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欲望者  作者: コハタヤスマサ
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本音 ⑤

 学校からバスで地下鉄の駅まで七分、地下鉄を途中で乗り換え三十分、さらにバスに乗って二十五分、そこから徒歩で十五分。総移動時間、約一時間半。嫌になるほどの乗換えと時間をかけて、ようやく辿り着いた。そこは背の高い建物はせいぜい三階建てで、後は一軒家だとかアパートが連なる住宅街。近くにはコンビニもなく、道路も狭い街外れ。以前、ブローカーに連れられて行った廃墟一歩手前の商店街とまではいかないものの、それに近い寂しさが漂う。田本の家は、その一角にある、見るからに古いアパートだった。錆び付いてこげ茶色になった鉄製の階段が飛び出している、二階建てのぼろアパート。各部屋の扉も薄汚れていて、グレーに近いクリーム色になっている。扉の数からすると上と下にそれぞれ四部屋、合計八部屋から構成されている建物のようだ。

「ここね。汚いアパート。らしいと言えばらしいけど。えーっと……田本の部屋は二階の奥から二番目、二〇三号室か」

 なんの躊躇いもなく自然な足取りで階段を昇り始める寺尾。手には田本の自宅住所と電話番号が書いてある、花柄のかわいらしいシステム手帳が握り締められている。なんともファンシーな名探偵だ。いや、これは俗に言う、迷う方の探偵か。

 しかし、今更考えるのは遅いかもしれないが、自宅を突き止めて何をするつもりだろうか。田本が帰ってくる前に調査を終わらせると言っていたが、まさか部屋に侵入するつもりじゃあないだろうか。それは住所を勝手に調べ上げることよりもしっかりとした、不法侵入という犯罪だ。僕はこの歳で犯罪者になりたくはない。そんなこと、出来ないというのはわかっているが、なんだかすっきりしない気分だ。

「あったわ。表札も田本だから、間違いなさそうね」

 確認を終えた寺尾は、辺りを見回す。見回したところでここはただのアパート二階、各部屋の玄関を繋ぐ共用廊下だ。何かがある訳がない。床は至る所に小さなヒビが入っている薄汚れたコンクリートで、経費節約のためなのか、僕のマンションの廊下より幅が狭い。もし、こんな狭い廊下に何か置いてあれば、通行が不可能になり他の入居者から苦情がきてしまう。

「さてと……」

 扉の前にしゃがみこむ寺尾。何をするのかと思い後ろから様子を窺っていると、扉の横に設けられている新聞受けのカバーを指で強引に押しのけ、部屋の中を覗き始めた。よく中が見えないのか、体をくねらせたり、さらに屈みこんで視線の位置を変えたりと、せわしなく動いている。誰かに見られたら確実に怪しまれてしまう。一切の言い逃れが通用しない、如何わしさが溢れ出る女子高生だ。そして、それに付き合わされている僕は、何をしている訳ではないけれど、傍から見ればこの怪しい女子高生をサポートするために、周りを監視する役目を担っている男子高生、になるのだろう。

「よく見えないわ。とりあえず、帰ってきてないことは確かね」

 そりゃそうだ。田本が学校にいることを確認した上でこちらに向けて出発したのだから。家にいてもらっては困る。と言うか、いたらおかしい。時空を超える超能力や秘密兵器を使うか、学校にいたのは実は替え玉で、僕らが来るのを待ち伏せていた、なんてことでもなければ不可能だ。それに、万が一田本が帰ってきていたら、こんな大胆に新聞受けから中を覗いているのだから、早々に気付かれてアウトだろう。

 寺尾は「よいしょ」と言いながら立ち上がると、今度はドアノブに手をかける。嫌な予感がする。予感と言うか、ドアノブを握った時点でその先の行動は一つしかない。もし仮に、ここに僕以外の人間が十人いたら、十人が全員同じ答えを出すだろう。そして、寺尾はその答え通りの行動を起こす。

