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十二時。
午前の業務の終了を教える時計塔の鐘の音が、厳かに鳴り響いた。
「とりあえず切りの良いところまで進んだ。マリー、お前は?」
うーん、と伸びをしながらノエルが聞いてくる。私もちょうど目標としていた箇所まで書き終えたところだった。終了! と親指を立ててみせると、同時に、フレデリクがこっちもー! と叫んだ。
下っ端三人、みごと担当分を時間内に終わらせた模様である。モーリス次官だけが相変わらず書面と睨めっこをしながら、しっしっと犬でも追い払うような仕草をした。
「お前らとっとと飯を食ってこい。俺はもう少しこっちを掘り下げてみる」
「手伝いますよ。どこを直すか言って下されば」
次官ひとりに仕事をさせて自分たちはのんびり昼食を楽しむほど、私たちは薄情な部下ではない。が、横から覗き込むと、モーリス次官はひらひらと手を振った。
「手伝ってもらうほどのものでもない。まぁなんだ、十二時ちょうどに行くと食堂が混むから嫌なんだ」
「早く行かないとおすすめ定食がなくなりますよ」
おすすめ定食は、一日二十食限定の人気メニューである。真偽の程は定かではないが、噂によると高級官僚の皆様が召し上がっている食事と一部の料理が同じになるらしい。
豚ばら肉が牛のサーロインに化けたりするので、食欲旺盛な若人たちは多少無理をしてでも取りに行く。ノエルとフレデリクもそうだ。書記官は業務量が多い上に仕事部屋が食堂から遠いので、勝率は惨憺たる有様となっているが。
「激混みを我慢しておすすめ定食を食うくらいなら、俺は空いている中でゆっくりと日替わり定食を堪能したい」
……そのおすすめ定食も、人込み嫌いのモーリス次官の興味を引くには至らなかった模様である。
ちなみにこの次官、食にも全く拘りを持たないタチらしく、一日三食、一週間、トルテラだけで過ごすようなとんでもない御仁でもある。腹が膨れれば何でもいいと言ったって、限度ってものがあるだろうに。
こういう人にこそお嫁さんが必要だと思うのだが、実際には最年少のフレデリクが婚約者持ちなのだから、人生って上手くいかない。
いい男だと思うんだけどなぁ、うちの次官。仕事は出来るし面倒見も良い(怒ると怖いけど)。軍人あがりのためか優雅さは無いが、貴族には珍しく野性的な雰囲気の持ち主で、これはこれでいい味を醸し出している。
……なぜ浮いた噂の一つも無いのだろう。
「なんかオッサンくさいっすよ……次官」
「ふっ。そんな事を言っていられるのも今のうちだ、フレデリク。お前も三十歳を過ぎたらわかる。若い時だけだ。たかが昼飯の定食を並んでまで食いたいと思うのは……!」
妙に納得してしまった。
そうか。もてない理由はこの爺臭さか。
付き合っても、人気の洒落たレストランではなく、近くの鄙びた屋台に引っ張って行かれそうだ。そこで豪快に飲み明かす光景が……。
いや駄目だろう。普通の貴族の令嬢にそれをやったら間違いなく引かれる。
「次官、今日こそはちゃんと食べて下さいよ。またトルテラで済ますなんて止めて下さいよ」
「おー。前向きに検討する」
去り際、振り返ると、次官はもそもそと残り物の湿気ったクッキーを頬張っていた。
今日もまともに食事しない気かもしれない。……不安である。
フェルディナンド城には、そこに仕える人々のため、三か所の大食堂がある。
主な利用者は、私のような一般官僚、各棟の家事全般に携わる侍女、広範囲に配置された下級騎士らである。それよりも身分立場のある方々は、たいがい私室や執務室を持っているので、そこで個別に食べることが多い。
また、侍女や騎士の中でも特殊な者たち、すなわち王族や高位貴族の居住区に仕える彼らは、別に食事をとる棟があり、大食堂に現れることは滅多にない。
現れたら男女ともに大人気の彼らのこと、黄色い声と熱視線が飛び交うのは必至である。なにせ揃いも揃って美男美女ばかりなのだ。侍女はどこぞの姫様かと思うほどに楚々として美しく、騎士らは下手な役者が裸足で逃げ出すほどに格好良い。
声を大にしては言わないが、採用基準に容姿が含まれているのはほぼ間違いない。
偶然でこんなに美形が大量豊作になってたまるか、と、現実主義な私は思うわけである。
「俺とフレデリクで飯を取ってくる。マリー、お前は席の確保!」
「はいよー」
人込みを掻き分けながら二つの人影が消えると、私は素早く四人掛けのテーブルを陣取った。
同じく狙っていたらしい男二人が、えーっという顔をしたが、この熾烈な席取り合戦に情けは無用。遠慮なんぞしていたら立って食べる羽目になりかねない。
だいたい、複数人で来たら、一人は席確保に回るのが常套手段である。食堂に慣れていないんだな、おぬしらは。ふっ。甘い甘い!
