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Alexandrite  作者: 宮原 ソラ
本編
2/39


「皆さん、今まで本当にお世話になりました。左大臣付書記補佐官として働けた名誉、このマリー・ピアソン、一生涯忘れません」

 使い慣れた机の上を整理整頓しながら、私は、本日二十数回目になる別れの挨拶を諳んじた。

 ノエルが胡乱げな目を向けてくる。朝から何回同じ台詞繰り返してんだよ五月蠅いぞ、と心の声が聞こえたような気がしたが、きっと私の勘違いだろう。心配してくれているのだと前向きに考えることにした。

「いえどうか引き止めないで下さい。これにはのっぴきならない事情がありまして」

「マリー先輩、まだ寝惚けてるんですか? もう十一時ですよ。朝じゃないですよ。いい加減起きて下さい」

 フレデリクまで人聞きの悪いことを言う。

 胃が痛くなるほど悩み抜いているか弱き乙女に対して、何たる扱い。女心の機微のわからない朴念仁たちめ。

 どうしたんですか、何があったんですか、自分たちに出来る事はありませんか、くらいの気遣いの言葉は掛けられないのか。いやむしろそう言ってくれるのを待って、朝から二十数回も同じ台詞繰り返しているんですけど!


「この忙しいのに、なに面白い顔で百面相している! さっさと働け!」


 モーリス次官に止めを刺された。上司は、丸めた冊子で容赦なく私の頭をすぱんと打った。うむ、いい音だ。我ながら中身の詰まってない音だ。……というか、あからさまに部下の様子がおかしいのだから、少しは気にして下さい。

 と、目の前に堆く紙の束が積み上げられた。何コレ。


「これを今日の二時までに纏めて提出せよとのお達しだ。寝言呟いている暇なんぞ一秒もない! さぁ働け今すぐ働け馬車馬のように!」


 新大臣の着任の興奮冷めやらぬ昨日の今日、朝一番で、急遽大会議が招集された。

 左右大臣はもちろんのこと、教会勢力である枢機卿や助祭司長、軍を取り仕切る総元帥、王立学院の学院長など、そうそうたる面子が一堂に集まった。通常、この規模で会合が行われる場合、一か月も前から入念に準備が行われるはずなのだが、今回は突然だった。王の鶴の一声でいきなり始まってしまったのだ。


 何故そんな事態に陥ったか?


 第三王女殿下が、家出されたからである。

 殿下は近々隣国に嫁がれることになっていた。御部屋に残された手紙には、その不安が便せん四枚にも渡って延々と綴られていた。ちなみに嫁ぎ先の王子殿下は王女より一つ年上、顔良し頭良し性格良しの優良物件とのことである。

 何が気に入らないんじゃい! と思ったら、不満があるのではなくただただ不安なだけらしい。婚前鬱ですか。そうですか。そして家出ですか。行動力ありすぎでしょう、王女様なのに!

 ともかく、この青天の霹靂のような大会議のおかげで、下々の文官は右往左往の大騒ぎなのである。

 三時間にも及んだ大会議の内容は、はぁ、という溜息の一文字まで、余さず漏らさず速記官によって記されていくのだが、その速記官が死に物狂いで書き連ねた文字群は、言うなればただの下書きである。これを文書として編集し、校正し、万民が解読可能な読み物に仕上げるのが、私たち大臣付き書記官らの仕事の一つなのであるが、今回は内容が内容だけにその量が半端なかった。

 午後二時までにまとめる? 後三時間しかないのは気のせいでしょうか。

 いや無理。不可能。ってか泣いてもいいですか。


「泣いている暇なんかあるかー!」


 はいそうでした。燃え尽きるまで頑張ります。






 一致団結って素晴らしい。不可能と思われた書類は、約束の時間までにきっちりと仕上がった。

 モーリス次官が、書類を持って風のように駆け抜けてゆく。あと十分だ。頑張れ! 残された私たちは、屍となってその場に転がり彼の背中を見送った。

「王女殿下……早く出てきて下さい。こんなのが毎日続いたら、俺死んでしまう……」

 フレデリクが呻けば、

「まさか毎日なんてことは……。皆さん忙しいだろうし。さすがに毎日会議は無理だろうと」

 ノエルが遠い目をしてそれに答える。

「甘い! 先輩甘いですよ! 会議の内容を見たでしょう。枢機卿も元帥閣下も学院長も、みんな妙に楽しそうじゃないですか! おぉ、事件だ事件だ、我々頑張らなくちゃ! みたいな感じで!」

「……平和だからな、我が国は。戦争もない、近隣国とは関係良好、土地は豊かで国庫潤沢、だからたまに何かあると張り切ってしまわれるのだろう……偉い方々は」

「ううっ。その見当違いな頑張りの皺寄せが、全部俺たちに……」

「組織とはそういうものだ」

「悟ってるっすね、ノエル先輩」

 間もなくモーリス次官が戻ってきた。受理されるまでは気が抜けなかった我らが上司は、部屋に入るなり、ばたんと机に突っ伏した。

 次官の仕事は、はいどうぞ、と提出して終わりではないのである。取り纏め書類と原本を同時に見せ、ここは削りました、ここは縮めています、ここについてはこのように表現を改めました……と説明しなければならないのだ。

