蒼の残響、緋の軌跡
その痛みに慣れることは、十年間、ただの一度もなかった。
「……くっ」
エレは洗面台の縁を白くなるほど強く握りしめ、溢れそうになる悲鳴を歯列の奥で噛み殺した。
視界がまたたく間に熱を帯び、目元から頬へとしずくが伝い落ちる。それは涙ではなく、特殊な薬草の汁がもたらす拒絶反応の分泌液だった。
鏡の中に映る自分の顔を、エレは冷徹な目で見つめる。
波打つプラチナブロンドの髪は、男勝りに短く切りそろえられ、軍帽の中に押し込まれている。問題はその下だ。
鏡の中の瞳は、今、禍々しいほどの鮮烈な「緋色」を放っていた。
大陸の南方に位置し、十年前までは豊穣の地と謳われた「ラディオン王国」。その王族だけが網膜に宿す、神聖なる血の証。太陽の光を浴びれば、まるでルビーを嵌め込んだかのように妖しく、美しく輝くその色が、今この部屋の灯りの下でぎらぎらと自己主張をしていた。
「エレ将軍、間もなく定刻でございます。……お急ぎを」
背後の闇から、低く掠れた声が響く。
いつの間にか部屋の隅に控えていたのは、酷く背の曲がった老人だった。粗末な頭巾で顔を隠しているが、その手はひどく荒れ、独特の薬草の匂いを漂わせている。かつてラディオン王宮で御用薬師を務めていた、ガレノスという名を持つ男だ。王国が滅びた際、奇跡的に生き延びた彼は、「女将軍エレ」の唯一の理解者であり、影の協力者だった。
「わかっている、ガレノス。……持ってきてくれ」
「御意」
ガレノスが差し出したのは、精巧な玻璃ガラスの小瓶だった。中には、濁った深海のような、毒々しいまでに深い青色の液体が揺れている。
エレはためらうことなく瓶の栓を抜き、その液体を自らの両眼に二滴ずつ落とした。
「――っ!」
凄まじい激痛が走る。眼球を熱した針で抉られるような感覚に、エレの身体が硬直した。呼吸が止まり、全身から嫌な汗が噴き出す。この薬は、網膜の毛細血管を一時的に収縮・変質させ、瞳の色を文字通り「染め変える」禁忌の呪薬だった。肉体への負担は凄まじく、使い続ければいずれ失明するとガレノスからは警告されている。
だが、そんなことはどうでもよかった。
痛みが引き、再び鏡を見上げた時、そこにいたのは「緋色の王女」ではなかった。
どこまでも冷徹で、感情を排した、ガルディニア帝国に相応しい「深海の青」を宿した女軍人――。
「……完璧だ。今日も私は、帝国の忠実な犬でいられる」
エレは自嘲気味に微笑み、洗面台の水をすくって顔を洗った。
タオルの上から目元を押さえ、ゆっくりと深呼吸をする。頭の中で、十年前のあの夜の記憶が、濁流のように蘇ってきた。
十年前。ガルディニア帝国の圧倒的な軍勢が、突如としてラディオン王国へ侵攻した。
平和に慣れきっていた王国は、わずか三日で蹂躙された。王宮は炎に包まれ、父である国王も、母も、兄たちも、皆が帝国のブレードによって首を撥ねられた。
絶望の淵で、当時まだ幼かったルシフィードを救ったのは、兄の妻であるメディトリナだった。
メディトリナは、皮肉にもガルディニア帝国の名門貴族の令嬢であり、和平の証としてラディオンへ嫁いできた女性だった。政略結婚ではあったが、穏やかな優しい女性であり、兄との仲も良好であった。
祖国が夫の家族を虐殺する狂行を目の当たりにした彼女は、激しい炎の中、泣き叫ぶルシフィードの背中を押し、城の隠し通路へと逃がしたのだ。
『あなただけは逃げて、ルシフィード。必ず生き延びなさい……!』
それが、義姉との最後の言葉だった。
その後、ルシフィードは名前を捨て、「エレ」という偽名を名乗って泥の中を這うようにして生きた。物乞いから始まり、傭兵崩れの集団に混ざり、やがてその天性の剣の才能を見出されて帝国の末端の軍兵となった。
復讐のため。ただ、あの傲慢なるガルディニア皇帝の首を獲るためだけに、エレは文字通り血を吐くような修練を重ね、数多の戦場で戦果を挙げた。男たちの嫉妬と蔑みを実力でねじ伏せ、弱冠二十代半ばにして、帝国の軍団長――「女将軍」の地位まで上り詰めたのだ。
