壁 ①
「何があったの?」
「人が倒れてたんだって」
「自殺みたい」
「飛び降りた所を見た人がいたらしいよ」
「なんでまた自殺なんて」
ぼんやりと見える野次馬の群れ。聞こえるはずのない会話が、目線や表情だけで伝わってくる。すぐ近くでは、救急車でやってきた隊員達が必死に作業をしているというのに、大してそんな気もないくせに、心配や同情、そんな当たり障りのない、どうでもいい会話ばかり。本当の所は、何が起きて、どんな経緯でこんなことが起こったのかを知りたいだけなんだ。どんな小さな事も見落とさないようにと、キラキラ輝いた好奇の目が夜空の星よりも鮮やかで、全ての音を聞き逃さぬようにと、限界まで緊張して尖った耳が三日月のようだ。なんて気持ちの悪い夜空だろう。目を逸らしたくても、体が言うことを聞かず、この奇妙な夜空が広がる暗闇をただ見つめることしか出来ない。見ている側にしてみれば、良い退屈しのぎになっているのだろう。そして得た情報を元に話のネタにするのだ。所詮、野次馬は野次馬。僕のことを心から心配している人間なんていない。それに、こんな興味本位で集まって来た、どこの誰かもわからない奴らに心配して欲しいとも思わない。心配してもらう必要はない。
僕は、まだ生きているから。
世間一般で、「いじめ」という言葉がいつから普通に使われてきたのかは知らないけれど、僕にとって、それが日常の一部となったのは、高校一年の中頃だったと思う。それは異質なものを排除しようとする、人間の本能的な行動なのかもしれない。そして、それが集団の統一された意思になった時、いじめが始まる。僕は学校で浮いていた。
昔はかなり真面目な人間だった。自分の出来る事を、出来る範囲で一生懸命こなしてきたし、言われた事はそれなりにやってきた。ただ、それが悪かったのか、親と教師から自分のレベルよりずっと高い高校を目指すように言われた。僕の通う中学のレベルでは到底ありえない進路だった。でも、出来ると思っていたし、それが正しい道だと信じていた。何の疑いもなかった。今思えば、あの時の自分は真面目だったのではなく、単にしっかりとした意思や考えがなかったから、示された道をそのまま歩んでいく事で安心しようとしていたんだと思う。あんなに勉強をしたのは後にも先にもそれきりだ。一日の生活の中で、何をしていても、どんな時でも、常に勉強が後を引く。勉強をしていないと不安になるぐらいに。辞めてしまおうと何度も思った。でも、周囲の人が抱く期待が予想以上に膨らんでいて、誰にも気持ちを打ち明けることが出来ず、気付けば後戻りが出来ない時期に差し掛かっていた。もう道は一つしか残されていない。必死にもがいて、必死に努力して、必死に我慢して。
結果、ギリギリ合格。運が良かった。この出来事で僕は一生分の運を使ってしまったのではないかと思っている。それでも合格は合格。素直に嬉しかった。皆も喜んでくれていたが、そんなのはどうでもよかった。褒められるのはいい気分だったけれど、それよりも達成感と開放感で、何かが一気に抜け落ち、体全体が軽く、温かいものに包まれているような気分だった。あの苦しかった時間が報われたのだと。
でも、実際に高校生活が始まると、そんな喜びはどこかへ行ってしまった。ギリギリとは言え入学出来たのだから、授業にもついて行けると思っていたけれど、そんなことはなかった。一秒一秒があっと言う間に過ぎて行くように、何を学んでいるのかすら理解できないまま授業が進んで行く。基本は予習済みという前提で、全てにおいて広く深く掘り下げて行く。結局、圧倒的な学力の違いについて行けず、中間で既に落ちるところまで落ちてしまった。そんな僕を見てクラスメイト達は、一人、また一人と話をしてくれなくなっていった。僕は、どうでもいい存在、むしろ邪魔な存在としてこの学校に取り残されていた。
