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欲望者  作者: コハタヤスマサ
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本音 ⑥

 疲労困憊の体を引きずりながら、あの嫌になる乗換えと時間をかけて、同じ道順を辿り学校へ舞い戻って来た。時計は既に午後七時を回っており、辺りは薄暗い紺色で覆われ、街灯とビルの灯りだけが煌々と光を放っている。特にこの時間の学校は一際薄暗い。ウィルスの所為もあって生徒達は一人残らず帰宅しているし、教師達もウィルスが潜んでいるかもしれない場所にいたくはないのか、ほとんどの教室は電気が消えていて、誰も残っていないように思える。

「見て! 職員室の灯りがまだ点いてる!」

 闇夜にポツンと一つ浮かぶ、微かなオレンジの光。その場所は間違いなく職員室だ。誰かがまだ残っている。なんで今日に限って残っている教師がいるんだ。早く帰っていてくれれば、寺尾も諦めてくれたというのに。その残っている教師が田本ではないことを祈るしかない。

「さあ、いよいよ決着ね。田本の今にも死にそうな顔を絶望で染め上げてやるわ!」

 気合もやる気も十分。完全に悪役の台詞だった。勘違いで田本を犯人と決め付けているのだから、はまり役と言えばはまり役だ。もう何を言っても聞き入れてくれそうにない。こうなったら勝手にやってくれ。そして、後になって恥ずかしい思いをしたらいいさ。僕はその証人となろう。彼女の愚行の全てを見届けてやる。

 校内に入り、一直線に職員室を目指す。二階に上がり、廊下の先に見える職員室へと続く扉へ向けて、何故か二人とも足音を立てないように忍び足で進む。だんだんと近づいてくる職員室のか細い明かりを見ていると、心なしか少し緊張してくる。寺尾の表情も進むにつれてこわばってゆくのがわかる。

 職員室前に到着。中から物音や話し声は聞こえてこない。しかし、一箇所だけ明かりが灯っている。明るさからすると、天井の蛍光灯ではなく、机に設置している、卓上ライトのようなものだろう。誰かが残っているのは間違いない。後はその誰かが、誰なのかということだ。寺尾は、残っているのは田本だと信じきっている。こんな夜に、誰も残っていないような学校に、臨時教師でしかない田本が残っている可能性は限りなく低い。学校側も臨時教師にそこまで任せるとは思えない。僕自身が、残っているのが田本であって欲しくないと願っているのもあるが、その願望を除いても、田本ではなく別の教師、それこそ学年主任の高岡が残っていることのほうが自然で、十分に考えられることだ。

 心の準備が整ったのか、寺尾は僕が横にいることを確認するかのようにこちらを見ると、軽く頷いた。頷かれても困る。それは何を意味しているんだ。

 ゆっくりと扉に手をかけ、少し時間を空けてから一気に扉を開く。


 本当に、今日は次から次へと、物事が面倒臭い方向にしか進まない。

 最悪だ。

 そこにいたのは、田本だった。


 職員室入って左手の窓側、規則的に並ぶ教師達の机の並びから、飛び出すように外れて一つ設置されている古めかしいグレーの机に座り、卓上ライトの灯りだけでパソコンの画面を食い入るように覗き込んでいる田本の姿があった。相も変わらず、口に着けているマスクが似合っている。

「おや? こんな時間にどうしましたか? とっくに生徒の皆さんは帰宅していたと思いましたが」

「田本先生にお話があって戻ってきました」

「お話……ですか。しかし、もうこんな時間ですし、僕もそろそろ出ようと思っていたところですので、お話は明日にしませんか?」

「いいえ! 今すぐじゃないと駄目です!」

 口調に怒りを滲ませながら、田本の近くへと歩み寄る寺尾。僕もその後を追う。寺尾と田本による一騎打ちの始まりだ。

「……しょうがありませんね。何でしょうか?」

「失礼だとは思いましたが、先生について少し調べさせてもらいました。先生は、この学校に赴任される前は西校にいらっしゃったそうですね?」

「ええ、そうです」

「その西校で、失声ウィルスの第一感染者が発見されたのはご存知ですよね?」

「はい。僕が在職中の出来事でしたので」

「結論から言わせて頂きます。先生、ウィルスを広めているのはあなたなんじゃないですか?」

「……」

「西校の感染者も生徒の母親だと聞きました。そして、今回感染したのは私の母親です。どちらの場合を見ても、あなたが関わっています。感染の二日前まで健康そのものだった母が、あなたと会った次の日に発症したんです。この事実から考えると、あなたがウィルスを撒き散らしているとしか思えないんですよ!」