恨めしげな男の視線を鉄の意志で跳ね返すと、予想外のところから声を掛けられた。
「おや、マリー殿」
男二人には、さらに連れがいたらしい。最後に現れた人物の顔には見覚えがあった。
「クリストファーさん!?」
なんとまぁ、お隣のマードック青年だ。奇遇ですねぇ、と、私がのんびりと挨拶すると、マードック青年は、手に持っていたお昼ご飯のトレーを私が確保中のテーブルの上に置いた。
「何人ですか?」
「あ……。あと二人です」
「では一つ空いてますね。ご一緒しても?」
「はい」
「お邪魔します」
と、自分の席を確保しつつ、マードック青年は連れの二人を振り返る。
「向こうに二つ席を取っておいたから、お前たちはそこに行け。私の上着を置いておいたから、間違えるなよ」
二人はほっとしたように頷き合うと、嬉しそうに去って行った。クリストファーさんの後輩なのだろうか、あの二人。でも、一人は、彼よりむしろ上に見たような。
「それにしても驚きました。こんな場所で会うなんて。クリストファーさんもお城に仕えていたのですね」
「私は知っていましたよ、マリー殿のことは」
「あはは。そうですか。まぁ、女官僚は少ないから、何かと悪目立ちしますよねぇ」
「私が貴女を知ったのは、まったく別の件ですが……それはおいおいお話ししましょう」
数少ない女性官僚、という肩書以外では、私に目立つ要素は全くないと思うのだが。あまり気にしないことにして、私は別の事をマードック青年に尋ねた。
「クリストファーさんは、どちらにお勤めですか?」
制服の袖の模様(官ごとに線の色と太さが違う)を見れば一発でわかるのだけど、クリストファーさんの上着ははるか向こうの席に置きっぱなしだ。後輩二人の方は単に見そびれた。別荘がお隣さんなら、仕事場もお隣さんだったら面白いなぁ、と埒もない想像をしていると、思わぬ答えが返ってきた。
「私は外務官です。担当はクヴェトゥシェです」
外務官。
その言葉に、どきりとする。
私は自分の望み通り官僚となったが、実は希望していたのは書記官ではなかった。学院で学んだ語学を生かそうと、最初に申し込んだのは外務官だったのだ。
結果は惨敗。あっさりふられた。奇跡的に書記官として拾ってもらえて、それなりに今の仕事を楽しんではいるが、時々、胸の奥に押し込んだはずの憧憬の念が頭をもたげる。
しかもクヴェトゥシェ。
私が外国語で選んだのは、この国だ。
いいなぁ……。
「あの、ご迷惑でなければ、外務官のお仕事のこととか、クヴェトゥシェの使節団のこととか、お伺いしても?」
「秘匿事項もあるので、全てというわけにはいきませんが、可能な範囲でお答えしますよ。何なりとお聞きください」
「うわー。ありがとうございます!」
ちょうどその時、三人分の食事を持って、ノエルとフレデリクが戻ってきた。
自分たちのテーブルに見知らぬ人間が座っているのに一瞬面食らったようだったが、押すな押すなのこの状況、相席になったのだとすぐにわかったらしく、二人とも愛想よく微笑んだ。
「はじめまして。ノエル・フランツ・ガードナーです。マリーの知り合いでしたか」
「フレデリク・ロイク・レーデンバッハです。外務官の棟は遠いのに、ここで食事とは珍しいっすね」
さぁ楽しい食事の時間だと思ったのも束の間、いつもはよく喋るはずのノエルとフレデリクが無言である。
クリストファーさんの方も、特に二人に対して親睦を深めようとの意は見受けられず、これまた貝のように黙々と食べていた。
なんだ。この葬式のような雰囲気は。
私一人で話題をもたせろと!? それでなくとも食べるのが遅い私にその役目を押し付けるか。なんて理不尽な……!
「マリー先輩、人参嫌いですよね。俺が食べますよ」
唐突に、フレデリクが私の皿から人参のグラッセを浚っていった。
確かに私は人参が好きではないが、食べられないというほどでもない。というか、クリストファーさんがいる前で止めてほしい。ほとんど初対面の人間に、わざわざ食べ物の好き嫌いを暴露しないでもいいだろうに。この馬鹿後輩……!
「マリー、お前これ好きだろ。やる」
今度はノエルが私のトレーの上に林檎のコンポートを置いた。
いや確かに好きだけど。大好きだけどね! 密かにどっちかくれないかなぁ、なんて考えていたけどね!
だからクリストファーさんの目の前でやるんじゃないと……!
「可愛がられてますねぇ……。マリー殿」
ええ、それはもう。遠くの森の珍獣ですから。
食べ終えたクリストファーさんが、自分のトレーを持って立ち上がった。
にっこりと、それはそれは優しげな微笑を浮かべつつ、
「外務官の仕事に興味がおありとは嬉しい限りです。今度またお話ししましょう。……二人きりで」
「あ、はい。ありがとうございます」
同僚二人がぎょっとしたようにこちらを見た。
だから何なんだ、その反応。
「ああ、それと。クリスでいいですよ。少々長い名前なので、皆そう呼びます」
うちの兄と同じか。無駄に凝った名前というのも大変そうだ。私は単純明快にマリーで良かったと思う。
「ではまた、マリー殿」
「はい、クリスさん」
去って行く後姿を見送った後、再び食事に取り掛かると、先程の沈黙が嘘のように二人とも喋り始めた。
「なんすか、あいつ。感じ悪っ……!」
「マリー、外務官がいいのか!? 書記官の方がいいぞ絶対! 俺らの作った文書はそのまま歴史の一部として書館に残るんだからな!」
「はいはい。少し静かに食べようねー」
外務官に憧れていたのは昔の話だ。
いや、今も、興味が全くないと言えば嘘になるけど……例えば外務官に来ないかと誘われたとしても、私はきっと断るだろう。
書記官の仕事が好きだから……もある。
でも、一番の理由は……。
「私は左大臣閣下に誠心誠意お仕えすることにしたの。外務官は右大臣閣下の管轄でしょ。だから書記官の方がいい」
メルトレファス公爵様が左大臣閣下でいる限り、私はずっとここにいる。
ただの机の拭き掃除係だけど。
それでも、少しでもお役に立てることがあれば、私はそれだけで嬉しいんだ。




