本音 ⑦
人生で初めての警察署。ただし事情聴取を受けるのは二回目だ。前回は拍子抜けするくらい、すんなりと開放してもらえたが、今回はそうもいかない。なんといっても事件の被害者だ。僕は警察署の個室で、スーツ姿の警官二人から事件の始まりから終わりまで、事細かに詳しく質問をされた。職員室の扉を空けたのは誰か、相手に体当たりをしたのはどのような向きで、どの部分にどれぐらいの速度で当たったのか、相手はどの手でどの部分を絞めてきたのかとか、覚えているわけがないようなことばかりだった。
質問以外で聞かされたことは、寺尾に関することだった。寺尾は職員室を脱出した後、学校近くにある交番まで走って助けを求めに行っていたそうだ。泣きじゃくりながら「友達が学校で襲われている」と叫び声を上げていたらしい。その女子高生の取り乱しように、ただ事ではないと察した交番勤務の警官が、応援を要請した後に学校へ駆けつけてくれたのだった。
意外だった。寺尾が僕のために助けを求めて走ってくれていたこともそうだが、僕のことを友達と言ったことが。必死だったため、日常的に使っている言葉の中で、最も相手に伝わりやすい言葉が自然と出たからだとは思うが、それでも僕を友達と現していたのだ。同級生でもなく、同じ学校の生徒でもなく、友達と言ってくれた。なんだか変な気分だ。
事情聴取が終わり、解放されたのは夜十時を過ぎてからのことだった。唯一、前回と同じだったのは、僕の両親ということになっているあの二人が、警察の連絡を受けてすっ飛んできたことだった。前回同様、事件の概要に驚き、何故自分の子供がこんなことに巻き込まれたのかと困惑し、僕の体を心配する素振りを見せていた。
もういい加減にしてくれ。そんなもの、本心でないことぐらいわかっている。その二人を目にするだけでイライラが募る。帰りの車でも、あれこれと事情を聞かれたが、疲れていたし面倒だったので、ずっと黙っていた。どうせ、あんたらに話したところで何もしてくれないだろう。そんなに事件の話が聞きたいのなら、もう一度警察に行って警官にでも聞いてもらった方が早いし、僕としてもその方が楽でいい。親みたいな顔をするのはやめてもらいたい。家についてからも「ちゃんと話をしよう」と言われたが、無視して部屋にこもった。
ちゃんとってなんだよ。高校に入ってから、一度もちゃんと話を聞いてくれたことなんてなかったくせに。怒りを抑えるようにベッドに倒れこむ。すぐに意識は途切れた。
目が覚めると朝になっていた。時間はいつも起きている七時前。部屋の中は静かだ。居間からも物音は聞こえてこない。トイレに行くついでに家の状況を確認すると、玄関には僕の靴だけが綺麗に揃えられていて、居間には誰もおらず、食卓にラップで蓋をされたお惣菜のパックが三つ並べられていた。近くにはインスタント味噌汁の小袋とレンジで温めるタイプのごはんも用意されている。
トイレを済ませてから、パンを二枚オーブントースターに放り込む。焼きあがるまでに少し時間があるので、着替えることにした。今日は世間一般的に言う平日だが、着替えるのは制服ではなく私服だ。本日学校は休み。昨夜、職員室で起きた事件のことを考えると、当然の結果だ。教師達もこんな時に授業などやっていられないだろう。
居間に戻り、焼きあがったパンを皿にのせ、冷蔵庫からオレンジジュースとバターを取り出し、それら全てを抱えて部屋の机に配置する。パソコンの電源を入れて、インターネットを見ながらバターをのせたトーストに噛り付く。今日は昨日の出来事がニュースになっているかどうかを調べるため、新聞社のホームページやニュースサイトを巡ることにした。
やはり、どこのページにもトップページに記事が掲載されている。失声ウィルスの感染者を出した学校で、今度は教師による生徒への暴行が発覚したのだ。話題性は十分だし記事としても非常に書きやすい内容だろう。マスコミが食いつかない訳がない。学校の騒がしさも、しばらく落ち着くことはないだろう。またレポーターや記者達から逃げ回る登下校が続くことになる。
