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フラクタル十字架はすべてを観る

「――聖母はすべてを許します。迷える子、その心の重荷を、どうぞ私に預けてください」

礼拝堂の奥、古びた木製の仕切り越しにシスター・アオは囁いた。彼女の言葉は、電子合成された滑らかさとは無縁の、湿り気を帯びた慈愛に満ちている。

シスター・アオという存在は、このネオンが明滅する過密都市において、徹底して「ウェット」であった。彼女の網膜にはAR(拡張現実)の広告ノイズも、VR(仮想現実)へのダイブ・ログも映らない。この教会は、都市を網の目のように覆う情報網から切り離された「空白地帯」だった。ここで行われる告解が、暗号化されたデータとして取引されることは決してない。

告解室の反対側に座る人物の気配を、アオは五感で探る。フィルターを通したような篭った吐息。わずかに震える指先が木壁を叩く音。声のトーンからして、おそらくはまだ二十代前半の若い男性だろう。アオの、野生動物のような鋭い直感が見えない彼を形作っていく。

「……おれは信者じゃない。あんたの神様を信じてるわけでもないんだ」

男の声には、乾いた諦念と、それを上書きしようとする熱が混在していた。

「ですが、ここへ足を運んでくださった。それだけで十分ですわ。形のない想いを言葉にすることは、何よりの祈りとなりますから」

「……決意を聞いてほしいんだ。狂ってると言われるかもしれない。だが、誰にも言えなかった。……実は、ラボに隔離されている『ヒルコ』に恋をしたんだ」

静寂が、冷たい水のように告解室を満たした。

しかし、アオの表情に驚きや嫌悪の色はなかった。彼女は慈しむように目を閉じ、柔らかく微笑んだ。

「人を愛することは、たとえその形がどのようなものであれ、素晴らしいことですわ」

その返答に、男はわずかな沈黙のあと、自嘲気味な吐息を漏らした。

「……驚いたな。君はあのヒルコを『人』として扱うのか。……いや、救われるよ。話を続けよう」

男の決意は、もはや告解の域を超えていた。それは、この都市の支配者に対する、無謀な反逆の宣言だった。

「今晩、おれは彼女をラボから強奪する。実行犯は俺だけじゃない。幸い、少しばかりの『友達』が力を貸してくれることになっている。……君に何か具体的な助けを求めているわけじゃないんだ。ただ、誰かに聞いて欲しかった。この……喉元に刺さった棘のような決意を。聞いてくれてありがとう、シスター」

「……その行く末に、どうか聖母の加護があらんことを」

アオの静かな祝福を背に、男は立ち上がった。錆びついた扉が開く軋み、そしてモスクを去る気配が伝わってくる。

アオはしばらくの間、祈るように指を組んでいた。教会の外、退廃した低所得者層の吹き溜まりである「アンモニア通り(アンモニアアベニュー)」へと、男の足音が遠ざかっていく。その足音は、濡れたアスファルトを叩く硬質な響きを残し、やがて都市の重低音に飲み込まれて消えた。

シスター・アオは、猫のようなしなやかさで告解室から出た。

礼拝堂には、ステンドグラスから差し込む微かな月光が、冷たい青色の幾何学模様を描き出している。彼女の視線の先には、この教会の象徴である「フラクタル十字架クロス」が静かに鎮座していた。

「――胸騒ぎがしますわ」

アオの独り言に応える者はいない。

アオの手のひらには、祈りの名残のような微かな震えがあった。彼女は自身の胸元にある古びたロザリオを握りしめる。それは電子制御されたものではなく、ただの古い真鍮の塊だったが、今の彼女にとっては、どんな高度なセキュリティチップよりも頼りになる重みだった。

このロザリオも電子タグが付いている。

アンモニア通りを吹き抜ける夜風が、腐食した金属の臭いと、焦げた電子回路の匂いを運んでくる。

月光は冷たく、フラクタル十字架の影は、まるで網のようにモスクの床を這い回っていた。

シスター・アオは再び、深い闇の中へと視線を戻した。今夜、この街のどこかで、ひとつの恋が歴史の歯車に噛み合おうとしている。それが救済となるのか、あるいは破滅の引き金となるのか。

「……聖母よ。どうか、彼の魂に安らぎを」

彼女の呟きは、誰に届くこともなく、ただ静かな礼拝堂の空気に溶けていった。夜はまだ始まったばかりだった。


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