レベル圏外の中学から這い上がってきた優秀生。不可能を可能にした努力人。入学前からそんな風に呼ばれていた有名人の正体は、学校のレベルには程遠い、奇跡の凡人だったのだ。頭の出来が良く、成績の優秀な人間からしてみれば、さぞかし不快な思いだっただろう。僕がこの学校で成績をつけられる度、テストで最低点を叩き出す度に、学校のレベルを落として行くことになるのだ。僕に降りかかる嘲笑や罵倒は必然だった。
僕が学校でいじめを受けている事を両親は知らない。僕が高校に入学してからは、二人とも朝早くに仕事へ出かけ、夜遅くに帰ってくる。高い授業料を払うために、毎日残業をして働いている。だから、お互いにほとんど顔を合わせることがないし、話をする時間もない。もしその時間があったとしても、あの二人は真剣に話を聞いてくれないだろうし、僕自身、話そうとも思わない。自分のことで精一杯のあの二人は、僕の心配などしている余裕はないだろう。鬱陶しそうに僕の話を聞く二人の顔が目に浮かぶ。
そんな二人だが、昨日の夜、僕が救急車で運ばれたという知らせを受けた時には、血相を変えて病院にすっ飛んできた。落ち着かない様子で医者や警察の話を聞き、事件の概要に驚き、自分の息子が何故こんな事になったのかと動揺し、僕の体を心配する素振りも見せていた。僕はそんな姿を見ても、心の中では「余計なことをして。面倒くさい奴だ」と感じているのだろうと思っていた。それが僕の親だ。そんな親なのだ。
こんな状況が嫌で、辛くて、悲しくて、耐えられなくなったから、昨日住んでいるマンションの屋上から飛び降りた。全てを終わらせるために。全てから開放されるために。
でも死ねなかった。
マンションは七階建てで、高さは十分。下はクッションになる様な物は何一つ無い、灰色のコンクリートが敷き詰められた駐車場。例え一命を取り留めたとしても、確実に大怪我だ。なのに、僕はかすり傷一つ無く、気絶して地面に横たわっていた所を発見されたそうだ。第一発見者は同じマンションに住む噂好きのおばさんだった。倒れている僕を見て死んでいるものだと勘違いし、大慌てで救急車と警察に連絡を入れ、マンション中の人間を呼び出したそうだ。嘘か本当か、僕がマンションの屋上から飛び降りた場面を見たとまで言っているそうだ。他にも余計なことを言っていそうな気がする。
病院に到着してからはっきりと意識が戻った僕は、医者の診断を受けた後、警察から事情聴取を受けた。僕は「星を眺めようと屋上に行ったら、足を踏み外してしまった」と嘘をついた。かなり無理のある言い訳だったが、その時の僕にはそれが精一杯だった。それに、真相を話したところで何も解決しないだろうし、もっと面倒なことになる気がしたから。この場は適当に流して、また機会を窺った方が現実的だと思った。その後、幾つか質問はされたが、特に突っ込んだ内容のものはなく、警察は意外とすんなり帰っていった。
そうして僕は、検査で一日入院したものの、すぐに退院し、いつもの日常に舞い戻ってきた。僕の大嫌いな日常に。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、住み慣れた部屋を満たす。寝ぼけ眼で見るその光景が、いつもと変わらない、一日の始まりを告げていた。憂鬱な気分で部屋を出ると、当たり前のように両親はおらず、リビングには静寂が広がっていた。あの二人が僕に付き添っていたのは病院に運び込まれた日だけで、検査の日も、退院した日も、今日も、仕事に出かけている。そんな予想通りの状況に、少し安心している自分がいた。もう親子という関係も消えてしまっているのかもしれない。
自分で用意したトーストを食べ終え、学校へ行くため制服に着替える。制服に袖を通すたび、気分が悪くなっていくのも毎度のことだ。決して慣れることのない感覚。不安と不快が胸の奥からじわじわと体中を侵食してゆく。学校へ行くことを強制する人間がいないのだから、そこまでして行かなくても良いのかもしれないが、その所為で、あの二人に学校から連絡が行ってしまったら、また面倒なことになる。学校へは行くしかないのだ。
