21 遠い影(視点・カイル)
※カイル視点です。
マードック辺境伯の病状がおもわしくない、と、母が言った。
私にとっては伯父にあたる方だ。子供の頃からよく会いに行ったし、また我が子同然に可愛がってももらった。
伯父の三人の子供たちとも仲が良かった。……いや、三人のうちの二人と仲が良かったというべきか。
末子であるクリストファーとは、ついに打ち解けることが出来なかった。彼は自分だけが庶子であるという事実を気に病むあまり、従兄である私にも、兄姉たちにも、父親にさえも、高い壁を築いて一線を引いているような感があった。
何を話しかけても、そつがなく、無駄がなく、そして温かみの無い言葉が常に返ってくる。
兄姉二人は腫物にでも触れるように扱った。父親はそれを見て見ぬふりをした。私は……努めて公平を期するようにした。
彼は孤立していた……マードックの中で。十四年前までは。
マードック伯爵の二人の嫡出子が、一年の間に、次々と亡くなるまでは……。
兄のカーティスは病死だった。自慢の長男を亡くしてマードック伯の嘆きは尋常ではなかったが、彼にはまだ長女ソフィアと次男クリストファーが残されている。
クリスは他人に対して少し冷めたところがあるように見受けられたが、正直、兄弟の中では最も優秀だった。家を守るのが自分しかいないと自覚してからは、彼は氷の武装を解除して、次期マードック伯として積極的に外に出るようになっていた。
私は、それを、良い事だと思っていた。
伯父とソフィアも、喜んでいるとばかり……思っていた。
毎年、一年に一度、私はマードック伯の別荘を訪れる。それは、私が十五歳になるまで、春にカーティスが、そして秋にソフィアが亡くなるまで、続いた。
カーティスは私より一つ上、ソフィアは私より一つ下で、年が近いこともあり、私たちはよく一緒に遊んだ。
十二歳の時、それにユージン様も加わった。
カーティスもソフィアも、良い意味でユージン様を公爵様とは意識していないようだった。ソフィアに至っては、ユージン様のことを、「よくわかんないけど王宮の偉い人」としか認識していなかったのだから、我が従妹ながらその豪胆さには頭が下がる。
「まったく。何度言っても聞きやしない。むしろ俺を怒らせるためにわざとやっているとしか思えん」
と、ぶつぶつ文句を言いながら、ユージン様が、マードック別荘地の広大な敷地を眺めやる。
如何なる偶然の賜物か、別荘のどこにいても林檎の巨木の頂きがよく見えた。
「構われたいのかもしれませんね。木に登って遊んでいたら、いつものお兄さんが来てくれる、とでも覚えてしまったのでしょう」
「あの木はだいぶ前から腐ってんだぞ。いつ倒れてもおかしくない。早く止めさせないと」
「ユージン様が行かなくなれば、あの女の子も木登りを止めるかもしれませんよ」
「馬鹿言え。それで落ちて死んだらどうする。そんな寝覚めの悪い事できるか」
ふと見ると、林檎の木の上を二羽の大きな鳥が舞っている。目を凝らす私の隣で、ユージン様が舌打ちをした。
「また登っているな、あの山猿」
「よくわかりますね……」
「この時期になると、あの木に巣を作る鳥がいるらしい。山猿が木登りすると、ああして鳥が騒ぐんだ」
「なるほど……で」
「行ってくる」
「お供します」
「いらん。一人で十分だ」
ああだこうだと言いつつも、ユージン様もその小さな女の子の相手を楽しんでいるふしがある。
ユージン様は一人っ子だし、私の兄弟は揃いも揃って男ばかりなので、妹のような存在がかえって新鮮なのかもしれない。私が従妹のソフィアを可愛がるようなものだろう。
「お気をつけて」
ユージン様が馬で駆け去るのを見送っていると、伯父に背後から声をかけられた。
「カイル、お前に大切な話がある」
母以上にいつも陽気な伯父の、これほど思いつめた表情を見たのは、カーティスの葬儀以来だった。
私はただ驚き、気圧され、無言のまま伯父の後に付いて行くほかなかった。
伯父に連れられ案内された先は、滞在中、伯父が書斎代わりに使用している部屋だった。建物の最も北側に位置し、窓も比較的小さいので、どことなく薄暗く陰気な印象が強い。
