きっかけ
澄んだ空、排気ガスの臭い、そして人工的に増幅された声。
これらを一遍に味わうには選挙期間中がもっともベストであると感じる。
もっとも、この混合物を好き好む人間はかなり少数派だとは思うが。
しかし俺はこの綺麗と汚いが合わさった場所で、人工的かつ睡眠の妨げになる声が好きで好きでたまらなかった。
その理由はたった一つで、人工的な声を発する持ち主が自分の父だったからである。
父親の背中はどこまでも大きく、そして誰よりも堂々と聴衆の前に立って、希望を語っていた。
今思えば父の身長は171cmとそこまで大きくはなかったが、幼稚園児にとっては中型犬でさえ巨大な肉食獣の様に映るため仕方がない。
「いいぞー!」「それでこそ日本の頭だ!」「世界を変えろー!」
そんな素晴らしいヤジは全て父に向けられたものであったが、それらは自分の自尊心を刺激する。
みんなが尊敬する人物は俺の父なんだ、この場にいる誰よりも凄くて偉いんだ!
やっぱり今日は幼稚園を休んでよかった。あんな場所で園長先生の無駄話を聞いていたら、こんな高揚感ではなく、強烈な眠気を手に入れていたに違いない。
タイムイズマネーと言う言葉があるように、人生という時間には限りがある。
だから、それを有効的に活用しなければいけないことは、未発達な子どもの脳みそでも理解していた。
しかし、電車でゲームをしている大人に向かって「時間を無駄にしていいの?」と質問をしたのは明らかに間違いだった。
その結果、赤の他人を激怒させてしまったため、今思い返すととんでもないリスクを抱えた行動であったと言わざるを得ない。
そんな思慮に耽っている中、「この差別主義者が!」と言うヤジにしてはやけに黒い声が聞こえてきた。
「お前の政策は間違いだ! 救いきれない弱者を見捨てているだけだ!」
だが、その発言は人の熱と声にかき消されて、挙句の果てには人々の記憶からもずり落ちていく。
しかし、俺だけは彼の顔にべったりと貼り付けられた憎しみの表情を忘れることはできなかった。
表情だけじゃない、瞳の奥に宿る意思もまた父の演説のように俺の脳へと刻み込まれる。
「父さん! 今日はもう帰ろう!」
俺は手を千切れそうなくらい振って、父に自宅へ帰るように促した。
そんな俺の意思が通じたのかこちらを振り向き、一瞬だけ驚いた表情を浮かべるも、にっこりと笑い、こちらに手を振り返してくる。
違う、俺が伝えたいのは存在じゃない。
不確定だが確実に存在する危機を知らせたいのだ。
「違うよ、父さん! この場所は危険なんだ!」
父は指をちょいちょいと動かすと、黒いスーツに身を包んだ屈強な男が「坊ちゃん、幼稚園はどうしたんですか?」と俺のことを太い腕で持ち上げる。
「そ、それは……」
突如自分の非について問われると、うまく反応できなくて言葉が出てこない。
困惑する俺に何かを察してか、「しっかり勉強して友達と遊ばないと、御父上のような首相にはなれません。さぁ、早く戻りましょう」と近くの車に連行されていく。
そんな状況でも俺は自分の使命を思い出し、必死の抵抗を見せるが屈強な体を持つボディーガードに対してベストな行動を取っているとはとても思えない。
「全く、子供のお守りをするために訓練したわけじゃないんだけどな」
あきれた表情でボディーガードは首を横に振ると、「失礼」とだけ口にして俺の体をぎゅっと腕を使って締め付ける。
その苦しさにうめき声を上げるが、「すいませんね。何者かに首相の子どもを拉致されたなんてこと、絶対に起こしちゃいけないんで」と彼は自分に課せられた仕事を全うする。
クソ、なんて優秀なボディーガードだ。
俺は心の中で舌打ちをすると、今から起こるかもしれない最悪の事象を想像しながら、父の演説を遠くから見守る。
「私たちは変われる! 私たちは前に進むことができるのです!」
普段ならば終わって欲しくないと願う演説も今日ばかりは、早く終わって欲しいと心から願った。
これからは毎日、先生や両親に挨拶をする。
嫌いなピーマンも残さず食べる。
勉強だって毎日一時間は必ずやる。
だからどうか、俺の想像が現実にならないでください。
普段は幼稚園で存在が危うい神という存在に手を合わせていたが、今は手汗が隙間から零れるほど強く祈りを捧げている。
「私たちは自由だ!」
これは父の決め台詞であり、演説の終了を知らせるホイッスルとなる。
この言葉に熱を帯びる聴衆は首相と握手をしたり、写真を撮ろうとこぞって父に近づいていった。
父さん、そんなサービスは直ぐに止めて、この車の中に戻ってきて。もう少しでこの場から脱することができるんだ。
しかし、人との関りを重んじる父の性格上、いくら待ってもここに戻ってくることがない。
かれこれ十五分は経っただろうか、ようやくその場を離れようとすると、ゆっくりと何者かが父に近づいていった。
明らかに他の人とは歩くスピードが異なっており、背中はグッと内側に丸め込まれている。
あんな怪しいやつ、すぐにボディーガードが取り押さえそうなものだが、こういう時に限って父とは離れた場所にいた。
このままでは何かが起きてしまう。
そう俺の直感が働いた直後、運命の悪戯だろうか。
運転手が煙草を吸うために外に出ようとした。その瞬間を見逃さなかった俺は咄嗟に体を捻じ込むと、父に危険を知らせるために車からの脱出を図った。
「父さん!」
俺は全力でそう叫び、彼の元に向かうと、ようやくピシッと伸びたスーツに小さな皺を刻むことができた。
「どうしたんだ、そんなに慌てて? それと幼稚園はどうした?」
説教なら後でいくらでも聞く、だから今だけは俺の言うことを信じて行動に移してほしい。
「父さん、今日は、今日だけは早く帰ろう!」
俺の深刻な表情を察してか、額に皺を寄せて「何かあったのか?」と尋ねてくる。
「さっき、怪しい人が父さんを凄い顔で睨みつけていたんだ! それと周りの人と動きが違うんだよ! 前に言ってたでしょ、周囲と動きが違う人間には気をつけろって!」
それを聞いてか父はグッと顔を強張らせると、「その人はどこにいる?」と聞いてきた。
だから俺はきょろきょろと周囲を見渡すと、その姿を見つけた。彼は父のすぐ後ろにナイフを持って佇んでいる。
「貴様さえ、貴様さえいなければ俺の両親は死なずに済んだ!」
大声を上げながら男は手に構えた凶器を父に突き刺そうとするが、俺に付いてきたボディーガードが咄嗟に肉の壁を作った。
よし、これで父さんは助かるはずだ。
そう俺が考えてしまったから神は罰を与えた。
父はボディーガードを押しのけると、こうなる運命と言わんばかりに、鋭利な凶器が胸に突き刺さる。
「しゅ、首相!」
「父さん!」
男は集まった警官やボディーガードに取り押さえられるが、今はそれどころではない。
俺は何度も父に声をかけるが、次第にその体からは熱が引いていき、死が近づいていることが否応にも伝わってくる。
「つぐは、私はお前を愛している。この出来事で、今後のお前の選択を変えないでくれ」
そんな訳の分からない言葉を残すと、ゆっくりと瞼が下がっていき、そのまま瞼を半分開けてゆっくりと俺の目の前で項垂れた。




