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今日はいつもより少し遅い昼食を取った。
おかげでおすすめ定食は売り切れていたが、代わりに日替わり定食を四人席を独り占めしながらゆっくりと味わうことが出来た。
帰り道も空いている。食堂から仕事場へと戻る途中にいつも通り抜けている中庭には、十二、三歳と思しき男の子が一人いるだけだった。その少年が、なぜか一生懸命に遥か頭上の樹木の枝を仰いでいるのだが……。
おいおいまたかよ、と、私は少年を横目でちらっと見た。
以前もこんな事があった。初夏の風の強い午後、そこに居たのは少年ではなく令嬢だった。畏れ多くも左大臣閣下を巻き込んでしまった、例の忌々しい下着事件である。閣下が大物ぶりを発揮して笑い飛ばしてくれたから私は事無きを得たが、今でも思い出すたびに地に頭を擦り付けて詫びをしたくなる。
というか、あの下着、もしかして私のものだと思われているのだろうか。否定する機会もないままに、既に何か月も経過してしまっているが……。
今となっては、もう、どうしようもない。
少年があんまり熱心に見上げているので、どうにも気になった。
このお節介めと自分自身に呆れつつ、私は彼に声をかけた。
「どうかした?」
少年が振り向いた。枝上の何かを指し、
『あれはなんていう鳥ですか?』
おおっと。これは男の子の口から意外な言語が飛び出した。
フェルディナンド語ではない。クヴェトゥシェ語だ。生の話し言葉を聞いたのは、およそ四年ぶりか。
一瞬焦ったものの、十代のうちにしっかり身につけた言語というものは、四年程度では消えないらしい。自分でも驚くほど流暢に、クヴェトゥシェ語が流れ出た。
『あれは……うーん。ごめんね。私にもわからないや。渡り鳥みたいだけど、迷い込んだのかな』
鳥は、人の気配を察してか、すぐに飛び立った。
大きく広げた翼だけが顔料で染め上げたように鮮やかに青く、確かに少し珍しい鳥だと思った。
『お姉さん……クヴェトゥシェ語上手ですね。外務官の方ですか?』
『ううん。昔、少し勉強したことがあるだけだよ。クヴェトゥシェの文化が好きでね。通じて良かった』
『本当ですか? フェルディナンドのような大国に、我が国の言葉をこんなに上手に話す方がいるなんて、嬉しいな』
『私以外にもたくさんいるよ』
『そうでしょうか? 僕は使節団の一員として来ているのですが……皆ほとんどフェルディナンド語で喋っていて、クヴェトゥシェの言葉は使わないんです』
フェルディナンドは大国だし、その言語は、現在、大陸公用語として広く使われている。使節団の皆さんはクヴェトゥシェを代表して来ているくらいだから、全員、フェルディナンド語が達者なのだろう。
そういえば、私たちが作成した行程表も、全てフェルディナンド語で書かれていた。あの時は、そういうものだと思っていたが……。
こんな年端もいかない子供がいるなら、クヴェトゥシェ語のものも用意しておくべきだった。
『大丈夫ですよ。新しい日程表には、クヴェトゥシェ語のものもありました』
少年がにっこりと微笑んだ。
はぁ、と、私は感心した。さすが左大臣閣下だ……本当にソツがない。
『あの、お姉さん。お名前を窺ってもよろしいでしょうか? 僕はアルシュといいます。アルシュ・メテルです』
『私はマリーだよ。マリー・ピアソン』
「アルシュ殿!」
ぱたぱたと幾つかの足音が近付いてきた。
官僚の制服を身に着けたフェルディナンド人が二人。一人はクリスさんだった。もう一人は……いつか大食堂で見た、席取り合戦に敗れた男だ。
外務官が来てくれたのなら、もう安心。ほっと一息つく間もなく、クリスさんではない方の外務官が、早口で捲し立てた。
「アルシュ殿、心配しましたよ。急にいなくなるのですから……。この城は広いですし、立ち入り禁止の場所もあります。あまり勝手な行動はしないように願います」
「ごめんなさい」
「さぁ行きましょう。使節団の皆さんもお待ちかねです」
ぐい、と、まるで逃げ道を塞ぐかのような強引さで、アルシュの肩を掴む。両国の絆を結ぶためにわざわざ来てくれている使節団の一員に、なんという不遜な態度だ。子供だと思って舐めてかかっているのだろうか。
私は思わず不満そうにクリスさんを睨んだ。クリスさんも相方の非礼は感じたらしく、顔を顰めている。
「イグナート、使節団の方に対して失礼だ。その手を離せ」
「しかし次官。またふらりと姿を消されたら……」
問答無用、とばかりに、クリスさんが、イグナートと呼ばれた男の手を払いのけた。
そのまま長身を屈め、アルシュの視線に自分のそれをあわせて、すみませんでしたね、と、クヴェトゥシェ語で話しかける。
綺麗な発音だ。私よりずっと上手だ。これが現役の外務官の実力か……嘆息しながらも、先程アルシュに褒められて浮付いていた気分が萎んでゆくのを私は感じた。
クリスさんは凄い。本物の外務官だ。私のようにその国の文化をちょっと齧った、程度ではない。私もここまで自由自在に好きな言語を操れたら……。
『驚きました。マリー殿もかなりクヴェトゥシェ語がお上手とか』
そのクリスさんに突然話しかけられて、私は少々慌てた。格の違いを嫌というほど見せつけられた今この時、上手ですねと言われても、背中の辺りがむず痒いばかりである。
それにしても、なぜクヴェトゥシェ語で話しかけてくるのだろうか。
『へ? ああ、いえ。私はちょっと齧った程度で』
『ちょっと齧った程度で、そこまで普通喋れませんよ。もったいない……。なぜ外務官を希望されなかったのですか』
いえ、希望しました。
見事にフラれただけで。
『えっ……信じられない。落ちたのですか?』
『あはは。まぁそうです。お恥ずかしい』
『間抜けな試験官ですね……。私なら絶対に貴女を落としません』
たとえお世辞でも、そう言ってもらえるのは素直に嬉しかった。
これも全て学院に通うことが出来たおかげだ。そこでクヴェトゥシェ人の先生に出会い、人柄に惹かれ、文化言語を学ぶに至った。
学院は、私にとっては出会いの場だったのだ。当時親しくしていた友人たちとは、今でも交流がある。皆それぞれ違う道へと歩き出しているけれど……根底には、あの学び舎が確かに今も存在していた。
無い懐から学費を捻り出してくれた親に、心から感謝したい。
『それでは行きましょうか、アルシュ殿』
『はい。ご心配おかけしました。申し訳ありません』
またね、と、去り際にアルシュが手を振ってくれた。
何だか可愛い弟みたいだ。私も思わず手を振りかえした。
また、会えるといいね。
ふと見上げると、青い翼の鳥が、はるか頭上の天空を軽やかに舞っていた――。