しかし、栄光の影で、エレの心は常に血を流していた。
なぜなら、彼女を逃がしたメディトリナは、「敵国の重要人物の逃亡を幇助した罪」に問われ、死罪こそ免れたものの、帝都の最奥にある不帰の離宮へ幽閉されているという風の噂を聞いたからだ。
(待っていて、メディトリナ義姉様。私は生き延びた。あなたの施してくれた慈悲を、決して無駄にはしない。皇帝を討ち、あなたを冷たい檻から救い出す。そのために、私はこの魂を悪魔にでも売り払う)
エレは腰に帯びた帝国制式の長剣の柄を強く握りしめ、軍帽を深く被り直した。
部屋を出る彼女の背中に、ガレノスが静かに頭を下げる。
青い瞳の仮面を纏い、亡国の王女は今日も、仇敵の住まう戦宮へと足を踏み入れるのだった。
激しい金属音が、荒涼とした平原に響き渡っていた。
帝国の北方に位置するヴァルカ地方。ここは長年、帝国への服従を拒む部族連合との小競り合いが続く、血生臭い最前線だった。
「右翼が崩れるぞ! 盾を構えろ、退くな!」
エレは愛馬の手綱を捌きながら、烈火のごとき声を張り上げた。
彼女が率いる第三軍団は、敵の夜襲を受け、一時的な混乱に陥っていた。雨のように降り注ぐ火矢が闇を切り裂き、兵士たちの悲鳴が交錯する。
エレは馬を走らせ、敵の猛者たちが集う乱戦の最中へと飛び込んだ。
彼女の剣は、美しくも容赦がなかった。無駄のない軌跡を描き、肉を断ち、骨を砕く。返り血が彼女の白い頬を汚したが、その青い瞳は一点の曇りもなく、冷徹に戦況を見据えていた。
「ハッ!」
一際大きな体躯を持つ敵の戦斧を、エレは長剣の腹で受け流し、流れるような動作でその喉元を穿った。絶命した巨体が泥の中に沈む。
「……ふう」
一瞬の呼吸。だが、戦場はそれを許さない。
エレの死角――背後の闇から、もう一人の敵兵が、鋭く研ぎ澄まされた槍を構えて突進してきていた。馬上のエレは、直前の激闘の反動で体制を崩しており、防ぐのは困難だった。
(しまっ――)
死を覚悟したその瞬間。
鋭い銀光が夜空を払い、エレの背後に迫っていた敵兵の胸を深く貫いた。
「――大丈夫か、エレ!」
聞き馴染みのある、しかし戦場には不釣り合いなほど清涼な声が響いた。
返り血を浴びながらも、凛とした佇まいで白馬に跨る青年。ガルディニア帝国の第一皇子であり、この征伐軍の総大将を務めるサフィールだった。
彼のプラチナに金を混ぜたような美しい髪が、火矢の明かりに照らされてきらめいている。その双眸は、理知的ながらも激しい闘志を秘めた琥珀色だった。
「サフィール殿下……! なぜ前線に? 貴方様は本陣で指揮を執るべきだ!」
「本陣の守りは固めた。君の軍が奇襲を受けたと聞いて、じっとしていられるわけがないだろう」
サフィールは当然のように言ってのけると、エレの隣へと馬を寄せた。
「来るぞ、エレ! 私に背中を預けてくれ!」
「……っ、御意に!」
エレは胸の奥を突き刺すような奇妙な疼きを覚えながらも、即座に思考を切り替えた。
二騎の馬が並び、戦場を駆ける。
サフィールの剣は王宮仕込みの正統派でありながら、実戦での無駄が削ぎ落とされた一級品だった。そして何より、彼はエレの動きを完璧に予測しているかのように、彼女の死角を補い、道を切り開いた。
エレが敵の防御を崩し、サフィールが仕留める。
サフィールが複数の敵に囲まれれば、エレが電光石火の踏み込みでそれを蹴散らす。二人が並び立った瞬間、戦場の流れは完全に掌握された。そこに介入できる者など、誰一人としていなかった。
「全軍、突撃! サフィール殿下に続け!」
総大将自らの奮戦に、気落ちしていた帝国兵たちの士気が爆発的に跳ね上がった。形勢は一気に逆転し、夜が明ける頃には、部族連合の軍勢は完全に敗走を始めていた。
