11
清々しい朝が来た。
からりと晴れた青空が眩しい、絶好の洗濯日和である。きっと朝一から勤勉な女性陣は洗濯板とたらいを持って奮闘していることだろう。
その彼女らに倣うわけではないが、私も朝の六時から既に臨戦態勢にあった。
……公休日なのに。
発端は、現在フェルディナンドに滞在中のクヴェトゥシェの使節団の一言だった。
「名高いフェルディナンド王立学院を見学しとうございます」
クヴェトゥシェは決して大国ではないが、国民の教育水準が総じて高く、文化技術国として名高い国だ。そのクヴェトゥシェが大陸でも有数の巨大学舎であるフェルディナンド王立学院に興味を示すのは、むしろ当然の流れといえよう。
初めから、滞在の日程表に組み込むべきだったのだ。それをしなかったのは、明らかにこちら側の配慮不足である。
クヴェトゥシェを担当する外務官の長が、実はクヴェトゥシェに詳しくなかったということだろう。クヴェトゥシェ外務官といえばあのマードック青年もそうだが、年齢的に彼が長ということはありえない。要は、彼の上司が未熟者だったわけである。
そして、予想外のとばっちりが、本件とは無関係であるはずの左大臣閣下にまで及んだ。
この忙しい時に、右大臣様はご老体に鞭打ったのが祟ったのか、倒れてしまわれたのである。
急遽、副右大臣が代行することになったが、これが実に使えない男だった。使節団の急な予定変更に一人では対処しきれず、あろうことか左大臣様に泣きついたのだ。左大臣閣下はあのとおり人外めいた頭脳の持ち主であるから、誰に頼らずともご自分で判断を下し、倒れた右大臣様とアホな副右大臣様になり代わり、自ら陣頭指揮をとられた。
昨日のほぼ一日で、使節団の行程は全て組み直された。後は、明日の月曜日の朝、新たな行程表を使節団一行に示しつつ、説明するだけである。
その新行程表を作ったのは、実は右大臣書記官ではなく、左大臣書記官である私たちだった。あまりにも事が急だったため、右側だけでは人が足らず、私たちも駆り出されたわけである。
昨日の段階で、下位文官のお役目は終了したはずだが、万一手直しが入らないとも限らない。本日の午前中だけは休日返上で職場に待機していようと、モーリス次官は自ら提案した。
……で、休日なのに、朝も早くから私は職場に詰めているわけである。
「どうせ居るなら……」
今日も執務室の拭き掃除をしてしまおう。それは名案に思えた。
私は早速水桶を持って閣下の執務室に向かった。すっかり顔馴染になった守備兵の方に挨拶をし、扉の鍵穴に鍵を差し込む。
違和感にすぐに気付いた。
鍵がかかっていない。空いている。休みなのに? やっと六時になったばかりのこんな朝に?
背筋を冷たい汗が流れるのを感じた。あの閣下がご自分の執務室の鍵を閉め忘れ? いやそれは無いだろう……。じゃあ。
恐る恐る、部屋に踏み込む。秘書官室に異変は無い。執務室へと……。
「あ……」
閣下がいらっしゃった。
私のように朝から詰めているのではない。御召し物が昨日のままだ。昨日、私たちが夜も更けてから渡した行程表の最終的な見直しを、あの後残ってされていたのだ。
仮眠でも取るつもりだったのだろうか。来客用のソファの上でぐっすりと眠りこんでいる。机の上は綺麗に片付いていた。昨晩中に全部終わらせてしまったのか……。
これは掃除どころではない。どう考えても起こさない方が良いだろう。
すぐにも回れ右をするべきなのだが、不届きなことを考えてしまった。見たい……寝顔!
そうっと、息すら止めて、上から覗き込む。
うわー。睫毛長い。寝ていても綺麗。髪がわずかに片方の瞼にかかっている。邪魔じゃないかなぁ……払ってあげたい衝動にかられてしまう。
……いえ、しません。そんな畏れ多い。
朝からいいもの……いやご尊顔を拝めて得した気分なので、さて帰るか。
でもその前に何か掛けるものを……。
きょろきょろしていると、不意に強い力に引っ張られた。
あさっての方向を向いていた時だったから、抵抗する暇もない。視界が半回転し、軽い衝撃とともに十分にクッション性のあるソファに受け止められた。
あれ? なんで私、今まで閣下が寝ていたソファに埋もれているんだ?
