22 妄執(視点・マグダレーナ)
※アルムグレーン令嬢マグダレーナ視点です。
四年前、従姉のガブリエラが死んだ。
一人娘が首を括ったというのに、父親であるアルムグレーン公の第一声は「この恥知らずめが!」だった。全くその通りだとは私も思うが、いくら愚かでも娘には違いないのだから、少しくらい悲しんでやっても良いだろうにと、わずかばかりガブリエラに同情したことを覚えている。
むしろ、裏切られた夫であるメルトレファス公爵様の方が、まだしもガブリエラの死を悼んでいるように見えた。
夫婦仲が冷え切っていたのは周知の事実であるのに、公爵様は、葬儀の日も、その後の服喪期間も、ガブリエラが公爵妃であった証である結婚指輪を、ちゃんと左手の薬指に嵌めていて下さったのだ。
それに気づいた日から、私は、公爵様を自然と目で追うようになっていた。
私はその頃十四歳だった。既に二十台半ばで、妻と死別したばかりの公爵様に嫁ぐには、さすがに少し若すぎた。
せめて十六になるまで待てと伯父に言われ、私はじりじりしながら歩みの遅い月日が過ぎ去るのを待つより他なかった。公爵様の回りで女の噂が立つたびに、私が大人になるのを待たずして公爵妃の座を横から奪われるのではないかと、生きた心地がしなかった。
私は次の公爵妃になりたかった。私以上に公爵妃に相応しい令嬢はいないと、自負があった。
ガブリエラのように、公爵様の見目の美しさや血筋の良さ、有り余る財力に懸想したわけではない。私はあの方の本質に惹かれたのだ。私だけがあの方の魂の高潔さに気付いたのだ。
だから、私はあの方の花嫁になる。
それは運命であり、私の中の不文律だった。ガブリエラが生まれてから定められた許嫁なら、私は生まれる前から繋がった宿星の相手だ。私たちを割くことなんて誰にも出来ない……。
確信があった。いずれ、時期が来たら、私たちは定めのままに恋に落ちる。私はただ、その日が訪れるのを待てばいい。
そう、信じていたのに。
クヴェトゥシェを送る夜会の席で、私は初めて公爵様と二人きりになる機会を得た。
噂に聞いていた通り、いや聞いていた以上に神秘的な紅玉色の瞳に見つめられ、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。
お会いしたかった、とその胸に飛び込んでしまいたい衝動を必死に堪え、私は努めて冷静に、下位から上位の貴族に対する伝統的な礼をした。気に入った娘であれば、上位貴族の男性の方から、手の甲に、もっと親密な関係ならば頬にキスが返されるはずなのに、公爵様からはそのいずれもなかった。
「良き夜を」
ひどく他人行儀な一言を言い捨てて、公爵様が立ち去ろうとする。
私は慌てた。「良き夜を」の一言には、言外に「貴女に興味は無いのでもう行きますよ」の意味がある。つまり、言い寄ってくる相手をかわす時の常套文句なのだ。
火に集る羽虫のごとく群がってくる女たちにそれを言うなら、話はわかる。だが、私は違う。私は特別なのだ。私はガブリエラと同じ血を持ちながら、彼女のようには決して裏切らない。
穴が開いてしまった公爵様の心も、空きのまま放置されている妃の座も、私ならば十二分に埋めて差し上げることが出来る。
「お話が……」
公爵様の腕を掴み、引き留めた。
恐らく、公爵様の身分立場で、女に腕を掴まれるなどということは初めての経験に違いない。一瞬、眉を顰めたものの、振り払うような無粋な真似はせず、その場に踏み止まってくれた。
「何か?」
「私……」
私は胸の内を吐き出した。溜めこんでいた想いを言葉にするのは、息をするよりも今の私には容易だった。
