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Alexandrite  作者: 宮原 ソラ
本編
1/39


 私の名はマリー・エメリア・ピアソン。

 フェルディナンド王国に三万はいるとされる貴族階級の、末端にして最下層、吹けば空の彼方までも飛んでいきそうな超弱小伯爵家の長女である。

 伯爵なら弱小でないと思ったそこの貴方は聡い方だ。我が家にも飛ぶ鳥を落とす勢いの時代があった。二百年も前の話だ。初代当主レスターのもとに、恐れ多くも時の第二王女殿下が降嫁されたのである。

 もともとレスターは貴族ではなかった。城を守るしがない一兵卒でしかなかった。それが、二百年前、第二王女殿下の巡礼の旅に同行し、暴漢に襲われた王女殿下をみごとお救い申し上げたのだ。

 家禄によると、レスターはいわゆる脳筋であったらしい。くそ難しい陰謀とか駆け引き等には全く役に立たない男であったが、腕力と体力だけはあった。敵を次々と屠ったその雄姿に、王女殿下は一目惚れされたということだ。彼と一緒になれないなら死にますとまで宣って、王と王妃とついでに婚約していた隣国の王子殿下までも巻き込んで、大波乱の末、ついに降嫁することに成功した。

 それにしても、お姫様という生き物は、古今東西、自分勝手に出来ているものである。何たる大迷惑な嫁入り騒動……いや失礼、情熱的な恋物語であろうか。

 まぁ、ともかく。

 さすがに一兵卒のままでは拙かろうと、レスターには伯爵位が与えられた。小さいものの、領土も手にした。ピアソン伯爵家の誕生である。


 それが、なぜ、弱小かって?


 ふ。考えてもみたまえ。脳筋当主と、我儘王女の組み合わせから、聡い子孫が生まれるとお思いか?

 答えは否だ。無理だ。不可能だ。

 二百年の間に、ピアソン家は領地を手放し、家財を売り払い、それはもうわかりやすく、栄華の坂道を転げ落ちて行った。

 今や、ただ一人の令嬢を社交界にデビューさせる金もないほどである。住む家も無かったので、二百年後のピアソン伯爵は、親戚の別荘を格安で間借りしていた。おいおい本当に貴族かよと突っ込みを入れられても仕方ない有様だ。いやむしろ突っ込んでほしいと思う。


 しかも、その令嬢は、すこぶる変わり者だった……これは他ならぬ私のことなのだが。


 令嬢は、社交界デビューできない我が身を嘆くどころか喜んだ。いやだって、無駄な金を使いたくなかったし。

 それよりも、いつ別荘を追い出されてもいいように、地に足の付いた安定職に就きたかった。それは私だけではなく兄も同じだったようである。

 売れない画家の父のようになってはいけない。私たち兄妹の心は一つになった。なけなしの金を訳の分からない絵画に注ぎ込もうとする父を止め、投資だと思って子供たちに使えと諭し続けた。

 幼い子供らしくない根回しが功を奏したのか、父は私たち兄妹にも大枚を叩くようになっていた。十分すぎるほどに高等な教育を施された私たちは、兄は王立学院の助教授に、私は左大臣付の書記補佐官……つまり官僚になった。

 我が国に男尊女卑の考えはないが、それでもやはり女性の文官登用は極めて珍しい。

 高貴な女性は美しく着飾って三高の男性陣に嫁ぐものと相場が決まっているし、低い身分の女はそもそもまともな教育を受けられないので、力仕事くらいしか出来る事がない。一応伯爵令嬢という身分でありながら、官僚なんぞやっている私は異例中の異例というわけである。

 生意気な女だと風当たりの強さを覚悟して入った私に、同僚たちは思いのほか優しかった。

 単純に物珍しかったのである。言うなれば、遠くの森の珍獣である。例えば同期のノエルは、私によく飴をくれる。すぐ上の上司のモーリス書記次官は、たびたびお昼ご飯を奢ってくれる。ただ一人の後輩フレデリクは、私が書類の作成をやっていると何処からともなく現れて手伝ってくれる。

 素晴らしきかな、官僚生活!

 私は一生ここに骨を埋める所存である。え? 結婚? 何それおいしいの?


 マリー・エメリア・ピアソン。二十四歳独身。左大臣付王宮文官。乙女心は既にない。


 私は、今の生活にたいそう満足している。同僚にも上司にも恵まれた。一番上の上司である左大臣ディオフランシス侯爵閣下は、遥か彼方の殿上人のため滅多にお姿を拝見することはないのだが、ちらりと見た限りでは優しそうな好々爺であった。女でありながら官僚を希望した壮絶変わり者の私を自分の配下に拾い上げてくれたのだから、海のように御心の広い方に決まっている。ありがとう、侯爵閣下!

