四四艦隊計画〜檻の中で爪を磨ぐ〜
昭和二年、春。
東京・呉海軍工廠に付設された艦政本部の設計室には、終始、鉛筆の音しか響いていなかった。
瀬川信之大佐は、手元の図面に赤鉛筆を走らせていた。主砲配置、艦体構造、バーベット基部の補強、搭載砲の後方拡張余地――。すべては紙の上でしか存在しない“戦艦”の可能性に向けて、彼の頭脳は休まず動き続けていた。
「戦艦が、終わったなどとは言わせない……」
誰に言うでもなく、そうつぶやいたそのとき。
扉がノックされ、海軍軍令部作戦課の橘章吾中佐が姿を見せた。
「設計室の雰囲気は、いつ来ても息苦しいな。まるで戦争そのものを閉じ込めているみたいだ」
「ようこそ、檻の中へ。檻の中で、どうにか牙を磨いている最中だ」
瀬川は顔も上げずに答えた。
橘は机の上に広げられた図面に目をやり、口をひらく。
「これが……新型の主力艦案か?」
「金剛型四隻の代艦として想定している。条約上は有効だ。全長二百メートル弱、四一センチ三連装砲塔三基、速力二十八ノット、防御は主砲弾に耐える構造に。将来は五十口径砲への換装も視野に入れている」
橘はしばし黙し、図面に見入った。
そして低く呟いた。
「実に、軍縮条約らしい艦だな。牙を抜かれたようでいて……まだ噛みつく余地がある」
「そういうことだ」
その時、さらにもう一人の来訪者が現れた。軍務局主計少将、里見圭介。
軍政側でありながら、彼は“技術に理解ある変人”として知られていた。
「お前たちの話は、概ね聞いた。予算の調整は私がつけよう。だが、条件がある」
里見は無表情のまま言った。
「この艦は、金剛型の『代艦』として条項に収める。その枠で予算化、建造承認を得る。つまり、条文の裏をつくということだ」
瀬川は小さく頷いた。
「それでいい。いや、そうでなければ、この艦は生まれない」
「檻の鍵は、壊すんじゃない。内側から、鉄格子を曲げて出るのだ」
里見の言葉に、誰も反論はしなかった。
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・空を信じる者たち
昭和五年、春。
ロンドン海軍軍縮条約により、重巡・駆逐・潜水艦にまで制限が加えられた。
瀬川はもはや、戦艦の図面には手を入れていなかった。
彼の前に広がっていたのは、全通甲板を持つ新しい艦――蒼惺型空母案である。
「航空戦力はまだ補助兵器にすぎん、という意見が主流だが……私はそうは思わん」
艦政本部の設計室。橘が瀬川に向かって言った。
「鳳翔の運用試験でわかった。空は戦場を変える。いや、戦場そのものになる。敵艦を見ずして叩ける手段。それが空母だ」
瀬川は少し笑った。
「君が空母を語るとは思わなかったよ」
「予測していなかった敵を殴れる者が、最後に勝つ。軍人としての勘だ」
蒼惺型は、全通甲板を持ち、格納庫は二層。航空機は最大七十機を搭載可能。エレベーターは三基。速度は三十三ノットに届く。
「条約制限内で、ここまでやれるか……」
橘が感嘆する横で、瀬川は静かに言った。
「この艦は、いずれ“旗艦”になる。戦艦ではなく、空母が主役になる日が来る。その日のために、我々は“檻の中”で準備をするんだ」
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・鍵が外れた日
昭和十年。
日本はついに、軍縮条約からの脱退を表明した。
祝賀の雰囲気に沸く海軍省内。だが、瀬川、橘、里見の三人は、誰よりも静かだった。
「やっと自由になれた……いや、違うな」
瀬川がぼそりと言う。
「自由になったのではない。ただ、“決められた枠”の中で考えることを、強制されなくなっただけだ。これからは、自分で限界を定めねばならん」
「限界がないというのは、恐ろしいことだな」
橘も同意した。
里見は言った。
「だが我々は、“檻の中”で牙を磨いた。数値に縛られ、設計に制限され、戦略に制約があった。だがその中で、我々は知恵を出し、工夫を凝らし、可能性を極めようとした」
瀬川は頷いた。
「ならば今こそ、自由になった設計者の責任を果たす時だ」
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・44艦隊計画
昭和十四年。
港に並ぶ、四隻の新鋭戦艦。その艦橋には、新たな時代の匂いが漂っていた。
四隻とも、四一センチ三連装砲塔を三基搭載。速度二十八ノット、防御は将来換装する可能性まで含んだ設計。
蒼惺型空母もまた、四隻の建造が進み、搭載機の実戦訓練が始まっている。
艦隊は整いつつあった。
“条約”という名の檻の中で準備され、鍛えられた獣たちが、今、海に放たれようとしていた。
海軍省の一室で、三人が再び顔を揃えた。
「結局、条約がなければ、この艦隊は生まれていなかったかもしれん」
橘が呟いた。
「檻の中だからこそ、我々は進化できた。自由は、制約があってこそ意味がある」
瀬川の言葉に、里見は微かに笑った。
「次に檻を作るのは……我々だ」
その言葉が、静かに部屋に響いた。
――四四艦隊計画。
それは、戦うために鍛えられた“檻の中の獣たち”による、最初の咆哮だった。