朝日が、地平線からゆっくりと昇り始める。
赤黒い血に染まった平原が、黄金色の光に照らされていく。
エレは馬から降り、近くの岩に腰掛けて、剣に付着した血を布で拭い取っていた。
戦いが終わった後の虚脱感が身体を包む。そして、それ以上に重苦しい「罪悪感」が、彼女の胸を支配し始めていた。
「見事な剣捌きだった、エレ。君がいなければ、昨夜のうちに我が軍の右翼は瓦解していただろう」
足音が響き、サフィールが歩み寄ってきた。彼は自分の兜を脱ぎ、額の汗を拭いながら、エレに向けて眩しいほどの笑みを浮かべた。その笑顔には、裏表のない純粋な賛辞と、深い親愛が含まれている。
エレは慌てて立ち上がり、軍礼を取ろうとした。
「滅相もございません、殿下。私は将としての任務を果たしたまで。それよりも、殿下御自らの出陣はあまりにも危険すぎます。もし貴方様の身に万一のことがあれば、帝国は――」
「堅苦しい挨拶は抜きだ、と言っているだろう。今は二人きりだ」
サフィールは苦笑しながら、エレの手を優しく制した。彼の温かい手のひらがエレの手首に触れ、彼女は思わず微かに身じろぎをしてしまう。
「……はは、嫌われてしまったかな。君はいつも、私に対して見えない壁を作っているようだ」
「そのようなことは……。私は一介の軍人、貴方様は高貴なる皇子殿下。礼を失するわけにはまいりません」
「私は、君をただの部下だとは思っていない」
サフィールの眼差しが、真摯な熱を帯びてエレを見つめた。
「君の剣には、迷いがない。だが同時に、どこか哀しい響きがある。戦場を共にするたび、私は君のその強さと、心の奥にあるかもしれない何かに、どうしようもなく惹かれていくんだ」
「……!」
エレの心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。
冷徹な青い瞳の裏側で、ルシフィードとしての心が激しく動揺する。
(この男は、私の祖国を滅ぼした皇帝の息子だ。いつかその手で討つべき、仇の血族……!)
それなのに、サフィールと接するたび、彼女の決意は揺らいだ。
サフィールは、父親である現皇帝の冷酷な独裁政治を好んでいなかった。彼はいつも、占領地の民への過度な略奪を禁じ、兵士たちの命を尊び、誰もが怯えずに暮らせる平和な世界を望んでいた。その高潔な魂に、エレは気づけば惹かれてしまっていたのかもしれない。復讐という暗い闇の中で生きる彼女にとって、サフィールの純粋な光は、あまりにも眩しく、そして心地よかったのだ。
「私はね、エレ。昔、ある少女に会ったことがあるんだ」
サフィールは遠い地平線を見つめながら、ぽつりと言った。その表情は、ひどく懐かしそうで、そして切なげだった。
「まだ私が十歳にも満たない頃、父上の都合で、南方の美しい国へ連れて行かれたことがあった。そこで、見事なプラチナブロンドの髪をなびかせ、大人顔負けの凛とした姿で剣を振るう、年下の王女に出会ったんだ」
エレの身体が息をのむ。
「彼女の瞳は、まるで燃えるような美しい緋色だった。私を見つけると、不敵に笑って『帝国の皇子様、手合わせでもする?』と剣を向けてきてね。……内気だった私は、彼女のその強さと美しさに、一目で心を奪われた。それが私の、人生で最初の初恋だった」
サフィールは自嘲気味に笑い、首を振った。
「だが、その直後、帝国はその国を滅ぼした。私は父上を止められなかった。彼女がどうなったのかもわからない。……ただ、戦場で君の後ろ姿を見るたび、私はどうしようもなく、あの時の彼女を思い出してしまうんだ。君の髪の色が同じだからかもしれないし、その背負っている強さが似ているからかもしれない」
サフィールは再びエレに視線を戻し、その琥珀色の瞳で、彼女の「偽りの青い瞳」をじっと見つめた。
「変なことを言ってすまない。君は君なのに。……ただ、私は君と共に新しい国を創りたいんだ。恐怖で縛るのではなく、心で繋がる国を。そこに、君がいてほしい」