二枚目のトーストを食べ終えたところでドアホンが鳴った。こんな朝早くに、一体誰だろう。居間にあるモニターを確認すると、スーツを着た男が二人、玄関前でインターホンを睨みつけながら立っていた。ものすごく威圧感のある二人組みだ。最初は居留守を使おうと何もせずにモニターを監視していたら、もう一度ドアホンが鳴る。二人とも真剣な表情だ。なんだか応答しなければいけないような気がして、恐る恐る受話器を取り、耳に当てる。
「朝早くにすみません。警察の者ですが、昨晩お話した現場検証の件でお迎えに来ました。正人君はいらっしゃいますか?」
すっかり忘れていた。そういえば昨日、警察署を出る前に現場検証の立会いに協力して欲しいと言われていたのだった。玄関にいる二人は警察官で、僕を迎えに来たみたいだ。慌てて玄関の扉を開ける。
「君が正人君かい? 朝早くにすまないね。話は聞いてると思うけど、現場検証に立ち会ってもらえるかな? ご両親はお仕事だろ? お二人には昨晩の内に話をしているし、朝は仕事で家にいないと聞いているよ。外に車を待たせてある。僕らは先に乗って待っているから、準備が出来次第下りてきてくれ」
警官はそれだけ言うと、廊下奥のエレベーターに乗り込んでいった。
現場検証への立会い。あの二人もそのことを聞かされていたようだ。それでも、あの二人は仕事を優先したのだ。自分の子供が事件に巻き込まれ、その事件の被害者になっているのに。その事件の現場検証に朝から駆り出されるのがわかっているのに、だ。
それでいい。それでこそ、あの二人だ。僕とあの二人の関係性は、これが正常なのだ。何も間違ったことはないし、それについて何も思うことはない。これで、いいんだ。
準備が整い次第と警官は言っていたが、特に準備をすることが見当たらなかった。着替えも朝食も済ませてしまった。残っているのは後片付けぐらいだ。部屋にあった食器を流しに置き、上着を羽織る。一応携帯電話も持って行くことにした。鳴らないことはわかっているが、ただ何となく持って行こうと思った。単なる気まぐれだ。
家を出て、玄関にしっかりと鍵をかける。エレベーターで一階に下りると、入り口前に黒の乗用車が停まっていた。パトカーがいるものだと思っていたが、普通の車だった。一人は運転席に乗り込んでいて、僕に話しかけてきた方の男は車の近くでタバコを噴かしていた。
「おお、早かったね。じゃあ早速で悪いが、学校に向かうんで後ろに乗ってくれ。何、そんなに時間はかからないさ。君から聞いた話を現場で再現しながら確認するだけだから」
後部座席に乗り込むと、話しかけてきた男も助手席に乗り込む。運転手の男が搭載されている無線でどこかに連絡を入れた後、車は学校へ向けてゆっくりと進み始めた。
休みだというのに学校前は賑わいを見せていた。中継車、テレビカメラ、照明、マイク、レポーター。ウィルス感染者発見の一報が入った時と同じぐらいの報道陣が校門前に詰め掛けていて、彼らを規制する警察官と睨めっこを繰り広げていた。僕が乗った車はその群れを掻き分けながら校内へと侵入する。後部座席にはスモークが張られていたが、そのスモークも役に立たないんじゃないかと思えるぐらい、けたたましいフラッシュの嵐が車に浴びせられた。なんだか、犯罪者になった気分だ。
迎えに来てくれた警官二人に案内されて、職員室へと向かう。職員室は昨日のままだった。文房具やノート、書類などが当たり一面に散らかっていて、職員室一番奥の壁際から何か強い力で押されたかのように、机や椅子はひっくり返って歪んでいた。昨日は薄暗くてよくわからなかったが、その押す力が発生したと思われる場所の床が少し窪んで、ひびが入っているのに気が付いた。僕の住んでいるマンションにも同じような窪みがある。やっぱり、これは僕がやったんだろう。あの力で。