 ちなみにその説明の相手は左大臣閣下ではない。書記官副官である。ではこの書記官副官が閣下に報告するのかと言えば、それも違う。副官の上にはさらに長官がいる。長官がようやく閣下にお会いできるのだ。なんとまぁ面倒くさい。

 ノエルが上司の肩を揉み、フレデリクが水を用意し、私が甘いお菓子を差し入れると、モーリス次官は少し元気を取り戻したようだった。


「あ、気が遠くなって忘れることろだった。マリー、左大臣閣下がお前に話があるそうだ。すぐに行って来い」


 忘れないでください、そんな大事なこと。

 ……ってか、やっぱりクビですか。解雇の方ですか。それとも打ち首の方ですか。

 

「打ち首? 何やったんだお前」


 言えません。言えるはずがありません。

 秘密は墓場まで持っていく所存です。左大臣閣下もそれを望んでいるはずです。

 他の方に知られたくはないでしょう……きわどい下着を目の前に広げられたなどと。


「副官殿の口ぶりだと、そんな不吉な感じはしなかったけどなぁ。俺は女ながらお前の仕事ぶりが認められて、褒美でも出るのかと思った」


 そんなお伽噺のようなご都合主義展開を期待するほど、このマリー・ピアソンは純情ではない。

 鬼が出るか蛇が出るか……あえて受け止めようではないか。試練を!






 気分は絞首台に臨む死刑囚。死地に赴く敗残の兵という表現も近いかもしれない。

 重い足を引きずるように歩き進むと、目的地にはすぐ着いた。同じ棟の一階と三階なのだから当然と言えば当然だ。近すぎて心の準備が……。

 重厚な月光樹の扉を叩く。どうぞ、と促す声に、足が震えた。

「失礼いたします」

 こじんまりとした部屋だった。入って左手に机と椅子があり、そこに若い男の人が腰かけていた。どうぞ、の声の持ち主は閣下ではなく彼だった。

 柔らかそうな茶色の髪に、優しげな琥珀の瞳。左大臣閣下と同じ年くらいだろうか。

 がちがちに固まっていた体が、穏やかな微笑のおかげで少しほぐれた。


「マリー・エメリア・ピアソンです。召喚により参りました」

「伺っております。こちらへどうぞ」


 左大臣閣下の秘書官殿だ。初めて見る。ディオフランシス大臣の時は違う方だった。

 そういえば、秘書官は単に政務の管理をする調整役ではなく、万一の場合は命がけで主を守る護衛官でもあったはず。この優しげな人も、見かけによらず武術の達人なのだろうか。実は脱いだら凄いとか……違った、そんな変な想像をしている場合じゃなかった。


「マリー殿?」


 すみません。不審がらないでください。

 秘書官殿に連れられて、私はいよいよ閣下の執務室に足を踏み込んだ。






 広い。まさにその一言に尽きる。

 かなり離れた位置の真正面に、大きな黒い机がある。袖机も大きいので、上で人間ひとりが楽に寝そべることができそうだ。

 左手は広範囲に大きな窓が占めている。光が降り注いできて眩しい。一つだけ置かれた背の高い観葉植物は、南国産のものすごく珍しい種ではなかろうか。

 背の高い天井に吊るされた照明は、派手ではないが豪奢だ。床は剥き出しの硬い石ではなく、ほとんど無地に近い絨毯が敷き詰められていた。壁には絵画が一つだけ。塗り直したばかりと思われる白い面によく映える。

 閣下は入り口に対し背を向けていた。机の向こうの壁が全面書棚になっていて、何かの本を手に取って読み耽っているようだった。

 その本を袖机の上に置き、ゆっくりと振り向く。

 優しく柔らかい印象の秘書官殿と対照的に、左大臣閣下は、氷のように冷たく、刃のように鋭く、そして宝石のように美しい。綺麗だけど悪役顔だなぁ……なんて思っても言わないけど。

 私は恭しく礼をした。

「マリー・エメリア・ピアソンです。参りました」

 座れ、と、閣下は言った。部屋の右側に来客用と思われるソファとテーブルがある。机や書棚は重厚な漆黒だけど、応接セットは艶やかな飴色だった。私のお尻を乗せてしまうのが勿体ないような豪華な椅子だ。しずしずと腰かける。