 話をしている間に、色々なものが込み上げてきたのだろう。最後には廊下の奥にまで響き渡る大声になっていた。そんな寺尾を表情一つ変えずに見つめていた田本は、寺尾の話が止まったところで、睨めっこをしていたパソコンを鞄にしまい、上着を着て立ち上がる。

「何かと思えばそのことですか。確かに、僕が以前いた西校でウィルスの第一感染者が発見されたのは事実です。そして今回はあなたのお母様が運悪く感染してしまいました。どちらの場合も、僕という共通点がありますね。しかし、だからと言って、それだけで僕がウィルスを運んでいると言うことにはなりませんよ。事実、僕は二回も保健所の検査を受けています。その二回とも、感染の疑いなしと判断されています。これはどう説明するんですか?」

「それは……きっとあなたはウィルスを持ちながらも、それに対抗できる何らかの手段があるか、もしくはウィルスに対する特別な免疫を持っているか……」

「それこそ、あり得ない話ですね。失声ウィルスは新たに発見された、前例のないウィルスですよ? 僕は普通の人間ですから、この短期間でウィルスの免疫が構成されることはまず不可能ですし、国ですら特効薬を作り出せないでいるというのに、たかが非常勤の教師ごときがそんなノーベル賞ものの手段を持っている訳ないでしょう」

「で……でも!」

「それに、西校とこの幡ノ橋高校以外でも感染者は出ています。その事実が、この街全体にウィルスが潜んでいるということを証明しているじゃないですか。あなたはお母様がウィルスに感染したことで気が動転しているんです。少し落ち着いて下さい。誰かに責任を押し付けたくなる気持ちもわからなくはないですが、少しばかりやりすぎではありませんか?」

 田本の完勝だった。まあ、戦う前から結果の見えていたことだ。田本の言っていることに間違いはないし、嘘を言っているとも思えない。やっぱり寺尾の勘違いだ。こんな生徒の相手までしないといけない田本に、少し同情してしまう。教師というのは本当に面倒臭い仕事だ。こんな面倒臭い生徒ばかりだから、この学校の教師は皆やる気を出さずに、僕に対するいじめなんかも見て見ぬ振りなんだろう。

「もう帰りましょう。このことは誰にも言いませんし、僕自身も気にしてませんので安心してください。じゃあ、僕は施錠の点検をしなくてはいけないので、先に出てもらえますか?」

 田本は職員室の扉を開き、僕達に帰宅を促した。

 こうしてみると、恥はかいたけれど一日で訳のわからない迷探偵は鳴りを潜めることになる。スピード解決でよかったじゃないか。明日からはまた、いつも通りの生活が待っているだけだ。さあ、もう用事は済んだ。さっさと帰って、こんなくだらない探偵ごっこは終わりにしよう。

「……そうですか。では、こちらで調査は継続させてもらいます」

「何故ですか? 今、僕が話したことが真実です。これ以上調べたって何の意味もありませんよ?」

「……私、西校に友達がいるんです」

「……」

「その友達が教えてくれました。第一感染者である女性は、感染の前日に三者面談で学校を訪れ、自分の息子の担任教師と激しい言い合いをしたそうです。かなりヒステリックな方だったようで、最後には暴れだし、異変に気づいた他の先生方が止めに入ったんですって。その時、誤ってその女性を突き飛ばし、怪我をさせてしまった教師がいたみたいなんです。知ってますか?」

