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赤い冬

寒さが増すにつれ、



街にはクリスマスの飾りがちらほら現れ始めた。




2日ほど前から美香の下腹部に小さな小さな痛みが時々ある。




ほんの少しチクチクと痛み しばらくするとそれは消える。




心配はあったが本当に小さな痛みなので特に何もしなかった。




恵と次のライブがクリスマスだから絶対に行こう




そう話していた土曜日の部活帰りの夕方に




達也から電話がきた。





「美香ちゃん?俺やねんけど めっちゃ寒いやん!どうしてる?」





「はい。もうホンマに寒くて…」




受話器の向こうでは車の音がして達也は公衆電話からかけてきているようだった。





「今度のライブでな、俺らのデモテープ配るねん!来てくれた皆に!」




「え?すごい!!」




「そやろうー。そんでそれが今日できてん!聞きたい?」




「え?」




「今、まあ近くにいんねんけど 車で聞いてみる?」




「え?…」美香は何て言ったらよいか分からなかった。




「いや?」




「ちっ違います。なんかびっくりしてしまって…ごめんなさい」




「聞きたい?」





「はい…」




「ほんなら駐車場まで行くから下降りてきて、あと10分くらいやと思うねんけど いい?」




「はい、下に降りときます」





どうしよう…。



会う約束をしてしまった…。




突然の事で美香は達也が言っていたことさえ忘れそうだった。



あと10分って今、何時やろ?



空腹でなんだか気分も悪く




冷えた台所で雪平鍋に牛乳を注ぎ火にかけた。




元気になれますように…




そんな風に暗示をかけながらコップに熱い牛乳を注ぎ口をつけた。




あっという間に10分が経ち



雪平鍋を洗う時間も、着替える時間もなく



寒さと緊張で震える足を引きずり




コンクリート製のアパートの階段を降りた。




一階に下りると達也の車がちょうど入ってきたところだった。




美香を見つけたので達也は階段の位置に車を横付けして




美香を車内に入れた。




「寒いなあ。もしかして帰ってきたばっかやったん?」




「あっ…なんかお腹すいてて牛乳を温めてたら着替える時間がなくなってしまって…ごめんなさい」




「何でも謝らんでもええねんで。制服も可愛いやん、なあ(笑)」




笑いかける達也を見て美香も笑顔になる。




「お腹すいてんの?ん?」




「………」恥ずかしくて返事が出来なかった。




「俺もなんやちょっと腹減ってんねん。マクド行ってみる?ハンバーガー好き?」




美香はおどおどしながら頷き




「あの、お金取ってきます。待ってて下さい」と早口で言った。




「ええねん、お金はええねん。もう寒いから外出んでもええねん」




「でも………」




達也は答えずに車を発進させた。




「ほな、ちょっと聞いてみー」



そう言いながら達也はカセットテープをデッキの中に押した。




車内にはライブハウスで聞くより幾分もクリアな音が流れる。




弦楽器の音が、ドラムの音が、達也の声が何を歌っているかよく聞こえる。




「ええ感じちゃう?」




「はい!どうやってテープ作ったんですか?」




「これはレコーディングちゅうやつや。小さいスタジオに入って音を取ったねん」




「ホンマにすごい。プロの歌手みたい」




「プロかー。人間なりたいと思ってたら何にでもなれるんちゃうかな、っと俺は思てんねんけど…」





マクドナルドに着くと 美香は達也の後ろについて行った。




マクドナルドに行くのは生まれて初めてで 食べ物の頼み方も分からないので怖かった。




ちょうどその年にチキンナゲットの発売が始まった。




当時はデフレ知らずの好景気に沸いていた日本。



マクドナルドの値段も物価からすれば今ほど手軽ではなかった。




もちろん、あのてり焼きバーガーやアップルパイが発売されるのはもう少し後のこと。




「みかちゃん何食べる?」




「あっあの…達也さんと同じの食べたいです」




達也はカウンターにやや斜めにもたれ掛かり



ハンバーガーのオーダーをする。




「飲み物は?シェイク欲しい?」




美香はシェイクの意味も分からなかった…。




それでも頷いてしまい




あっという間にハンバーガーにポテト飲み物が揃えられる。




達也がトレイを二つ持って空いているテーブルに向かう。




初めて食べるハンバーガーの味は信じられないほど美味しかった。




甘いバニラシェイクにも感激を覚える。




ポテトを全部食べられなかったので達也が残りをきれいに食べた。





「お嬢様、腹はふくれた?(笑)」




「はい(笑)ホンマにごめんなさい。お腹すいたままで来てしまって…恥ずかしい(笑)」




「ええねん、ええねん。素直でよろしいがな(笑)」




すっかり日の暮れた窓に映る美香の横顔は




どことなく切なげに見えて心を奪われずにはいられない…達也はふとそんな気がした。





車に戻ると二人はテープの続きを聞きながら




少しだけドライブを楽しんだ。




そろそろ優君のご飯の支度をしなくては…



冷蔵庫に何があったかな?



