17 再燃(視点・クリストファー)
※クリストファー視点です。
私がマリー・エメリア・ピアソンを知ったのは、今を遡ること八年も前になる。
ほとんど使用していない別荘地を、いっそ手放してしまおうかと父が言ったのが、始まりだった。管理が面倒なのは勿論、あの別荘には我が家にとって大層不吉な曰くがあり、忌まわしい過去ごと切り捨ててしまう案には、私も賛成だった。
だが、実際に処分するとなると急に惜しくなるのが人間だ。手放す前に、その住み心地を確認するのもまた一興。
そのころ学生で自由のきく私が、父に代わり別荘に赴いた。ついでに長年言葉も交わしたことのない隣人に、ふと会ってみようと思ったのも、今考えれば運命だったのかもしれない。
隣人は、無名の画家だった。
ピアソン伯爵とは名ばかりの、実際には土地もなければ家もない、日々真面目に働く一般人以下の男だった。
挨拶をすませてとっとと帰るつもりが、気が付けば、冷めた茶を飲みながらピアソン伯の芸術論に延々と付き合わされる羽目になっていた。
彼が描きかけの少女の絵に、不覚にも目を奪われたのが原因だった。聞けば彼の娘だという。今は外出中だが、間もなく帰ってくると言われ、どうにも興味を抑えることが出来なかった。
会ってみたい……そう思った。
「この絵は慎ましく描いていますが、何というか、実物は……。少々元気が良すぎると言いますか」
「結構なことではないですか。日にも当たったことのないような青白い令嬢より、よほど好感が持てますよ」
これは本当だった。学院に通い、そこの女学生たちを見ているせいか、深窓の令嬢というものにどうにも食指が動かない。
自分が惹かれるのは、決まって、頭も体もよく動く快活な女たちだった。外見は淑やかなのに中身はじゃじゃ馬というのなら、むしろ願ったり叶ったりでもある。
「ああ、帰ってきたみたいです……」
ピアソン伯にならい視線を向けると、そこには巨大な犬がいた。
黒々とした毛並みの、獰猛そうな顔つきをした犬だった。……というか、狼に見えて仕方ないのは気のせいか。
その犬(狼?)の首輪に付いた縄を、あの絵の中の少女がぎりぎりと引っ張っている。少女は犬を家の庭に入れようとし、それを犬が全身で拒んでいるようだった。
いや無理だろう……と思った瞬間、犬の首輪がすぽんと抜けた。まさに野生の狼としか表現しようがないしなやかさで、犬はあっという間に駆け去った。
少女は勢い余って派手に転がった。脛の中ほどまでの長いスカートを履いていたが、ひっくり返った瞬間に裾が捲れ上がり、白い足の太腿近くまでが丸見えになった。それを恥じらうどころか、この馬鹿犬! と叫んだかと思うと、彼女もまた風のように駆け去った。……犬を追って行ったようだった。
「なかなか……活発なお嬢さんですね……」
「ええ、まぁ……。あの調子なので、誰も貰い手がつかないのではないかと……」
「私がもらいますよ」
「は?」
「私がもらいます。お嬢さんを」
私の唐突な申し出に、ピアソン伯はあんぐりと口を開けた。
あんぐりと口を開け、戸惑いつつも、大事な一人娘に生活の苦労はさせたくない、金のある男にしかやれないと言ったので、では自分こそが適任だと更に畳みかけた。
マードックは、伯爵位を持つ貴族の中では極めて特殊な家と呼べる。フェルディナンドに十五人しかいない国境を守護する辺境伯の一つなのだ。
戦乱が絶えて等しいとはいえ、目と鼻の先に異民族を臨む辺境伯に、強い権限が与えられているのは必然だった。中でも我が領地が接しているのは、技術立国クヴェトゥシェ。特に医学と火器工学部門において、フェルディナンドが現在最も重要視している高い知財を持つ国である。
私は、そのクヴェトゥシェと関わりの深いマードック次期伯だ。娘の縁談相手としては理想の男であると、自負があった。
「近いうちに正式に申し込みます。……お兄さんの学費についても全面的に面倒を見ますのでご心配なく」
「い、いや、しかし。あまりに急な話で。マリーの意思も確認しなければなりませんし」
「意思? 貴族社会にそんなもの必要ありませんよ。彼女は大切にするつもりですし、貴方の家にも援助は惜しみません。良い条件だと思いますが」
「いや、しかし……マリーは実は学院に通いたいと言っており……」
「それは無理ですね。マードック次期伯の妻が学生ではさすがに体裁が悪い。月に一二回、部外者受付の講義に顔を出す程度なら、私も悪魔ではないので認めますが」
このいかにも無能そうな男が何を躊躇しているのか、私には全くもって理解不能だった。
間違いなくこれは良縁だ。迷うどころか飛び付いてくるべき話のはずなのだ。
「少し……もう少し、考えさせて下さい」
決断力のない男。そう思った。
あの馬鹿でかい犬を恐れる様子もなく追いかけて行った娘の方が、よほど度胸がある。
「まぁ、考えるのは勝手ですが。選択の余地は無いと思いますよ。金が必要なのでしょう? 金は努力か才能で手に入れるしかない。その両方が無いのなら、後は既に手元にある物を売るだけです」
「まるで、マリーを売れと言っているようですな……」
「同じですよ。貴族社会の婚姻など」
どうも私はこの父親には好かれていないらしい。
まぁ、懐かれても正直迷惑なだけなので、それはそれで構わない。
肝心なのは娘の方だ。まだ十六にも満たない無垢な少女を自分好みの女に仕立てあげるのは、きっと楽しい余興になるだろう。愛人になれと言っているわけでもない。マードックの押しも押されもせぬ正妻だ。拒む理由などどこにもない。
それは、確信だったのに。
「絵が売れまして。息子だけではなく、娘も学院に通うことになりました。マードック家の正妻としては相応しくないでしょう。このお話は無かったことに」
どこかの物好きが、莫大な額で、この無能な男の絵を買った。
私は見事に肩透かしを食らったわけだ。腹立たしくはあったが、正式に申し込みをする前だったので、それ以上どうすることも出来なかった。
そして、何年も経つうちに、私自身も記憶が徐々に薄れていった。まだ十代のころ、一瞬だけ心惹かれた……そんな清い思い出の上に、時は静かに降り積もり続けた。
(あ。はい。確かに私はマリーという名ですが。……どちら様でしょう?)
