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Alexandrite  作者: 宮原 ソラ
本編
20/39

20


 メルトレファス公爵様が、夜会の席から青いドレスの女性を抱き上げて攫って行った、という恐ろしい噂が宮中を駆け廻っていた。

 その噂を聞きつけたご令嬢が鬼のような形相で書記官仕事部屋に何人か乗り込んできたが、私が懇切丁寧にその時の状況を話して聞かせると、みな妙に納得して帰っていった。

 交わされた会話の中身としては、


「どうして公爵様があんたみたいな女をっ!」

「それは、私が部下で、あの夜会の席で、一人で歩けないほど具合が悪くなっていたからです」

「だったら衛兵にでも運ばせればよかったじゃない!」

「まことにその通りなのですが、私も一応嫁入り前の女の身です。適当な男性に運ばせて、私に不本意な噂が立たないように気を配って下さったのでしょう。また相手の男性にも」

「挙句の果てが、公爵様と変な噂になっているってどういうことよ!」

「考えてもみて下さい。私と公爵様とでは、不釣り合いにも程がありましょう。噂というのは、ある程度の真実味があってこそ、成り立つものなのです。公爵様は部下が取り返しのつかない大失態を犯す前に、会場から救出したにすぎません。青いドレスの女が気に入って攫ったなどと、それこそあり得ない事態だとは思いませんか」

「そ、それはそうだけど……」

「そうでしょう、そうでしょう。そもそも公爵様が、私のように地味で面白みのない女に興味を抱くはずがありません。ですからあれは救出なのです。運んだだけです。その辺の荷物と同じですね。荷物がたまたまドレス姿の女だったというだけです。美しいお嬢様がた、どうかご安心くださいませ」

「そ、そうね。そうよね。公爵様があんたみたいに冴えない女なんか相手にするはずがないわよね」


 上手く私が持っていきたい方向に話は動いてくれているが……複雑な気分だ。どうも素直に喜べない。

 悪かったな、地味で面白みがなくて冴えなくて。……まぁいいや。早くお帰りいただこう。朝っぱらからこんなのばかり相手にして、仕事にならないのだ。

 貴女たちが来なければ、今頃会議の議案書が二つは出来上がっているだろうに。……いっそ代わりに書いてくれ。

「やるなぁ、マリー。舌先三寸で追い返すとは……」

 扉の前で仁王立ちしている私の後ろで、ノエルとフレデリクが感心している。

 感心する前に助けるという選択肢はないのか、君らには。私一人を矢面に立たせて、まったく……!

「まぁ、今回の件に関しては左大臣閣下の浅慮だな。衆人の前で抱き上げて運ぶなんて、噂が立つに決まっている。しかも非難されるのは閣下ではない。何の力もないお前の方だ」

 モーリス次官の言葉に、私は反射的に言い返していた。

「あれは私が正体不明になる寸前まで酔っ払っていたからです。そのまま置いておいたら何をしでかすかわからなかったから、連れ出して下さったのです。やむを得ない判断だったと私は思います」

「ふーん……」

 モーリス次官がにやにやしている。その後ろで、同僚二人もやはり笑っている。

「な、何ですか……」

「いやぁ、むきになって言い返すなんて、愛があるなぁ、と」

「そんなもの無いです。あるのはひたすらに忠誠と尊敬です」

「そうかそうか。まぁ、俺も男だから公爵様の気持ちもわかる。俺だったら、たとえどんなに立場が悪くなろうが、酔った惚れた女を他の男になんて絶対に運ばせない」

「だからそういう話じゃないって……!」

 大声を出しそうになって、はっと止めた。

 この程度のことで頭に血を昇らせたら駄目だ。いま私に求められているのは、寛容と忍耐、そして冷静さなのだから。

「お嬢様がたの相手で疲れたので、ちょっと頭冷やしてきます……」

 私はふらりと部屋の外に出た。

 外に出てからも、変な目を向けてくる輩もおり……それらの視線を避けてウロウロしているうちに、今は閉鎖されている回廊のような場所に出た。


「ああ、疲れる……」


 公爵様が私みたいな女に興味を抱くはずがない、は、嘘だとの自覚はある。

 興味くらいは持っているだろう。もしかしたら好意にまで格上げされているかもしれない。閣下はいつも優しい。時々、大切に守られているような……そんな錯覚に陥るほど。

 でも、そこまでなのだ。そこで終わり。先はない、絶対に。

 単純な話だ。身分差がありすぎる。閣下は、いずれ然るべき家から相応しいご令嬢を迎え入れなければならない。そのご令嬢が空いたままのメルトレファス公爵妃の座を埋め、ゆくゆくは後継ぎを産むことになるのだ。