「……、……っ」
エレは言葉を失った。
喉の奥まで、何か言葉が出かかり、それを必死で飲み込む。
サフィールの初恋の相手は、自分だった。彼は今も、あの幼き日の出会いを大切に胸に抱き、亡き王女を想い続けている。そして今、目の前にいる「エレ」という偽りの姿の自分にも、同じように心を開いてくれている。
だが、彼は仇の息子で、自分は復讐者。
二人の間には、十万人もの同胞の血と、滅ぼされた王国の瓦礫が横たわっている。
決して交わってはならない。この想いを受け入れることは、祖国への、そして自分を逃がしてくれたメディトリナ義姉様への裏切りに他ならない。
「……勿体なきお言葉です、サフィール殿下」
エレは極めて冷徹な、凍りつくような声を作り出して言った。
その青い瞳に、一切の感情を宿さないようにして。
「私はガルディニアの軍人。殿下の剣となり、敵を討つ。それが私のすべてです。それ以上の感情も、過去の感傷も、私には不要でございます」
サフィールの顔に、あからさまな寂寥の影が走った。しかし彼はすぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべ、「そうか。すまない、困らせたな」とだけ言って、身を翻した。
遠ざかっていくサフィールの背中を見つめながら、エレは胸を掻きむしりたくなるような苦悩に悶えていた。
彼のことを愛してしまいそうになる自分への嫌悪感。そして、いつか彼を裏切り、その父親を殺さなければならないという未来への絶望。
「ガレノス……」
エレは小さく呟いた。
「薬を……もっと強い薬をくれ。私の心が、これ以上狂ってしまわないうちに……」
戦場の朝日はどこまでも明るく、だが、エレの心にはいっそう深い闇が落ちていくのだった。
地方の反乱を鎮圧した征伐軍は、数ヶ月ののち、凱旋のために帝都「グラン・ガルディニア」へと帰還することとなった。
帝都の巨大な城門をくぐりながら、エレの心は戦場とは異なる緊張感に支配されていた。
いよいよ、仇敵である皇帝の膝元へと戻るのだ。そしてそこには、十年間幽閉され続けているメディトリナがいる。
「エレ将軍、戻ったらまずは皇帝陛下への謁見だ。その後、夜には盛大な祝宴が催される」
馬を並べるサフィールが声をかけてくる。その顔には、前線での疲れは見られず、ただエレと共に無事に帰還できたことへの安堵が見え隠れしていた。
「はっ。陛下への勝利の報告、滞りなく済ませます」
エレは短く答えた。
彼女の視線は、遥か高くにそびえ立つ帝宮の天守へと向けられていた。
あの豪華絢爛たる城のどこかに、義姉様が囚われている。そして、あの最上階には、すべての元凶である皇帝がいる。
(ようやく、この時が来た。戦場での日々は終わりだ。これからは、暗闇の中での戦いが始まる)
エレは懐に忍ばせた、ガレノス特製の「暗殺用の毒」と、残り少なくなった「瞳の色を変える薬」の瓶の感触を確かめた。
祝宴の夜。それは、血と、裏切りと、そして真実が暴かれる運命の夜になる。
帝都「グラン・ガルディニア」の夜は、戦場のそれとは異なり、傲慢な富と権力の匂いに満ちていた。
大遠征の勝利を祝う凱旋記念の祝宴。帝宮の広大な大広間は、無数のクリスタルシャンデリアに照らされ、金銀の刺繍を凝らした衣装を纏う貴族たちと、華やかなドレスに身を包んだ淑女たちで埋め尽くされている。
「エレ将軍、今回のヴァルカ地方での大戦果、実に見事であった!」
玉座に君臨するガルディニア皇帝――グラディウスは、ねめつけるような眼光をエレに向け、低く地響きのような声で告げた。男たちの数倍の体躯を持ち、数々の国を血に染めて併合してきた覇王の威圧感は健在だった。
「身に余る光栄にございます、陛下」