マンションを出てバス停を目指し歩いている途中、三日前に自分が倒れていた場所が目に入った。立入禁止を示す黄色いテープが張り巡らされ、その周りを取り囲むように野次馬が群がっていた場所も、警察が現場検証をした後の、白いチョークがうっすら残っているくらいで、今では普通の駐車場に姿を戻している。あの時の騒ぎが嘘の様な静けさ。しかし、近づいてみると、少し窪んだコンクリートが、あの夜の出来事を克明に記録していた。
何故だろう。あの夜意識を取り戻してから今日までずっと、死ねなかった原因を考え続けている。どう考えても死に至る高さから飛び降りた。でも、現実はコンクリートが窪んだだけで、血の一滴すら残されていなかった。かすり傷一つなかったのだから当たり前なのだけれど、普通に考えると、それは当たり前ではないことだ。僕同様、他の人間も揃って首を傾げていた。医者は「奇跡だとしか言いようがない」と匙を投げ、現場検証を行った警察も「とにかく怪我がなくてなによりです」と、何もわかっていない状況をはぐらかすように話を切り上げていた。ただ、確実に何かがあった。自分自身でもわからない何かが。たぶん、いくら考えても答えはでないのだろう。そんなことは十分にわかっていたけれど、常に一人きりの僕に与えられる、有り余るほどの時間が思考を止めさせてはくれなかった。ただ、考えに没頭していた分、いつもより時間が進むのが早く感じられたから、それはそれで良かったのかもしれない。
そうして今日も時間は流れ、気づけば救いのチャイムが学校中に鳴り響いていた。
帰りのホームルームが終わり、遊びに街へ向かう者、部活動で部室へ向かう者、教室に残ってお喋りを始める者、各生徒が自由な時間を過ごす中、一刻も早くこの空間から抜け出したい僕は、教科書を鞄に詰め込み一直線に教室の出口を目指した。
「おい! 森黒!」
聞いただけで目眩がする、大嫌いな声が耳に侵入してくる。
「そんな急いで帰ることないだろ。久しぶりに来たんだからちょっと付き合えよ。休んでた分の練習しないと体が鈍るぜ」
ゆっくりと歩み寄ってきたそいつは、僕の肩に手を回し、圧し掛かりながら話しかけてくる。その声が鼓膜を突くだけで、不快感が全身を包み、同時にこれからやってくる時間を乗り切るため、体全体の感覚が鈍って行くのがわかる。そんな僕の雰囲気を感じ取ったのか、そいつはニヤリと笑い、肩に回していた手に力を込めて、体全体を押さえつけるように僕を引きずって行く。目的地はいつもの場所だ。時々頭に当たる「山下」と書かれたネームプレートがさらに不快感を増加させた。
この学校には生徒の溜まり場がある。たぶん、どこの学校にもあるはずの、教師に見つからずに何かを行うことが出来る場所だ。この学校では、校舎東側の一番端、敷地を囲うコンクリートの塀と校舎が最も接近し狭くなっている場所。教師に見つかった場合にすぐ逃げ出せるように、グラウンドへの退路が確保できる、一番端の焼却炉付近がそうだ。当然、そこに溜まる生徒は、そんな生徒ばかりで、山下もこの場所を愛用している。今日も引きずられてきたのはこの場所だった。ここに集まる奴らが何をやっているのか全て知っている訳じゃないけれど、地面に落ちているタバコの吸殻や、投げ捨てられているジュースの缶やペットボトルを見ると大体想像がつく。それに、高校生が学校で、教師に隠れてやることなんてこんなものだろう。一応、教師達もこの場所に注意を払っているみたいだが、文字通り注意を払うだけ、何の対策も講じていないのが現状だ。基本的にやる気がないのだと思う。最近は生徒の親も過激な連中が多いから、下手に取り締まるより、見て見ぬふりを貫いた方が学校側としても都合がいいのかもしれない。そんなこんなで、この場所は無法地帯となっていて、山下にとっては好条件の場所なのだ。
