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短編

幸福と堕落

作者: 暇 隣人






 怠惰は人の心を腐らせるんだとよく言うけれど、そもそも心というものが何らかの形で生きている限り、当たり前の話、それは必ず、多少なりとも堕落する方向へと進むはずだし、むしろそうでないことの方がおかしいわけであって、怠惰という感情はいわば、その堕落へのベクトルをゆるやかに増大させて、腐敗していく感情の不安そうな背中をそっと奈落へと押してやるような、そういうおせっかいなスイッチ的機能なわけだ。

 僕は今土の中にいる。詳しく言うと棺の中にいる。

 いや、もちろんまだ死んではいない。堂々と棺に入っているご身分の癖に「まだ死んでない」というのはなんともいたたまれない気持ちになるが、事実そうなのだから仕方がない。穴があったら入りたいほど恥ずかしい思いをした覚えも特にない。

 なぜ埋まっているのかというと、埋められたから。

 かまくらの中は意外と暖かいという話を聞いたことがある。友人から初めてその話を聞いた時は結構驚いたものだった。今なら友人に胸を張って言えることがある。土の中も、割と暖かいよ。

 閑話休題。

 埋められた理由は、僕もわからない。もしかすると、ほんの弾みだったのかもしれない。あ、ちょっと誰か埋めてみようかな? と、傑作ないたずらを思いついてにやりと笑う子供みたいな感性の大人が、たまたまタイミングよく見かけた僕をちょっとした気の弾みで埋めただけ……なのかも。

 すでにわかったと思うが、誰が僕を埋めたのか、僕にはまったくわからない。

 どうしたものか、というより、どうしようもないなぁ、である。

 一応、犯人にも多少の心遣いがあったのか、細い木の筒が何本か棺の蓋に突き刺さっていて、空気穴の代わりになっている。先端はちゃんと外まで突き出ているらしく、顔の近くの穴から上を見ると、たしかに空らしい青色がかろうじて見える。

 薄いというか、不味いというか、濁りに濁った酸素を肺に吸い込みながら、僕は考えてみる。

 そういえば、前に読んだ小説に、ちょうど今と同じようなシーンがあったなぁ。

 あの後はどうなったんだっけ?

 ……忘れた。

 あぁ、また怠惰か。

 小さいころからの怠け癖が、こんな状況になってもまだ頭を下げないらしい。僕に似て、変に強情な奴だ。

 怠惰は僕の癖だ。生きがい、と言っても過言ではないかもしれない。怠惰を得るために生活し、怠惰を得るために学校へ行き、怠惰を得るために遊んできた。

 怠惰は僕にとってのすべてだ。

 真四角の部屋の中、カーテンを閉めて電気を消して、ベッドに独り腰かける。そしてそのまま、じっと、ただじっとしているだけ。

 雑光もなく、騒音もなく、静かな空気に手でそっと触れて、時計の音に耳を澄まし、漂う睡に意識を託し、呼吸は止めずに、けれど小さく、けれど深く。

 たったそれだけの時間が、紛れもなく僕にとってのライフワーク。

 ……そして、今も。

 少なからず、そんな気分がしている。

 …………。

 ……さあ、これからどうなるんだろ。

 何度か、考えてみたことがある。

 永遠の怠惰について。

 たとえば、僕がかつて、部屋の中で虚無に塗れた退屈な時を過ごしたあの空間が、いつまでもいつまでも、はるか向こうの方まで続いているような場所があるとしたら。

 一番近いんじゃないかと思ったのは、まさしく「死ぬこと」だった。

 幾度か自殺を考えてみたこともある。もちろん、将来に何か大きな不安を感じたからだとか、日常があまりに辛いからだとかいうわけではなかった。僕は至って健康体だし、友達も多少ではあるけれど、いる。まあ、強いて言うなら、自殺しようと決心した僕の精神が明らかに正常だったことが、真の意味での異常だったのかもしれない。

 二回やった。一回目は単純に失敗した。二回目は途中まで成功するはずだったけれど、間一髪のところで(あともう少しのところで)姉に助けてもらった。だから僕はまだ生きている。二回の失敗を経て僕が得たのは、病院は怠惰を貪るのに一番ちょうどいい場所だということだけだった。

 二度の自殺未遂以来、また自殺しようとは考えたこともない。たぶん、二回目に病室で見た姉の泣き顔が相当こたえたんじゃないかと個人的には思っている。

 ……もしここで僕が死んだら、姉はまた泣くんだろうか。

 できることなら、考えたくない。

 ……そういえば、僕は一つだけ、どうも疑問に思っていることがあるのだ。

 死を怖がる姉の顔を見て、どうしてこの人はこんなに怖がっているのだろう、と思ったのである。

 死ぬことはたしかに怖いことではあるけれど、しかしそれが本質的に悪いことなのかと言えば、少なくとも僕は首をかしげたくなる。だって、経験したことがない。他人の死は何回か見てきたけれど、僕は他人じゃないから、他人の死をそのままの形で受け入れることはまず出来ない。

 死は悪いことではない。忌むべきものではない。断言はできないけれど、可能性はゼロじゃない。僕が死のうと思ったのも、死の向こう側にはきっと、恐れおののくほどの怠惰がはびこっているんじゃないかと期待したからだ。期待することは、喜ぶべきことだ。それなのにみんな、避けて、離れて、忘れる。

 よくわからない。たぶん、僕の方がおかしいんだ。姉の悲しみは本物だった。涙に触れた僕には、なんとなく、それがわかる。

 ……額に、冷たさを感じた。

 雨だ。

 筒の中を通って、一滴の雨が棺の中に入ってきたらしい。

 空気が湿り気を帯びていくのがわかる。次第に雨音は強くなり、土に、筒に、激しくぶつかる。また額に雨がかかった。暖かかった土の中は、もうすっかり冷めてしまった。体が寒い気がする。お腹も少し、減ってきた。

 このまま、雨が降り続けば。

 …………。

 僕はゆっくり、目を閉じる。

 あの暗い部屋の中を、怠惰に染まった空気を、思い出す。

 怠惰が僕の身体を襲う。

 内側から、外側から、土を食いあらし、雨を飲み込み。

 棺を破って、僕のもとへと。

 呼吸、呼吸の音だけを、だけを、耳に。

 激しく切なく振動する空気を。

 心に。

 …………。

 …………。

 ……あぁ。

 怠惰だ。

 僕はまだ、ここにいる。

 水たまりに体を浮かべて。

 そうだ、あの小説の最後は、そう……。

 水を飲み込み水を吐き出し……。

 怠惰を感じる。

 溢れんばかりの怠惰。

 決壊しそうなほどの怠惰。

 霞む視界、に……。








 僕は見つけた     。

 死の向こう側を見つけた     。

 音が消えた     。

 呼吸も消えた     。

 泡は弾けた     。

 波は揺れた     。

 僕は生きた     。

 そして   。

 ……はずだった。









 空に映るはいつかの哀。

 触れた涙は乾いていた。

 いつか結んだ契りの一つ。

 いつかあなたに永遠の怠を。

 彼女の顔には笑みしかなくて、

 悲しみなんて何一つなくて、

 三度目ぐらいは望む通りに、

 僕の望んだ想いの通りに。

 水面に映る、僕の顔には、

 僕の顔には、何もなくて。

 何もなくて、それが綺麗で、とても綺麗で、綺麗で、きれいで、きれいで、きれいで、きれいで、きれいで、きれいで、きれいで、きれいで、きれいで、

 それはとても、とても――。








 今なら、まだ、感じる。

 僕はきっと幸福しあわせだ。




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