変貌する世界Ⅱ
長い渋滞が続く道路。神楽坂と山田の乗る車は、その渋滞の列に身動きが取れなくなり、
焦る気持ちを抑えつつラジオの放送に耳を傾けていた。
番組の途中に飛び込んでくるニュース――それには大変な事故が起きているとの情報が流れてくるのだが、何が原因で起きているのか重要な部分が曖昧なままであった。
倒れている大勢の人。現場となる場所から命辛々で逃げ出してきた人達は、気が動転して平静を失った者ばかりである。
その者達の口から出る言葉は、突拍子もない物ばかりで、真偽の確かでない内容であった。
「車は失敗したわね。渋滞で車が全く動かないなんて……この距離なら車を乗り捨てて、走って行った方が速いかしら?」
「ねぇ、神楽坂先輩。街に居る人達は避難しなくて大丈夫なんですかねぇ? なんか、大勢の人達が倒れているってラジオで言っていますけど……」
車窓から見える景色は至って平穏であった。
愛犬を連れて散歩する人。友人と喋りながら歩く女子高生の姿。事件の事など何も知らないかのように皆平然としている。
彼らが事件に無関心なのか、起きている事件を全く知らないのかは分からない。だが、歩道を歩く者に、恐れや不安の表情は一切見られなかった。
「何が起きているのかさえも分かっていない
ようね。隣街で大惨事が起きているというのに……」
「人なんて冷たい物ですよ。自分に実害が無ければ関係無いというのが殆どでしょうし……」
「……本当は私達も逃げなければいけないのかもね……」
「嫌だなーっ、神楽坂先輩驚かさないでくださいよ。こんな時に冗談は無しっすよ……」
山田の表情が引き攣る。神楽坂が真剣な目をしていたからだ。
突然、街に聞きなれないサイレンの音が鳴り響いた。街を歩く誰もが振り向くような大きな音である。
「こちらは千代田区の防災行政無線です……
屋外は危険です……屋内に入るか、直ちに指定の避難場所への避難をお願いします…………繰り返します……」
それは区役所の防災行政無線による避難勧告を知らせる警報であった。
神楽坂と山田は車から降りた。
街中をこだまするように響く防災無線。誰もが自分の耳を疑った。
突然の避難勧告を聞いても何かの間違いとしか思えない。そんな事はある筈が無いと、頭の中で否定してしまうからだ。
そもそも、理由も分からずに避難勧告の指示に従う者のほうが稀である。誰もが、その場に立ち尽くしオロオロするばかりであった。
「おい……何だよ、この放送は……」
「避難しろと言ったって、避難場所は何処なんだよ?」
「何が起きたの? 何で逃げないと駄目なの?」
人々は困惑した。防災無線の情報を信じて良いものか分からず、不安だけが増した。
「神楽坂先輩……どうします? 避難しろって言ってますけど……」
「走るわよ山田」
「えっ? 走るって……まさか」
「そうよ、何が起きているのか、私達の目で確かめるのよ」
「えーーー!? やっぱりぃぃぃ……」
二人は車を乗り捨て、異変が起きている現場に向かって走り出した。
「神楽坂先輩、やっぱりやめましょうよ……危険ですよ絶対……避難勧告も出ているじゃないですか」
「煩い山田、あなたは何が起こっているのか知りたくないの? そんな事でよく記者が務まるわね」
「ですけどぉぉぉ……避難勧告が出ているじゃないですかぁー」
「黙って走りなさい。あなたは、プロのカメラマンとして、スクープを物にしたいと思わないわけ?」
「いや、自分の場合、安全第一っスから……」
「ったく、だらしないわね。あなたも男なんでしょ?」
「そんな事言ったって、恐いものは恐いんですよ」
神楽坂と山田の二人は走り続けた。避難勧告が出るというのは、それ相応の理由があるからである。事件現場で大勢の人が倒れていること事態が異常であるのに、今度は街の住人の避難誘導である。危険が無い筈がなかった。
「あーーーっ、先輩アレ見て下さいよ!! アレを……」
「今度は何よ? 何が見えたと言うのよ?」
「ほらっ、空に何か飛んでる……しかも、あんなに群れて」
「空? 鳥でも飛んでいるんでしょうに……」
神楽坂は足を止めて、山田が指差す方向を見詰めた。
「でも、あの数……尋常じゃないっスよ? 凄く不気味なんスけど……」
「鳥……なの? なんて数……空を埋め尽くして真っ黒になっているじゃない……」
空を埋め尽くす鳥。遠目に見ても、カラスとは形が違う別の種であることが分かる。だが、それが何であるかまでは分からない。見たこともない形をした鳥であった。
「やっぱり、やめましょうよ先輩。嫌な予感しかしませんよーぉ」
「ここまで来て何を言っているのよ。現場は、すぐそこなのよ。何も確かめないまま帰れるわけないでしょ?」
「でもーぉ……」
「シッ、黙って山田……今、何か聞こえなかった?」
「聞こえるって、何がです?」
「叫び声のような……」