 ガチャガチャガチャガチャ

 右回しから左回しへ、何度も何度もドアノブを回転させる。金属同士がぶつかり、静かな住宅街全域に届いてしまうんじゃないかと思えるくらい、騒々しい音が鳴り響く。少し苛立ってきたのか、回すだけでは飽き足らず、引いたり押したり、扉全体を前後左右に激しく揺さぶり始める。どう考えてもやりすぎだろう。

「鍵は閉まってるわね」

 当たり前だ。例え、ほとんど人影のないこんな住宅街であっても、この時代このご時世に、自宅の鍵をかけずに外出するなんて常識外れもいいとこだ。

「えーっと……」

 学生鞄を漁り始める。今度は何だ。頼むから、これ以上おかしなことはしないでもらいたい。鍵はかかっているし、田本が失声ウィルスに感染しているという事を証明する手がかりなど、どこにも見当たらない。諦めてさっさと帰らなければ、本当にここの住民の誰かに気づかれてしまう。

 だが、寺尾は諦める気など全くないようで、鞄を床に置いて奥底を探し続けている。

「確かここに……あ! 違う違う! お財布に入れたんだ!」

 独り言を言いながら、鞄の奥底にしまってあったと思われる、ラメが入った横長の黒い財布を取り出す。

 まさか、そんなことはないはずだ。さすがにそれは無理だ。いくら金持ちのお嬢様だからと言って、そんなことまで出来るはずがない。出来てはいけない。

 そんな、僕の願いにも似た予想は一瞬にして覆される。

「あった」

 鍵。辞書の形を模したキーホルダーが取り付けられている、銀色に輝くギザギザ模様。寺尾は迷うことなく、その鍵を田本の家の鍵穴に差し込む。

 カチャリ

 乾いた音が鳴る。寺尾の乱暴な揺さぶりに、頑としてその姿勢を崩さなかった古びたクリーム色の扉は、一瞬の内に、何の抵抗もなく、呆気なく解錠した。

「さて。これからが本番よ。絶対に証拠を見つけてやるわ」

 もう駄目だ。これは本当に救いようがない。どう言う手段を使ったかは知らないけれど、現代社会に生きる女子高生と言う生き物は、他人の家の鍵を入手するということを平然と、いとも簡単にやってのけるのか。この日本と言う国の教育はどうなっているのだろうか。この犯罪行為に何の後ろめたさも感じない人間に育ってしまったこの女子高生は、どんな環境の中で、この行為は全く悪いことではないという判断が下せるような人間になってしまったのだろうか。驚きの後、遅れて恐怖が込み上げてきた。

「何!? 何か文句あんの!? 私だってこれがいけない事だってのはわかってるわよ! でも、これぐらいじゃないとあいつの正体には近づけないわ! 私は何としても、あいつがウィルスを広めている証拠を見つけ出さなきゃいけないのよ! 嫌ならあなたはここで待ってて! 見張りでもしてなさい!」

 真剣な顔で怒る寺尾。勘違いをしているにしても、彼女は彼女なりに必死なようだった。意図的ではないにしろ、自分の母親が、学校やその周辺の人間に迷惑をかけたという事実。そして、その母親もウィルスによって声が出なくなるという運命を決定付けられているということ。嘆き、悲しみ、苦しみ、もがき。僕には知る由もないが、それなりに辛い思いをしてきたのだろう。

 でも、その結果、そのストレスを発散するため一番気に入らない人間にその矛先を向けると言うのは、責任逃れだ。わがままで、自分勝手だ。彼女はその感情で冷静さを欠き、犯罪に手を染めようとしている。正気に戻った時に、自分の取った行動の愚かさを、まざまざと思い知ることになる。当然、その場に居合わせた僕には、何故止めてやらなかったという他人からの言葉が投げ掛けられる。共謀者として同罪になり、僕自身にも責任が問われることになる。そんなのは嫌だ。僕は何もしていないし、田本が犯人なんてこれっぽっちも考えていない。錯乱した彼女に巻き込まれて、警察に補導されるなんてまっぴらだ。死ぬことの出来ない体になってしまった今、僕にはこの世で生きていくことしか残されていないんだ。その生きていく時間の中で、学校の外でも他人から忌み嫌われることになるなんて耐えられない。ここで彼女の行動を黙認してしまえば、それは現実味を帯びてくる。止めなければ、やめさせなければいけない。

