をしておこう。本日はお日柄もよく……いや違う。
「お久しぶりでございます、閣下」
言った途端、閣下がすっと目を細める。……睨まないで下さい、怖いです。
「お前の口からその台詞が出ると、また酔っているのではないかと不安になるな……」
「そんな。勤務中に飲んだくれたりしませんよ」
「……あの夜会は半分勤務だったはずだが」
「面目ありません。……というか、そんな反論の余地もない大失態を、この寒空の下で責めないで下さい。北風が余計に身に染みるじゃないですか」
「少しは堪えろ。いや、そもそもお前はグラス二杯以上酒を飲むな」
「えぇー……」
「お前が酒を飲んでいいのは、俺が側で見張っている時だけだ」
一瞬、どきりとした。
何気ない会話なのに、不必要に深読みしてしまう自分がいる。何だか居た堪れなくなって、私は更に視線を下ろした。
「閣下はいつもお忙しくて、私なんか見張っている暇ないでしょうに」
「その程度の時間は作れる。お前が俺の元に来ればな」
あ……。深読みじゃなかった、かも。
「そろそろ心は決まったか」
「そ、それを尋ねに、まさかわざわざこんな辺鄙なところまで?」
「いや。さすがにお前の居場所まではわからん。ここで見かけたのは偶然だ。お前とは妙な所でよく会うな」
「それは、閣下が公爵様なのに公爵様らしくない場所をふらつく悪い癖がお有りだから……」
「……せめて縁があるくらいの気の利いた事は言えんのか、お前は」
「えー。縁がありますね、私たち……あっ。痛いですっ」
ぺちんと額を叩かれた。本当は大して痛くなかったけれど、痛がるふりをして片手で額の真ん中を擦っていると、閣下が心配そうに覗きこんできた。
偉い人なのに、この辺の妙に生真面目なところが、私は大好きだったりする。冗談です、と笑ってやろうとした瞬間、ふっと顔の前に影が差した。
唇が触れ合ったのは、ほんの一瞬のこと。
「ななな、なんて事するんですかぁっ!」
「痛みも吹き飛んだだろ」
「代わりに意識が吹き飛びそうでしたっ!」
「そうしたらまた運んでやるぞ。夜会の時みたいに」
「いえもういいです。十分です。堪能しましたとも。乙女の夢、お姫様抱っこを!」
「嘘をつけ。ほとんど寝ていた上に、自分が何を言ったかも覚えていないくせに」
「ああー……。もう許して下さい。忘れて下さい。謝っているじゃないですか……!」
くしゃん、と、唐突にくしゃみが出た。
少し長く立ち話をし過ぎたようだ。何となく肩の辺りが寒い。
戻るぞ、と閣下が歩きかけ、ふと足を止めた。
「先に行け。俺と一緒にいるところを見られない方が良いだろう」
万一、私が閣下のお申し出を辞退したとしても、何事も無かったかのように宮廷に残れるように、配慮して下さる。
閣下の権力と立場なら、一言、「自分のものになれ」と命令するだけで、全て、思いのままになるはずなのに。
他人に決して押し付けないのは、自分が常に強いられてきたからだろうか。たった一人のメルトレファス直系。立派な、素晴らしい公爵様。周りが作り上げてきた偶像を壊すまいとして、閣下が犠牲にしてきたものは、きっと少なくはないはずだ。
「噂なんか怖くないです」
私は、財産も無くて、家柄も無くて。ついでにかなりそそっかしくて、全然、公爵妃様には相応しくないけれど。
それでもいいと言って下さるこの方のために、何かをしてあげたいと思う。
側にいて、守って、支えて。やがて年老いて死ぬまで、離れることなく、いつも。
ずっと……。
「今、やりかけの仕事が二つほどありまして。それが終わったら、執務室にお伺いしてもよろしいでしょうか」
「鍵は渡したままだろう。出入りは自由だ」
「三日くらいかかりそうです。なるべく急いで終わらせます。引き継ぎ書も作って、次に来る人に迷惑がかからないようにして。全部、済ませたら……」
声が震えた。興奮しているのか、緊張しているのか、顔が火照る。どくどくと心臓の音がうるさい。先程感じていた寒さもいっぺんに吹き飛んだ。
「ユージン様のお申し出、お受けいたします」
奇妙に長い間があった。
こっちは勇気を振り絞って、一大決心のすえ返事をしたのに、何ですか、その無反応。
喜ぶまではいかなくとも、頷くとかしてくれないと、私としても次の行動に出られないのですが。
