18 対峙(視点・クリストファー)
※クリストファー視点です。
「お久しぶりでございます……。メルトレファス公爵閣下」
恭しく臣下の礼を施して、私は言った。
本当に久しぶりだ。最後に話をしてからもう十四年にもなるか。メルトレファス公爵は十五歳、私は十三歳だった。今は存在しない林檎の巨木を内に戴く別荘地で、ほんのひと時、私たちは同じ時間を共有した。
「久しいな。……クリストファー」
答える公爵の声には相変わらず抑揚がない。表情もまた凍りついた仮面のように変化がない。私は仕事柄他人の心を読むのが得意だったが、十四年も前からこの公爵だけはどうしても胸の内を窺い知ることが出来なかった。
それどころか、こちらが丸裸にされて全て見透かされているような、恐怖にも近い錯覚を覚えることすらある。
薄闇の中で炎を宿す、その類稀なる瞳のせいだろうか……。
「何を言った……とは?」
公爵の質問の意味がわからない。返答の仕様がなく、私は掠れた声で間抜けにも聞き返してしまった。
貴石のごとき美貌に、氷のような微笑が揺れる。……恐ろしくてたまらないのに、目を逸らすことが出来なかった。
「質問しているのは、私の方だが?」
「……申し訳ございません」
「まぁいい。先程あれとすれ違った。……泣き出しそうな顔をしていたのでな。少々気になった」
「泣き出しそうな顔……ですか」
それほどきつい言葉を浴びせかけた覚えはない。彼女にとって愉快な話ではなかったろうが。
むしろ私に噛みついてきそうな勢いだった。いや、はっきりと噛みついた。「冷たくて傲慢な人」と言い放ったのだ。
泣き出しそう? 涙でも見せて公爵の気を引いたか。快活で裏表など無さそうに見えたからこそ惹かれたのに、所詮は図々しい単なる女に過ぎなかったということか。
それを真に受けて、わざわざ問い正しに来た公爵も公爵だが。貴方にとっては、虫けらにも等しい末端の部下に過ぎないはずなのに。
(末端の……部下?)
不意に、視界を覆っていた靄が晴れた。
本当にそうなのか? 部下も、花嫁候補も山ほどいる公爵なのに、クヴェトゥシェを送る夜会に伴ったのは、彼女ひとり。しかもヴァスカヴィルの令嬢に目をつけられるほど高価な宝飾品を身に付けていた。
あれはどうやって手に入れた? 誰から借りた?
あんな見事な……。
(尊い身であっても、己の振る舞いを厳しく客観的に見ることの出来る人)
(取るに足らない下々の者でも、その心を思いやれる優しい人)
いやに具体的だと思った、その像が、次の瞬間、はっきりと形を持った。
ああ、そうか。
いま、目の前に。
笑い出しそうになった。
本気なのか。本気で、あんな吹けば飛びそうな貧乏貴族の娘を。王になる資格すら持つ、メルトレファス公爵ともあろう方が!
清水に落とした墨のように、ゆっくりと染み渡る、どす黒い感覚。嫉妬であり、悪意であり……わずかばかりの優越感。
私は何一つメルトレファス公爵にはかなわない。血筋も、立場も、あらゆる全てが、この方の存在そのものが、私の劣等感を絶えず刺激する。
あるいはカイルのように信頼を勝ち得ることが出来たのなら、公爵に抱く思いは全く違ったものとなっていたのかもしれない。だが、十四年も前から、私に向けられ続けたのは針で刺すような鋭い警戒の視線だけだった。
貴方にはわからないだろう。
貴方のその赤い瞳に見据えられた人間が、どれほど恐ろしい思いを抱えて生きていかなければならなかったか。
だがもういい。この瞬間、私は、貴方に勝るものを一つだけ見出した。
それは、自由。選ぶ権利。欲しいものを欲しいと言える……。
「マリー・エメリア・ピアソンに求婚しました」
「……な」
「相当驚いていたようですので。もしかすると、それで泣き出しそうな顔に見えたのかもしれません」
「……お前」
「大丈夫です。……幸せにしますので」
どんなに願っても、望んでも、貴方にはできない。メルトレファス公爵様。
王と三公爵の花嫁は、全て法で定められている。王妃は他国の姫君、公爵妃は一定以上の階級の令嬢と。伯爵とは名ばかりのピアソン家は、この条件には当てはまらない。
貴方は統治者の側に立つ人間だ。誰よりも法を重んじなければならない。
