《難攻不落》《完全偽装》《電脳神》
「伏せろーー」
フィンの鋭い叫びが、凍てついた大気に響き渡る。
その直後、空気を引き裂くような着弾音が一同の頭上を通過した。遅れて届く、重く低い銃声。音速を超えて飛来する死神の指先は、背後にあった廃船の鉄錆を粉砕し、火花を散らす。
一同は、ひび割れた大地に顔を押し付け、呼吸すらも殺した。
かつては豊かな海水を湛えていたであろう木更津湖。今はヘドロが干上がり、有害物質と潮の香りが混ざり合った異臭を放つデス・バレーだ。月光が照らし出すのは、泥に突き刺さる巨大なコンテナの残骸や、座礁したまま朽ち果てた廃船の竜骨。それらが長く不気味な影を落とし、逃げ惑う彼らを嘲笑っているかのようだった。
「動くな。まだ見られている」
フィンの冷徹な指示。
狙撃手は、この強風と月明かりという悪条件を物ともせず、正確に彼らの命を刈り取りに来ていた。ターゲットの動きを先読みし、逃げ場を奪うための威嚇か、あるいは一撃で仕留め損ねたことへの修正か。いずれにせよ、相手は神業の領域に足を踏み入れたプロフェッショナルだった。
廉は、汚泥の混じった土を噛み締めた。
口の中に広がる不快なジャリつきが、裏切りの味のように感じられた。
(なぜだ……なぜ、この場所がバレている?)
廉の脳裏を、焦燥と怒りが交互に駆け抜ける。
自分は確かに、あのラボの件は後方処理課の権限をフルに活用して揉み消したはずだった。公式記録を改ざんし、不都合な真実は闇に葬り、追っ手がつくはずのない「終わった話」にしたはずだった。
向こうも自分と同等の影響力を持っているのか。それとも、それを上回る力で見下ろしているのか。
(ユダがいるのか)
廉の脳裏に、数人の同輩の顔が浮かんで消えた。
組の内情に精通し、情報の抹消プロセスを知り得る誰かが、カーライルに売ったのか。このN◎VAという街において、信頼ほど脆く、高値で取引される商品はない。その確信が、冷たい汗となって背中を伝う。
「廉さん……」
隣で身を縮めているシスター・アオが、震える手で廉の袖を掴んだ。
「……ただの、酒切れだ。気にするな」
廉は吐き捨てるように応えたが、その指先はわずかに震えていた。こういう夜は熱燗をキュッとやりたい――先ほど漏らした冗談が、今はひどく虚しく響く。
クフィルは泥にまみれながら、意識を情報の海へとダイブさせていた。彼の意識に投影された世界で(ウェブ)は、現実よりも遥かに速く、激しい攻防が繰り広げられていた。
クフィルは、後方処理課の隠蔽を盤石にするため、あえて「外部」の権威を情報の盾にすることにした。
「ここは『ブラックハウンド』の名前を借りよう」
クフィルの指先が、空間に浮遊する見えないキーボードを叩く。
実際に公的機関が動いたわけではない。しかし、電脳の波間に「ブラックハウンドがラボを襲撃した、ヒルコのサイバーサイコ二名を確保、残りを射殺した」という偽の捜査記録を流し、あたかも事実であるかのようにタグ付けを行った。
このニセ情報は、今この瞬間もウェブの毛細血管を駆け巡り、尾ひれを盛大にデコレーションして、明日のN◎VAスポの三面を飾るだろう。ブラックハウンドという「狂犬」の名が出れば、カーライルの息がかかった末端の連中も、迂闊な干渉ができなくなる。真実が何であるかなど、この情報の濁流の中では何の意味も持たない。
「今のうちに移動するよ。あそこの廃船まで二秒。全力で走れ」
フィンの合図で、一同は弾かれたように立ち上がり、錆びた鉄の巨躯へと滑り込んだ。
背後で地面を抉る鈍い音が響く。一歩遅ければ、その弾丸は誰かの身体を貫いていただだろう。
ようやく辿り着いた北0822倉庫。
それは、偽装された無数のセンサーに囲まれた、沈黙の要塞だった。
赤外線、振動感知、音響センサー。死の罠が張り巡らされたその入り口を前に、クフィルは薄く笑った。
「二秒待って」
クフィルがネットワークに干渉した瞬間、鉄壁の守りは一瞬にして崩壊した。
センサー群は、同じ警備ログをループするだけのデクの棒と化す。急拵えの拠点ゆえ、外部から完全に隔離されたスタンドアロンネットワークを構築しきれなかったのが、敵の敗因だ。
「こういう時は『ニューロ』って叫ぶんでしたっけ」
シスター・アオが、泥を払いながら感嘆の声を漏らした。
死線を潜り抜けた高揚感か、それとも現実離れした光景への困惑か。
「ニューロだけにね」
クフィルは確認するように呟き、倉庫の重厚な扉に手をかけた。
内部から漏れ出すのは、重冷機の唸りと、重苦しい沈黙。
その先に待ち受けているものが、救いか、それともさらなる絶望か。
「さあ、クライマックスだよ」