「……ええ」

「それで、だいぶもめたみたいなんですが、ウィルスのことで結局うやむやになったそうなんです。でも、事情がどうあれ保護者に手を上げてしまったのは問題ですから、その教師は学校を去りました。被害者である女性もウィルスのことで入院したまま。生徒も登校拒否が続いているそうです」

「……そうですか。それは、悲しいことですね」

「ええ、全くです。それで、実は私の父親、医療関係の仕事をしているので、その感染者である女性がどこの病院に入院しているか調べることが出来るんです。本来であれば個人情報なのでそんなことは一切出来ないのですが、私の母親もウィルスに感染していますから、情報共有のためとでも言えばなんとかなると思います。そうすれば、その女性からも話が聞けると思いますし、うまく行けば、その息子さんからも色々と話が聞けると思うんです。たぶん、それで表には出ていない、隠された事実を知ることができるんじゃないかなと思います」

 冷静に、言葉を一つ一つ確かめるように話す寺尾。先程までの怒りは静まり返り、田本を説き伏せるように真直ぐに視線を送っている。これが、寺尾の言っていた揺さぶりなんだろう。落ち着いた声で話す寺尾を、田本は黙って見つめ続けている。急に職員室中の空気が張り詰める。

「話はそれだけです。それじゃあ、私達は帰ります」

 寺尾が僕の方を見て「帰るわよ」と目で合図を送る。それに合わせるよう二人で職員室から出ようと動き始めたとき、田本が職員室の扉を閉める。

「そうですか……」

 田本は授業の時よりもさらに小さな声で呟きながら、僕らに背を向けた状態で、扉に何かをしている。田本が何をしているのか、気づいたときにはカチャリという音が耳に届いてきていた。

「ちょっと! 何してるんですか!?」

「え? ああ、鍵をかけたんですよ。施錠の点検をすると言いませんでしたか?」

「まだ私達が中にいるでしょ!?」

「ええ。だから閉めたんですよ」

「なっ……!」

 振り返り、こちらに向き直った田本の目は笑っていた。悪寒が走るほどの、気持ちの悪い視線だった。笑えるような会話などなかったはずだ。何がそんなにおもしろい。

「困るんだよ、余計なことされると。そう言う、ねちっこくてウザイところは母親にそっくりだな、おまえ」

「な……なんですって!?」

「ああ、うるさいうるさい。言い方までそっくりだよ。やめてくれ、思い出しちまうじゃねえか。胸糞悪い」

 急に態度が変わった、と言うより、これはもはや別人だ。ついさっきまで、こんなふてぶてしくて、いやらしい男はここにいなかったはずだ。誰だ、こいつは。

「おまえらも運がなかったな。余計な詮索をせずに、黙って引っ込んでいればよかったものを。今後、こんなことが出来ないように、おまえらにも黙ってもらうことにするよ」

「ど……どう言うことよ……」

「わかんねえのか? 頭の悪いガキだなあ。おまえも母親の後を追わせてやるっつってんだよ」

「……やっぱり、あんたがウィルスを!」

「ウィルス? はっ、ウィルスだって?」

 気でも狂ったのか、いきなり高笑いを始める田本。その声は、本当に田本が笑っているかどうかさえ疑ってしまう、今までに聞いたことのない甲高い声だった。完全に常軌を逸している。何故ウィルスという言葉に反応してこんなことになるんだ。

「おまえらも含めて、この国の連中は本当におめでたいなあ! ウィルスだって? お笑いだ」

「何なのよ、一体!?」

「……お前らさあ、本当にウィルスなんてあると思ってんの?」

「……えっ?」

「感染経路は不明、対抗する薬も治療法もない。そりゃあ、そうだよな。存在しないものがどうやって感染したかなんてわかんねえだろうし、存在しないものには対抗しようがねえからなあ」

「存在しないって……」

「そうだよ。ウィルスなんて始めからなかったんだ。でも、次から次へと同じ症状の人間が発見されるのに、原因が一切わからない。焦った国は新種のウィルスを勝手に作り上げ、そのウィルスに全てを擦り付けたんだ。未知のって枕詞を付けりゃあ、なにもわかっていない現状を正当化できるからなあ」