運命であり、不文律であり、私たちの関係は分かちがたい二つ星なのだと切々と訴えると、初めは無表情ながらも黙って聞いていた公爵様の美しい顔に、ようやく感情めいたものが現れた。
「公爵様?」
無言のまま、公爵様は、私の両の掌の中からご自分の腕を引き抜いた。
何か不思議な生き物でも見るかのような、憐れむような、そして僅かばかりの嫌悪を滲ませたような、複雑な心の内を、その緋色の瞳の中に、私は確かに垣間見た気がした。
「貴女は病気だ」
公爵様が仰った。私は意味がわからず、瞬きを繰り返すばかりだった。
「ガブリエラと同じだ。壊してしまったのは俺だと、ずっと思ってきたが……。今わかった。彼女は俺のところに来た時には既に壊れていたんだ。……今の貴女のように」
「私は壊れてなどおりません」
「貴女に必要なのは俺ではなく」
公爵様は身を翻した。
追い縋りたかったけれど、私はなぜか足が動かなかった。
「腕の良い医者だ」
わからない。メルトレファス公爵様は、なぜ私を拒むのだろう。
広間に戻ってからも、私は公爵様の姿を探した。どれほど人が多かろうと、私が公爵様を見逃すことは無い。星が引力に引かれるように、私の目は、心は、常に迷わず公爵様に吸い寄せられるのだ。
公爵様は、外務官補助として同行した青いドレスの女と、何やら言い争っているようだった。いや、へらへらと締まりのない顔で笑っている女を、公爵様が叱りつけていると言った方が正しいだろうか。
と、次の瞬間、公爵様が信じられない暴挙に出た。
女の体が浮き上がり、青いドレスの裳裾が舞った。私も、誰も、呆然と見守る中、公爵様は女を抱きかかえ、何事も無かったかのように歩き始めた。
気付いた者は慌てて道を開け、さらに気のきく者は、公爵様の手を煩わせるわけにはいかないと、必死で女を引き取ることを懇願した。それには全く目もくれず、公爵様は一貫して毅然とした態度のまま、ついに青いドレスの女を誰に託すこともなく立ち去った。
私は二人の後を追いかけた。会場から出るところで、女が急に公爵様の肩に手を回し、心もち顔を近づけ、何事か囁いた。公爵様の足が、一瞬、止まった……。
腕の中の女を見つめる目は、かつて見たことが無いほど穏やかで、優しげだった。私ですら違和感を覚える暇がないほど自然に、公爵様は、微睡む女の額に口づけた。
そう。まるで、愛しい恋人にするかのように。
(どうして?)
私は足を速めた。青いドレスの女を、公爵様の腕の中から引き摺り下ろしてやるつもりだった。
「おやめなさい」
けれど、私が追いつく前に、後ろから伸びてきた手が私を止めた。両方の二の腕をがっちりと掴まれて、動けない。
「貴女が恥をかくだけです。今は堪えなさい」
手の持ち主は、若い男だった。鴉の濡れ羽色の黒髪と背格好が、公爵様によく似ていた。目の色も赤く見えて、どきりとしたが、それは薄い灰色の瞳が近くの蝋燭の炎を映しているだけだった。
彼は私を抗いがたい力で広間の隅まで引っ張って行くと、落ち着きなさい、と前置いて、白ワインの入ったグラスを私に渡した。
「何なの、貴方」
「通りすがりの者です。相当頭に血が昇っているようでしたので、少し冷やして差し上げようかと」
「余計なお世話よ。おかげで見失ったじゃないの」
「追いかけてどうするおつもりですか。あの女性を引き摺り下ろしたところで、貴方が公爵様のご不興を買うだけですよ」
「公爵様が私を嫌うはずがないわ。私が公爵様の目を覚まして差し上げるのよ」
男が、まじまじと私を見る。先程、公爵様が私に向けたのと、よく似た種類の視線だった。
何か、珍しいものでも見るような。
その珍しいものを、ひどく、哀れんでいるような。