エレは冷徹な深海の青い瞳を床に向け、完璧な軍礼を取っていた。心臓の鼓動は驚くほど冷静だった。五臓六腑を煮えくり返らせるような憎悪は、すでに氷のような理性の下に完全に圧し殺されている。
視線をわずかに動かせば、玉座の傍らに立つサフィールの姿があった。彼は第一皇子としての壮麗な礼服を纏い、どこか憂いを含んだ瞳でエレを見守っている。
(今夜だ。今夜、すべてを終わらせる)
エレが事前にガレノスを通じて入手した情報によれば、今夜の祝宴の最中、皇帝直属の近衛兵たちの配置が一時的に変更される。前線から戻ったばかりの第三軍団の一部が、宮殿の外郭警備を交代するためだ。その一瞬の隙を突けば、皇帝の私室への侵入、ひいては帝宮の最奥にある「不帰の離宮」へ通じる隠し通路へ近づくことができる。
目的は二つ。皇帝グラディウスの暗殺。そして、十年間冷たい檻に囚われ続けているメディトリナの奪還。
時計の針が深夜の十二時を回る頃、祝宴の熱気は最高潮に達し、浴びるように酒を飲んだ貴族たちの警戒心は完全に麻痺していた。エレは音もなく壁際に下がり、喧騒に紛れて大広間を後にした。
廊下に出た瞬間、彼女の身体は「女将軍エレ」から「暗殺者ルシフィード」へと切り替わった。
軍服の内側に忍ばせた一振りの短剣と、ガレノス特製の致死猛毒。
長い廊下を影のように進み、冷徹な青い瞳で周囲を警戒する。しかし、彼女の眼球にはすでに激しい痛みが走り始めていた。ここ数日、神経の昂ぶりからか、薬の持続時間が極端に短くなっていた。
(くっ⋯こんな時に⋯!)
視界の端がチカチカと赤く明滅するのを無視し、エレはついに皇帝の私室へと続く、大理石の回廊へと辿り着いた。普段なら二人の近衛兵が厳重に守っているはずの扉の前に、人影はない。計画通り、警備の交代の隙間を突いたはずだった。
だが、エレが扉の取っ手に手をかけようとした、その瞬間。
「――そこまでだ、エレ」
背後から響いたその声に、エレの全身の血が凍りついた。
ゆっくりと振り返る。そこには、剣を抜き、悲痛な面持ちで立ち尽くすサフィールの姿があった。彼の背後からは、松明を掲げた数十人もの近衛兵たちが、音もなく回廊の両側から現れ、エレを完全に包囲した。
「サフィール……殿下……。なぜ、ここに」
「君が祝宴を抜け出したと聞いて、嫌な予感がしたんだ。まさか、本当に父上の命を狙うつもりだったのか……?」
サフィールの声は震えていた。裏切られたという怒りよりも、信じたくないという絶望が勝っている、そんな声だった。
「……気づかれていたのなら、弁明の余地はありませんね」
エレは自嘲気味に微笑み、腰の長剣を静かに引き抜いた。
「そこをどいてください、殿下。私は行く手を阻む者なら、誰であれ斬る。それが貴方様であってもだ」
「エレ、剣を収めろ! 今なら、私が父上に掛け合って命だけは――」
「黙れッ!」
エレは鋭い踏み込みとともに、サフィールへと躍り出た。
容赦のない一撃がサフィールの剣に受け止められ、激しい火花が散る。大理石の回廊に、二人の剣戟の音が不気味に響き渡った。
「くっ……なぜだ、エレ! 君ほどの者が、なぜこのような無謀な反逆を!」
「ガルディニアに滅ぼされた者たちの痛みを、貴方に分かってたまるものか!」
激しい攻防。しかし、エレの身体は限界を迎えていた。眼球を襲う熱病のような激痛が、彼女の視界を急激に奪っていく。歪む視界、狂う距離感。
サフィールはエレを傷つけまいと防御に徹していたが、エレの放った大振りの一撃を彼が反射的に弾き返した瞬間、その剣先がエレの頬を捉えた。
パサリ、と一房髪が床に落ちる。
それと同時に、エレの動きが完全に止まった。
「あ……く、あ……!」
エレは長剣を落とし、両目で顔を覆ってその場に膝を突いた。凄まじい拒絶反応。彼女の指の隙間から、止めどなく涙が溢れ出る。
サフィールは剣を構えたまま、驚愕して彼女を見つめていた。近衛兵たちの松明の炎が、彼女の顔を赤々と照らす。
エレが、ゆっくりと顔を上げた。
