鏡のなかのアクトレス
「コーデリア、コーデリア――女性名だな」
フィンが頭を抱えた。
鈍く光るポケットロンの画面を見つめ、彼は自身の領分ではない事態に、言いようのない居心地の悪さを感じていた。物理的な障壁なら、自慢の剛腕と愛銃でこじ開ける術を知っている。だが、電子の海に沈んだ「人の心」を暴くとなれば話は別だ。
この手の、理屈と直感の隙間を縫うような事柄は、妻であるクフィルの独壇場だった。
「そう言えば、あの方、ヒルコに恋をしたと仰ってました」
アオが傍らで静かに告げる。
その手は、先ほどまでの戦闘の残滓であるポケットロンに付着した血を、無造作に拭っていた。その仕草には一切の感傷はなく、ただ事実だけを並べる。
「それ、男が最後に語るのは、愛する女の名前」
クフィルが小さく、しかし確信に満ちた音を立てて手を打った。
彼女の瞳の中で、幾千もの思考の糸が一本の線に収束していく。クフィルの「超推理」が始まった瞬間だった。フィンは黙ってそれを見守る。彼女がこうなった時、導き出される答えに間違いはない。
「見て、フィンの旦那。この端末の構成、あからさまに不自然だわ。通常なら、この階級のアクセス権限はすべてIANUS認証で自動処理されるはず。なのに、このファイルだけが敢えてスタンドアロンのパスワード方式に切り替えられている。これは『組織』への背信行為……彼が、死を覚悟してでも隠し通そうとした、個人的な領域。そして、そんな彼が最期に遺した言葉が『コーデリア』」
クフィルが仮想キーボードの上に指を置く。
「恋人の名前をパスワードにする――一見すると不用心で甘いけれど、これこそが王道。自分以外の誰も立ち入らせたくない場所に、自分にとって最も尊い存在の名を冠する。それは一種の祈りであり、呪いでもあるのよ」
クフィルは迷いなく、その名を打ち込んだ。
C-o-r-d-e-l-i-a
呆気なく、認証が通った。
厳重なプロテクトが、まるで主を迎え入れるかのように静かに解けていく。画面には、ラボの極秘アドレス、警備体制の盲点を突く詳細な見取り図、そして――「コーデリア」という少女に向けられた、狂気と慈しみが混濁する観察日記が並んでいた。
日記の始まりは、どこまでも無機質で、実験動物を扱うそれと変わりはなかった。
『被検体0822。ヒルコ個体としての発育は順調。特筆すべきは、周囲に放射される多幸性フェロモンの純度だ。職員たちの作業能率は向上しているが、これは脳への直接的なハラスメントに近い。彼女はただ、そこに在るだけで周囲を汚染する』
当初、研究者は彼女を「0822」という数字でしか認識していなかった。
だが、ある時を境に、日記の筆致は劇的に変化する。
『名を与えてしまった。コーデリア。リア王が最も愛し、しかし理解できなかった末娘の名だ。同僚たちは笑うだろう。ペットに名を付けるのと同義だと。だが、彼女が私の目を見て、私の思考を読み取るかのようにフェロモンの波長を合わせた瞬間、私は悟った。これは「個」であり、「魂」なのだと。名を付ければ情が移る。分かっていた。分かっていたはずなのに、私はもう、彼女を番号で呼ぶ自分を想像できない』
日記の中盤、彼女の「特異性」についての恐るべき考察が綴られていた。
コーデリアが放つフェロモンは、単なる薬理物質ではなかったのだ。
『彼女は「感情の反射鏡」だ。彼女自身が幸福を生成しているのではない。彼女に向けられた感情を、そのまま、あるいは数倍に増幅して周囲に跳ね返しているに過ぎない。私が彼女を慈しみ、愛を注げば、彼女は天使のような多幸を振り撒く。だが、もし誰かが彼女を疎み、恐怖を抱き、排除しようとすれば……それは最悪の制圧フェロモンへと変貌する。彼女には善悪がない。ただ、向けられた色をそのまま鏡のように映し出すだけなのだ』
その発見が、研究者を窮地へと追い込んだ。
組織が彼女を「制圧兵器」として転用しようとしたからだ。名付け親である男は、それを拒んだ。
『彼女が毒を撒くのではない。毒を撒いているのは、彼女を武器として見ている我々の方なのだ。彼女に憎しみを教えれば、彼女は世界を滅ぼす魔女になるだろう。私は、それを許さない。彼女は私の娘だ。言葉を持たず、ただ心だけを映し出す、不器用なコーデリアなのだ』
終盤の日記は、絶望と焦燥に満ちていた。
研究が行き詰まり、ラボそのものの閉鎖が示唆された。それは、被検体であるコーデリアの「処分」を意味していた。
『ラボの隠蔽が決まった。彼女は、存在しなかったことにされる。……私には時間が残されていない。この端末に、最後の希望を託す。誰でもいい。もし、彼女に一片の恐怖も抱かず、ただ「一人の人間」として手を差し伸べられる者がいるのなら、彼女をこの地獄から連れ出してほしい。彼女は、鏡だ。君が愛を持って接すれば、彼女は君にとって最高の光となるだろう』
読み終えたクフィルが、小さく息を吐いた。
ホログラムの光が消え、静寂が戻った部屋の中で、廉が低く、しかし力強い声で口を開いた。
「カチコミか」
それは問いかけではなく、すでに決定事項を確認するような響きだった。
「行きましょう」
アオが立ち上がる。その表情には、先ほどまでの冷徹な戦士の顔だけでなく、何か「守るべきもの」を見出した者の気高さがあった。
「アフターファイブだから……まったく、理由にならない言い訳だけど」
クフィルが、自嘲気味に、けれど力強く微笑んだ。彼女の超推理は、すでに「その先」に起こる困難を予測しているはずだ。それでも彼女の瞳に迷いはない。
「クフィルの背中は俺が守る」
フィンの言葉は短かった。だが、その一言には何千もの誓いが込められていた。彼は銃のシリンダーを確認し、重厚な金属音を室内に響かせる。
「行くぞ。鏡を割って、その子を連れ戻す」
決意を胸に、四人は動き出した。
名もなき研究者が命を懸けて遺した「コーデリア」というパスワード。
その真意を受け取った彼らに、もう躊躇いはなかった。