 私のように、王室が爵位を取り上げ忘れたような家の女には、夢など見る余地もない。


「粗相の罰当番、そろそろ返上してもいいかなぁ」


 人の噂が消えるまで七十五日。意外に長いかもしれない……。











 三日間、私は執務室に行かなかった。

 むろん拭き掃除も植物の水やりもしていない。私がしなければカイルさんが代わりにやるから、全く問題はないはずだ。それよりも預かった鍵をいつ返そうか、その方が気になった。

「やっぱり、朝に伺うしかないかぁ」

 なるべく閣下の傍には近寄りたくなかったが、仕方ない。朝一番に鍵を返して、お茶会も辞退してとっとと帰ればこれ以上おかしな噂が広がることもないだろう。

 四日後、私は広い執務室のど真ん中に立って、閣下がいらっしゃるのを待っていた。

 いつもと同じ時間に、閣下はお見えになった……が、なぜか一人だった。カイルさんの姿はない。

「あ、あれ……?」

「カイルは休みだ。所用でな」

「は、あ。そうですか……」

 こういう時に限って、カイルさんがいない。閣下と二人きりで対峙か。ああ……早くも気持ちが挫けそうだ。

「……で、三日間さぼった理由は?」

 閣下が聞いた。

 当然と言えば当然の質問なのだが、どうにも居心地が悪い。官僚服の上着の袖口をそわそわと弄りながら、私はしどろもどろな言い訳を返した。

「いえ、さぼったわけでは。あの噂のことはご存知ですよね? 私が執務室に出入りしているところを見られない方が良いと思ったのです」

 執務室の鍵を差し出した。

「これもお返しします」

 閣下は受け取らなかった。組んだ腕を解こうとしない。

「とりあえず今来たのは正解だったな。今日来なければ俺の方からお前を迎えに行くところだった」

「私が血の滲むような努力をして噂を打ち消しているのに、一瞬で台無しにするような恐ろしい事を仰らないで下さい……」

「それを言うなら、お前にとってはもっと恐ろしい事を既にやってきたがな」

「な、何ですか……」

 私は思わず後退さった。それには目もくれず、閣下は自分の大きな机の引き出しを開けた。中から数枚の書類を取り出す。無造作にそれを置いた……天板の上に。

「王室許可証と、婚前誓約書。それに……婚姻届だ」

「……は?」

「意外に早く許可が下りた。……条件付きではあるが。もっと手こずると思ったから意外だった」

「いえあの」

 ひくっ、と、自分の顔が引き攣るのを感じた。机の上の紙をひったくり、穴の開くほどそれを見つめた。

 高位貴族の婚姻に必要な届出書が全て揃っている。どの用紙にも既に閣下の長い本名が書き加えられてあった。(閣下は爵位を九つも持っており、正式書類にはそれを全部書かなければならないため、大変なことになっていた)

 誓約書と婚姻届の妻方のサイン欄のみ手つかずだ。そして、王室許可証には……。

 メルトレファス公爵がマリー・ピアソンを妻に迎えることを王室が承認する、と載っていた。

「ななな、何ですかこれは!?」

「王室許可証だ」

「見ればわかります! 驚いているのはこの内容です!」

「見たままの内容だが」

「何でそんなに冷静なんですかー!!!」

 そんなに驚くことか、と閣下はとぼける。私の反応をむしろ楽しんでいるように見えた。いつもなら、またからかいましたね! と怒るところだが、今回ばかりは冗談では済まされない。

「何考えているのですか! 駄目ですよ! 早く……早く取り消しを! 私がメルトレファス公爵様の奥様なんてなれるはずないでしょう! 目を覚ましてください!」

「なぜ?」

「何故って、身分差あり過ぎです! わかりきった事でしょう!」

「お前をいったん高位貴族の養女に出し、そこから迎えるという条件で許可が下りた。身分差云々はこの時点で当てはまらない」

「そ、そんな具体的にいつの間に話進めたんですかっ!」

「お前が来ないから先に言えなかったんだろうが」

「えぇ!? 私のせいですかそれ……!」

 心配しなくても、と、閣下が肩を竦めた。

「嫌なら断ることも出来る。無理強いする気はないからな」

 こ、断るですと!? 左大臣閣下からの申し出を断る権利が、下っ端役人にあるとでも!?