 いつ言われるのだろう。お前はクビだと。すぐに次の職を探さなければ。いやそもそもクビで済むのだろうか。本当に生首を取られるのかも……。

 この緊張感、私には耐えられない。さっさと謝って、さっさとこの部屋を追い出してもらおう。すみません御免なさいもうしません。


「申し訳ありませんでした! どのような処罰でも覚悟しておりますっ! でも私の兄と仕事仲間は関係ありませんので、寛大なご処分をっ!」


 椅子から跳ね起きて、がばっと土下座する。

 奇妙な沈黙がしばし続いた。


 ……何か言ってください。神経が焼き切れそうです。


「……気にしていたのか」

 ようやく閣下がお言葉をかけて下さった。非難でも叱咤でも、もう何でも受け入れる気になっていた私は、心底ほっとした。沈黙の方が怖い。

「申し訳ございません! どのような罰でも……」

「……では掃除当番でもするか」

 笑いを含んだ声が頭の上に降ってくる。絨毯に頭を付けたまま、私は閉じていた目をパッチリ開けた。

「そ、ソウジトウバン?」

「そうだ。……ところでいつまでそうしているつもりだ。鬱陶しいから顔を上げろ」

「は、はい」

 顔を上げると、予想外に近い場所に閣下の顔があった。うっひゃあ!


「掃除、でございますか?」


 雑巾や塵取りを持って部屋を磨く、あの掃除? え? 軽くない? だって、私がやった事って、最上位貴族に対する不敬罪だよ。というか、公爵って、ほとんど王家に近いよ? え? いいの? 悪戯した子供への罰くらい軽いんだけど。

「あの、その、どこを掃除すれば良いのでしょうか?」

「ここだ」

「ここ?」

「そう。私の執務室だ」

「はい……って、え? ええ!?」

 私が吃驚仰天したのは、無理らしからぬ話だと思う。

 だって、左大臣閣下の執務室と言えば、重要機密の宝庫! 国中から集まったありとあらゆる情報が、この部屋に詰まっているといっても過言ではない。

 掃除とはいえそんな部屋に、私みたいな下っ端役人が入っていいのか? あれでも待てよ? よくわからないけど、毎日掃除する人は居ないと困るはずだから、誰かは部屋に入っているのか。もしかして下働きの者が? いやまさかねぇ……そんな不用心な。

「そのまさかだ。どうも前任のオルタンス殿……ファーストネームで言ってもわからんな……ディオフランシス侯爵のことだが、そういった事には注意を払わない御仁だったらしい。引き継ぎの際、未決文書が机の上に出しっ放しだったのには恐れ入った」

 重要文書は執務室の続き間の管理庫にしまうことになってはいるが、各国の間者が本気で探りを入れようとしたら、いかようにでも出来るだろう。清掃夫の格好をしたら入り放題なんて、この国には防犯意識というものが無いのか……。

「これからは執務室への出入りを制限する。清掃は、官の立会いの下、戸籍を所持する決められた係の者のみにやらせる」

「わかりました。不肖このマリー・ピアソン、閣下の執務室をピカピカに磨き上げてご覧にいれます!」

「待て。少し落ち着けというのに。清掃は決められた係の者がする、と言っただろう? お前に頼みたいのは私の机周りの拭き掃除だけだ。それと、そこの植物の水やりと。枯らすとディオフランシス殿に睨まれるのでな」

「そっ、それだけですか!?」

「足りないなら、床のゴミ拾いでも付け加えるか? 落ちていればの話だが」

「あの、もしかして、初めからその用件で私を? その……パ、下着の件ではなく」

「あれは、私が見せろと言ったから従っただけだろう。まぁ、確かに、もう少し機転は利かせられないものかと思ったが」

「あわわ……すみません」

 安堵のあまり力が抜けた。

 怖くて気難しそうな人だと思ったけど、実際は全然違った。むしろ寛大というか……本当の意味で海のように御心の広い方なのかもしれない。ディオフランシス侯爵は単に大雑把なだけで……。


「あの、頑張ります。取るに足らない末端文官の身ですが、誠心誠意、務めさせていただきます!」

「頑張りすぎて空回りだけはせんようにな」


 お会いして間もないはずなのに、なぜ既に私の性格を見抜かれておられるのでしょうか……。

 

「お前にこれを預けよう」


 ぽん、と手渡されたのは、ずしりと重い鉄の鍵。


「これは?」

「この執務室の鍵だ」

「ぎゃー!」


 なんて物渡すんですか。さり気なさすぎて、どうもと受け取るところでしたよ。

 ってか、駄目ですよ。やばいでしょう。私なんかにこんな大事な物与えちゃいけないでしょう。もし私が悪者で、こっそりと忍び込んで鍵の掛かっていない机の引き出しを勝手に開けたり、その立派な大臣椅子に腰かけて足組んでふんぞり返ったりしたらどうするんですか。

 

「構わんぞ。お前が簡単に開けられるような場所に、見られて困る物は置いておかないからな」


 いやいやいや。許可出さないで下さい。そこはびしっと締めて下さい。


 その時、入口の方から、遠慮がちな秘書官殿の声が聞こえた。


「本日の大会議の議題録が届きました」


 私たちが死に物狂いで作ったあの書類。議題録。

 今届いたのか。モーリス次官が提出してから二時間近くも経過している、今。


 直接閣下のお手元に届けることが出来ればいいのに、と、ふと思った。




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