19
不覚にも泣きそうになった。
あんまり悔しくて、腹立たしくて。それ以上に……的を射すぎていて。
クリスさんの言うとおりだ。
女の私は出世できない。薄々は感じていた。同期のノエルは配属二年目で正式な書記官になったのに、私は四年が経った今でも補佐官のままなのだから。
モーリス次官が見かねて上層部に直談判に行ったこともあったが、無駄だった。随分と酷い言葉を浴びせかけられたようだ。私の事を慮って、何を言われたか決して教えてはくれないけれど……大体の見当は付く。
(女は妻となり母となるために存在する。その道を歩まず男と肩を並べようとする生意気な人間に、高い職位は必要ない)
正直、別に出世したいわけじゃない。男なんて! と肩肘張って生きてきたわけでもない。父には頼れないし、自力で何とかしなければと無我夢中で突き進んで行くうちに、今の状況に至っただけなのだ。
でも、結局、私は道を踏み外した人間に含まれてしまったのだろう。
自分を否定されたようで……悲しかった。
(そうだ。よく考えたら、官僚なんて男社会に飛び込んだのが悪かったんだ。もう少し女が多くて、女が強い職場を探せば。……って、あるのか、そんな仕事)
見つかる見つからないは別として、真剣に考える価値はあるかもしれない。
クリスさんの酷い言葉になんか惑わされるものか。いや、あながち酷いばかりではなく、忌々しいことに真実味が含まれている気がしないでもないが……ええい、声を大にして叫びたい。
「マリー・ピアソンをなめるなー!」
と、本当に叫ぼうとしたら、もがっと口を塞がれた。ついでに両腕に抱き込んでいたワインの瓶も取り上げられた。
「この馬鹿、飲み過ぎだ!」
鋭い叱咤が飛んでくる。
閣下の声だ。自然と顔がにやけてしまう。どうするよ。怒鳴りつけられても嬉しいって……どれだけ閣下が好きなんだ、私。
「閣下、お久しぶりでございます~」
「ああ、本当に久しぶりだな。一時間ぶりだ」
「一時間と七分が経過しました。だからお久しぶりなのです」
「この酔っ払い……!」
閣下に腕を掴まれた。結構痛い。ぐいぐいと引っ張るので、無駄と知りつつ抵抗してみた。
今は浴びるほど酒を飲みたい気分なのだ。どうせ明日は公休日だし、昼まで寝くさっても誰にも文句は言われない。
貴婦人らしくない? ふん、私がなりたいのは貴婦人じゃなくて一人前の仕事人だ。貴婦人になるより難しいなんて知らなかったから……。
「もー。放って置いて下さい。お酒お酒……」
ふわっと足が浮いた。胃の位置が急に変わって、一瞬、吐き気と眩暈がした。
首ががくんと仰け反り、うっかり真上を向いてしまった。照明の煌びやかさに慌てて目を瞑る。
きゃーっ、と若い女性の悲鳴が聞こえた。どよめきとざわめき。うるさいなぁ、と、すぐ近くにある広い胸に頭を擦りつけた。
体が揺れる。ゆらゆら、ゆらゆら。何だか懐かしい匂いがする。ほっとする……。
あれ。
でも。
私、自分で歩いていないのに、なぜ移動しているんだ?
すぐ斜め上に閣下の顔がある。この角度から見たのは初めてかもしれない。
病人なら私が運びますので! と、ひどく慌てた様子の衛兵が閣下に一生懸命話しかけている。
病人。私のこと? いえ、ぴんぴんしています。それどころか、お酒のせいですこぶる気分が良いですが。
「そのまま大人しくしていろ」
ぼんやりとした意識の中で、今の状況を把握した。
閣下に抱き上げられて運ばれている。そりゃあ皆さん大騒ぎでしょう。どこかのお姫様にでもなった気分。こんな事は現実には起こりえないから夢だろう。
夢ならいいか。言ってしまっても。
「ユージン様……大好きです」
ゆらゆら。ゆらゆら。
幸せな夢に包まれながら、やがて私の意識は闇の中に落ちていった。
幸せな夢から一変、朝の目覚めは最悪だった。
こみ上げる吐き気と頭痛。立ち上がろうとして、これは無理だと再びシーツの上に倒れこむ。
枕の上に突っ伏す寸前、視界の端に水差しが見えた。そろそろと手を伸ばす。
思いのほか水は冷たく、甘く感じた。喉を潤すと、少し胃の辺りが楽になった。
(夜会で羽目を外し過ぎて二日酔いなんて、最悪……)
自分が酒に弱いことを失念していた。というか、普段ほとんど飲まないから、自分の飲める量がわからなかったと言うべきか。
いずれにせよ、色々な人に散々迷惑を掛けたのは間違いない。ドレスは既に脱がされて、皺にならないよう壁際に掛けられている。真珠のネックレスも外されて、鏡台の天板の上に置かれてあった。
絡む酔っ払いからドレスとネックレスを安全な場所に逃がしてくれた誰か、心から感謝します。
「マリー様、お目覚めでしょうか?」
聞き覚えのある声が、扉の向こうから掛けられた。
閣下の乳母様……エミリア様だ。自分が薄いシュミーズ姿なのを思い出し、一瞬焦ったものの、まぁ彼女なら良いだろう。