「あれ? あの」
「……なぜお前がここにいる」
「あ、はぁ。掃除に来たのですが」
すぐ目の前に閣下の顔がある。私はソファの上に仰向けに倒れていて、その上に閣下が覆いかぶさっているような状況になっていた。
あの一瞬で、しかも寝起きで、ここまで見事に体勢を入れ替えられる公爵様ってすげー。どんな運動神経しているんだ。半ば現実逃避して、私はそんな事を考えた。
「あのー……」
「なんだ」
「いえ、退いて下さると嬉しいなぁ……なんて」
「却下」
「そ、それは新手の苛めですかっ……!」
「かもしれんな。……で、なぜお前がここにいる。まさか休日まで毎回掃除に来ていたのか?」
「いえ、違います。今日は、モーリス次官の指示で、朝から職場に詰めていることになっているのです。ほら、手直しとか入るかもしれないですし」
「朝……こんな時間からか」
閣下が眉を顰める。私を押さえつける腕の力が少し緩んだ……気がしたが、やっぱり気のせいだった。脱出しようとして、あっさりと身動ぎを封じられる。
そろそろ、立ってか座ってか普通にお話しませんか、閣下。もう泣きそうです、私。
「マリー、モーリス班に待機の必要はないと伝えてくれ。それと、昨日の件については感謝している、今日は十分に休め、と」
閣下がようやく離して下さった。
私は、バネ仕掛けの人形のようにソファから飛びのいた。そのままよろけながら執務室を逃げ出す。
「からかい過ぎたか……」
溜息交じりの閣下の声が、背中越しに聞こえた。
閣下のご伝言をモーリス次官に伝えると、私はその足ですぐにまた執務室へと取って返した。
閣下は今まさにご自分の居室に戻ろうとしていたところで、入れ違いにならずに済んだことに、私はとりあえずほっとした。
「モーリス次官に伝えました。ご配慮感謝いたします、とのことです」
「……わざわざそれを言いに戻ってきたのか。腰が半分抜けていたのに」
「ちゃんとモーリス次官に伝えたことを、閣下にご報告しなければなりませんから」
「律儀というか、真面目というか……」
くす、と、閣下が笑った。
「すまなかったな。お前を見ていると……つい」
「いえもういいです。からかっているだけ、という事は、何となくわかっていましたから」
「いつも頑張る書記補佐官殿に、先程の詫びもかねて何か褒美を取らせるか。何が良い? 時間外の手当でも多めに付けるか?」
「いえ。お給料は十分に頂いております」
「馬か、宝石か、物の方が良いか」
「いえ。そんな大層な物を頂けるような働きはしておりません」
「では朝飯でも奢るとするか」
「そ、それはちょっと心惹かれます……!」
決まりだな、と呟いて、閣下が歩き始めた。
そういえば、朝御飯といっても、公爵様はまさか大食堂に行くわけにもいかないし(そもそも今日は閉まっている)、どこで食べるのだろうと思っていると、私のような一般文官は一生縁が無いであろう場所へと案内された。
「あの、もしかして、ここって」
「俺の部屋だ」
左大臣閣下が城内に賜っている専用私室。
どえらい所に来てしまったと我が身の浅慮を呪ったが、既に後の祭りだった。
とりあえず着替えてくるからお前は待て、と言われ、私は、広すぎる部屋の大きすぎるソファの上に所在無げに腰かけて、隣室に消えた閣下が戻られるのを待っていた。
お部屋に招待されたときは驚いたが、よく考えればこんな機会は滅多にない。この私室はメルトレファス公爵個人ではなく、歴代の左大臣閣下に貸与されてきた部屋なのだ。
どんなに高貴な生まれの者でも、左大臣という役職に就くだけの器量が無ければ、つまりこの部屋には入れない。それを見学できるなんて、私のような下っ端役人にはまたとない僥倖である。
年月を経た家具類は落ち着いた濃褐色でまとめられ、みな使い込まれてしっとりと重厚に輝いていた。それとは対照的にカーテンなどの布類は真新しく、ぴんと張りがあり、手入れが行き届いているのがわかる。
思ったのは、ほとんど私物が持ち込まれていないという事。
ここが来客者を一番先に迎え入れる部屋だからかもしれない。完璧に整えられてはいるけれど……何というか、生活感がない。
それにしても。
「遅いな、閣下……」
部屋の中をじっくりと見物し終わっても、まだ戻られる気配がない。ただの着替えにこんなに時間がかかるものだろうか。そういえば、閣下は昨日……というか今日、執務室にほとんど泊まり込みだったのだ。もしや、疲労困憊のあまり具合が悪くなって倒れているとか……。
考えだしたらきりがない。ある意味、ここは密室だ。こんな所で倒れたらそれこそ誰も来てくれない!
私は大慌てで隣室の扉を開けた。
隣の部屋は、居間とは違い、生活感があった。机に、書棚。それに大きなベッド。脱いだ服が、そのベッドの上に無造作に放り出されてある。閣下の姿は無い。
もう一つ、さらに奥に扉があった。そこか!