「……驚いた」
と、閣下が呟いた。片手で口元を覆って、ふいと横を向いてしまった。あれ? 心もち耳が赤い? あの閣下が? 照れている? いやまさか。でも。
「今、ものすごく珍しいものを見ている気がします」
「お前が不意打ちするからだ」
「いつもされているので、仕返ししてみました」
「そんな妙なところで対抗心を燃やさんでいい」
大きな手が伸びてきて、ぐしゃぐしゃと私の頭を掻き回した。ひと手間かけてまとめた髪がそれだけで大分崩れてしまい、恨めしげに閣下を見上げると、突然、今度は髪留めが引き抜かれた。
もともと今日はさほどきつく結ってはいなかったので、支えを失った髪は、あっという間に肩に背に落ちた。何するんですか、と私が文句を言うよりわずかに早く、胸の方に流れた髪の一房を、閣下が手に取った。
「お前は下ろした方がいいな」
閣下の言葉に、たちまち心拍数が跳ね上がる。
つい先ほどまでは、私が会話の主導権を握っていたはずなのに。何故いま激しく動揺しているのは、閣下ではなく私の方なのだろう……。
「仕事に邪魔なんです」
髪留めを返してもらおうと手を伸ばしたが、閣下がそれを持った手を少し上に掲げると、私の背丈ではもう届かない。
「これは没収」
結局、そのまま取り上げられてしまった。
「それが無いと髪を上げられません……!」
「今日はずっと下ろしていろ。今日だけではなく、明日から一週間ずっと」
「い、一週間ですか?」
どこから出てきた数字だろうと、訝しむ。一週間しか待つつもりはない、と、戸惑う私の胸の内を読んだかのように、閣下が言った。
「一週間内に、途中になっている仕事と引っ越しの準備を終わらせておけ。一週間後、俺の方から迎えを寄越す」
「えっ。あの……。引っ越し、ですか? なぜ?」
話が急に飛んだことに付いていけず、私は目を白黒させた。髪に触れられた時の動揺が、まだ尾を引いているのかもしれない。とりとめのない事を考えて、注意力散漫になっていた。
「公爵妃になる以上、これまで通り宿舎で寝起きというわけにはいかない。かと言って、実家が借り物の別荘ではそちらに生活の場を移すことも難しい。お前の身柄は俺が預かる」
「あ。はい」
閣下の言う事はもっともなので、私としては殊勝に頷くしかなかった。メルトレファスの屋敷に移るまでの期間がたった一週間とは、また随分と慌ただしい気がしないでもないが、頼るべき実家があってないような私だから、やむを得ない対処なのだろう。
それにしても、七日後には一緒に住むことになるのか、閣下と。いや、一緒に住むといっても、馬鹿みたいに広いあのお屋敷のことだから、同居と呼べるようなものではないのかもしれないが……。
え? あれ? ……本当にただの同居?
フェルディナンドの慣習では、初婚の花嫁は、神前の誓いを立てるまで、たとえ夫となることが決まっている男性であっても褥を共にしてはいけない、とされている。身分が高くなればなるほどこの傾向が顕著で、だから、時が来るまで、嫁ぐことが決まっている貴族の女性たちは親元で過ごすのが一般的だ。
私のように帰るべき家が無くて、挙式の日取りも決まっていないうちに婚約者に引き取られてしまった場合、どういう扱いになるのだろう。
いや、もっと根本的な問題として、メルトレファスのような名家に嫁ぐ女がそんなんで良いのか……。大いに不安である。
隣を歩く閣下の横顔をこっそりと盗み見たが、その表情からは、何を考えているのかは窺い知れない。
無理強いをする方ではないけれど、反面、かなり情熱的というか、行動的なところがあるのは、この半年の間に何となくわかってきていた。
その情熱の赴くままに求められたら、ちゃんと応えられるのだろうか、私は。流されるでは済まないどころか、一瞬で呑まれてしまいそうな気がする。
……正直、少し、怖い。
「マリー」
「はい」
「明日からまたさぼらず掃除に来い」
「一週間?」
「そうだ」
「ちゃんと髪を下ろしているか確かめるおつもりですね……」
「よくわかったな」
こんなモフモフした量の多い癖っ毛の、一体どこが良いのだろう。閣下の闇で染め上げたような漆黒の髪の方がよほど綺麗だと思うのだけど。
とりあえず気に入ってくれているみたいなので、素直に言われた通りにすることにした。




