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会場に入ると、ざわ、と一瞬空気が揺れた気がした。
人々の視線の先に居るのは、メルトレファス公爵だ。煌びやかなだけの私的な集まりには、たとえ王太子の誘いであっても姿を見せることの少ない閣下は、主役であるクヴェトゥシェ使節団よりも明らかに皆の注目を集めていた。
伯爵です、侯爵です、と、様々な肩書を持つ人達が、我先にと閣下の元に挨拶に訪れる。娘や姪を引き連れて、露骨に縁談話を持ち出す者もいた。
私は正直不愉快だった。閣下がちやほやされるのは仕方ない。身分は公爵、職位は左大臣、王太子殿下の従兄にして兄代わり、とくれば、気にするなと言う方がどだい無理な話ではある。腹立たしいのは、今日の主役が誰であるか、一番大切な事を忘れてしまった非常識な貴族たちの振る舞いの方だった。
見れば、クヴェトゥシェの接待をしているのは、外務官ばかり。
官僚ではないフェルディナンドの民と交流を深めるための会ではなかったのか。楽しい思い出をたくさん抱いて、そしてまたここに来たいと望んでもらえるように……。
「閣下。私、クヴェトゥシェの皆様の所へご挨拶に行ってきます」
閣下が行けとも行くなとも言う前に、私は身を翻した。
いや、そもそも私の声は届いていないかも知れない。華やかな輪の中心にいて、尊敬と称賛の声を浴び続けている今、添え物程度に付いてきた私の言葉なんか……。
「頼む。俺もすぐに後から行く」
私は思わず振り向いた。閣下は有るか無きかの微笑を浮かべ、自分を囲む人々の相手を適度にこなしつつ、だけど、真っ直ぐ、私を見ていた。
(頼む)
その一言が、こんなにも嬉しく、誇らしい。
改めて思い知らされる。私はお役に立ちたいのだ、この方の。どんな些細な事でもいい、お前が居てくれて良かったと、そう言ってもらえるだけで……。
足元から、お腹の底から、力が湧いてくる。今なら、何だって出来そうな気がするほどに。
「お任せください。そのために、私はこの場に呼ばれたのですから」
クヴェトゥシェ人は、もともと、穏やかで慎ましい気性の民と言われている。
フェルディナンドの夜会の華やかな雰囲気に初めは圧倒されているような印象だったが、ある一つの出来事を契機に、彼らの緊張は瞬く間に解けていった。
メルトレファス公爵が、使節団の女性の一人をダンスに誘ったのだ。フェルディナンドのダンスは知りませんし踊れませんと使者の女性は慌てていたが、そこは公爵様のこと、ダンスの下手な女性をリードするくらい造作もない。
せっかく打ち解けてきた明るい兆しを失ってはいけないと、私も公爵様に続いて五人の使者殿を次々とダンスの輪の中に放り込んだ。三回ほど足を踏まれ、その倍ほど足を蹴られたが、そこで悲鳴を上げるほどこのマリー・ピアソンはか弱く出来てはいない。
さすがに五連続のダンスの相手は疲れたが(しかも全員下手だった)、とりあえずやれるだけの事をやった後の疲労感は、心地良かった。会場の片隅に固まっていた使者たちも、今はばらけて思い思いに会話を楽しんでいるようだ。
私は笑いすぎと喋りすぎで喉が痛くなっていたので、甘いお酒の入ったグラスを片手に、逃げるように広間を出た。いや、出ようとしたところで、いきなり三人の見知らぬ令嬢に囲まれた。
「貴女、メルトレファス公爵様の何なんですの? 随分と親しくされているみたいですけど」
私は思わず目が点になった。
何だ。この、ありふれた物語の使い古された一場面のような状況は。
ここで口答えしたら、ぱぁんと頬を引っ叩かれたりするのだろうか。こんな扇よりも重い物を持ったことのない御令嬢に喧嘩で負ける私ではないが、どう考えても家力は向こうの方が上である。
学院で、血の滲むような努力をして助教授まで辿り着いた兄の足を引っ張ってはいけない。……ここは穏便に済ませよう。
たっぷりとしたスカートの側面の布地を持ち上げ、私は恭しく礼をした。
「私は左大臣様付の書記補佐官でございます」
美しい貴婦人たちは顔を見合わせた。
たぶん、女官僚を見たのは初めてなのだろう。私の他にも数人いるし、女性の権利や労働力が見直されつつある今の時代、これから更に増える可能性だってあるのだけれど。
市井には、自分の手で、自分の力で、人生を鮮やかに切り開こうとする女性たちが、既に現れ始めている。
学院で、そういう人を私はたくさん見てきた。彼女らは、医師であり、薬師であり、教員だった。親の商売を手伝って経営に乗り出す人もいたし、中には自ら新しい事業を起こす強者もいた。
伸びやかで明るく、そして親しみやすい民間の女たち。うかうかしていると抜かされるよ、お姫様。確かに身分は無いかもしれない。でも、彼女らには、どんな逆境も跳ね返すしなやかな強さがある。