その指の間から覗いた彼女の瞳を見た瞬間、サフィールは息をすることさえ忘れた。
どこまでも冷徹だった深海の青は、完全に消失していた。
そこに現れたのは――夜の闇の中でもなお、呪わしいほどに鮮烈に、燃えるように輝く「緋色」の双眸。
十年前、彼が南方の王国で出会い、その命を救えなかったと絶望し、今日まで片時も忘れることのなかった、あの初恋の王女の瞳そのものだった。
「その、瞳……。君は……」
サフィールの手が激しく震え、剣先が床へと落ちる。
「その緋眼……ラディオンの一族の⋯。 君は、あの時の……ルシフィード・ラディオンなのか!?」
エレ――ルシフィードは、緋色の瞳から血のような涙を流しながら、悲しく、そして傲然とサフィールを見上げた。
「そうだ、サフィール。私はルシフィードだ。お前たちの国に、すべてを奪われたラディオンの王女だ!」
その瞬間、回廊の奥の扉が開き、拍手とともに現れたのは皇帝グラディウスだった。
「見事だ、サフィール。よくぞこの狂犬の正体を暴いた」
皇帝の冷酷な嘲笑が響く。
「ラディオンの生き残りめが。将軍の地位まで上り詰め、我が首を狙うとは執念深い。だが、それもここまでだ。おい、この女を地下牢へぶち込め! 翌朝、帝都の広場で五体引き裂きの刑に処す!」
「父上! お待ちください!」
サフィールが叫んだが、皇帝は一瞥もくれずに背を向けた。
無数の近衛兵たちが一斉にルシフィードに襲いかかり、力ずくで彼女を圧し伏せる。ルシフィードは抵抗する気力を失ったかのように、ただサフィールをじっと見つめていた。その緋色の瞳に宿る悲しみと絶望が、サフィールの胸を無慈悲に抉った。
ー冷たい地下牢。
鉄格子の向こうから伝わる冷気が、ルシフィードの肌を刺していた。
瞳の痛みは引き、視界は戻っていたが、心は完全に凍りついていた。
(ここまで⋯なのか。結局、私は何も成し遂げられず、泥の中で死んでいくのか。メディトリナ義姉様……)
処刑を翌朝に控えた静寂の中、不意に、重い鉄の扉が軋む音を立てて開いた。
足音が近づいてくる。ルシフィードは、皇帝の差し向けた拷問官か、あるいは処刑人だろうと天を仰いだ。
しかし、鉄格子の前に現れたのは、フルプレートの甲冑に身を包んだサフィールだった。その手には、地下牢の鍵と、ルシフィードの愛剣が握られている。
「……何をしに来た、サフィール。私を嘲笑いにでも来たのか」
ルシフィードは冷たく言い放った。
サフィールは何も答えず、ただ黙って鍵を差し込み、鉄格子を開けた。そして、牢内に入ると、ルシフィードの前に膝を突き、彼女の手を強く握りしめた。
「サフィール……?」
「行こう、ルシフィード。ここから出す」
「正気か!? 私はお前の父親の命を狙ったんだぞ! 私を逃がせば、お前が今度は反逆者として追われることになる!」
ルシフィードは彼の手を振り払おうとしたが、サフィールの力は強く、決して離そうとはしなかった。彼の琥珀色の瞳には、これまでに見せたことのないような、強固な、そして命懸けの決意の光が宿っていた。
「正気さ。人生で、今が一番正気だ」
サフィールは静かに、しかし熱を帯びた声で言った。
「十年前、私は無力だった。父上の暴挙を止めることもできず、君の国が滅びるのをただ見ていることしかできなかった。あの時から、私の心は半分死んでいたんだ。……だが、戦場でエレとしての君に出会い、その強さに救われ、再び惹かれた。そして今、君がルシフィードだと知った。神が私に、過去の過ちを正す機会をくれたんだ」
サフィールはルシフィードの目をまっすぐに見つめた。
「父上の政治は間違っている。恐怖と侵略で他国を蹂躙し、自国の民さえも重税と弾圧で苦しめる。そんな歪んだ帝国を、私はこれ以上、次世代へ残したくはない。私は決意した。父上を退位させ、この国を根底から変える」
「サフィール、お前……父親を討つというのか」