「じゃあ……何で声が……」

「答えは簡単だ。俺がウィルスではない方法でそいつらの声を奪ってやったからだよ」

「そんな! そんな非現実的なこと出来るわけないじゃない!」

「出来るんだよ。俺も最初は驚いたがな。ウィルスに感染したことになっているやつは全員、俺がやったんだよ。おもしろいもんだぜ? 相手に触れたまま黙れって念じれば、次の日にはそいつの声が出なくなってるんだからなあ」

 確かに、失声ウィルスなどこの世には存在しないもので、国がその事実を隠しているという話が本当なのであれば、被害者が六名も出ているのに、一切何もわかっていないという状況にも説明が付く。でもそれならば、こいつは、田本はもしかして……。

「西校の時も同じだったよ。あのガキ、頭が悪いくせに勘だけは良くってよ。自分の母親が声を失ったのはお前の所為だって殴りかかってきたんだよ。俺もその時はまだ半信半疑だったから、お仕置きの意味も含めて、そいつに同じことをしてやったんだよ。思いっきり首を絞めながら念じたんだ。黙れ黙れ黙れってな。そしたらどうだ、最初は抵抗してぎゃあぎゃあ騒いでたやつが、段々と擦れ声になっていってよ。終いには口から空気の音しかしなくなったよ。自分でも声が出なくなったことに気づいたら、呆然としてたな。たぶん、それでおかしくなったんじゃないかな、あいつ。楽しかったなあ。満たされた気分だった。でもそれじゃあ、俺がやったってばればれだろ? 親子揃って俺と関わった途端に声が出なくなったんだ。さすがにそれは疑われる。だから、無差別に他の人間にも同じ事をして、そういう病気だってことになるように仕向けたんだよ。こんなにうまくいくとは思わなかったがなあ。ただ、その時は楽しくなかったよ。必死だったってのもあったが、やっぱり抵抗する人間が徐々に声を失っていくっていうシチュエーションじゃないと興奮しないんだよ」

 田本は笑いながら話す。こいつ、狂っている。

「じゃあ、あんたはお母さんの首を絞めたのね!」

「ああ? 本当に頭の悪いガキだな。そんなことしたら、声を奪う前に騒ぎになって捕まっちまうだろ。首を絞めたのは西校の糞ガキん時だけだ。首なんか絞めなくたって出来るんだよ。要は相手に触れてさえいればいいんだ。お前の母親の場合は、一瞬手に触れただけで出来たよ。指導室を出る時にちょうどよくペン立てを落としてくれたからな。一緒に拾っている時に少し手に触れて、その瞬間に全ての憎しみを込めて念じたのさ。結果はご覧の通りってわけだ」

「そんな……そんなこと……」

「理解しようとしなくてもいいさ。これから自分の体で体験するんだからなあ。本当に今日はラッキーだ。また、あの充実感を味わえる。お前らにお礼を言いたいぐらいだよ」

「いや! 来ないで!」

 ゆっくりと近づいてくる田本に対して、寺尾は近くにあったものを手当たり次第に投げつけながら田本との距離を取ろうと必死に逃げ回る。

「おいおい、あんまり散らかすなよ。片付けるのが面倒臭いんだから。それに、シャーペンとか投げられると結構痛いんだぜ? 知らないだろ? 授業中に生徒から物を投げつけられる教師の痛みや気持ちなんて」

「うるさい! 来るな!」

「往生際が悪いな。お前もこの坊主みたいに諦めておとなしくしろよ」

「いやよ! そんなっ……!」

 近づく田本から逃れようと必死に距離を取っていた寺尾の足がもつれ、近くの机に乗っていた物をばら撒きながら転んでしまう。

「ああ、そんなに焦るから転ぶんだよ。さてどうする? 後ろは壁だし、ここは職員室の一番奥。逃げ場はないなあ」

「いや……」

「自分の声にお別れを言いな。もう二度と聞くことがないんだからなあ」

「いや! 助けて!」

 壁際に追い詰められた寺尾に手を伸ばす田本。


 何だ。この光景はどこかで見たことがある気がする。

 あそこでうずくまって助けを求めているのは、誰だ?