貴方は昔から人一倍責任感の強い方だった。だからこそ……出来るはずがないのだ。一時の感情に溺れ、フェルディナンド開闢の頃より変わることなく続いてきた法の定めを犯すことなど。
指を咥えて見ていればいい。
貴方にも手に入らないものがあるということを、思い知るといい。
「今日のところは動揺のあまり逃げてしまったようですが。一晩も経てば頭も冷えて、私の申し出を受けてくれるでしょう」
「……」
「要は痴話喧嘩だったのです。ただの」
他の者が見れば腰を抜かすくらい、私の態度は不遜に映ることだろう。
だが、公爵がどれほど個人的に私を嫌おうと、マードックを決して潰すことのできない理由がある。
公爵を育てた乳母エミリアは、マードック伯のただ一人の妹にあたる。一番信頼し側に置いているカイルは、私の従兄だ。
そう。マードックは、メルトレファス公爵が最も信頼する者たちの実家なのだ。それを傷つけることなど出来ないだろう……下々の者の心にまでつい気を配ってしまう、お優しい貴方には。
「失礼します」
「待て」
立ち去ろうとして、呼び止められた。
「何でしょうか……」
さすがに体が冷えてきた。会場で帯びてきた酒気もだいぶ抜けていた。
急激に疲労感が襲ってくるのを私は感じた。公爵との短いやり取りの中でも、神経をすり減らしていたのかもしれない。
一刻も早くこの場から逃げ出したかった。が、公爵はそれを許す気は無いらしい。
「お前の御託はわかった。私から言うべきことは一つだ。……マリーから手を引け」
赤い瞳が鋭さを増す。炎の色の中に、黄金が混じっていることに遅まきながら気が付いた。
光源である月はそのまま在るのに、なお目まぐるしく彩を変える。激しい感情の起伏も変化の原因の一つだと聞いたことがある。
金は……怒りの色だと。
「仰る意味がわかりませんが……」
「お前では安心してあれを任せられない」
「……」
「あれは間もなくこのメルトレファス公爵の妃となる。王妃に次ぐ、フェルディナンド至高の女性にな」
「……まさか」
「それを知った上でどうしてもと望むのなら止めはせん。ただし覚悟は決めることだ。私は全力でお前を叩き潰しに行く。……一切の容赦はないと思え」
常と変わらず静かな口調だったが、それだけに内容の苛烈さと相まって、一層の凄みを増した。
足元から這い上がってくる悪寒は、冬の風のせいばかりではない。
「ご自分の乳母と乳兄弟の家を取り潰すおつもりですか」
「エミリアとカイルの家? 戯言も大概にしろ。あの二人は我がメルトレファスの一門だ。身も……心もな」
かつん、と、遠い所で、硬い石畳を叩く音がした。
会場の熱気に中てられた誰かが、また一人、涼を求めて抜け出してきたのかもしれない。あるいは、身の程知らずにも公爵に対して戯れの一夜を願う、身持ちの悪い女か。
「みな貴方様をお待ちしております。会場に戻られた方がよろしいかと」
「戻るのはお前の方だろう。随分と顔色が悪い。寒さのせいか……それとも、私のせいか」
ぞくりと肌が粟立つ感覚。
胸のあたりに鉛を押し付けられでもしたかのような、圧迫感。それに伴う息苦しさ。
かなわない。
気圧される……。
「失礼いたします」
私は身を翻した。はっきりと、自分は逃げたという自覚はあった。
公爵を追ってきた人物とすれ違う。美しい女性だった。どこかで見た覚えがある……。
ああ、そうだ。アルムグレーン公爵の姪。ガブリエラ亡き今、かの家の唯一の令嬢マグダレーナ。三公爵家の次席エジンヴァラ家に年頃の娘がいないことを鑑みると、間違いなく現社交界の第一の姫君だ。
メルトレファス公爵妃になることを、アルムグレーン公はもちろん、本人も切望しているという。いずれ当り前のように婚姻関係が結ばれるだろうと密かに噂されていたはずだが……。
(噂も当てにならないな。少なくともメルトレファス公の方には全くその気がないらしい)
私が会場に戻って間もなく、マグダレーナ嬢もまたすぐに戻ったようだった。
苛立ちを隠そうともしないその様子から、手厳しく拒絶されたであろうことは容易に見て取れた。
少なくとも、今夜、メルトレファス公爵は誰を相手にする気もないらしい。
掌中の珠のごとく常に傍らに置いていた、青いドレスの部下の女を除いては。
次回からまたマリーさん視点。




