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母の形見のドレスは無事だった。
心配していた虫食いもなく、型崩れも起こしていなかった。三十年も前の品にもかかわらず生地には張りと光沢があり、これは素晴らしいものですねと、メルトレファスから派遣されたメイド長が頻りに称賛の声を上げていた。
ドレスが実家の別荘に置きっ放しになっていることを告げると、閣下は、寸法や手直しの有無を見てくれるメイド長、ドレスを痛めることなく運ぶことのできる大きめの馬車を手配してくれた。
メイド長は明るく朗らかな人だった。笑顔と物腰が柔らかく、親戚の別荘住まいの我が家の現状を見ても何ら感情を表に出すこともなく、終始打ち解けた雰囲気で話してくれた。
何だかお母さんみたいだと、覚えてもいない母親の面影を重ねたとき、私も女の子が欲しかったわと、ふとメイド長が呟いた。
男の子ばかり四人も育てたということだ。しかもその四人ともが、揃いも揃って嫁の一人も連れてこない。もうすぐ一番上の子なんて三十歳になっちゃうのよ、と深々と溜息を吐かれて、何やら申し訳ない気分になった。若干、他人事ではない。
「ええと、きっと、そのうち良い方が来てくださいますよ」
「そうかしらねぇ……。あの子が早く結婚して可愛い我が子を抱いているのを見たら、ユージン様だって、自分も……とほだされそうなものなのに。面倒だからと、のらりくらりと逃げてばかりで……」
「あのぅ……もしかして、一番上の息子さんって」
「あらご存じかしら。カイルっていうの。今、左大臣秘書官としてお城で働いているのだけど」
おおぅ、やっぱり。
カイルさんのお母さん……ということは、閣下を母乳で育てた方か!
閣下の御生母様である先の王女殿下は、難産のため、結局出産の数日後に亡くなったと聞いている。だから、実質、カイルさんの母親が、同時に自分の母親のようなものだと……言っていたような。
いや、そんな凄い方派遣しないでください、閣下。恐縮してしまいます。
「とびきり美しく装って、ユージン様と、ついでにカイルも驚かせてやりましょう!」
メイド長兼乳母様、妙に力が入っている。
メイド長の見立てにより、ドレスは袖口と胸元のレース部分だけ取り換えることになった。
繊細なレースはさすがに年月による劣化は避けられず、だいぶ草臥れた感じになっていたので、その申し出は素直にありがたかった。
「では当日までこちらのドレスはメルトレファスのお屋敷の方でお預かりいたします。準備もありますから、夜会の日はお早めにお越し下さいましね」
にこにこと当然のごとく宣う乳母様だが、聞き捨てならない台詞がその中に幾つか含まれているような。
当日まで預かる?
早めにお越しください?
どういうことだろう。それではまるでメルトレファスのお屋敷から夜会に向かうみたいではないか。
私には城内に賜った宿舎が……。
「まぁ無理ですよ。お一人でドレスをお召しになるおつもりですか? 髪も結わなければなりませんし、お化粧もしなければいけませんし、お一人ではとてもとても」
「そ、そうですね……」
思い出した。八年前、初めてドレスを着た時も、実はちょっとした騒ぎになったのだ。
背中の留め具を一人で留めることが出来ず、結局兄に留めてもらったのである。いくら兄弟でも男にこんな事やらせんなよ、と散々文句を言われたが、出来ないものは出来ないのだから仕方ない。
ちなみにその兄も小さくて数が多い釦には大苦戦していた。あんまり乱暴に引っ張るものだから、ちょっと破けたらどうすんのー! と大絶叫した覚えがある。
「あの……ご迷惑をお掛けすることになりますが、よろしくお願いします」
こうなったら腹を決めて、メルトレファスの百戦錬磨のメイドたちに徹底的に磨き上げてもらおう。
左大臣閣下が見るもみすぼらしい女を連れている、という事態だけは、何としても避けなければならないのだ。もとの素材が素材なだけに、他を圧倒するような美貌は無理でも、十人並みの少し上くらいの令嬢には化けなければ。
成り行きとはいえご同行して下さる閣下のために……!
「まぁ、ユージン様のために美しくなりたいなんて、まさに恋する乙女ですわね!」
乳母様の言葉に撃沈しそうになった。
違う。それは何かが激しく違うぞっ……!