「何なのよ、あの女。卑しい身分のくせに。公爵様に馴れ馴れしい」
「卑しくはないですよ。高くもないですが」
「同じよ!」
「あの女性の悪口は程々にした方が良いですよ。未来の公爵妃様ですから」
「馬鹿言わないで」
「残念ながら本当です。公爵様から直にお伺いしたので、間違いないかと」
「嘘!」
「喚いても事態は変わりませんよ」
ふ、と、男が笑った。
百人の人間とすれ違えば、九十九人の人間が間違いなく美貌と認めるような容姿の持ち主なのに、男の微笑は何故か神経の不快な部分に触れてくる。
嫌な奴だ、そう思った。……苛々する。
「実は、あの青いドレスの女性は私の婚約者だったのですよ。まぁ、よくある話です。要は、より地位も金もある方に鞍替えしたというやつですね」
私は、男の本気とも冗談とも取れない顔を凝視した。
「本当なの?」
「貴女に嘘を言っても始まりません」
「信じられない。そんな節操のない女に公爵様は引っかかったって言うの?」
「哀れなことに」
「死ねばいいのに」
この上もなく物騒な言葉が、自分の口から零れ出た。私自身は驚いてはっとしたのに、男の方は全く動じる様子を見せなかった。彼の表情を見ていると、大したことではないか、と思えてくるから不思議なものだ。
「そうよ。死んだ方が良いのよ。公爵様には相応しくないわ」
「どうするおつもりで? 死ねと願ったところで、普通、人間はそう簡単には死にませんよ」
「そう? 結構簡単よ。人なんてすぐ死ぬわ」
「誰か手に掛けたことでもあるような言い方ですね」
「さぁ。どうだったかしら……」
目の前の男との会話は、危険で、背徳的で、なのに何故か甘美だった。酒などほとんど入っていないのに、どうしようもなく気が昂ぶる。
ああ、そう。あの時の感覚に似ている。
昔、生意気な庭師の娘を、池に突き落としてやった時と。
告げ口されたら面倒だから、二度と戻って来られないように、もがく頭を押さえつけた。そうしたら、ほんの数分で、全く動かなくなった。あっさりと事故として処理されて、何だこんなものかと拍子抜けしたことを覚えている。
今回も、あの時みたいに、簡単に終わらせることが出来たら……。
「良からぬ事を企んでいるような顔をしていますね」
「考えているのは楽しい事よ」
「手伝いが必要ですか?」
「いらないわ」
そう。手伝いなどいらない。
私は上手くやれる。私には運命の神が味方に付いているのだ。未だ名乗る様子を見せない得体の知れない男に、貸しなど作る必要はない。
「一週間後に、ヴァスカヴィル主催の仮面舞踏会があります。もし私の力が必要なら、そこで悪魔の仮面を付けた男をお探しなさい」
「悪魔の仮面を付けた男がたくさんいたら、どうすれば良いのかしら」
「そう尋ねるという事は、私に会う意思があるということですね」
「念のためよ」
「胸に赤い薔薇を差しておきます。仮面は悪魔公オルバロスで」
悪魔公オルバロス。古い戯曲に登場する、姦計と裏切りを司る大悪魔だ。目の前の男のように優しげな笑顔で近付き、自らの正体も明かさないうちに、獲物を次々と破滅へと導くという……。
その美貌で天使を惑わせ、両翼を引き千切り焼き殺したという逸話は、あまりにも有名だった。
「貴方……名乗りなさい。名前は?」
「それはヴァスカヴィルの舞踏会までのお楽しみです」
オルバロスの物語のように、今夜、男は、ついに名乗らなかった。
蝋燭の火がたまたまそう見せただけとはいえ、メルトレファス公爵様以外に赤い瞳を見たのは初めてで、なぜか、ひどく、印象に残った。
次話は場面が変わって激甘予定です。
砂吐き注意です。