「あれ! もしかして君達、幡ノ橋の生徒かな?」

 意を決し、彼女の愚行を止めようとしていた時、階段を昇りながら話しかけてくる男が現れた。寺尾も扉を半分まで開け、片足を侵入させていたが、動きを止め、声がした方に注目している。

 男はスーツ姿で、脱いだ上着を手にかけており、露になったワイシャツにブルーのネクタイが鮮やかだった。寺尾のように片手には皮製の黒い手帳が握られていて、肩からは、何を入れたらそんなに膨れ上がるのか、見るからに重そうなビジネス用ショルダーバッグをぶら下げている。短髪でがたいが良く、見た感じは二十代後半といったところだ。

 何者だろうか。もし、この男が警察の人間なら、かなりまずいことになる。

「その制服はそうだよね? よかった、田本先生はご在宅かな?」

「いえ、先生はまだ学校です。私達も今来たばかりなので」

「そうか、残念だ。君たちはここで何を?」

「私達は田本先生に頼まれて、帰りがけに先生の自宅へ物を届けに来ただけです」

「そう。生徒に自宅の鍵を預けるなんて、よっぽど君達は信頼されているんだね」

「……ご用件は何でしょうか? 私達はもう用事を済ませたので、出来れば早く帰りたいんですけど」

「ああ、そうか。いや、僕は田本先生に用事があっただけだから。いないなら改めさせてもらうよ」

「そうですか」

 寺尾は扉を閉めて鍵をかける。また、カチャリという乾いた音が鳴る。流石の寺尾も、この場面を誰かに見られては諦めるしかないようだ。それでも、怪しまれないようにとっさの機転でそれらしい理由を見繕う寺尾。この女優は演技もさることながら、どんな場合においても臨機応変に対応できる能力があるみたいだ。羨ましい限りだ。

「それじゃあ、失礼します。行きましょ」

 逃げるように、足早に男の横をすり抜けアパートを後にする。男は僕らを呼び止めることはなく、手帳に何やら書き込みをしていた。

 とりあえず、教師の自宅の鍵を生徒が持っているという、かなり怪しげな状況にも深くつっこみをいれてこないところからすると、あの男が警察の人間という線は薄いだろう。そして、あの男の登場によって彼女を止めることができた。僕の抱えていた不安は、不思議と、とんとん拍子に解決していった。まあ、僕は何もしていないが。

 寺尾は何も言わずに黙って歩き続ける。調査を邪魔されたことにだいぶ腹が立っているようで、歩き方が乱暴になっている。これからの事も考えていないみたいで、とりあえず来た道をなぞりながら足を進めている。考えていないのではなく、怒りが強すぎて考えられないんだろう。背中から黒いオーラが見えるようだ。


「おーい! ちょっと待ってよ!」

 しばらく歩いていると、先程の男が後ろから追いかけてきた。寺尾はコンクリートの地面を壊しかねない乱暴な歩みを止め、不機嫌そうに振り返る。

「悪いね、僕も手ぶらじゃあ帰れないもんだから、君達に少し質問していいかな?」

 ここで寺尾の怒りが頂点に達した。眼光は狼のように鋭くなり、髪の毛が逆立って、口から牙が生えてきたようにさえ見えた。怒りのメーターがあったのなら、限界値を振り切って飛び出していることだろう。

「何なんですかあなたは! 名乗りもしないで、失礼じゃありませんか!? 私達はお使いを頼まれただけです! あなたにお話しするようなことは何もありません!」

「ご……ごめん。そんなに怒らないでくれよ。僕も焦ってたもんだから。君達に不快な思いをさせてしまったのなら、謝るよ」

「それなら、もう私達に関わらないで下さい!」

「頼むよ! 僕は、決して怪しいものじゃないんだ! ほら!」

 男は懐から名刺を取り出し、僕達に提示する。名刺には「フリージャーナリスト 伊浦 一」と書かれていた。

「フリージャーナリストってことは……記者の方ですか?」

「そうそう。今、噂の失声ウィルスについて調べててねえ」

「それなら、尚更お話しすることはありません! 失礼します!」

「違うんだ! 聞きたいのは、田本先生についてなんだよ!」

「えっ……?」

 報道関係者の取材と言うだけで、拒否反応を起こすのは寺尾も同じだったようだが、伊浦と名乗る男は田本個人について話を聞きたいと言い出した。田本というキーワードに反応して、寺尾も困惑する。