職員室では何人もの警察関係者がせわしなく行き交っていた。制服姿やスーツ姿の警官、テレビでしか見たことのない青い作業着を着た鑑識らしき人も忙しそうにしている。その中で、居心地悪そうに周りを眺めていた人物が僕に気づき近寄ってくる。
寺尾藍だ。彼女も現場検証の立会いで呼ばれていたようだ。確かに、彼女もこの事件の被害者だ。この場にいてもおかしくはない。
「無事……だったのね。声は出るって聞いたけど、本当? 家のお母さんは次の日に声が出なくなったけど……」
「…………大丈夫」
「本当に……声、出るのね」
寺尾はそのまま黙って俯いてしまった。寺尾が何を考え、何を思っているのかはわからないが、なんだか切なくて悲しい表情だった。
現場検証は、事情聴取の場所を職員室に変えただけの、質問や確認が全く同じ内容のものだった。誰がどの位置に立っていて、僕はそこからどのような動きで田本に体当たりをしたのか。田本はその後どのような動きで寺尾を追いかけ、そこからどうしたのか。正直ほとんど覚えていなかった。あれだけ衝撃的なことだったのに、今では他人事のようで、警察の質問にも覚えていないとしか答えられなかった。寺尾も同じくはっきりと覚えていないみたいで、曖昧な返事で答えていた。
二時間ほど現場検証に立会ったが、一番多くの質問を受けたのが机や椅子が吹き飛んで壊れていること、壁際の床が窪んでいることの原因だった。この事件で一番不自然で疑問が残るのはここだろう。しかし、本当のことなど言えるはずがない。言ったところで誰も信じてはくれないだろうし、逆に変な目で見られることはわかっている。それこそ、わかりませんとか覚えていません、で通すしかなかった。説明なんてできない。僕自身がよくわかっていないんだから、どうしようもない。
現場検証での僕たちの役目が終了し、警官がまた家まで送ってくれると言ってくれた。しかし、寺尾が「私達、用事があるので帰りは自力で帰らせて下さい」と言い出した。僕に用事はないし、寺尾とそんな話をした覚えはない。でも、深刻そうな顔で話す寺尾を見て、断ることが出来なかった。警察官もそんな彼女を見て「報道陣がいるから、せめて近くの駅までは送らせてもらうよ」と出来るだけ寺尾の意思を尊重する案を提示してくれていた。寺尾もそれで納得したようだ。
今度は寺尾と二人で車の後部座席に乗り込む。少し人数は減っているが、いまだに校門前には報道陣が群がっている。その報道陣の壁を貫いて、僕らを乗せた車は近くの駅へと走り出す。たぶん、向かう駅はショッピングモールと公園と地下鉄の駅が一緒になっている複合施設だろう。学校からはあそこが一番近い。付近はいつも混み合っているから、着くまでにかなり時間がかかると思っていたが、平日の昼前ということもあって、学校から離れると道路はがら空き。あっと言う間に到着した。車を降りると、送ってくれた警官が今後についての話しをしてくれた。
「また、お話を聞くために署へ来てもらうかもしれないので、ご協力をお願いします。その時は連絡を入れますので。では帰り道、気をつけて」
お礼を言い、扉を閉めると車はまた学校に向かって走っていった。降ろしてもらったのは公園にあるバス乗り場だった。隣にはショッピングモールが広がっている。地下鉄の駅はショッピングモールを背にして、公園を通り抜けた先にある。僕の家はバス一本で帰れるので地下鉄を使う必要はないのだが、寺尾は地下鉄を使わなければならないようで、寺尾と僕は地下鉄の入り口に向けて公園内を歩き始める。
「悪いわね、付き合わせちゃって」
寺尾が素っ気なく言う。悪びれている様子はない。
「……何で、あの時私を助けたの?」
真剣な眼差しで問いかけてくる。その瞳からは、疑問と不安が滲み出ていた。