「書記……補佐官?」
「はい。主な業務内容は会議の記録、各部署に伝達される文書の作成でございますが、今回の夜会には、クヴェトゥシェをお送りする外務官の皆様の補助として参加いたしました」
「そ、そうなの……」
三人のご令嬢の真ん中の女性が、私の首元に手を伸ばしてきた。
真珠に触れるつもりだろう。私は反射的に体を引いた。別に殴られても構わないが、この真珠のネックレスに傷をつけられるのだけは困る。
これは借り物。しかも閣下のお母様の形見の品だ。手垢一つ付けたくない。
「たかが官僚風情が、随分と高価な品を身に付けているのではなくて?」
「……これはお借りしたものです」
「誰から? まさか……公爵様からなんて言わないわよね」
「ええと……」
さぁ困った。お嬢様方の尋問から逃れられそうにない。というか、なぜ私にそんなに突っかかって来るのだろう。左大臣付の役人だと正直に話したではないか。
本当に私が閣下のご寵愛を受けているとか勘違いしているのか。ただの机の拭き掃除係が出世したものである。
……仕方ない。自慢にもならないが掃除当番の事を教えるか。さすがに納得するだろう。
「そのネックレスは私がお貸ししたものです」
と、割って入る声がした。
振り向くよりも早く、肩に手が置かれた。そのままぐいと引き寄せられる。閣下ではない、覚えのないコロンの香りがした。見上げた先に、クリスさんの顔があった。
「そうですよね、マリー殿」
肩に置かれた手が首の方に移動した。真珠のネックレスの緩い曲線をなぞるように、クリスさんの指が鎖骨のすぐ下の肌を滑る。その感触に、ひっと悲鳴を上げそうになった。
たぶん、私が令嬢に絡まれているのを見つけ、助け舟を出してくれているのだろう。それはわかるし有り難いのだが、わざわざ触る必要がどこにある! 私はこういう色っぽい状況には慣れていないのだ。それでなくとも今着ているドレスは胸元が開き過ぎて、あちこちから突き刺さってくる視線が痛くて仕方ないというのに!
「……貴方、お名前は?」
令嬢が、クリスさんに興味深げな視線を送る。彼の登場で、明らかに私への敵意は半減した模様だった。美男子の力、恐るべし。
「クリストファー・オーウェン・マードックと申します」
「あら。マードック家の」
「ええ。間もなくマードック辺境伯と呼ばれることになるでしょう。……以後、お見知りおきを。エルシオーネ・ヴァスカヴィル嬢」
「私を知っているの?」
「美しいご婦人の名とあらば忘れません」
「お上手だこと。……でも悪い気はしないわね」
先程の恐ろしい剣幕はどこへやら。ヴァスカヴィル嬢はいかにも機嫌良さそうにふふと笑うと、取り巻きを連れて立ち去った。
何だどうした。この変わり身の早さは一体。
今のが上流階級のやり取りというものなのか。よくあんな舌を噛みそうな台詞をスラスラと言えるものだ。クヴェトゥシェ語で演説するよりも難しい。
……と思う時点で、私の感覚は、既に貴族のそれではないのかもしれない。
「ありがとうございます。クリスさん。助かりました」
「気を付けた方が良いですよ。貴女は今夜の夜会で間違いなく一番に輝いていた女性ですから」
「は?」
「自覚が無いのが貴女らしいですね。会場の男たちの熱い視線を感じませんでしたか。みな貴女にダンスを申し込みたくてうずうずしていましたよ。……この私も含めてね」
「あー……、ええと。体を動かすのは得意なので、多少下手な人のパートナーでもそれなりに務まります。ダンスを練習するにはちょうど良い相手と思われたのかもしれませんね」
「……貴女は本当に面白い人ですね」
「そうですか?」
「ええ、とても。話せば話すほど、貴女という女性を知りたくなります」
「何か口説いてるみたいですよ、クリスさん」
「みたいではなく、真剣に口説いているのですが」
「……物好きですねぇ」
「物好きですか」
クリスさんが笑った。私もつられて笑ってしまった。
次期伯爵で、若いのに外務次官で、ついでに長身美男子のクリスさんに甘い言葉を囁かれている。
ほんの半年前の私なら、有頂天になっていたに違いない。恋物語は自分のような変わり者には無縁と思っていただけで、憧れが全く無かったわけではない。
でも、今は。
自分の気持ちが何処を向いているかはっきりと自覚している以上、厄介事は御免だと思うだけだった。
「お気持ちは有り難いのですが、徒労に終わるだけなので他を当たった方がいいと思います」
「徒労に終わらないよう努力は惜しまないつもりです。とりあえず移動しませんか。少々疲れたので休憩しに行くところだったのです」
私も抜け出す途中だったので、それについては異論は無かった。
またおかしな人間に絡まれた時、クリスさんがいてくれた方がかわしやすい事もあり……私は、深く考えず彼の後に付いて行った。