元空手部で、他の生徒達からも少し怖がられている山下は、この場所をスパーリングで汗を流す場所にしている。サンドバッグは僕だ。この場所を使う時間も、毎回放課後すぐと決まっていて、クラスメイトであれば、山下が僕と一緒に教室を出て行くだけで、これからどこで、何が行われているのか、すぐに理解できる。他のクラスの生徒でも知っている奴がいるくらいだ。だから、よっぽどの間抜けか、事情を知らない奴以外は、誰もこの時間、この場所に近づくことはない。校内で知らないのは教師だけ――のはずだが、もしかしたらこの事さえ、教師達は見て見ぬふりをしているのかもしれない。
「急に休むもんだから心配したよッ!」
到着するとすぐに、右の拳が下腹部目掛けて飛んできた。久しぶりで油断していた僕はその拳を防ぐことが出来ず、山下の憎たらしい右手の感触が、鋭く腹に伝わってくる。
「昨日、一昨日と俺がどれだけ暇だった事か。やっぱお前がいないとダメだわ!」
皮肉を言いながら次々と殴りかかってくる山下は、二日間のうっぷんを一気に晴らす勢いで、全く防御が間に合わず、何度も腹に痛みが走る。リズムを取るように、連続して当て、間隔を空けてから、再び拳が飛んでくる。余程楽しいのか、徐々にスピードが上がり、山下の表情も晴れ晴れとしてきている。そりゃ楽しいだろう。普通のサンドバッグは、一々攻撃に反応して呻き声を上げたり、よろめいたりはしないのだから。何度も何度も、激しく押し寄せる攻撃をひたすらに耐え続ける。これが山下の言う、練習だ。
「なんだ、もう始めてたのかよ。俺らがくるまで少し我慢しろよな」
呼びかけられて集中が途切れたのか、山下は攻撃をやめて一息つく。なんとも清々しい顔をしている山下は、傍から見るとスポーツをしている爽やか高校生に見えるんだろう。
「お前らが遅いからだろ。何してたんだよ?」
「菊池がモタモタしてっからだよ」
「なんだよ! 浅野だってクラスの女子に捕まってグズグズしてたじゃねえか!」
「うるせえな。あいつ彼女面してしつこいんだ。しょうがねえだろ」
山下とつるんでいる浅野と菊池だ。つるんでいると言うよりは、強いものに従うことで自分も強くなったと勘違いをしている、役立たずの子分といった感じだ。
「それより山下! あれ持ってきたぜ!」
「マジで!? 本当に持ってきたのかよ!」
不満げな顔をしていた菊池が、突然思い出したように鞄を漁りだすと、山下も浅野も、子供がプレゼントを貰うときの様な、輝いた眼差しで菊池の鞄に集中する。菊池が鞄から取り出したのは、真っ黒な革で作られた手袋だった。
「すげえ、本当に持ってたんだな。お前の?」
「違うよ、うちの親父の。なんかそっち系の物集めるの趣味みたいでさ」
「うわ、菊池の親父危ねえ」
山下は笑いながらその手袋を受け取ると、そのまま両手にはめる。良く見ると、指の第三関節部分に当たる所と手の甲の部分が区切られていて、少し盛り上がっているように見える。
「壊したら俺が殺されるから、気をつけろよ」
「わかってるよ」
手袋を両手にはめ終えて、何度か空突きをした後、山下は勝ち誇った顔で僕の正面に仁王立ちした。
「それじゃあ森黒。これから特別練習を始める。今、俺が着けたのはちょっと変わったグローブだ。ほら、よく漫画とかで不良が着けてるやつあるだろ? 拳を握り締めると、中に入ってる砂鉄が固まって打撃力がアップするやつ。あれを菊池が持ってるって言うから、どんな威力なのか試そうってことになってさ。お前の練習にもなって一石二鳥ってことで、持ってきてもらったんだよ。おいおい、そんな不安そうな顔するなよ。始めは優しくしてやるから安心しろって。んじゃ……」
僕に防御の時間を与えるように、ゆっくりと時間をかけて山下が構える。何が練習だ。ただそのグローブを試してみたいだけじゃないか。山下にとって僕はサンドバッグでありながら、実験用のモルモットでもあるみたいだ。腹が立ったが、この後に繰り出される山下の拳が、どれだけの威力を持っているか、初めて受けることでわからない。体が自然と防御の姿勢を取る。山下がいつも狙ってくるのは下腹部だ。今回も確実にそこを狙ってくるだろう。両腕を隙間なく揃え、盾のように下腹部前に構える。
