赫きマタンプシの呪縛
北の大地を支配する「冬」は、神が人間に与えた試練ではない。ただの、無慈悲な欠落だ。
かつてタロウにとって、雪の白さはレラの髪に巻く鉢巻の白だった。 幼い頃、指先に残った彼女の産毛の柔らかさ。寒さに赤くなった頬。 「いつか、世界で一番綺麗なのを編んでね」 その約束を守るために、彼は指を動かしてきた。文様の一つ一つに、平穏な祈りを込めて。だが、神はその祈りを、最も汚い形で嘲笑った。
雪原に横たわっていたのは、もはや「父」と呼べる肉の塊ではなかった。 山を統べる巨体の神……その顎から、見覚えのあるタコだらけの指が、まるで食い残しの小枝のように突き出している。
その瞬間、タロウの中で何かが千切れた。 それは理性が爆ぜた音ではない。もっと冷たく、硬いものが、心臓の奥で「凍土が裂けるような音」を立てて壊れたのだ。
「あ……ああ……ああああああ!!」
祈りも、伝統も、神への畏怖も。 先祖代々受け継いできた「編み手」の誇りさえも、喉の奥からせり上がるどす黒いヘドロと一緒に、雪の上へぶちまけた。
左腕が、神の顎の中でぐちゃりと潰れる。 神経が引き千切られる熱狂的な痛みの中で、タロウは笑っていた。 彼は、傷口から不自然な角度で突き出した「己の腕の骨」を、残った右手で迷わず掴んだ。
メキメキと肉を割って、自分の骨を武器として引き抜く。 激痛で視界が白濁するが、構わない。 タロウは、父を食った神の喉笛へ、その「己の骨」を狂ったように突き立てた。
肉を裂き、軟骨を砕き、熱い返り血を全身に浴びる。 「神を編んでやるよ……お前の内臓で、最高の死をな!」 指が動かないなら、腕ごと突っ込めばいい。 かつて繊細な模様を編み上げた右腕は、今や神の喉を抉り、命の糸を無残に解きほぐす「虐殺の道具」と化していた。
……目が覚めたとき、チセ(家)の中は死の静寂に包まれていた。 炉の火は消えかかり、外の吹雪が壁の隙間から、死神の吐息のように入り込んでいる。 部屋の隅で、レラがガチガチと歯を鳴らして震えていた。その瞳には、かつて向けられた憧憬の欠片もない。ただ、絶対的な恐怖だけがある。
タロウは、血と獣臭がこびりついた重い体を引きずり、戸口へと這い出した。 「……逃げるの?」 背後から届いたのは、氷の礫のような掠れた声だった。
タロウは振り返らなかった。振り返れば、彼女の中にある自分の「残骸」を見てしまう。 「俺はもう、お前が知る人間じゃない。……あの化け物の死体と一緒に、俺も死んだんだ」
「見たわよ」 背後に、湿った気配が迫る。這いずり寄る肉の音。 「自分の骨を武器にして、血を浴びて笑う……吐き気がするほど醜い、最低の化け物をね」
レラの細い指が、タロウの血に汚れた肩を掴んだ。強引に振り向かされたタロウの目に飛び込んできたのは、涙でぐちゃぐちゃになった顔――ではない。 見開かれたその瞳は、暗い井戸の底のように淀み、慈愛など微塵もない「どす黒い執念」がぎらついていた。
「綺麗に終わらせてあげると思った? 『俺は怪物になったから去る』なんて、そんなのただの逃げじゃない! 私にあんなものを見せておいて、一人で被害者ぶって悲劇の主人公みたいに消えるなんて……絶対に、許さない!」
レラの手が、タロウの動かない右手に、あの白い「鉢巻」を叩きつけた。 雪のように白かったはずの布は、タロウが浴びた神の返り血を吸い、どす黒い赤に染まっている。
「これ、まだ完成してないわよ。世界で一番綺麗にするんじゃなかったの? 嘘つき」
「……指が、もう動かないんだ。左腕は喰われ、右の指も死んだ。俺には、もう何も編めない」
「なら、その不自由な右手に、一生この呪いを巻いていなさい!」
レラは、タロウの右手に鉢巻を巻きつけ始めた。 それは愛を込めた手つきではない。まるで、捕らえた獣を逃がさないように締め上げる、猟師のそれだ。 「あ……っ!」 タロウの口から、押し殺した悲鳴が漏れる。折れた骨が軋み、肉が歪むほどの力で、彼女は鉢巻を食い込ませていく。
「化け物になったなら、その力で私を守りなさい。死ぬまで私の隣で、お前が犯した罪の数を、私の絶望と一緒に数え続けなさい。……勝手に一人で、地獄に行かせなんてしない」
タロウは、歪な結び目に縛り付けられた、自身の右手を見つめた。 レラの震える肩。自分を睨みつける、修復不可能なほどに壊れた瞳。 理解した。自分だけが怪物になったのではない。 彼女もまた、最愛の男が「神」を解体する地獄絵図を目にした瞬間、その精神を砕かれ、怪物に縋ることでしか立てない「別の化け物」に変質してしまったのだ。
「……ああ、わかったよ、レラ。離さない。お前が望むなら、地獄の底まで連れていく」
開いた戸口の向こう、暗い森の奥に、もはや神の光は見えない。 ただ、隣で自分の服を破れるほど強く掴む少女の、焼けつくような嗚咽だけが、冷え切ったタロウの体温をこの世に繋ぎ止めていた。
二人の間に流れるのは、救いなどではない。 それは、絶望を分かち合う、血塗られた共犯の熱だけだった。
村を捨て、雪の迷宮へと踏み出した二人に、もはや帰る場所はない。
タロウの右手は、レラが縛り上げた「赫きマタンプシ」の呪縛によって、どす黒く変色していた。 神を殺した右腕は、もはや繊細な模様を編むことはできない。ただ、敵の命を、喉を、運命を、無残な糸として「引き解く」だけの凶器だ。
「……ねえ、タロウ。次はどんな神を編んでくれるの?」
隣を歩くレラの声には、かつての鈴のような響きはない。 彼女は、タロウが敵を屠るたびに、その返り血を新しい糸として、彼の右腕に「呪い」を継ぎ足していく。 タロウが怪物として完成されるたびに、彼女の瞳は喜びで潤い、そして同時に、人間としての何かが削げ落ちていった。
ある夜、タロウは吹雪の中で、自分の右手がレラの喉に指をかけている夢を見た。 目が覚めると、彼女は眠るタロウの右手に頬を寄せ、うっとりとその血の臭いを嗅いでいた。
「いいのよ、タロウ。いつかあなたが、私を最後の糸にして、この世界すべてを編み変えるその日まで……私はあなたの隣で、化け物の母として笑っていてあげる」
二人の足跡は、降り積もる新雪に瞬く間に飲み込まれていく。 それは、彼らがこの世界から「消え去るべき異物」であることを証明していた。
神も人もいない、白銀の沈黙。 そこにあるのは、歪な愛に縛られた、一人の編み手と、一人の少女の残骸だけ。 二人は一度も振り返ることなく、血の色の鉢巻をなびかせながら、終わりのない冬の奥底へと消えていった。
(完)