弟のことが少しだけ気にかかる。




それでも達也と過ごす時間が夢のようで心に小さな葛藤が生まれる。






達也はあの公園まで来るとそのわきに車を止めた。




「今日はありがとうな」




「いえ、ホンマにこちらこそすいませんでした…



私…私、マクドに行ったのが今日初めてだったんです。ホンマに恥ずかしいけど…」





「なんにも恥ずかしいことあらへん。どうやった?(笑)マクド好きになった?」




「はい、こんな美味しいものがあるなんて今日まで知らへんかった…(笑)」




それは何も知らない美香を本当に愛しいと思った瞬間だった。





達也は突然、押さえられない衝動に駆られた。





そして次の瞬間には美香を運転席のシートへ引き寄せて抱きしめていた。




全ての思いが満たされていくような心地よさを感じ




その心地よさがもっと欲しくて




首を大きく傾けて彼女の唇にそっと自分の唇を重ねた。




美香には何が起こったのか



自分の理解を超える信じられない出来事に



ショックにも似た感情を覚え 言葉を失った。




「ごめん、びっくりしたな。




けど、初めて美香ちゃんを見た日からずっと気になっててん」




沸き上がるよく分からない感情に押されて美香の目からは涙がこぼれた。





「びっくりさせてホンマにごめん」




達也は美香の頭を撫で再び抱きしめた。




美香はおいおいと泣き声を上げながら




「うち、うちは…ホンマにダメなんです。学校でも誰にも好かれてなくて…嫌われ者です」





「なんで?毎日飯作ったり、洗濯して、弟の面倒もみて頑張ってるやん。こんなに性格のええ子は他におらへんわ」





ここ数ヶ月間我慢していた憂鬱な気持ちが堰を(せきを)切ったよう溢れ涙に変わる。





「もしかしていじめられてんの?」




「いじめはないです。でも学校中の人がなぜか私の名前を知ってて



なんやこの子って風にじろじろ見られたり



たぶん悪口もいっぱい言われてると思います。




だから色んな人がホンマに恐い…嫌われ者なんです。




うち、もし恵ちゃんにまで嫌われたらもうおしまいや…」





「恵ちゃんとケンカでもしたん?」





「してないです。でももし嫌われたら…」





「まだ起こってもないことを心配しとったらあかんわー、それは損やねん!




美香ちゃんが可愛いから皆が羨ましいだけちゃうん?




可愛いから英ちゃんの後輩の弟にも告白されてんなあ」





「うちは人より目立つのがホンマにいやなんです。ホンマにいやや」




「でもな、女の子は可愛い方が得やねん。そのうち分かると思うねんけど。




だから今は堂々と普通にしてたらええねん。



色んな人に何か言われても気にしたらあかんねん、な!