焼け木杭に火が点く、とはよく言ったものだ。
忘れかけていた想いが再燃する。自分でも驚くほどの熱を伴って。
十六歳の彼女は手に入れ損ねた。だからこそ、今、二十四歳の彼女が尚更に欲しい。
八年前よりも、それは遥かに容易いに違いない。
彼女は既に二つの夢を叶えたからだ。一つ目は、学院に通うこと。二つ目は、男に頼るのではなく自分の力で生きてゆく術を身に付けること。
他にやり残した事はないだろう?
それならば……。
ひんやりとした夜気が頬を撫でる。
王宮自慢の庭園にでも連れ出そうかと思ったが、やめにした。これは風邪をひきかねない。私はともかく、薄着の彼女には辛いだろう。
ところで、マリー・ピアソンは、どんな状況でも居心地の良い場所を見つけ出せる天才のようだった。
何もない廊下の腰高窓の台を、早速、疲れた体を休めるための椅子にした。床から離れた足は大人しく揃えるでもなく、爪先に靴を引っ掛けてぷらぷらさせている。
豪奢なドレスを身に纏った令嬢のやる事ではないが、破天荒な彼女にはよく似合う。満月に近い明るい月光に照らし出されたその姿は、素直に称賛に値した。
「ずっと立ちっ放しだったから疲れちゃって。クリスさんも座りませんか」
と、ばしばしと自分が座っているすぐ横の窓台を叩く。さすがに並んで窓辺に座る勇気は私にはなかった。十歳やそこらの子供でもあるまいし。
「私は遠慮します。外務官はもともと立つ機会の多い仕事ですし、ご心配なく」
「そうなんですか。書記官は座ってやる仕事がほとんどで。こんなに足と腰が痛くなったのは久しぶりです。外務官になれなかった時は落ち込みましたけど、かえって私には良かったのかもしれませんね」
「その代わり、書記官は仕事量が多いでしょう。遅くまで残ることも少なくないのでは?」
「モーリス次官が、その辺の時間配分の上手い方で。重要文書については一分の遅刻も許さないけれど、他は結構融通を利かせてくれます。だからそんなに遅くなることはないですよ」
「いつもモーリス殿のように優秀な上司に恵まれるとは限りませんよ。これから先、平気で部下の手柄を横取りするようなろくでもない上司に、嫌と言うほど会うことになるでしょうね」
「はぁ。まぁ、色々な人がいますよね」
夜会の会場から失敬してきたグラスを少し彼女は傾けた。
一口飲み、顔をしかめる。どうやら予想以上に強い酒だったらしい。すぐにグラスを窓台に戻した。
「いつまで続けるおつもりですか?」
「えっ?」
「仕事です。いつまで続けるおつもりで?」
「いつまでって……ずっとです」
「出世の見込みもないのに?」
「出世したくて頑張っているわけではありませんよ」
「一生働き蟻のままですか。つまらない人生だとは思いませんか」
「あのですね」
窓台からぽんと彼女が飛び降りた。
ぐっと拳を握りしめ、肩を怒らせて睨み上げてくるその眼差しに、思わず背筋がぞくぞくした。
こんなに間近で見たのは初めてだ。なんて深い青色だろう。なんて……綺麗になったのだろう。
「私は、他人の生き方にケチをつけるような人は嫌いです」
「ケチをつけてはおりませんよ。ただ、賢くはないと思っています」
「別にいいです。賢くなくても」
「貴女は頭の良い女性ですよ。クヴェトゥシェ語は、馬鹿ではああも見事に喋れません」
「もう! さっきからクリスさんが何を言いたいのか、さっぱりわかりません!」
「貴女は見るからに鈍そうですからねぇ……」
「もしかして喧嘩売ってます? なら買いますよ、はい」
「いえ、喧嘩は売っていません。どう切り出そうか考えているだけです」
「何をですか」
「貴女へのプロポーズを」
「……は?」
「ですから、貴女に結婚を申し込もうと」
目の前で、面白いくらいわかりやすく、彼女は固まった。
これほど男の庇護欲をかき立てる容姿を持ち、学院の大学部に続いて官僚と、男だらけの社会に生きてきた割りには、どうやら男女の睦言には全く不慣れのようだった。大きく見開いた目の中に、はっきりと動揺が見て取れる。
雲がかかって薄くなった月明かりの中でも、うっすらと頬を赤らめているのがわかった。