 

「ディオフランシス侯爵閣下が、退官されるそうだ」


 日頃の感謝を述べる機会もないままに、ある日突然、海のように御心の広い閣下は、私たちにさようならを告げられた。

 モーリス次官の言葉に、私はしばし呆然とする。


「新しい左大臣は、メルトレファス公爵閣下に決まったとか」

「メルトレファス公爵……? それはまた随分と……」


 私の記憶の中の人事録によると、メルトレファス公爵閣下は、三十歳にも満たない若造……げふんげふん……お若い方のはずだ。左大臣をやるにはいささか頼りない気が……。

 左大臣は、右大臣とともに執政官の頂点に立つお方である。毎日のように山と送られてくる案件を迅速かつ正確に判断決済し、王への報告と部下への命令を同時にこなし、時には影の諜報武官など使って直々に悪者を裁くという……大丈夫なのか、二十代後半でそんな事できるのか。他人事ながら心配になってしまう。


「メルトレファス公爵閣下は、お若いながら切れ者と評判だ。それでも、もし経験不足のところがお有りなら、我々がしっかりと支えて差し上げればよい」


 モーリス次官は、本当に部下の鑑だと思う。

 

「そうですね。僭越ながら私も力の限りを尽くさせていただきます」


 誰が上になろうと、私のお役目は変わらない。

 日々淡々と、完璧に、業務をこなすだけである。


 が、しかし。

 新たな左大臣就任の挨拶まであと二日と迫ったある日、事件は起こった。






 麗らかな日差しが眠気を誘う、初夏の午後のことだった。

 日差しは麗らかなのだが、風は妙に強かった。髪留めと三つ編みと整髪料できっちりと纏め上げた私のひっつめ頭ですら、時々横から吹き付ける突風に、ぼろっと崩れてしまいそうになる。美しく装った貴婦人ともなれば、なおさらだ。

 長いスカートが、ばふんばふんとはためいていた。長い髪はそれ以上にもちゃもちゃに棚引いていた。それでも彼女は悲しそうな顔つきで、中庭の一角に佇んでいた。

 私が昼ご飯を食べに行く途中、彼女は既にそこにいた。私が昼ご飯を食べ終えて帰る時にも、そこにいた。

 おーい。何やってんですか。


「実は、その……洗濯物が、あんな所に引っかかってしまって」


 彼女が指す方向を見れば、中庭に生えた一番大きな木の枝に、何やら白いものが引っかかっている。

 風が強いからね……飛ばされたんだね。


「付近にいる兵士に頼んで、取ってもらいましょうか」

「いえ、駄目です。それだけは!」

 まだ少女のようなあどけなさを残す貴婦人は、真っ青になって否定した。木に登るであろう誰かの身を案じているのだろうか。

 うちの城に限らず、兵士などという職業をあえて選んだ男たちは、ほぼ例外なく脳筋である。そしてこれは私の偏見だが、脳筋男子は頭脳労働職よりはるかに体が頑丈に出来ているはずである。大丈夫。木から落ちたくらいでは死なない。絶対に。

「いえ、違うのです。そのぅ……あれは、下着なのです」

「……下着」

「はい。あ、私のものではありませんよ! 私の侍女のものなのです」

 ならば何故、当の持ち主本人である侍女がその場にいないのか。私の顔に浮かんだ疑問符に答えるように、貴婦人は顔を曇らせた。

「それが、そのうち落ちるだろうから、別にいいと。万が一落ちた下着を、その、殿方に拾われても、別に気にしないと」

 なかなか剛毅な侍女のようだ。彼女がこの場にいないのがむしろ残念なほどである。良い友達になれそうな気がするのだが……。

 しかし、侍女が気にせず、侍女が仕える令嬢が気にするというのも、妙な具合だ。ここはひとつ私が一肌脱ぐしかないだろう。

「わかりました。私が取ってきますよ」

「え。いえ。危ないです」

「ご心配なく。刺繍よりダンスより、木登りの方が得意です」

 言うが早いか、私はするすると木に登る。

 令嬢を心配させまいとする心遣いなどではなく、私は本当に木登りが得意だった。家が貧乏だったから、木の実は貴重な食料だったのだ。

 ……ああ、思い出す。隣の敷地の林檎を毎年のように掠め取っていた幼き日々。そして隣の家の少年に怒鳴られながら追い回された懐かしき日々。文字通り甘酸っぱい思い出だ。


「うん。この木に登ったのは初めてだけど。なかなかいい眺めだな」


 無事下着を摑まえ、幹と枝の間に体を挟め、私は目を細めた。風の強さが、かえって心地良いほどだった。


「あ、危ないです。早く降りてきてください」


 美しいレディが私の身を案じてくれている。もう少し風に吹かれていたい気もしたが、彼女にいつまでも私と下着(妙に布地の少ないパンツだった)の両方の心配をさせておくのも気の毒だ。

 私はまたするすると幹を降り始めた。無事地面に着地すると、貴婦人の隣に、厳めしい顔つきをした若い男が立っていた。

 何ですか、あなたは。これじゃパンツ返せないじゃないですか。早くどこか行ってほしいんですけど。


「……何をしている」


 男が言った。

 私は咄嗟にパンツを後ろ手に隠した。やばい。よく見たら目の潰れそうな美形だった。

 貴婦人が顔を真っ赤にして俯いている。自分のものではないとはいえ、美形に下着を見られるという事態は恥ずかしいらしい。それは私も同じだった。というか、この状態でパンツ出したら、私のものと思われるじゃないですか。濡れ衣だよ、やだー。


「その制服……書記官か。女の書記官が一人いると聞いてはいたが……。なるほど、お前か」


 勤務中だから、当然私は制服姿である。しかも女の書記官は今のところ一人しかいないので、私が誰かなんて丸わかりである。というか、あんた誰?