何で、と言われて素直に答えることはできなかった。あの時僕は、田本に襲われ怯えている寺尾に昔の自分を見た。周囲からのプレッシャー、山下を始めとする生徒達からのいじめ、助けてくれない大人たち、逃げ道もなく、迫り来る影に怯えるしかなかった自分の姿が重なって見えた。助けを求めている自分がそこにいて、それを間近で見ている自分がいる。今なら僕が僕を助けることが出来る。逃げ道を見失い、恐怖で足が竦んでいる僕に、逃げ道を作ってやれる。そう思った時には、足が勝手に動き出し、全力で田本にぶつかっていた。僕は僕を助けたかった。ただ、それだけ。寺尾を助けようなどと思った訳ではない。結果的にそうなっただけなのだ。そんなこと、言えるはずがない。
「……よく……覚えていない」
これが精一杯だった。
「そう……まあ、いいわ。バケモノに助けられるなんて貴重な経験ね。とりあえず、お礼を言わせてもらうわ。ありがとう」
お礼を言われた。他人から「ありがとう」なんて言われるのは、いつぶりだろう。罪悪感がこみ上げる。ありがとうだなんて言わないでくれ。僕にはお礼を言われる資格なんてない。僕は自分自身のためにやったんだ。自分のことしか考えていなかったんだ。
「日本を発つ前にこれだけは直接言っておこうと思ってね。あんな場所じゃあ、ろくに話も出来ないから」
寺尾は柔らかくて優しい表情で話す。寺尾のこんな顔を見るのは初めてだった。僕にお礼を言ったことで、自分の中でも何か区切りがついたのかもしれない。しかし、日本を発つ、とはどう言う意味だろう。
「私も良く知らないんだけど、海外にウィルスの研究で成果を上げている先生がいるみたいで、お父さんがその先生に今回の話をしたらしいの。そうしたら、その先生からすぐに連絡があって、お母さんのことを診てもらえることになったのよ。それで、ついでだから家族全員診てもらおうってことになって。それにね、私、まだ田本の言っていたことが信用できないの。だって、そんなことができるなら、あいつは超能力者ってことになるでしょ? あんなやつがそんな不思議な力を持ってるなんて思えないし、実際、あなたは声が出てるんだから。でも、完全に否定も出来ない。田本の自信に満ちたあの表情は、嘘を言っているようには見えなかったから。だから、白黒つけるために検査を受けてこようと思うの。もしかしたら、一年や二年、かかってしまうかもしれないけど、何もしないでいるよりは何倍もまし!」
柔らかく優しい顔が、決意に満ちた表情へと変わる。希望に満ち溢れているようにさえ見えた。しかし、僕にはわかる。僕は知っている。確実にあれは、田本の力だ。ウィルスなどではない。僕が声を失わなかった原因は不明のままだが、今までの被害者は全員田本にやられたんだ。欲望者の力だ。
「ところで、警察の人も聞いてたけど、あの職員室はあなたがやったの? なんかすごいことになってたけど……」
嫌な質問をしてきた寺尾をどうやってかわそうか必死で考えていると、後ろから大勢の人間が走ってくる音が聞こえた。
「あれだ! いたぞ!」
振り返ると、カメラを抱えた人間やマイクを持った人間が総勢で十五人ほど、間近に迫ってきていた。車の後をつけられたんだ。校門前でハイエナのように舌なめずりをしていたマスコミの一部が、僕らを見つけて走り寄ってくる。
「君たちだよね!? 事件の被害者!」
「田本容疑者は国語を担当していたようでしたが、どのような授業を!?」
「事件当時、職員室では何があったんですか!?」
「今の気持ちを教えてください!」
「田本容疑者に伝えたいことはありますか!?」
「失声ウィルスも関係していると聞きましたが!?」
カメラのフラッシュが何度も光り、天から降り注ぐ無数の矢のように、四方八方から次々と質問が僕らに突き刺さる。完全に取り囲まれた。
「ちょっと! やめ……やめてください!」
「学校側から何か説明はありましたか!?」
「二人はどういった関係ですか!?」
「ご両親は何とおっしゃってましたか!?」
「失声ウィルスに続いて今回の事件ですが、学校の様子はどうですか!?」
寺尾の声は質問の嵐の中に掻き消されていった。どんどんと彼らは近づいてくる。僕らが不快な表情を見せようと、苦痛を訴えようと、まるで気にしていない。何も考えていない。事件の被害者である僕らのことなど、何一つ。
いい加減にしろ!