 あれは、僕?


「お願い! 助けて!!」

「ははは! あそこの坊主に助けを求めてんのか? さっきから一歩も動かずに、棒立ちしているあいつにか? あんな見るからに頼りなくて、非力で、諦めの良い奴がお前を助けるわけないだろうが! 現実を見ろ! お前は余計なことに首を突っ込んで、自分の声を失うんだ! そして、その声は二度と戻ることはない! 母親と共に絶望の中で生きていくしかないんだよ! 最高だなあ!」

「助けて! 助けて!!」

「おっと、言い忘れてたが、このことを誰かにばらしたら、それを聞いた奴も同じ目に会うからな。まあ、声を失った糞ガキのお前らが、こんな現実離れしたことを誰かに話しても、声が出なくなって錯乱しているから変なことを言っている、ぐらいにしか思われないと思うけどなあ。じゃあな、声が出なくなっても元気でやれ……っ!!」

 無意識だった。

 無意識の内に僕は駆け出し、田本に体当たりをかましていた。薄っぺらい紙のような田本の体は勢いよく吹っ飛び、壁に激突し、ぼろ雑巾のように寺尾の真横に崩れ落ちる。

「逃げて!」

 久しぶりに叫んだ所為か、突然の仕事に対応できていない僕の声帯が震え、かなり擦れた声になっていた。それでも寺尾にはしっかりと届いたみたいだ。うずくまっていた寺尾は這い蹲るようにして職員室の扉まで逃げる。

「うっ……くそっ!」

 倒れていた田本が動き始める。早くしろ! 早く逃げてくれ!

「だめ! 鍵が……」

「くっくっく。そうだよ、逃げられはしないさ。坊主、お前の勇気は認めてやるが、無駄なあがきだったな。ここでおとなしく待ってろ。まずはあの女からだ」

 田本はよろめきながら立ち上がり、再び寺尾の下へと歩み寄って行く。まずい、このままじゃさっきと同じだ。どうしたらいい? どうすれば……。

 いい方法がないか、頭をフル回転させ思考を巡らせていると、視界の端で何かが光り邪魔をしてくる。気になって考えがまとまらない。仕方なくその正体を確認するため光の在りかを探す。田本が倒れていた壁際で、一つしか灯っていない卓上ランプの心もとない明かりに反応し、キラキラと鈍い光を放っている銀色のギザギザが落ちていた。これは!

 頭で認識するよりも早く、体が反応していた。落ちていた鍵を拾い、寺尾に向かって投げる。

「これ!」

 鍵は寺尾の目の前に音を立てながら落ちる。最初は、寺尾も田本も、僕が何を投げたのかわかっていなかったが、寺尾はいち早く気づき、慌てて鍵を拾い上げ、震えた手で必死に鍵を鍵穴に差し込む。

 掛けられていた鍵が開錠され、扉が開いた瞬間、ようやく田本も気づいたようだったが、時既に遅く、寺尾は解き放たれた扉から一目散に逃げ出していた。

「……お……お前。おまええええええええええ!!」

 怒り狂った田本がものすごい速さで突撃してきたかと思うと、その勢いのまま僕を押し倒し、首に両手をかけ、ありったけの力で絞め始める。

 苦しい。

 息が……息が出来ない。

「お前か! お前か! お前か! お前かあ!!」

 段々と顔を近づけながら、手に力がこもってくる。

 苦しい。

 僕はこのまま死ぬのか? こんなやつに殺されるのか?


 嫌だ!

 来るな! 嫌だ!

 来るな!