 威張りくさって感じの悪い男だ。きっとその美しい花の(かんばせ)で、人生のらりくらりと苦労もせずに遊び抜いてきたお坊ちゃんに違いない。私を散々追い回してくれた隣のくそ餓鬼になんとなく似ているのも、大いに勘に障った。


「何を隠した?」

「何でもありません」

「何でもないかどうかは私が判断する。さっさと見せろ」

「いえ、お見せするようなものでは」


 出せ、と、男は私の方に手を差し出した。

 重要文書を私が盗んだとでも思っているのだろうか。とんでもない冤罪である。何だかむかっ腹が立ってきた。そうか、そんなに見たいのか。ならば見るがいい! 私は後ろ手に隠していた「それ」を、思いっきり両手で広げて、男に向かって突き出した。


「わかりましたよ。どうぞ!」

 

 しん、と、あたりが静まり返る。

 令嬢が顔を覆った。貴女の下着ではないのだから、いいじゃないか。私の方が恥ずかしい。というか、この男、少しは空気読めよ! 察しろよ!

 長身の美丈夫の真ん前に、パンツを広げた文官姿の女が一人。

 異様な光景は、幸いなことに、五秒ほどしか続かなかった。意外に早い立ち直りを見せた美青年は、表面だけは冷静を装いつつ、言った。


「……もういい。しまえ」


「……はい」

 私はパンツを仕舞った。どこにもやり場がないので、仕方なく自分の懐に。

 これで私の下着だったと確定されただろう……乙女心はとっくの昔に捨てたけど、羞恥心なるものは私の中でもまだ立派に息づいている。

 この記憶は抹消しよう。そうしよう。愛らしいご令嬢も、こ憎たらしいこの男も、きっと一刻も早く忘れたいに違いない。


「マリー・エメリア・ピアソンだったな。お前のことは覚えておくぞ」


 覚えておくのかい。とっとと忘れた方が互いのためだろうに。


「私は一刻も早く忘れたいのでお名前は伺いません。それでは失礼いたします」


 返しそびれた拾い物を懐に忍ばせたまま、私は去った。

 男はともかく、令嬢の名は聞いておくべきだったと十分後に後悔したが、後の祭りだった。






 それから二日後、新しい左大臣が着任された。

 着任式には書記次官以上の者が招集された。私は下っ端のため通常業務である。モーリス次官が戻ってきたら、下っ端全員で執務室にご挨拶に伺おうと話し合っていた。


「お前たち! 大変だ。左大臣閣下がここにお見えになるそうだ!」


 モーリス次官が戻ってきた。血相を変えて。

「はい? 左大臣様? 変じゃないですか、それ。行くのは俺たちの方ですよね?」

 ノエルが当然のことを聞く。そりゃそうだ。どこの世界にこんな下々の仕事場に足を運ぶ公爵閣下がおられるというのだ。大臣様は自分の広すぎる執務室で悠々と部下が来るのを待っていれば良いではないか。

「それが、下の仕事場も見ておきたいと仰られて。いやぁ焦った。あんな腰の軽い大臣閣下は初めてだ」

「うえぇぇぇ! まじですか、それ!」

「フレデリク! お前机の上汚すぎ! 掃除しろ掃除!」

 モーリス次官が叫ぶ。

「私はごみを捨ててくるから! ちょっと! そのお菓子の籠しまいなさい!」

 がしっ、と塵が溢れ出していた屑籠を掴んだ途端、何の前触れもなく、仕事場の扉が開いた。

 同時に、高すぎず低すぎず、耳に心地よい……そしてごく最近聞いた、声。


「よい。私はいつもの様子が見たいのだ。慌てて片付ける必要はない」


 私は屑籠を放り投げた。落としたのではない。驚きすぎて文字通り投げ飛ばしたのである。

 くしゃくしゃに丸めた紙類や、使い物にならなくなったペン先や、お菓子の屑が、よりにもよって、来客者の足元に散らばった。

 ひぃぃぃ!!!


「相変わらずだな、マリー・ピアソン」


 そこには、私が綺麗さっぱり脳から抹消しようとしていたあの男が立っていた。

 いや嘘ですよね? そんなはずないよね? 何かの間違いだよね? ……現実を否定しようとしていた私の背後から、モーリス次官の無情な声が響く。


「左大臣閣下……! お見苦しいところをお目にかけました。誠に申し訳ございません!」


 ああ……嘘でも間違いでもなかった。

 これが現実。なんて現実。


 二日前、私がヤケクソでパンツを見せつけたあの男こそ、私の最上位の上司、メルトレファス公爵閣下その人だった。




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