「今までの流れから、何をどうやったらそういう話になるんですか」
「簡単なことですよ。要はつまらない仕事を続けるよりは、私のもとに来た方が得だし賢明と言っているのです」
「……すごい自信ですね」
「事実ですよ。単純に十年後の未来でも思い描いてみてください。貴女はもう三十台半ば。友人の女性たちは、みな当然のように母親になっている。女性は登用すら珍しい今の官制度の中で、貴女はせいぜい次官止まりでしょう。そして最後には自分の息子のような年齢の若造に顎で使われるわけです。……これがつまらなくないなら、貴女は余程の変わり者ですよ」
「だからクリスさんの奥さんになった方が得だし賢いと?」
「ええ。私は貴女をマードック伯爵夫人として迎え入れるつもりです。貴女にとっても悪い話ではありません」
どうですか? と先を促す。それに対する返事はない。
いつもころころとよく変わる表情が、膠で塗り固めたように強張っている。その強張った表情のまま、突然彼女は窓台に置いたグラスを引っ掴んだ。
止める間もない。ぐいと一気に中身を煽った。飲み干せなかった液体が、唇の端から一筋流れ落ちた。
「……酒は嗜むものですよ。そんな風にはしたなく飲むものではない」
「仰る通りです。だから私はマードック伯爵夫人には相応しくないと思います」
顎まで垂れた液体を手の甲で拭うと、彼女はなぜか清々しい微笑を浮かべた。
八年も前に絵の中でだけ見た、あの人懐っこい、明るい笑顔。
かつて掴み損ねた……幻。
「私の尊敬する方なら、きっと、真っ先にこう言います。この馬鹿者、そんな無茶な飲み方をする奴があるか、って。心配して怒って下さるのは、私を、血の通った一人の人間として見てくれているからです」
「……私は、そうではないとでも言いたげですね」
「クリスさんは、私というより、女性全員を馬鹿にしているように見えます。働くなんて時間の無駄、俺が養ってやるから黙って言う事きいとけ感謝しろ、みたいな」
「ふむ。……まぁ、あながち大外れでもありませんが」
「そこで否定しないって凄いですね。本気でそう思ってるんだ……」
「まだ若いうちに、出来の良い男に望まれて嫁ぐのが一番幸せな形だと思っていますよ。また、そう思っている女性が多いのも事実です」
「そうかもしれません。でも、それなら、クリスさんは私にとっての出来の良い男じゃない」
「なかなか言いますね……」
「私は厳しくて優しい人が好きです。尊い身であっても、己の振る舞いを厳しく客観的に見ることの出来る人。取るに足らない下々の者でも、その心を思いやれる優しい人。……そういう人に惹かれます。クリスさんからはそのどちらも感じられない。貴方は冷たくて傲慢な人です」
「……いやに具体的だ。誰のことを指しているのか」
「夢を見ることすら許されないくらい、遠い……、遠すぎて手の届かない人です」
彼女は身を翻した。背筋を伸ばし、顎を引き、堂々と胸を張って……私に、背を向けて。
私は振られた形になるのだろうか。……が、心残りは感じなかった。
これで終わりではないからだ。自分の言葉は、良くも悪くも彼女の心の奥底に突き刺さるように入り込んでいるだろう。
私は事実しか言ってない。事実だからこそ……時間をかけて、ゆっくりと、彼女の間違った認識を打ち砕いてゆく自信があった。
所詮、女なんて、男に頼って生きるしかない存在なのだ。
「お前……マリーに何を言った」
低い声が、廊下の闇の中から掛けられた。
考え事をしていたとはいえ、気配に全く気づかなかった自分に愕然とする。
雲が流れて、再び、月が明るく顔を覗かせた。
まず目を奪われたのは、真紅の双眸。同性の私から見てもぞっとするほどに美しい……魔性めいたその美貌。
この宮廷で、最も鮮やかな金と緑の王家の証を持つとされる人間……メルトレファス公爵が、闇を纏って佇んでいた。
真打ち登場?
クリスさんも相当厄介な人物ですが、敵に回すと一番怖いのは、たぶんこの公爵様。
マリーさんのお父さん、実は天才画家かもしれないとふと思いました。