「……何で先生について聞きたいんですか?」

「うん。君達は失声ウィルスが初めて確認された時のことを知っているかい? およそ二ヶ月前に隣の西区で女性が感染したのが初めてだった。その女性は四十七歳の主婦で、今までに大きな病気にかかった経験もなく健康そのものだったんだ。でもね、今だからわかる、奇妙な事実があるんだ。その女性には高校三年生の息子がいて、感染前日に三者面談で学校に行ってるんだ。そして、その翌日、突然声が出なくなり病院で検査を行ったところ、声帯の細胞がぼろぼろに破壊されていて、新種のウィルスなんじゃないかって話が囁かれるようになったんだ。そこで初めて失声ウィルスの存在が認知されるようになった。どうだろう。なんだかこの感染者の状況と、今回の感染者の状況が、妙に似ていると思わないかい? どちらも感染者は生徒の母親、感染が疑われた場所は学校、だ。しかも、最初の学校と今回の学校、どちらにも関係しているのが田本先生なんだ。その女性の息子が通っていた高校に国語教師として当時在職していたんだよ。田本先生が感染者に直接接触していたかどうかはわからないけれど、なんか引っかかってね。それで君達に田本先生がどんな人なのか聞きたくてさ」

「それ、本当ですか!?」

 再び大声になる寺尾。しかし、先程とはまるで様子が違う。なんだか、少し楽しそうだ。勢いに圧倒された伊浦がたじろいでいる。

「あ……ああ。当時、実際にその学校で取材をしてたから、確かだよ」

「どこの学校ですか!?」

「えっ……に……西校だけど……」

「西校ですね!? ありがとうございます! 行くわよ! ほら、急いで!」

「えっ……ちょ、ちょっと! 話を聞かせてよ! おーい!」

 急に態度を変えると、水を得た魚のように勢いよく駆け出す寺尾。伊浦の声は耳に届いていないようだ。呼び止める伊浦を一人残し、寺尾を追いかける。意外と足が速い。少しずつ距離が開いてゆく。どこに行くんだよ。これじゃあ追いつけない。

 行き先も告げずに走り出した寺尾は足を止める気配がなかった。果てしなく続く追いかけっこになるのかと、心身ともに絶望しかけた時、視界にコンビニの看板が飛び込んできた。寺尾はスピードそのままに、走行コースである歩道から外れてコンビニへと向かう。結局、コンビニを発見するまで全力疾走だった。辿り着いた時には、僕はほとんど走れずに歩くしかなくなっていた。先に到着していた寺尾はコンビニ前の駐車場で携帯を耳にあて、誰かに電話をしていた。まだ電話は繋がっていないようで、寺尾は真剣な表情で相手が応答するのを待っている。疲労しきった僕がようやく寺尾の近くに辿り着いた時に電話が繋がったようで、繋がるや否や、怒涛の勢いで話し始める。

「もしもし、ゆみ!? 私! ええ、久しぶりね。ごめんね突然。ゆみって西校よね? 田本って教師知ってる? 本当!? うん。うん、そう。その田本って西校で見つかったウィルス感染者となんか関係ある!? え!? そのまんまの意味よ。うん。うん。……………本当!? 本当なのね!? わかった! うん、ありがとう! じゃあ、またね!」

 西校に通っている友達に電話をしていたようだが、聞きたいことだけ聞いて一方的に電話を切ってしまった。やけに興奮しているように見えるのは、気のせいだろうか。

「有力情報よ! これを餌にして揺さぶりをかければ、あいつも堪らず全てを告白して罪を認めるでしょうよ! 善は急げ! 学校に戻るわ! 何やってんのよ! 駆け足駆け足!」

 もう走れない。勘弁してくれ。

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