戦中の快楽殺人
戦場は、いつも残酷だ。
それは比喩でも、誇張でもない。事実として、そこにある。
最前線と呼ばれる場所に立っていた。
地名など、もう誰も覚えていない。地図の上では意味を持っていたはずの丘や森は、砲撃で削り取られ、ただの凹凸になっていた。地面は泥と血と、名前のない肉片でぬかるみ、踏みしめるたびに湿った音を立てる。
無謀な突撃命令だった。
誰もがそう思っていたが、誰も口にはしない。命令は命令であり、疑問は許されない。
すでに一度、敵味方入り乱れてぶつかり合い、双方が引いた後だった。
その結果が、この光景だ。
死体が積み重なり、まだ息のある者が呻き、血が溝のように流れている。まるで川だ。赤黒い川が、戦線の中央に横たわっていた。
次の命令も、同じだった。
「突撃」
その一言が、すべてを決める。
私は無言で腰の銃剣を外し、小銃の先に取り付けた。
金属同士が噛み合う感触が、妙に現実的だった。
これから人を殺すための準備だというのに、手順はあまりにも機械的で、冷静で、感情が入り込む余地がない。
合図が鳴る。
同時に、私たちは走り出した。
叫び声が上がり、銃声が重なり、砲弾の余韻が空気を震わせる。
奇しくも、敵も同じタイミングで突撃してきた。
互いに引くことを許されず、両者は血の川を越えて正面から衝突した。
乱戦だった。
前も後ろも、敵も味方も、区別はすぐに意味を失う。
銃剣がぶつかり、銃床が振るわれ、倒れた者が踏みつけられる。誰が誰を殺したのかなど、誰にもわからない。
――戦場で、よそ見は命取りだ。
それは訓練で叩き込まれた鉄則だった。
視線を逸らした瞬間、背後から刺される。
迷えば死ぬ。考えれば死ぬ。
それでも。
それでも私は、見てしまった。
ほんの一瞬。
本来なら、視界の端で流れ去るはずの存在に、私は目を奪われた。
長い刃物を持つ人物がいた。
銃剣よりも、明らかに長い。
刀――そう呼ぶしかない形状の刃を、両手で扱っていた。
その動きが、異様だった。
上から下へ。
下からすくい上げるように。
左右へ、流れるように。
力任せではない。
必死さも、焦りもない。
まるで、最初からすべてが決まっているかのように、刃は描かれた軌道をなぞる。
対峙した兵士たちが、次々と倒れていく。
抵抗する間もなく。
恐怖を言葉にする暇もなく。
その人物は、笑っていた。
歯を食いしばるでもなく、叫ぶでもなく。
ただ、静かに、穏やかに、楽しげに。
美しい、と私は思ってしまった。
殺しの所作が、あまりにも無駄がなく、あまりにも整っていて。
戦場という現実から、そこだけ切り取られた舞台のようだった。
私は立ち止まっていた。
ほんの数秒だったのだろう。
だが、その数秒は、永遠のように感じられた。
――なぜ、笑っている?
疑問が、恐怖よりも先に浮かんだ。
その人物の周囲だけ、空気が違って見えた。
血の臭いも、硝煙も、悲鳴も、すべてが遠のいている。
次の瞬間、銃剣が私の視界に突き出された。
反射的に身を引き、刃を弾く。
現実が、無理やり引き戻される。
私は戦い、刺し、倒し、また進んだ。
だが、頭のどこかで、あの人物の動きが再生され続けていた。
再び視線を向けたとき、そこにその姿はなかった。
ただ、倒れ伏す兵士たちと、静かに広がる血溜まりだけが残っていた。
突撃は失敗だった。
双方ともに大きな損害を出し、結局、また膠着に戻った。
夜が来る。
負傷者の呻きが、闇の中で響く。
私は塹壕に座り込み、震える手で水筒を口に運んだ。
眠れなかった。
目を閉じると、あの笑顔が浮かぶ。
刃が描く軌跡が、何度も何度も再生される。
恐ろしかった。
だが、それ以上に――惹かれていた。
戦場で、あれほど自然に殺しを楽しめる人間がいる。
それを知ってしまったことが、何よりも私を壊していった。
翌日、死体を回収する中で、その人物の姿を探した。
だが、見つからなかった。
最初から、いなかったかのように。
ただ一つ、確かなことがある。
あの戦場で、私は知ってしまったのだ。
戦争は、人を狂わせるのではない。
人の中にあった狂気を、解き放つだけなのだ。
そして私は今も、あの笑顔を忘れられずにいる。
美しい殺しをする者の、あまりにも潔い笑いを。
戦場は、いつも残酷だ。
だが、時として――その残酷さは、息を呑むほど、美しい。