はい、と返事をすると、乳母様は妙にウキウキした様子で部屋の中に入ってきた。
「あら……」
そして、下着とはいえしっかり服を着ている私と、さほど乱れていない寝台とを交互に見やり……あからさまにがっかりした顔をした。
「まぁ……。てっきり昨夜はユージン様とご一緒だと思いましたのに……」
「……」
乳母様がとんでもない事を期待していたのは一発でわかったが、口にするのも恥ずかしいので気付かないふりをした。
というか、エミリア様でないとしたら、私からドレスとネックレスをはぎ取ったのは誰なんだ。
喉まで出かかった質問を、しかし私は寸でのところで押し止めた。聞いてはいけない気がする。聞いたが最後、穴に入るくらいでは済まされないほどの羞恥に苛まれる羽目に……。
「覚えておりません? ユージン様が、夜会で具合の悪くなったマリー様をこう抱きかかえて……お屋敷に戻られましたの。私、ちょうど休むところでしたので、後はユージン様にお任せすることにしましたの」
にっこりと朗らかに微笑んだ乳母様だが、その笑顔がものすごく胡散臭く見えて仕方ない。閣下にお任せしましたの、って、お任せしちゃ駄目でしょう。普通。
閣下はメルトレファスの家長ですよ? 公爵ですよ? ついでに言うなら大臣様で、国王陛下の甥ですよ!? そんな大事な主の手を煩わせないよう立ち振る舞うのが、むしろ貴女の仕事であり使命のはずでは……。
「せっかく二人きりの夜を演出して差し上げたのに、つまらないですわ」
確信犯だった。
なかなかやりますね、乳母様。さすがにあの閣下を含めて五人も育てただけのことはあります。勝てる気が全然しない……。
「……う」
また吐き気がしてきた。
「まぁ、マリー様。まだご気分が? もう少しお休みなった方がよろしいですわ。朝食はそのご様子ですと召し上がれませんね。湯浴みを先になさいます?」
「はい。すみません。お風呂の方を頂いてもよろしいでしょうか……」
「お手伝いいたしますわ」
「いえ。一人で大丈夫です。いつも一人なので、手伝ってもらうというのは慣れていなくて」
「では外で控えております。もし途中で具合が悪くなりましたら、遠慮せずに仰って下さいましね」
卸したてに違いない真新しいタオルと着替えを、エミリア様が用意してくれた。さらに、香りの良い二種類の石鹸と、色とりどりの液体が揺れる小瓶を六つも渡された。
風呂に入るだけなのに、こんなに何に使うのだろうと思っていると、待っていましたとばかりに説明があった。
「まずはこちらの入浴剤をお湯に入れて下さいね。半分で良いですわ。全部入れると香りがきつくなってしまいますから。それからこちらが体を洗う石鹸です。こちらは髪を。石鹸で髪を洗ったら、このオイルをつけて、こちらの布で巻いて少しそのまま置いて下さいましね。湯浴みから上がりましたら、こちらのオイルを体に塗って、こちらの化粧水はお顔に……」
聞いているうちに寝そうになった。
貴族のお嬢様って凄い。……こうやって毎日自分を磨いているのか。
知らなかったなぁ。私、体も髪も同じ石鹸で洗っていたよ。顔はそのままだと突っ張るから化粧水くらいは付けていたけど、そんな何種類も塗ったことなんてなかった。
まして体なんて生まれてこの方完全放置。いや、塗るものが存在していることすら知らなかったと言うか……。
あああ。私ってばどんだけ庶民なの。
「ではごゆっくり」
せっかくのご厚意なので、エミリア様のお言葉に甘えて、贅沢な入浴を心行くまで楽しむことにした。
お風呂場で長居して着替えた後に、朝食のような昼食のような微妙な時間に食事も頂いて、最後にご挨拶に伺うと、閣下が妙なことを聞いてきた。
「お前……昨日自分が言ったことを覚えているか?」
「はい? 昨日ですか? 私、もしかして何か失礼なことを申し上げたでしょうか? すみません。何分酔っ払っていたもので……」
「やはりか……」
はあぁぁ、と、閣下が長い溜息を吐かれた。
うわ。なんか凄く疲れた顔をされている。やっちゃったんじゃないか、私。これって。
何だろう。何をしたのだろう。普段の自分は決して素行の良い人間ではないので、こういう時に自信が持てない。殴る蹴るの暴行とかだったらどうしよう。宮廷法第二十二条一項に抵触だよ! その相手が閣下だったら王族不敬罪も加わって死刑だよ!
「わ、私、一体何をっ!」
「いや……もういい」
「庇わなくても結構です。どうかはっきり仰って下さい。どんな罪も受け入れる覚悟が……!」
「いいってのに」
その後、おろおろする私をカイルさんが王城の宿舎まで送ってくれた。
カイルさんにも聞いてみたが、「私の口からはとても……」と意味深な言葉が返ってきただけだった。
何やったんだ、私ーっ!