「閣下、大丈夫ですかっ!?」
蹴破らん勢いで扉を開けた。
「!?」
閣下はいらっしゃった。倒れてはいなかった。
が、そのお姿を見た途端、別の意味で私の思考回路は完全に停止した。
一番奥の部屋は、浴室になっていたのだ。ちょうど入浴を終えたばかりらしく、閣下は裸で、腰に大判のタオルを巻いているだけの状態だった。濡れた黒髪から、ぽたぽたと滴が垂れ落ちていて、これがまたとてつもなく艶っぽい。まさに水も滴るいい男である。……いや感心している場合ではない。
「申し訳ございません。大変失礼いたしました」
と、冷静に、かつ迅速に、退出すべきなのはわかる。が、私の視線は、その時、閣下の右上腕部から右肩にかけて残る大きな傷に、釘付けになっていた。
「その、傷……どう、されたのですか」
何針も縫うような大怪我だったに違いない。
肌の上を走る白い筋の痕。ところどころ、色素沈着を起こしてしまったのか、痣のようになってしまっている。
「昔……ちょっとな」
「ごめんなさい……」
閣下がぎょっとしたように私を見た。私も自分で自分に驚いて目を丸くした。
今、私は何に対して謝ったのだろう? 醜い傷跡を見てしまったことに対して? いや違う。もっと、別の。何度謝罪しても足りないくらい、大きな。
大きすぎる……私の過ち。
お兄ちゃん。
お兄ちゃん死んじゃうよ。
こんなに血が……。
大丈夫だ。
大したことない。
それよりも……。
お前に怪我がなくてよかった。
「マリー!」
いつになく強い閣下の口調に、びくりと肩が竦み上がった。
また何かを思い出しかけて、魂が体から抜けたような顔をしていたのかもしれない。私の目が焦点を結ぶと、閣下は見るからにほっとした様子で相好を崩された。
「ところで、マリー」
「はい」
「そろそろ服を着たいのだが」
「……あ」
私は脱兎のごとく逃げ出した。
閣下の居室そのものからも消え去りたい衝動にかられたが、朝食をご一緒するという約束が、かろうじてその場に私を押し留めた。
ああ、もう。穴があったら入りたい。というか、地中深く永遠に埋もれてしまいたい。
よりにもよって風呂上りの場面に遭遇なんて、どんな冗談だ。神様の悪戯にしてもタチが悪い。いや、ちゃんと確かめなかった私が一番悪いのか。
しかし、元をただせば、着替え、なんて言った閣下がいけないと思うのだ(責任転嫁)。初めから風呂と一言添えて下されば、私だって!
「いや、俺は風呂に入って着替えると言ったが……」
閣下はちゃんと教えて下さっていたらしい。
お部屋に招待されて、舞い上がって、私が肝心なところを聞き漏らしていただけだった。……面目ありません。
「正直驚いたが、別にいいさ。減るものでもなし」
「いいえ。減ります。もったいないです。他の方に見せてはいけません」
「……その突っ込みどころの多すぎる台詞に、俺はなんて答えればいいんだ……」
「無視して下さい。気にしないのが一番です。実はまだかなり気が動転しています。今夜夢に出てきそうです。……って、何言ってんですか、私」
「よしわかった、お前の動揺は。少し落ち着け。とりあえず腹ごしらえからだ」
「はい」
間もなく、部屋に朝食が運ばれてきた。
閣下が居室に戻る傍ら、手配していてくれたらしい。
高級官僚の皆様が召し上がっている朝食なんて、初めてだ。さすがに大食堂の質よりも量を重視した料理とは格が違う。
絞りたての果汁が美味しい。パンはふわふわ、贅沢にバターとミルクを使っている味だ。細かなチーズをあえたサラダは新鮮。オムレツの焼き加減がまた絶妙で、口の中に入れた途端に卵の風味が甘く蕩けた。
「……幸せそうだな」
「はい。それはもう。ありがとうございます。素晴らしい朝食のおかげで、今日は一日幸せに過ごせそうです」
「お前の幸せは随分と安上がりなんだな……」
「何を仰います。美味しい食事に幸せを感じるのは人間の基本です。真理です。閣下も一緒に幸せを満喫しましょう。あー、生きてて良かった」
「……そ、そうだな」
さっきから、閣下はくすくす笑いっぱなしだ。
私、そんなに変な事を言っているだろうか。……言ったか。
食後の珈琲を最後の一滴まで有難く頂いて、小一時間後、私は閣下のお部屋を退室した。
ちなみにこれは余談だが、その日の夜、私は本当に閣下の夢を見た。
それが、もしかして自分は欲求不満なのかと目覚めた後に激しく自己嫌悪に陥るような内容だったことは……木の上の下着事件に続いて墓場まで持っていかねばならない、私だけの秘密である。
どんな夢を見たんだ、マリーさん。
……と思いながら書いていました。