やめてくれ!
来るな!
「はーい! ストップストーップ!!」
突如として聞こえてきた大声に、皆驚いて動きが止まる。妙な静けさが一瞬訪れたかと思うと、大声の主が僕らを取り囲む報道陣を押し退けながら中心に侵入してくる。
「はーい、お邪魔します。ちょっとごめんなさいね。あ、ごめんなさい。足踏んじゃった。大丈夫?」
固まって動かなかったマスコミ連中が、取材を邪魔されたことと、おどけた口調に対して一斉に批判を始める。
「何なのよあんた!」
「邪魔するな!」
「さっさと消えろ!」
「どこの人間だ、お前!」
感情をむき出しにした、乱暴な言葉遣いだ。これがこいつらの正体なのか。特ダネのため、取材のためなら、障害を全力で排除しようとする。手段を選ばず、犠牲を気にせず、利益だけを追い求める。そんなやつらなんだ。
「まあまあ、そんな熱り立たないで。まずは名刺交換から。私、情報屋をやっております、ブローカーと申します。どうぞ宜しく!」
明るい口調と共に、その場にいる全員に手際よく名刺を配るその姿は、紛れもなく、眼鏡にハンチング帽をかぶった、見たことのある男だった。
ブローカー。
自称、情報屋。
ブローカーは何を考えているのか、僕と寺尾にも名刺を配る。名刺には「情報屋 ブローカー」とだけ記載されていた。なんともお粗末な名刺で、小学生が遊びで作った会員証みたいな出来栄えだった。
しかし、その名刺を見たマスコミは全員顔から血の気が引いたように青ざめて、俯きながら逃げるように退散して行った。どうしたんだ。ブローカーの名刺にそんな絶望的なことが書いてあるようには思えない。
「やっといなくなったね。はあ、すっきりした!」
両腕を上に突き出し、伸びをしながら気持ちよさそうに話すブローカー。寺尾はその姿をみて明らかに怪しんでいた。無理もない。僕も最初はそうだった。今でもそうだ。
「また会ったね、森黒君。君は本当に話題に事欠かないねえ。呪いかなんか施されてるんじゃないの?」
呪いか。それが本当なら、ブローカーに出会ってしまうことも、呪いの一種だろう。
「ねえ……誰、この人?」
寺尾がブローカーに聞こえないよう、僕に耳打ちをする。誰と言われても、なんて説明すればいいのか。
「さっきも言ったじゃないか。情報屋のブローカーです」
「……」
聞こえていたらしい。まあ、どんなに小さな声で話しても、ブローカーなら聞き逃すことはないだろう。それが、こいつの力なんだから。
「君は……森黒君のガールフレンドってことでいいのかな?」
「違います」
即答だった。それも機械的で無機質な口調で。
「違うの? なんだ。森黒君にも春がやってきたのかと思って、お祝いしてあげようと思ったのに。雪解けはまだ先かあ」
「何か御用ですか? 何も無いなら帰らせてもらいたいんですが」
「ああ、どうぞ。僕は森黒君に会いにきただけだから。君には何の用もない」
「……そうですか、それじゃあ失礼します」
寺尾はむすっとして歩き出す。また怒っているようだ。田本のマンションで井浦に取った態度とまるで同じだ。
「それじゃ、私先に帰るから。こっちに戻ってきたら結果を教えるわ。それで、納得がいかなければまた調査を始めるから手伝いなさいよ。宜しくね、クロ」
そう言って、寺尾は地下鉄の入り口に向けて歩いていった。歩き方が乱暴だ。どうしようもない。
「…………君、いつの間にペットになったんだい?」
最初はブローカーが何のことに対してその言葉を発したのかわからなかった。また、いつものように訳のわからない、とっさの思いつきかと呆れていたが、寺尾の最後に残した言葉を思い出して気付く。ブローカーに指摘されなければ気付かなかったかもしれない。
クロ。
寺尾はそう言っていた。森黒の黒から取って、クロなのか。確かに響きだけで考えるとペットの名前のように聞こえる。実際、ペットのような扱いを受けていたから、強ち間違いとも言えない。