「お任せ下さいまし。ユージン様が浚って部屋に閉じ込めたくなるくらい、お綺麗にしてみせますから!」
カイルさんのお母さん……面白すぎる。
夜会当日。
鏡の中の自分は、特段、大きく変わった気がしなかった。
いつもより少し目が大きくなって、いつもより少し唇が赤いくらいか。誰だお前、と言われるくらい劇的に変身したかったのだけど、やはり元が元だけに無理だった。これでは、冴えない下っ端官僚マリー・ピアソンと誰の目にもわかってしまう。
「せっかくの綺麗な肌を厚化粧で覆い隠す必要はありません。お顔だって下手な人形よりも整っておられるのですから、それを生かさない手はありません!」
いやでも。
私は元の人相が想像できないくらい化けたかったのだ……目で訴えるも、乳母様には華麗に無視された。首飾りはどれがいいかしらと、最後の仕上げに余念がない。
「おい、まだか? いい加減早くしてくれ」
部屋の前の廊下で、閣下がうんざりした声を上げている。ダイアモンドやらサファイアやらアメジストやら、目の飛び出るような値段の装飾品を取っかえ引っかえしていた乳母様だったが、これだから殿方は……とぶちぶち言いつつ扉を開けた。
「首飾りが決まらないのです。何もつけないと少し寂しいですし、かと言ってあまり派手な物は品がありませんし」
たいそう熱の入っている彼女には申し訳ないが、私は自分の準備にも関わらず閣下と同じくらい待ち草臥れていた。正直、首飾りなんてどうでもいいと思ってしまう。
誰も見ないよ……。
「首飾り……。一つ良さげなのがあったな。持ってくる」
閣下が身を翻した。その後を慌てて乳母様が追いかける。
私は、着慣れないドレスの裳裾を引きずって足の長い閣下に追いつく自信は無く、おとなしく部屋の中で待っていた。
閣下はすぐに戻られた。乳母様の姿はなぜか無かった。
「乳母様は?」
「後は首飾りだけだと言うから下がらせた。あれに任せておくと、いつまで経っても決まりそうにない」
「張り切っておられましたもんねぇ……」
「これでいい。合わなくもないだろう」
閣下が、手に持っていた小箱の蓋を開けた。
「こっ……これでいいって」
中に入っていたのは、真珠のネックレス。
乳白色に輝くたくさんの粒が、綺麗な楕円を描いて光沢ある布の上に納まっている。偶然と神秘の賜物である海の至宝は、真円に近ければ近いほどその価値を跳ね上げるが、いま目の前にあるネックレスは、まるで職人が磨き上げたように全てが滑らかな球体だ。
同じ大きさ。同じ色。
「あのですね、これはですね」
大きなお屋敷を丸ごと買えるくらいのお値段かと思われます。
悪いことは言いません。やめましょう。恐ろしすぎます。
「つけてやる。後ろを向け」
「はいっ!?」
くるんと後ろを向かされた。あわあわと抵抗するも、動くな、とぴしゃりと言われて、下っ端役人の悲しい条件反射で固まってしまう。
ひやりと冷たい真珠の感触。それから、ちょうど首の後ろに当たる、人肌の感触。閣下の指先が項を掠める。どうしてもそこに神経が集中してしまう。おかしな熱が集まるのがわかった。
駄目だ。何か会話! 気を紛らわさないとっ……!
「なっ……亡くなった奥様のもの、私なんかにっ。駄目ですっ」
「? なぜガブリエラが出てくる」
どきりとした。
ガブリエラ様、というのか。
閣下の生まれた時からの許嫁。わずか三年で別れなければならなかった奥様。三公爵家の一つ、アルムグレーンの御令嬢で、大輪の薔薇もかくやという美しい女性だったと、最近知った。……知ってしまった。
「ガブリエラの物はこの屋敷には何もない。すべて処分した」
「え……」
「これは俺の死んだ母親のものだ。だから誰も身に付ける者がいない。遠慮はいらん」
「はぃぃ!? 閣下のご生母様っ!?」
もっと悪い! もっと畏れ多いんですけど!
「よし、できた」
小箱の中には、お揃いのイヤリングも入っていた。
これも付けてやろうかと閣下が耳元に手を伸ばしてきたので、私は、ドレス姿にも関わらず飛び跳ねる勢いで逃げた。
いやもう結構です! 心臓がさっきから口から飛び出しそうです! 壁にへばりついてぶんぶんと首を振ると、閣下が肩を揺らして笑い始めた。……か、からかってますね!? またからいかいましたね!?
「いや……。本当に親切心で付けてやろうとしただけなんだが」
「謹んでご辞退申し上げます。イヤリングは本当に落とす可能性を考えると、私が身に付けるべきではありません」
「陽の目を見ないまま仕舞い込まれるより、失くしても付けてもらった方が、宝石にとっては本望だと思うがな。……まぁ、お前の気持ちもわかる。無理にとは言わんさ」
ぱたん、と、音がした。閣下が小箱の蓋を閉めたのだ。
これで注意を払うべきはネックレスのみになった。そそっかしい私でも、肌に直に触れてくるこの感触と重みを失くして気付かないという事はないだろう。
ほっとした……はずなのに、胸を占めていたのは奇妙な寂しさだった。
そんな高価な宝石でなければ。
その辺の祭りの露店で買えるような、手頃なアクセサリーであれば……。
「では行くか」
「はい。閣下」
クヴェトゥシェを送る夜会が、始まった。
マリーさんの反応見て遊んでいます。公爵様。