「伯父上……話とは?」
伯父は私に椅子を勧めた。立ちながら二言三言で終わるような話ではないと判断し、私はソファに腰を下ろした。
「カイル、お前、ソフィアをどう思う?」
「は?」
深刻な伯父の第一声がそれだった。
質問の意味がわからず、私は咄嗟に返事が出来ない。どうも何も、ソフィアは従妹だ。それ以上でもそれ以下でもない。弟ばかり三人もいる自分には、たった一人の妹のようなものである。
それを思ったままに伝えると、伯父は深く溜息を吐いた。
質問に対する私の答えは、どうやらお気に召さないようだった。
「そうだろうな……お前は。だがソフィアはお前のことを兄だとは少しも思ってはおらんぞ」
「そうですか。少しは頼りにされていると思っていたのですが……」
「カイル、お前は聡い子だが、どうも肝心なところで鈍くていかん」
「はぁ。申し訳ございません」
「ソフィアはお前のことをずっと好いておったようだ。私もな、カーティスがあんな事になった以上、ソフィアには可能な限り良い相手と娶せたい。お前なら安心なのだよ」
「……伯父上。私とソフィアはそもそも従兄妹同士なのですが」
「何か問題でも?」
「大ありです。自分にとっては妹と結婚しろと言われているようなものです。無理ですよ」
「だが妹ではない。ただの従妹だ。ソフィアは美人になるぞ、カイル。我がマードック伯爵家自慢の娘だ。そして、私は、ソフィアの婿……つまりお前に次のマードック伯爵位を継いでもらいたい」
伯父の突拍子もない提案に、冗談ではなく眩暈がした。
「ちょっと待って下さい。クリスは……彼はどうするのですか。庶出とはいえ伯父上の息子です。正当な権利を持つのは彼ですよ。婿じゃない……!」
「あれは駄目だ。あれは……後継者には相応しくない」
「何故そんな事を……」
「訳は聞くな、カイル。私にもわからんのだ。なぜこんな事になってしまったのか。ただ私はソフィアを守りたい。ソフィアには幸せになって欲しい。それだけなのだよ」
「焦りすぎです、伯父上。あと数年も経てばソフィアには山のように求婚者が押し寄せるでしょう。その中から信頼のおける人間を選べば良いだけです」
「ソフィアの気持ちは?」
「今、たまたま一番近くにいる異性が私というだけです。ソフィアに何を言われたかは知りませんが、全て真に受けるのは危険です。そもそもしっかりとした後継ぎが存在しているのに、それを差し置いて婿を後継者にというのは強引すぎます。騒動の元にしかなりませんよ……!」
「しかしソフィアが……」
「伯父上」
私は伯父の言葉を遮った。これ以上の議論は無駄だと思った。
「私はソフィアとは結婚できません。これはもう感覚的に不可能です。それに加えて、婿を跡継ぎにという考えにも反対です。次のマードック伯爵には彼がなるべきです」
私はマードックの爵位に何の興味もない。更に言うなら、ソフィアにも家族以上の感情を持てそうにない。
むしろ、ソフィアが私をそういう対象として見ていることに、戦慄すら覚えた。
「気の迷いです。カーティスが亡くなって、ソフィアも不安なのでしょう。兄を失った悲しみを、私への愛情とはき違えてしまっただけです」
私は立ち上がった。伯父はまだ引き続き話し合いをしたげな顔をしていたが、私は逃げた。
面倒事は御免だった。伯爵位を巡って従妹を娶り従弟と争うなど、考えただけでも怖気が走る。
「あまり妙な事を伯父上に吹き込まないよう、ソフィアにも釘を刺しておいた方がいいな……」
伯父と話し合ったことをそのままソフィアに伝えると、泣かれ、罵られ、それでも諦めないと喚かれた。
どちらかと言えばおっとりとした性格で、激しさなど無縁に見えたソフィアの、そのあまりの変貌ぶりに私は戸惑うばかりだった。
「少し距離を置くしかないのか……」
その必要はなかった。
ある日突然、唐突に、ソフィアは逝った。少し避けるどころか、永遠に手の届かないところへと。
伯父との話し合いから十日も経っていなかった。