「良かったじゃないか。良いご主人様で。このまま本当にペットとしてついて行けば、なに不自由のない生活が送れるんじゃない?」
相変わらず、人を馬鹿にするようなことしか言わない男だ。僕は別に生活に困ってはいないし、ペットになるつもりもない。寺尾だって「バケモノがペットだなんて、冗談じゃない」と怒り出すに決まっている。
「いいじゃないか。似た物同士、仲良くやんなよ」
「……どこが」
どこが、似た物同士だ。180度どころか540度違う。違いすぎて一回転半もしてしまった。方や医療関係の仕事をしている父を持つ金持ちのお嬢様で、方や毎日残業をしないと学費が払えないのに、無理をしてレベルの高い学校へと自分の子供を進学させた、無責任な人間を親としなければならない凡人だ。雲泥の差。月とすっぽん。例える言葉ならいくらでも出てくる。それぐらい、明らかに違う。似ているところなど、一ミクロンも存在しない。
「似ているよ。まあ、性格とか環境とか生活レベルって話じゃなくってさ。少なくとも、君たちの学校に置けるポジションは同じだろ?」
同じ学年の生徒、という意味だろうか。ならば、それも違う。僕はバケモノ。この世に存在してはいけない空想上の物体だ。寺尾は普通の女子生徒として周りから受け入れられているのだから、同じはずがない。
「君の鈍さも筋金入りだね。この場合、鈍いというより頭が悪いって言ったほうがいいのかな。よく考えてご覧よ。あの娘は母親が失声ウィルスに感染した。しかも、感染したのは学校じゃないかと疑われた。そうなった時、君の学校の生徒達はどんなことを考えると思う? どんな行動に出ると思う? 君は、それを今までに嫌と言うほど味わってきたはずじゃないか」
僕がいじめを受けるようになった時のことを思い出しながら、少し考える。僕が皆の期待を裏切り成績を落としていった時、あの生徒達は邪魔な僕を排除しようとした。ありとあらゆる方法で僕を追い詰め、その行為を楽しむようでさえあった。
だとすると、寺尾も……。
「やっと理解したかい? そう、あの娘もいじめられてるんだよ。呼び名は、そのまま“ウィルス”らしいよ。君のバケモノに負けず劣らず、センスのない呼び方だね。あそこの生徒達らしいよ。仲の良かった友達はもちろんのこと、生徒と言う生徒があの娘に近寄らなくなってるってさ。だから、あの娘も君に協力を求めたんだろ? 誰も助けてくれないし、誰も心配してくれないんだから自分と同じ境遇にいる人間ならまだ可能性がある。そう思ったんじゃないかな。全く、無知ってのは恐ろしいね。失声ウィルスなんて言う、ありもしないものに踊らされて、誰かを傷つけたりしちゃうんだから」
普段と変わらない様子で話すブローカーだったが、僕としては驚くべき内容だった。寺尾がいじめられているという部分ではない。ウィルスと呼ばれ、友達を失ったという部分でもない。ブローカーは失声ウィルスを「ありもしない」と言ったのだ。驚きのあまり、しばらくブローカーから目が離せなかった。何故、そのことを知っているんだ。
「あれ? 僕がウィルスの正体について何も知らないとでも思ってたのかい? 馬鹿にしてもらっちゃ困るなあ。これでも、情報で飯を食ってるんだ。それぐらい知ってて当然だろ? まあ、僕自身、あいつの力とか人間性に全く興味が無かったから、それほど調べてはいなかったんだけどね。それでも、失声ウィルスなんてものは国が作ったでっち上げで、その現象を起こしていたのは田本茂と言う欲望者であり、その力は人の声帯を破壊することが出来るってことぐらいは知ってたさ」
ブローカーは全てを知っていた。知っていたからマスクもしていないかったのだ。じゃあ、何故そのことを教えてくれなかったんだ。いつもなら、聞きたくもない情報を無理矢理教えてくるのに、どうしてこんな重要なことを言わなかったんだ。