山下は僕が防御の体勢を整え終えたことを確認すると、その構えた両腕目掛けて、迷うことなく、一直線に打ち込んできた。狙い澄ました一発が腕に当たり、驚いた拍子に揃えた両腕に隙間が出来てしまった。その隙間を縫うように山下の拳が進入してくる。山下の拳の勢いは衰えることなく、そのまま腕の隙間を貫いて下腹部に突き刺さる。山下の拳を受けた腕に激痛が走る。さらに、今までにない鈍くて重い痛みが下腹部を支配する。痛い。衝撃的な痛みでその場にうずくまる。
「危ね、力の加減難しいぞこれ」
「うわ、痛そう。菊池の親父こんなの集めて何したいんだよ」
「これ、コンクリートとか壊せるんじゃねえの? もう親父に逆らえねえ」
痛みに耐えている僕を気にする様子もなく、三人はグローブの威力に興奮し、驚いている。
「次は直接腹にいってみようか」
痛みで立ち上がれずにいる僕を、菊池と浅野が無理矢理ひっぱり上げ、そのまま両腕を封じる。二人に押さえつけられた僕は、完全に防御が出来ない姿勢になった。押さえつけた上で、腹にもう一度同じ事をするつもりだ。さっきの痛みから考えて、それが直接腹にくるとなると、絶望的な苦痛が襲ってくるのは間違いない。逃げたい。嫌だ。いつもは諦めて心の内にしまいこんでいる感情が、今回ばかりは抑えることが出来ない。菊池と浅野を振り払おうと、無我夢中で体を左右に揺さぶった。
「なんだよ、珍しく抵抗するな。一回でやめてやるからそんなに暴れんなよ」
ゆっくりと構えに入る山下。なんとか逃れようともがいても菊池と浅野が力いっぱい押さえてくる。それでも抜け出そうともがく。
嫌だ! 嫌だ!
必死に抵抗をする僕を、構えながらじっと見ていた山下が、突然構えを解く。
「……お前、なんで今頃そんなに抵抗するんだよ。死にたいんじゃなかったのか?」
山下の思いがけない一言。一瞬にして体が固まった。
「聞いたぜ。お前マンションから飛び降りようとして救急車で運ばれたんだろ? どうせ途中で怖くなって、飛び降りも出来ずに気絶したとかだろうけど。それでも死のうとしたんだろ?」
今日、周りの生徒から特別な視線を感じなかった所為か、僕が飛び降り自殺をしたということは学校で広まっていないと思っていた。だが山下は知っている。なら、間違いなく菊池と浅野も知っているだろう。この様子だと、既に全校生徒に広まっているのかもしれない。さすが、この学校の生徒は情報が早い。
「勝手に死なれると困るんだよな。俺等が疑われるじゃん。俺達が暴力を振るったのが原因なんじゃないのかって。おかしいだろ? お前を強くするために、防御の練習をしてるだけなのに。なんでそれが暴力になるんだよ。親切でやってんだから、むしろ最高の友達じゃないか? まあ、別に死にたいなら死んでもいいけどな」
三人がゲラゲラと笑い出す。
そうだ、僕は死のうとしていた。死にたかった。なのに何故こんなところで、痛いのが嫌だからと言って抵抗しているんだ。何故必死にもがいているんだ。そう思うと全身から力が抜けた。もうどうでもいい。いつものように、早くこの時間が過ぎ去るのを待っていればいい。
抵抗をやめた僕を見て満足そうな山下は、再度構え、今度こそ下腹部目掛けて勢い良く拳を突き出す。
「おらっ!」
山下が僕の腹を捉えようとした瞬間、どこかで何かが強く光る。雷が光ったような感覚だったが、空は晴れている。山下は動きを止め、菊池と浅野も、僕の両腕を放して辺りを見回している。
「シャッターチャンス!」
声がした方を見ると、背後にあった塀の上に、一人の男がインスタントカメラを持って座っていた。学校の敷地をぐるっと囲み、外から教室が見えないようにと、かなり高く作られた塀。ジャンプしても届きそうにないその塀に、男は悠々と座り込んでこちらを眺めていた。
「おっと、邪魔しちゃったかな? ごめんごめん。さあ、続きをどうぞ」