落馬事故だった。別荘地の林はどこも柔らかい下草で覆われていて、馬から落ちたくらいでは死にそうもないのに、たまたまソフィアの落ちた先に固い岩があったのだ。
彼女は頭を強打していてほとんど即死だった。
苦しまなかっただろう、との医師の言葉が、これほど虚しく響くとは思わなかった。
そして、これは、偶然だろうか……。
ソフィアが逝ったその日、ユージン様もまた後遺症が残りかねない大怪我をした。
右腕と肩の損傷が思いのほか激しく、完治までに三か月以上を要した。むろん原因は何だとメルトレファスもマードックも一族総出で大騒ぎしたが、ユージン様からの説明は「木から落ちた」と彼らしくもなく的を得ないものだった。
ほとんど動かない右腕を抱えるようにして、血だらけのユージン様がマードック家の別荘に戻ってきたとき、その着衣にはあの林檎の大樹の葉が付いていた。
朽ちかけた巨木をそのまま放置していたことを伯父は悔い、その後、すぐに林檎の木は切り倒された。
この忌まわしい一連の出来事の後、マードック家の別荘は永遠に無人となった。
「教えて下さい、ユージン様。あの日、何があったのですか。木から落ちたと仰いましたが、あの木が腐っていたことを知っていたユージン様が、木登りなどするはずがない。ソフィアの落馬事故とユージン様のお怪我……私にはどうしても無関係だとは思えないのです」
無礼を承知で、一度、ユージン様に伺ったことがある。
メルトレファス下位傍系の一人にすぎない私が、こんな問い質すような言葉を主に投げかけるのは正気の沙汰ではない。
だが、この時の私は、側仕えの任を解かれても構わないとさえ思ったのだ。
私はソフィアの死の真相を知りたかった。乗馬の得意だった彼女が、ろくに障害物も無い平坦な草地で、あんな無残な死に方をしたことがどうしても信じられなかった。
「木から落ちたのは本当だ。ただ、俺じゃない。あの子だ」
何があったかは俺にもわからない、と、ユージン様は言った。
また鳥が慌ただしく飛んでいたので、いつものように駆けつけた。おかしいと思ったのは、それが黄昏時だったことだ。
小さな女の子は、太陽が煌々と輝く真昼しか木に登らないはずだった。空が青く明るくないと、どれが一番美味しい実か、見分けることが出来ないから。
「俺があの木の所に行くと、確かに木の上にいた。だが、明らかに様子がおかしかった……」
声をかけると、いつもなら人懐っこく笑ってするすると降りて来るはずが、姿を見た途端、怯えて泣き喚きながら更に高く登ろうとする。
危ないと思った時には、折れた枝を巻き込んで信じられないような高さから落ちてきていた。
考えている暇はなかった。また、周囲はかなり薄暗くなっており、枝は避けて子供だけ受け止めるという事も出来そうになかった。
「落ちてきたのを何とか受け止めたものの、あの子は何故か半狂乱だった。俺は訳が分からなかった。が、とにかくあんな森の中に放置しておけない。俺自身、腕と肩を痛めたのもあって、余裕がなかった。あの子を隣の別荘に送り届けたら、すぐに戻った。何があったかは、後で聞こうと思って……」
そうして、遠出が可能なまで体が回復すると、ユージン様は小さな女の子に会いに行った。
そこで言われたのだ。
お兄ちゃん、誰? と。
「何も覚えていなかったんだ。あの日の事を。いや、それどころか……。俺の事も、誰かわからないようだった」
ユージン様は追及を諦めた。
忘れたいほど恐ろしい記憶であるのなら、それは、きっと、彼女にとって必要のないものだからと。
「俺も、ソフィアの死に関しては、疑問を持っている。もしかしたら、あの子は……何かとんでもないものを見てしまったのかもしれない。でも……」
まだ十歳なんだ。
ユージン様は呟いた。
「そっとしておいてやって欲しいんだ……」
まだ十歳の、遊び相手が欲しくてたまらない年頃の、小さな小さな女の子なのだから……と。
十四年前の真実に少し近付いたでしょうか?
次回は初の閣下視点のお話です(番外編扱いですが)
21話こえてから、ようやくの登場です(遅っ)