「うおっ!!」

 田本の呻き声と、たくさんのものがぶつかり合いながら床の上を引きずられるような、凄まじい音が聞こえた。

 むせ返りながら起き上がると、職員室は大地震が起きた後のような、ひどい有様になっていた。机や椅子がひっくり返り、引き出しに入っていた書類や文房具が至る所に飛び散っていた。よく見ると、その惨劇は僕を中心として扇状に広がっている。さっきまで僕の目の前にあった机や椅子も、首を締め付けていた田本も姿を消し、何もない空間だけが残っていた。少し先を見てみると、消えたと思っていた机や椅子は何かに押されたように追いやられ、田本もその中に紛れて倒れていた。

 まただ。

 またやってしまった。

 欲望者の力。

 バケモノの力。

 僕は、学校もあの廃ビルのように壊してしまうのか。

 僕は、僕は……。


 しばらく田本は起き上がらなかった。僕も動くことが出来ない。動いてしまったら、またあの力が出てきて、今度こそ学校を壊してしまう気がした。これ以上、僕はバケモノになりたくない。あんなことは、もう二度と起こしたくない。

 どれだけの時間が流れただろうか。職員室は静まり返り、田本の机にある卓上ランプだけが灯っている。僕は逃げる事も忘れ、何も考えられずにそこでぼうっと座っていることしか出来なかった。職員室の時だけが止まっているように思えた。

「何だよ、何なんだよおまえ!」

 倒れていた田本が叫ぶ。眼鏡にはヒビが入り、スーツもぼろぼろだ。

「畜生! それなら!」

 また田本が近づいてくる。今度は押し倒さずに、力を入れないで僕の首に片手を当てる。

「そうさ! 触れてさえいれば良いんだ! 触れてさえいれば!」

 このままじゃ僕の声が奪われる。でも、拒めばまたあの力が……。

 もう、駄目だ。

「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!」

 僕の声は失われた。もう僕は話すことが出来ない。誰かに自分の気持ちを伝えることも出来ない。おもしろいことがあっても、大声で笑うことも出来ない。僕の音は永遠に戻ることはないんだ。

「やった……やったぞ! はははは! やったぞ!」

「やめろ! 何をしてるんだ!」

 男が二人、荒れ果てた職員室に飛び込んできた。体格の良い男と、ベテランの風情が漂う男。二人とも紺と薄い青の二色が基調となっている、おそろいの服を着ていた。警察官だ。

 二人の警官は入って来るなり、体格の良い方が田本を僕から引き剥がし、うつ伏せの状態で取り押さえる。もう一人のベテラン風は僕を田本から遠ざけて、激しい口調で問いかけてくる。

「君! 大丈夫か!? おい!」

「……」

「おい! 聞こえてるのか!? 返事をしなさい!」

「……だ……大丈夫です」

「良かった、怪我はないか?」

 警官の勢いに圧倒され、自然と話をしていた。

 声が、声が出る。僕の声は失われていない。

「……おい……何でだよ。何で喋れるんだよ! 俺は確かにやったぞ! ちゃんと念じた! ちゃんと触った! どうしてだよ!」

「黙れ! おとなしくしろ!」

「黙れだと!? 俺に言ってるのか!? 俺に黙れだって!?」

「おとなしくしろと言っている!」

 激しく抵抗する田本を、がっちりと押さえつける警官。田本は僕が普通に喋っていることで、かなり困惑しているようだ。あの体格差で勝てるわけがないのに、警官を振り払おうと必死にもがいている。

 そうしているうちに、窓の外に続々と赤い光が集まり始めていた。光の数から考えると、少なくとも四台以上のパトカーが集結しているようだ。同時に、そのパトカーでやってきたと思われる警官が一人、二人と職員室に到着する。最終的には、田本に四人、僕に三人の警官がつくことになった。田本は屈強な警官四人に拘束され、パトカーに連行されていった。連行されている間中、ずっと叫び続けていたが、何を叫んでいたかは聞き取ることが出来なかった。

 終わった。何だか夢を見ていたような気分で、さっきまでのことがはっきりと思い出せない。まだ、首には田本に絞められた時の感覚が残っているけれど、声はしっかりと出るし、学校を壊さずに済んだ。やっと、長かった一日が終わる。

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