だいたい皆に好かれるちゅうのは始めから無理やねん」




達也の言葉に美香の憂鬱と心配は和らぎ




家族でない誰かに抱きしめられる安心感を初めて覚えた。




「俺はいつでも美香ちゃんの味方やから、何でも言ってきてや。



もし誰かにいじめられたら絶対勝てる戦い方を教えたる!」





美香の目にもう涙はなかった。




達也はもう一度だけ美香の唇に触れたくてそっとキスをした。




それからエンジンをかけアパートの駐車場内まで美香を送った。




もう絹子おばさんの喫茶店の明かりも落ちて



辺りには誰もいない。



「じゃあ火曜日 俺、ライブめちゃめちゃ頑張る。絶対に見に来てな、あともうちょっとだけ元気になる約束。」




「はい」




それは幸せな約束で




何だか月曜日から頑張れそうな気がした。




達也は階段を上ってゆく(のぼってゆく)美香が見えなくなってから



ゆっくりと車を発進させた。




帰宅すると優は真っ暗な部屋のこたつの中で眠ってしまっていた。




美香は電気をつけ 手を洗いうがいをして優を起こした。




「優くんごめん。何か食べた?」




「まだご飯食べてへんよ」




時刻はもう9時近く、美香は制服のままおでんの残りをあわてて温め



今からご飯を炊くのには遅すぎるので食パンを優に食べさせた。






ふと尿意を催してトイレに入った時に美香は絶句する。




この日、初潮を迎えたのだった。





夕方、下校前に学校のトイレに行った時には何の異変もなかったので




それは達也と会ってる時に始まったと思われる。




知識としては小学6年生の保健の授業で十分得ていたが




現実には戸惑って泣きたい気持ちになった。




その保健の授業で配られた3つのナプキンが入っているビニールポーチを押入れから探し




再びトイレに戻って慣れない手つきで処置を施す。





「美香ちゃん、おでん食べへんのー?」




のん気に話しかけてくる優に平常心を失いそうになりながら




「今日、もう食べてしまった」とだけ答えた。




その日は恐くてお風呂に入ることが出来ずに早々とベッドに入り




色々なことが途切れなく頭に浮かんだ。




達也さんとキスをしたから生理になったのだろうか…?




月曜日、恵ちゃんに言うべきか…?




ナプキンはどこに買いに行こう?





近所の薬局は恥ずかしいから




どこか遠くで買いたい…。





沢山の不安でいっぱいだった。





日曜日はどんよりと曇った空の下




美香は朝からバス停にいた。




天王寺まであてもなく買い物に出かける為に




どうしても知らない街でこっそりとナプキンを買いたかったのだ。




それからナプキンを入れるポーチも欲しい。




バスの中でふと 前から続いていた小さな腹部の痛みは生理の前兆だったのかも知れないと気づいた。




天王寺は大阪のもう一つの大きな街であり



日曜日は沢山のお店と多くの人でにぎわう。




街を歩くうちにあんなに混乱していた昨日とはうって変わって



美香はなんだか楽しい気分だった。





偶然覗いたお店で可愛いアンサンブルカーディガンを見つけ




これを着てもっと元気になりたい…




そんな一心で美香はそのカーディガンを買った。




暗い暗い深緑地に小さな濃いピンクのローズ柄。




ロマンチックでなんて可愛いのだろう。




違う店にも足を踏み入れ




スモークがかった不思議な水色に



赤色と白色のラインが目を引く



皮製の平らなポーチを買った。




大きな薬局を見つけそこで数種類のナプキンを買い込む。




タイミングを見計らい女の人のレジに並び




大きな紙袋の手提げに入れてもらった。





それからまた来た道を戻りバスに乗り込む。




美香はまたバスの中であることに気がついた。




このナプキンを買いに行く時を





私の秘密のお買い物の日にしたらどうかしら?