「そうだ。それが、この血にまみれたガルディニアの皇子としての、私の義務だ。君を死なせない。君の復讐を、私が、私たちの戦いへと変える」
サフィールは立ち上がり、ルシフィードに彼女の長剣を差し出した。
「私に、もう一度背中を預けてくれるか、エレ。⋯いやルシフィード王女。私と共に戦って欲しい」
ルシフィードの目から、今度は偽りのない、熱い涙が溢れ出た。
彼への想いを、もう偽る必要はなかった。彼は仇の息子ではない。自分と共に暗闇を照らす、新たなる光だ。
「……共に⋯行こう、サフィール皇子」
ルシフィードは剣を受け取り、力強く立ち上がった。
地下牢の外には、すでにサフィールの呼びかけに応じた、若き将兵たちが集結していた。彼らは「女将軍エレ」の圧倒的な強さを戦場で目の当たりにし、そしてサフィール皇子の高潔な人格を慕う、第三軍団の精鋭たちだった。
「エレ将軍は、ラディオンの王女であった! だが、彼女は我々の信頼すべき戦友だ! 恐怖政治を敷く現皇帝を打倒し、サフィール皇子殿下のもと、新たな国を創るぞ!」
将校の一人が叫ぶと、兵士たちは声なき勝鬨かちどきを上げた。
帝都の夜が、一瞬にして叛逆の戦火に包まれる。
ルシフィードとサフィールは先頭に立ち、押し寄せる皇帝直属の近衛兵たちを次々と退けていった。かつて戦場で培った二人の連携は、宮殿の狭い回廊でも遺憾なく発揮された。ルシフィードの緋色の瞳が闇にきらめき、サフィールの銀光が道を切り開く。二人の行く手を阻むものは、誰一人としていなかった。
「グラディウスのいる玉座の間へ行くぞ!」
サフィールの叫びとともに、反乱軍は帝宮の心臓部へと突き進んでいく。十年の怨嗟と、新たなる未来への希望が交錯する、運命の夜明けが始まろうとしていた。
帝宮の静寂は、鉄と鉄がぶつかり合う凄絶な音によって完全に切り裂かれた。
サフィールとルシフィードを先頭にした反乱軍は、すでに宮殿の中枢――皇帝の私室へと続く、最後の大階段を駆け上がっていた。
「父上、もう逃げ場はありません!」
サフィールの凛烈な声が、豪華な回廊に響き渡る。
目の前には、皇帝直属の精鋭兵が幾重にも陣を敷いている。彼らは個々が一個小隊に匹敵する実力を持つ猛者たちだが、今のサフィールとルシフィードの勢いを止めることはできなかった。
ルシフィードの緋色の瞳が、戦火の中で鮮烈な光を放つ。
彼女の剣は、もはや復讐のためだけの凶器ではなかった。隣で共に戦う男の理想を、そして奪われた同胞たちの誇りを取り戻すための剣へと昇華していた。
「ハッ!」
閃光のような突きが、敵の盾の隙間を穿ち、鎧を砕く。サフィールがその隙を見逃さず、銀光を放つ大剣で道を切り開く。
ついに、巨大な黄金の扉が蹴破られた。
玉座の間。そこには、燃え盛る暖炉の前で、酒杯を傾ける皇帝グラディウスがいた。
「……愚かな息子よ。亡国の小娘にたぶらかされ、血を分けた父に牙を剥くか」
「たぶらかされたのではない。私は、あなたの創り上げた闇に、光を灯しに来たのです!」
サフィールが咆哮し、ルシフィードも皇帝へと斬りかかる。
グラディウスもまた、その巨体に似合わぬ俊敏さで黒剣を抜き放ち、応戦した。皇帝という地位にありながら、彼もまた数多の戦場を血に染めてきた歴戦の武人であった。
凄まじい衝撃波が玉座の間を震わせる。
「サフィール、貴様の甘い理想で国が回ると思うか! 力こそが正義、恐怖こそが秩序だ!」
グラディウスの重い一撃がサフィールを襲う。
サフィールは膝を突きかけながらも、琥珀色の瞳に不屈の意志を宿して見上げた。
「いいえ……。あなたが奪ってきた数知れぬ涙の上に、真の秩序など存在しない。私は、自分の歩みでそれを証明してみせる!」
サフィールとルシフィード、言葉はなくとも二人の呼吸は恐ろしいほどに噛み合っていた。それは、幾度もの死線を共に潜り抜けてきた者たちだけが到達できる、絶対的な信頼の領域だった。