男は見たことのないやつだった。カフェでゆったりとコーヒーを飲んでいそうな、ハンチング帽をかぶった、眼鏡がお洒落な男。確実にこの学校の人間ではない。
「今のフラッシュはお前か!? 何してんだよ!?」
山下が大慌てで叫ぶ。かなり動揺していたのか、声が裏返って、少し間の抜けた声だった。
「何って写真を撮ってるんだよ。僕の趣味なんでね。今回のテーマは思春期の過ち、かな?」
男は人懐っこい笑顔で穏やかに話す。全く嫌味のない話し方が、逆に山下を馬鹿にしているようにも見える。山下もそこに苛立ちを覚えたようで、さらに声を張り上げる。
「そのカメラよこせよ!」
「なに怒ってんの? このカメラに都合の悪いものでも写ってるのかな?」
「いいから、さっさとよこせ!」
校舎を隔てた向こう側のグラウンドにまで響きそうな、普段では考えられない大声で山下が叫ぶと、男の顔から笑顔が消え、真面目な表情に移り変わっていた。その移り変わりの一瞬、ほんの一瞬ではあったが、男の表情から凍りつくように冷たくて、恐ろしいものを感じた気がした。
「全く、うるさいな。そんなに大声出さなくても、この距離ならちゃんと聞こえるよ。ん? あぁ、君が騒ぐから向こうから誰か走ってくるじゃないか。あの格好はこの学校の先生かな?」
塀の上に立ち上がった男は遠くを見ながら、グラウンドの方角を指差した。やはり山下の声がグラウンドに届いていた様で、気になった教師がこちらに向かってきているらしい。グラウンドを使っている部活の顧問だろうか。
「くそっ! 行くぞ!」
山下は男を睨み付けながら、逃げる様にその場を立ち去った。菊池と浅野も、それに続いて走り去る。その後姿が校舎の角を曲がり、見えなくなった所で振り返ってみると、塀の上に男の姿はなかった。
「おーい。何かあったのかー?」
校舎の向こうから教師の声が聞こえてきた。このままじゃ僕も色々と疑いをかけられてしまう。急いで落ちている鞄を拾い、あの三人と同じように、早足でこの場所から離れた。
下校時間になってからしばらく経つ校門前は、帰宅する生徒の数も落ち着き、人影もまばらで、グラウンドで練習に励む生徒の声や、吹奏楽部の音が響く、少し寂しい雰囲気の空間になっていた。ここを通り過ぎれば解放される。今日も色々あったけれど、とりあえずなんとかなった。安堵感から少し涙が出そうになった。山下に殴られた部分もまだ痛む。特に最後にグローブで殴られた腕には痣が出来ていて、さすると鈍い痛みが広がる。
「そりゃ、あんな防御じゃダメージを受けて当然だよ。素手での殴り合いなら、攻撃を受けるんじゃなくて、流すようにしないと」
急に背後から聞き慣れない声がして振り向くと、さっきまで塀の上に腰を下ろし、その後姿を消していた男が、僕の腕を覗き込むようにしながらついてきていた。至近距離なのに、全く気付かなかった。
「森黒正人君、だよね?」
男はまた、人懐っこい笑顔で話しかけてくる。僕の名前を知っているから知り合いかとも思ったが、記憶の中にこんな男はいない。関わってはいけない。理由はわからないが、そう思った。無視して歩き出そうとすると、男は慌てて追いかけてくる。
「ちょ、ちょっと待ってよ。少し話をするぐらい良いじゃない。僕は怪しい者じゃあないし、別に取って食おうってわけじゃないからさ」
自分で怪しくないと言う奴は百パーセント怪しい奴だ。それでなくても、さっき塀の上でいきなり写真を撮り、音もなく消え失せていたんだから尚更だ。バスに乗ってしまえば追ってこないだろう。いつも使っているバス停は学校から少し距離がある。走った方がいいかもしれない。もうすぐ校門を抜ける。そこで一気に走り出そう。
「何で死ななかったか、知りたくないかい?」
校門を抜け、駆け出そうと足に力を入れた所で、男の声に反応してしまい立ち止まる。見ると男は少し嫌味な笑顔を浮かべていた。
「ずっと考えてたんだろ? あの時、飛び降りたのに死ななかった理由」