「なんだよ。僕が事実を知っていたのに、君にそのことを教えなかったから怒ってるのかい? そりゃあ、わがままだよ。だって、君は一度もそのことについて僕に聞かなかったじゃないか。僕も、これは君には話すようなことじゃないと思ったから話さなかっただけさ。非難される覚えはないね。自分の欲しい物が都合よく手に入ると思っているなら、大間違いだよ。欲しい物を手に入れたいなら、努力しなきゃ。自分の体を使って探し回らなきゃ、求めている物は手に入らないよ?」
説得力のある言葉だった。ブローカー以外の人間がこんなことを言っても、信じる気にはならないが、僕はブローカーが自分の足で情報を集めていることを知っている。実際に見たことはないが、それでも嘘でないことはわかる。そうでなければ、僕の経歴や好き嫌いという細かい情報まで知り得ることは出来ないはずだ。ブローカーに言われて納得するのはいい気分ではないが、全く持って正論だ。
「まあ、それでも危機に直面している君を無視して、ヒントの一つも話さなかった僕も少し大人気なかったかな。じゃあ、代わりに、と言っちゃあなんだけど、逮捕されてからの田本について教えてあげようか?」
僕に侘びを入れているような口ぶりだったが、恐らくこの話がしたいだけなのだろう。山下との対決があった次の日に、校門前であったブローカーと同じ雰囲気だった。予想通り、ブローカーは茶色の手帳を取り出すと、数枚めくって書き込みのあるページを見開きにする。そして、僕が返答する前に話を始めていた。
「あの夜、職員室で駆けつけた警官に取り押さえられ、そのままパトカーに乗せられて警察署で取調べを受けることになった田本は、移動の最中もずっと、うわ言のようにぼそぼそと何かを口走っていたみたいだね。小声すぎて、隣に座っていた警官ですら何を言っているのかわからなかったらしいよ。それでその後、取調べに入った途端、一言も喋らなくなったんだってさ。留置所に入っている今でも全く声を発さないみたいで、警察では失声ウィルスに感染したんじゃないかって大騒ぎしてるみたいだよ。たぶん君に力が通用しなかったのがショックだったんじゃないかな。あれだけ人の声を奪って喜びを感じていたのに、今では自分の声を自分で奪ってるんだよ。お笑いだね」
田本を馬鹿にして「はは」と鼻で笑うブローカー。こいつが誰かを蔑む時の顔はとても満足気だった。その満足気の顔がさらに輝きをましたのはその後だった。
「それよりも僕は、君が声を失わなかったことの方に興味が尽きないよ! 田本の力は本物だったんだよ? 最初の被害者である母親とその息子、そして君の学校からでた被害者には明らかな敵意を持って力を使っていたけど、その他の犠牲者は、たまたま田本と同じ地下鉄に乗っていたってだけで被害にあったんだ。自分が疑われるのを恐れた田本が、ウィルスという病気の所為にしてしまうために、無差別に襲った人々なんだよ。そこには敵意なんてものは存在していなかった。少しぐらいの悪意はあったかもしれないけどね。それでも、力はしっかりと作用して、襲われた人々は声を失ったんだ。なのに、君は無事だった。どうしてだろう? 君にはかなりの怒りや憎しみを抱いていたと思うんだけど……」
そんなことは僕にもわからない。あの時、思い切り首を絞められ、僕を呪うかのように叫んでいた田本の姿が脳裏に浮かぶ。その後、僕の力で吹き飛ばされた田本は、再度力を使うため、僕の首を絞めはせずに憎しみだけを込めて念じたはずだ。その時点で僕は自分の声を諦めていたんだ。田本だって僕の声を奪ったと確信していたはずだ。でも、僕は駆けつけた警官にはっきりと返事をしていた。
田本の力がなくなったとでも言うのか? そんなことがあり得るのだろうか。それとも、僕の力が田本の力を防いだのだろうか。もしそうなら、いよいよバケモノという呼び名が板についてくる。
「今まで、欲望者の力については表面上の特性にしか興味がなかったけど、今回の件で詳しく調べてみようかなって思ったよ。君の力についてもますます興味が出てきた。どうだろう、僕に君の力を調べる許可はまだ下りないのかな?」