何か元気になれる物を自分のために一つ買うの。




そうすれば私はもっと元気になれると思う。




前向きな発見に心が躍り




その日からもっと元気になることが美香の目標になったのだった。




月曜日、終業式前でざわつく教室の後ろの方で



思い切って恵に生理が始まったことを話してみると



恵はなんだか美香が羨ましい様子さえ見せた。




やっぱり恵は親友。



そんな思いに安堵感が広がる。




ただ達也との間に起きた出来事はどうしても話すことが出来なかった。




いまだに真実味がなくて夢だったような気がするからだ。




その日は通知表を受け取り午前中で下校だ。




美香の通知表は文句なくいい数字が並んでいた。




でも なぜかそんなことは どうでも良かった。




火曜日、美香は天王寺で買ったアンサンブルカーディガンを着て



インディコのジーパン、黒いシューズ、



達也に買ってもらったバッグに黒いコートを着て恵の家に向かった。




バッグにはあのポーチも忍ばた。





恵の家に着くと 加代子がお腹が痛まないか




もしもお腹が痛むときは温めること、この薬がいいなどと親切に色々と教えてくれた。




その日のライブは



達也が言っていた通りに来場者全員にデモテープが無料配布され




加代子はカセットテープのケースにAKIのサインをもらっていた。




ライトの向こうで歌う達也を美香は見つめながら




「俺、ライブめちゃめちゃ頑張る」という彼の言葉を思い出していた。




私ももっと頑張りたい。




達也を、このバンドを見ているとそんな意欲が湧くのだ。




クリスマスの打ち上げに出る加代子を残して




この日も美香と恵だけで帰る。





アパートの扉の前まで来た時に



ドアノブに赤と緑のリボンがかかった白い紙袋がかかっていた。




その紙袋を外し中身を覗くと何か赤いものが見える。




静かに鍵を開け中に入った時、優はまだ起きていた。




子供会のクリスマスパーティがあり




なんとかケーキを食べることはできたものの




これと言ってプレゼントのない優はどこかつまらなそうだった。




美香は自分の部屋に行き コートをハンガーにかけ紙袋を開いた。




そこには真っ赤なカーディガン、パールのロングネックレス



おそろいのパールで花をあしらったイヤリング…




お店の名前が入った小さなモミの木型のカードには




「サンタツヤより」とボールペンで書かれていた。




どうして??…




いつの間に…??




再び夢のような出来事が起こったのだった。




誰かにこんな素敵なプレゼントをもらえるなんて本当に嬉しい。




でも……



私はどうしてクリスマスに優に何も買ってあげようとしなかったのかしら?




ここ最近、自分のことばかり考えすぎていた。




明日優に何かを買ってあげよう。




美香はこたつにずり込んで歯磨きをしている優に話しかけた。




「優くん、明日お買い物行かへん?



遅くなってしまったけど優くんのクリスマスのプレゼント買おうか?」





「え?ホンマ?俺、新しいサッカーボール欲しいねんけど



あとキン肉マンの消しゴムや!」




あのキン消しブームは1983年の発売に始まった。



87年頃まで生産が続き




1998年以降には復刻版と称して再発売がされている。




「分かった。じゃあ明日一緒に見に行こう」




優は飛び跳ねながら口をゆすぎに洗面所へ消えて行った。




優が寝た後に



美香は少しだけ追い炊きをして熱いお風呂にゆっくりと浸かり




いつ達也にお礼の電話を入れたら良いかを考えた。




明日の夕方がいいのではないだろうか?




今すぐにでもお礼を言いたいのだが 打ち上げでまだ帰って来てはいない。




朝早いのも良くないだろう。




だからきっと夕方。




優と買い物から帰ったら勇気を出して電話をしてみよう。




翌日、午後2時少し前に二人は買い物に出かけた。




スポーツ洋品店でサッカーボールを買い




文房具屋で優の三学期用の鉛筆とノートを買い千円を両替してもらい




キン消しのガチャガチャを10回もやらせた。




「え?ホンマに10回もやってええの?」




「クリスマスプレゼントやし、通信簿も良かったからええよ」




優の通知表はほとんどの科目に二重丸が付いていた。




クラスの皆をまとめられるリーダー的存在です。算数の時間には同じ班の子に根気よく教えようとする姿が見られました。三学期も多いに期待しています。




所見の欄にも良い言葉が並んでいた。




その後は八百屋で野菜を買い、肉屋と魚屋に寄り 



薬局でトイレットペーパーを買って家路に着いた。




家に着くと優は新しいボールをさっそく持って




小学校にサッカーの練習に出かけてしまった。





美香は熱いお茶を飲んだ後に緊張する手で




達也の家の電話番号を押した。





「もしもし、小林ですけど」





「あっあの…佐藤と申しますが達也さんいらっしゃいますか?」




「達也?ちょっと待ってね」




電話に出たのは母親らしきおばさんだった。





「もしもし!」




「さっ佐藤美香です……」




「おう美香ちゃん!昨日はライブに来てくれてありがとう」




「いえ…あのプレゼンが」




「あ~あれな。びっくりした?(笑)気に入るんちゃうかな~と思って」




「あんなにいい物をもらってしまって」




「大したことないねん、俺の方がええもんもらってしまったからなあ(笑)」




「え?」




「……昨日な、今までで一番客が入ってん22人」




「すごい!」





「来年はもっと頑張るで~」




「ホンマにすごいなあ…」美香はそうつぶやくと同時に




私には…一体何が頑張れるのだろう?




そんな自問自答をしていた。




「またマクド行こうな(笑)」




「はい」




「また電話してや~」




「はい、また電話します。あの、プレゼントホンマにありがとうございました」




「ええよ。ほなまたな」





美香はとても嬉しかった。





これが恋と気付くのはもう少し後のことで




新品の赤いカーディガンを昨日着たカーディガンと一緒に丁寧に手洗いし




パールのアクセサリーをアメジストのイヤリングと同じ箱に慎重にしまった。





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