耳を澄ます二人。その音は段々と近くなり、それが人の走る音だと分かるのに、大して時間は掛からなかった。
前方から走ってくる大勢の人達。何かに追われ、逃げているみたいだ。
「えっ!? えっ!? えっ!? 何事?」
「おい、あんた達も逃げろ。この先は危険だ!!」
走っている群集の中で、一人の男が神楽坂達に声を掛けた。
「えっ!? 危険って、一体何があったんですか? 何で、そんなに慌てているのですか?」
「怪物だよ、怪物。でっかい怪物が現れたんだ!!」
「何ですって!? 怪物……?」
神楽坂と山田は、二人して顔を見合わせた。
「あんた達も早く逃た方が良い。ここは危険だ」
そう言って、男は走って逃げ出した。
「先輩……怪物だって……」
周囲の人々の表情は真剣だ。必死で『怪物』
と呼ばれていものから逃げているのだ。
「神楽坂先輩……聞こえてますか? 逃げないと僕達も危険ですよ」
「怪物って何よ。この現代社会に、そんなものが居る筈無いでしょ?」
「でも、この逃げている人達は、その怪物に追われているんですよ?」
その時、二発の銃声が二人の会話を遮った。
『パーン……パーン……』
二人は音のした方向を反射的に振り向く。
建物の陰から、二人の警官が姿を現した。このうちの一人が銃を発砲したのだ。
彼らに続いて、巨大な物体が姿を現した。
象よりも遥かに大きいトカゲ。まるで現代に蘇った恐竜である。
黒光りする鱗に、黄色やオレンジの派手な警戒色。顔つきもトカゲと言うよりはドラゴンのイメージに近い。正しく『怪物』である。
「神楽坂先輩……あれ何ですか? 僕、夢でも見ているんですか?」
「嘘っ……何よあれ……あんな生物が居るはずが無いわ。怪獣映画じゃあるまいし、あんな恐竜みたいな怪物が居てたまるもんですか」
巨大な怪物は頬を膨らますと、球状の無数の黒い物体を吐き出した。
その黒い球状の物体は逃げ惑う人々の頭の上からバラバラと降り注いだ。
その物体はドロドロしたゼリーのように柔らかい物体であり、その一つ一つが意志を持っているかのように、人間をガッチリと捕らえて離さない。
藻掻き苦しむ人々。やがて力尽きて、その場に崩れるように倒れ、動かなくなった。
「山田、こっちよ!! 早く」
「はひっ。うわぁぁぁ……」
神楽坂と山田の二人は、咄嗟に車の陰に身を隠し、怪物の攻撃をやり過ごした。
「先輩、何なんっスかあれ……あれが今回の大惨事の原因ですか?」
山田は震える手でカメラのシャッターボタンを押した。
「あれが何かは分からない。けれど、完全に無関係とは思えないわね」
いつの間にか悲鳴は止んでいた。苦しみ藻掻いていた人の動きは止まり、死んだようにピクリとも動かない。
あれだけ居た人達が、全てやられてしまったようだ。
巨大なトカゲの怪物は、新たな獲物を求めて移動を始めた。
息を殺し、車の陰に隠れていた神楽坂と山田の二人は、九死に一生を得た。
「ふーっ、助かったぁ……あの怪物、向こうに行っちゃいましたよ」
「もう大丈夫ね。行くわよ山田」
神楽坂は倒れている人達に駆け寄った。
「あっ、待って下さいよ、神楽坂先輩!!」
二人は、倒れている人の姿を恐る恐る覗き込んだ。
体に取り付いていた黒い物体は、まるで人間の体に融合するかのように、スッと中へ入って行った。
「黒い物体が体の中に……まさか、病院に担ぎ込まれていた昏睡状態の患者達も、この人達と同じ目に遭っていたんじゃないかしら……」
「神楽坂先輩……」
神楽坂はジッと考える。今まで追ってきた物が、全て繋がったような気がした。
「全ては、あの空に一筋の亀裂が走った日から始まった。あの空にある物は、雲でなくて何処か別の世界に繋がっている空間の裂け目。
怪物は、全てあそこからやって来たものだとしたら……」
「そんな馬鹿なぁー、いくらなんでも、そんな事が……」
「じゃ、あなたが今見た怪物は、何処からやって来たと言うの?」
「それは…………」
「いい? 目の前に現れた怪物は、この世界に居る筈の無い化け物。今までの常識など全て捨てなさい。相手は、この世界の生物でなく、別の種かもしれないのだから」
山田には彼女の考えを否定することは出来なかった。今、正に信じられないような光景を目の当たりにしたからである。
「それじゃ神楽坂先輩……あの空を舞うように飛んでいる鳥が、あの怪物の仲間だとしたら……」
「世界は大変な事になる。想像も及ばない程に……」
神楽坂は倒れている警察官の横に腰を下ろし、ゴソゴソと弄り始めた。
「先輩、何をしているんですか……?」
「護身用に拳銃を頂くのよ」
「えー、そりゃ幾ら何でもマズイでしょ」
「山田、あなた、さっきみたいな化け物が現れたらどうやって身を守るつもり? まぁ、こんな物が役に立つとも思えないけど、それでも気休めくらいにはなるわよ」
神楽坂は警察官が所持していた38口径リボルバータイプの拳銃を手に入れ、自分のポケットにそっと収めた。