下りるわけないだろ。僕のプライベートに至るまで散々調べ上げておいて、まだ僕のことを調べ尽くそうというのか。僕はそこまでお前を信用しちゃいない。たぶん、その許可は一生下りることはない。
「まあ、気が変わったらいつでも言ってよ。首を長くして待ち望んでるからさ。それじゃあ、僕もこの辺で。またね!」
ブローカーは手を振りながら笑顔で歩いて行った。さっきまで黒い話をしていたブローカーからは想像もできない、爽やかな笑顔だった。
子供達の楽しそうに遊ぶ声が響く昼下がりの公園。一人取り残された僕も特に目的がある訳ではないのでバス停へと向かう。帰ろう。連日の騒ぎで疲れてしまった。早く帰って疲れを癒さないと、すぐに警察から連絡が入り、再度の事情聴取がないとも限らない。
家に着き、玄関で靴を脱いでいると携帯電話が鳴った。携帯が鳴るという僕にとっては不自然な現象に、嫌な予感しかしなかったが、とりあえずポケットから取り出して確認をする。メールの着信だった。
一体誰からだろう。考えられるのは、迷惑メール、チェーンメール、クラスメイトからの悪戯メール、後は……ブローカー。受信箱を開くと一番上に最新の着信メールが表示されている。件名は無題でメールアドレスは知らないものだ。恐る恐るメールを開く。
「寺尾藍」
メールの本文にはそれだけしか書かれていなかった。玄関で靴を脱ぎかけたまま、しばらく携帯の画面を見つめる。
「本物?」
メールの返信などほとんどしたことがなかったが、確認のために返すことにした。これが、悪戯の可能性も十分にある。この三日間、僕と寺尾が一緒に行動しているところを、クラスメイトに限らず他の生徒達もどこかで見ているはずだ。それを見たやつらが冷やかしで送ってきているのかもしれない。でも、本物の寺尾だったら、返信がないことに怒り出すかもしれない。どちらなのか、はっきりさせる必要がある。
すぐに返事が返ってくる。
「何を訳のわからないことを言ってるの。当たり前でしょ? 私の護衛という大事な役目があるのに、その護衛対象の連絡先も知らないなんて、意味ないじゃない。もう少し自覚を持って欲しいわ」
文面から怒りが滲み出ている。寺尾だ。護衛という言葉を使っているところから見ても、間違いないだろう。
「ごめん」
返す言葉が見つからず、とりあえず謝ることにした。護衛を承諾したつもりもないし、寺尾にメールアドレスを教えたつもりもないが、なんとなく申し訳ない気持ちになった。
数秒もしないうちに、さらなる返信が届く。速いな。
「本来であれば、こんなことを女の子の方からさせるなんて、男として恥ずかしいことなのよ。今回は特別に許してあげるから、ちゃんと登録しておきなさいよ。それじゃ」
こうして僕の携帯電話に、高校に入ってから初めて他人の情報が登録されることになった。寺尾藍と名前入力欄に入れ、メールアドレスを登録する。登録を終えてから、メール受信箱を表示してみると、英数字の表記しかなかった一覧に、浮かび上がるように漢字が表記される。寺尾藍、が三つ並んでいる。
首輪を着けられたみたいだ。
妙な感覚を覚えつつも、携帯電話を閉じる。そのメールを最後に、僕の携帯電話はまた静まり返る。このアドレスに僕からメールを送ることがあるのか疑問に思いながら、居間に上がりテレビをつける。この時間はどの局もワイドショーをやっていて、これまたどこの局も失声ウィルスの特集を組んでいた。
「またしても、ウィルスの感染者が報告されました! しかも、今回の感染者は昨日逮捕された、元高校教諭、田本容疑者であることが判明しました。田本容疑者は昨晩から留置所に拘束されており、取調べの時点から一言も話していないということです。現在、警察では精密検査を行っており、より詳しい検査結果を待っているとのことです」
また、学校が騒がしくなりそうだ。