サフィールの剣が、父親の黒剣を弾き飛ばした。
そして、ルシフィードの剣先が皇帝の喉元にピタリと突きつけられた。
「……殺せ。情けなど、私には不要だ」
グラディウスは吐き捨てるように言った。ルシフィードは一瞬、剣を握る手に力を込めたが、やがて静かに剣を引いた。
「殺しはしません。あなたは生涯、自分が奪った命の重さを背負って、あの暗い牢獄で生きるのです。……それが、私の選んだ慈悲です」
反乱軍の勝鬨が上がった。帝国の独裁が、ついに終わった瞬間だった。
ルシフィードは、勝利に沸く兵士たちをサフィールに任せ、一人、宮殿の最奥にある「不帰の離宮」へと走った。重厚な鉄の扉を押し開く。
そこは、花一つない、冷たく静かな石造りの部屋だった。
窓際の椅子に、一人の女性が腰掛けていた。かつて美しかったプラチナブロンドの髪は輝きを失い、頬は痩せこけている。だが、その瞳だけは、十年前と変わらぬ聖母のような優しさを湛えていた。
「……メディトリナ義姉様」
ルシフィードの声が震える。
女性――メディトリナは、ゆっくりと顔を上げた。夢を見ているかのような表情で、近づいてくる緋色の瞳を見つめる。
「ルシ……フィード……? あなたなの? 本当に、生き延びてくれたのね……」
メディトリナは震える手で、ルシフィードの頬に触れた。その温もりに、ルシフィードは堪えきれず、彼女の膝元に泣き崩れた。
「はい……。会いたかった、ずっと。遅くなってごめんなさい⋯。すぐにでも助け出したかったのに、私は……」
「いいの。謝らないで。あなたが生きている、それだけで、私の十年間の祈りは報われたわ」
ルシフィードは、衰弱したメディトリナを優しく抱きしめた。
窓の外からは、夜明けの光が差し込み始めていた。冷たい石の部屋を、黄金色の朝陽が暖かく照らしていく。
一年後。
かつてガルディニア帝国と呼ばれた大陸の中心地は、今や「新ラディオン連邦王国」として生まれ変わっていた。
独裁的な支配は終わり、各地の部族や旧王国の自治が認められ、民は重税から解放された。
建国記念と、新連邦の初代最高指導者の戴冠を兼ねた式典が行われる大広場には、数えきれないほどの民衆が集まっていた。
壇上に立つのは、威厳と気品に満ちた緋色の式典ドレスを纏い、新王冠を戴いたルシフィード。
そしてその一歩後ろで、白銀の騎士服を身に包み、愛おしそうに彼女を見守るサフィールの姿があった。
ルシフィードが民衆に向けて、澄み渡る声を張り上げる。
「我々は、過去の過ちや痛みを忘れません。ですが、それに縛られることもありません。奪い合う時代は終わり、今日この日から、我々は互いを尊重し合う一つの家族として歩んでいくのです!」
地鳴りのような歓声が広場を包み込む。
演説を終え、民の祝福を浴びる中、ルシフィードは隣のサフィールへと振り返った。
サフィールは静かに膝をつき、彼女の手を取ってその甲に誓いのキスを落とす。そして、やさしく微笑みながら囁いた。
「我が女王、ルシフィード。君が導くこの国に、私の生涯のすべてを捧げよう。君が玉座に立つからこそ、私はこの国を、そして君を支える剣となれる」
「立ってください、サフィール。私の王冠は、あなたと共に勝ち取ったものです。私の緋色の瞳は、かつては復讐のためにありました。ですが今は――あなたと共に、この国と未来を照らすためにあります」
ルシフィードの瞳は、朝陽を受けて、これまでにないほど澄み渡った美しい赤色を放っていた。
視界の端では、車椅子に乗ったメディトリナが、ガレノスに見守られながら涙を浮かべて微笑んでいる。
二人はしっかりと手を重ね合わせ、広大な未来を見つめた。
緋と蒼、二つの心が重なり合い、世界は今、もっとも美しい紫色の夜明けを迎えていた。
(完)
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