「マリー、官僚云々はこの際忘れろ。俺は上司として部下のお前に命令しているわけではない。ユージンという一人の男が、マリーという一人の女に求婚しているだけだ。受けるも断るもお前の自由だ」


 許可証については国王陛下から直に頂いた物だという。内々に処理したので、外に漏れる危険はない。断ったところで私が不利を被るような事もない。

 噂については後十日くらいは悩まされるだろうが、動きがなければやがて消える。何も不安に思う事はない……。

 淡々と、閣下が説明してくれる。

 足から力が抜けてその場に座り込みたい気分だった。拭いたばかりの机の板に掌をべったりと付けて、私は、ふらつく体を何とか支えた。

「わ、わかりません。何がなんだかさっぱり。どうして私にそこまでして下さるのですか。なんで……」

「なんでって」

 

 お前を好きだからに決まっているだろう?


 さらりと閣下はすごい事を言う。

 それ以外に、妻に望むのに、どんな理由が必要なのか、と。


「わ、私が断ったら、どうするんですか」

「三日後に再挑戦だな」

「周りが何て言うか……!」

「そもそも祝福以外受け付ける気は俺にはない」

「許可証、誰かに破り捨てられるかもっ!」

「あんなもの何枚でも発行してやる」


「でも、でも、何も持ってないです、私。家柄も財産も。性格だってどちらかと言えばガサツだし。万事適当だし」

「家柄と財産は俺が嫌というほど持っている。ついでに言うなら俺はしっかり者だから、ガサツで適当なお前とは相性がいいぞ」

「ガサツで適当なくせに、すぐいじけるんですよ、私。実は涙腺ゆるいし、結構怖がりだし。学院祭の肝試しの時なんか、腰抜かしちゃって動けなくなるくらい」

「ああ、大丈夫だ。お前の機嫌くらいすぐに俺が直してやる。あと、俺は幽霊も夜の墓場も怖くはないので、お前がどこで腰を抜かそうと助けるのに支障はない」

「な、生意気だし、可愛げもないし……」

「そうか? 俺にとってはオタオタしている今のお前は最高に可愛いぞ」

「…………っ! なんか、一つも勝ててないのは気のせいですかっ!」

「そりゃあ、俺に勝とうなんて百年早い」


 朝の光の中で、閣下の瞳の色は柔らかな新緑。相変わらず物凄く綺麗な顔で、でも屈託なく笑う。


 本当にその通りだ。

 こんな気持ちの大きな人に勝てるはずがない。

 こんな懐が深くて温かい人には……誰も。


「わ、私……は」


 がたん、と、遠くで、扉が開く音がした。

「……時間切れだな。カイルの代わりが来た」

 閣下が私の横を通り抜け、秘書官室に入って行った。二言、三言、話し声がして、靴音が足早に遠ざかる。閣下は秘書官室側から扉を押さえ、行け、と廊下の方に視線をやった。

「掃除は無理に来なくていい。だが、鍵は……そのまま持っていてくれ」

 代理で来た秘書官に用事を言いつけて、席を外させたのだ。……私が、さっき、執務室に出入りしているところを見られたくないと言ったから。


「私……私、すみません。決められません。か、閣下のことは好きなんです。でも怖い……!」


 公爵妃という、私には身に余る地位が、怖い。

 恋とか愛とか、感情論ではどう足掻いても乗り越えられない障壁に、いつか突き当たって進めなくなりそうで、怖い。

 だからあんな分不相応な女を迎えるべきではなかったと、私ではなく閣下が責められる時が来るかもしれない……それが、何よりも怖いのだ。


 私は、一方的にもらうばかりで、与えてあげられるものが、何一つ無いのだから……!


「急かすつもりはない。ゆっくり考えるといい。俺の気持ちは変わらない。……恐らく、八年も前から」


 もしかすると、それよりも、もっと以前から――……。











 君が好きだよ。

 君を愛しているよ。


 君を


 一生かけて、幸せにするよ――……




捕獲に乗り出しました。

捕まるのも時間の問題……?

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