14 幻の姫(視点・アルベルト)
※王太子アルベルト視点です。
「幻の姫」の絵を、俺が見たのは、偶然だった。
絵は長いこと隠されていた。屋敷の隅の小さな部屋で、袱紗に包まれ、誰の目にも触れることなく厳重に仕舞い込まれていた。
小部屋には鍵がかけられ、その鍵を持っているのは、ユージンとカイルだけだった。
カイルは絵の状態を確認したり清掃のために定期的に部屋に入っていたようだが、ユージンは、ガブリエラを迎えてからの丸三年、存在そのものも忘れたかのように、部屋に近付いたことさえ無かったという。
メルトレファスの屋敷は、俺にとっては行き慣れた別荘のようなものだった。いちいちこれから行くぞと先触れを出したこともない。
俺はガブリエラが苦手だったから、彼女がいた三年間は極力訪ねないようにしていたが、彼女が死んだ今、遠慮する必要はなくなった。
疎遠になった三年間を早く穴埋めしたくもあり、俺は頻繁にユージンに会いに行った。ユージンはそのころ財務官長官の役に就いたばかりで忙しく、はっきり言って迷惑そうだったが、俺は構わず通い続けた。
その日も、これといって用事もなかったが、俺はメルトレファスの屋敷に押しかけた。生憎ユージンは不在だったが、待つのは別に苦ではないので、勝手にあいつの部屋に入り、中の物を適当に物色して時間を潰していた。
その時だ。
カイルが例の絵を持って現れたのは。
まさか俺がいるとは夢にも思わなかったのだろう。カイルはしばし呆然としていたが、さすがはメルトレファスの使用人たちを纏める次期使用人頭の奴のこと、素早い立ち直りを見せ、
「お出でとは存じませんでした。失礼いたしました、すぐお茶のご用意を」
隙の無い微笑を浮かべ、くるりと回れ右をした。
待たんか、こら。
「カイル、その絵は何だ?」
「片付けるために持っていただけです。お気になさらず」
「見たい。見せろ」
「無名の画家の作品です。かえってお目汚しとなりましょう」
「カイル、俺は王子だ。公爵よりもさらに位は上だ。わかるよな?」
「……世の中の不条理を感じます」
「お前、今、ものすごく無礼なことを言わなかったか」
「空耳でございましょう」
俺のしつこさに負けて、カイルはしぶしぶ絵に掛けていた布を取った。
「ほぅ……これは」
無名の画家? これを描いたのが?
俺は、正直、芸術云々に関しては知識もなければ興味もない。中でも肖像画という類の絵に、全く魅力を感じない。風景画の方が遥かにマシだと思っている。
だが、この絵は、そんな俺の拙い芸術観を一変させるに十分な力を持っていた。
少女の絵だ。年の頃は十六、七か。
明るい蜂蜜色の髪に、大きく澄んだ青色の瞳。その瞳の色と同じ、晴れた空を思わせる柔らかい青色のドレスに身を包んでいる。取り立てて派手でもなく、奇をてらうこともなく、伝統的なフェルディナンドの礼装は、穏やかに微笑む彼女に驚くほどよく似合った。
肖像画なのにまるで肖像画らしさを感じないのは、その親しみやすい自然な笑顔のためか。仲の良い友人同士でお喋りをしている日常の一画面を、そっくり切り取ってきたかのように。今にも絵から抜け出して、屈託なく話しかけてきそうだ。
(狐に摘ままれたような顔をされていますよ、殿下)
軽やかな笑い声が、確かに聞こえた気がした。
間もなくユージンが戻ってきた。
俺と、カイルと、袱紗の外れた絵を見て、大体の状況は察したらしい。
怒られるかな、と内心ひやりとしたが、ユージンは苦笑しただけだった。
カイルが茶を淹れて下がると、俺は早速気になっていたことを聞いてみた。
「あれはどこの令嬢だ?」
「どこの誰でもありませんが」
「モデルくらいいるだろう」
「いえ、おりません」
「そうやって頑なに隠すという事は……わかった、お前の次の奥方候補の娘か!」
「また極論に走りますね……」
「違うのか?」
「違います」
「じゃあ教えてくれてもいいだろ」
「いないものを教えろと言われても困ります」
「本当にいないのか……」
理想の姫だったんだけどなぁ、と呟くと、かもしれませんね、と珍しくユージンが同意した。我が従兄殿にとっても理想の姫だったのだろうか。俺と違って、ユージンは、愛だの恋だのにうつつを抜かしそうな人間ではないので、意外だった。
「さながら幻の姫か」
「面白い表現をされますね」
「ぴったりだろう?」
「どちらかと言えば、山猿か暴れ馬ですが……」
「は?」
「いえ何でも」
長いこと、俺の中で、絵の中の少女は幻だった。
この世界のどこかに確かに存在していそうな現実感を伴って描かれていながら、どう足掻いても捕まえられない、蜃気楼のような娘だったのだ。
それが。
幻の姫は唐突に現れた。
しかも官僚の制服を着て、手には雑巾を持って。
絵の中の姿よりも、大人になっていた。そして、絵の中の姿よりも、更に綺麗になっていた。
(ちょっと何なんですか、貴方は。勝手に座らないで下さい!)
生き生きとしたその表情。気取った貴婦人どもには無い、軽やかなその動き。腰に両手を宛がい眦をつり上げていても、可愛らしさばかりが先に立ち、まるで迫力がない。
ユージンが部屋に入ってくると、あからさまにほっとした顔をして、あいつの傍に駆け寄るのを見て、ああそうか、と思った。
絵だけではない。その元になった本人も、既にユージンのものなのだ、と。
(私からも謝罪いたします。後で私の方から言い聞かせておきます故)
ユージン自身、たぶん、無意識だったのだろう。彼女を後ろ手に庇うようにして立ち、一瞬、俺に対して挑みかかるような目をした。万に一つもあり得ないが、それでも、警戒せずにはいられなかったのだ。王太子であるこの俺が、無礼者めと憤る……その可能性を。
「あんな顔初めて見たなぁ……。お前はいつも完璧なまでの無表情だった」
完璧な無表情の仮面の下に、一切の感情を押し隠し、あいつは完璧な公爵様を常に演じ続けてきた。
学院卒業と同時に研究者の道を諦めた時も。愛情など持てるはずもないガブリエラを受け入れた時も。そのガブリエラに、あんな手酷い裏切りを受けた時も。
あいつは何も言わなかった……仕方のない事だからと。
「でも、そろそろいいんじゃないかな……」
もしあいつが、多少家柄の低い娘を妻に迎えても、あいつ自身が思っているほど、周囲の反発は強くはない。
皆知っているのだ。そんなものは我儘のうちにも入らないくらい、あいつが頑張ってきたことを。
王も。王妃も。王太子であるこの俺も。
メルトレファスの一族の誰も。
「今まで散々我慢してきたんだ。一つくらい好き勝手やったって、誰も文句なんか言えないさ……」




