8 この世界について
その日の夜、お風呂から上がってパジャマを着た。薄桃色で小さくクマさんの模様が入っている。髪をタオルで拭きながら洗面所を出た。兄が台所で食器を洗ってくれている。
「お兄ちゃん、お風呂空いたよ」
声を掛けて階段を上った。
自室へ入りドアを閉めた。試したい事がある。
今日の昼頃に「やはりこの世界は元いた世界とは違うのだ」という認識を深めた。どこかちょっと、何と言うかファンタジーめいている気がする。
「もしかして……魔法を使えたりする?」
中学生の時に遊んだ例のゲームには「魔法」らしき能力を操るキャラクターもいたような……?
記憶を手繰り寄せようとするけど何故かうまく見付けられない。思考の先に靄が掛かったように霞んでいる気配を感じる。
「記憶力はいいと思っていたのに。悔しいなぁ」
独り言ちて肩を落とした。
でもそっか。よく考えたらあのゲームも遊んでいたのは大分昔だもんね。仕方ないか。
気を取り直して実際に試してみる。
「まずは……システムウィンドウを開けるのかやってみよう」
目を閉じ心音を落ち着けた。腕を伸ばし眼前の空間へ掌を向ける。瞼を上げ心のままに唱えた。
「いでよ画面!」
傍から見たら、物凄く中二病だった。間違いない。
羞恥心で顔が熱い。お兄ちゃんのいない場所で試してよかった。そう安堵していたのに。
「フフフッ」
背後から笑い声が聞こえ振り返った。ドアを開け確かめる。
「あ、あれっ?」
再び部屋へ入り周囲を見回した。
「お、お兄ちゃん?」
呼び掛けてみるけど返事がない。耳を澄ます。階下から薄らとシャワーの音が届く。
思い出そうとした。さっきの笑い声は……。兄のものじゃない気もする。心臓の音が大きく鳴る。
じゃあ、誰……?
「フハッ」
またも唐突に声が聞こえビクッと震えた。
「ごめんごめん。驚かせたね。君が好きなあのゲームはホラーなジャンルじゃないのに。あんまり面白いからつい……っくくく」
「えっ? えっ?」
呆然とした。部屋にはどう見ても私以外誰もいない。声だけ響いている異常な現象に大いに戸惑っていた。
「あー。いつ声を掛けようか思案していたんだ。僕のここへのアクセスは厳しく制限されているから」
『声』の主は男性かもしれない。どのくらいの年齢なのかは分からないが、少年ではないトーンだった。
「君を転生させる前に横やりが入った」
はっきりと言われ、頭を殴られたぐらいの衝撃が意識に去来した。やはり、私はあのクリスマスの日に死んだの?
「君がこの世界へ連れて来られたのはちょっとした……まぁコネで……んんんっ」
『声』が咳払いをした。『何か言いにくい事があったのかも?』と考えつつ、ぼーっと宙を眺めていた。
「大丈夫?」
『声』に心配された。
「あ……はい。多分大丈夫です。いよいよ私、ヤバい状況なのかなってビビっていますけど」
「そうだね」
フフッと笑う気配がした。
「システムウィンドウは出ないけど、説明くらいはしておいた方がいいだろうと思ってさ。許可は出てる」
言われてさっきの事案を思い出した。
「うぐっ」
目を閉じ奥歯を噛み締める。黒歴史ができてしまった。
「この世界はある人の願いで創られたお試しの……言わば仮の世界なんだ。ここで過ごして願いを叶えれば、そのまま君らをこの世界へ定着させようと思っている」
『声』の話を聞いて首を傾げた。
「元の世界からここへ来たのは私だけじゃないって事ですよね?」
質問しながら、以前学校の屋上へ呼び出された際の事を思い返していた。タクマ君もその一人なのだろう。
『声』からの返答があった。
「そうだね。ここに呼ばれたのは君だけじゃない」
また『彼』が笑っているような空間の揺らぎを感じた。
『声』は独り言の体で紡いだ。
「無理を言われたけど願いを叶えてよかった……」
日溜まりにいるような温かい雰囲気の声音だった。
「大事な件を伝えておく。『条件をクリアした時、この世界は現実になる』」
「条件?」
よく分からない部分を確認したい。尋ねると『声』は説明してくれた。
「『名前』だよ。君らの元の世界での名前は記憶を呼び起こす『鍵』に設定されている。それぞれの人間が願いを持つ。成就させたい者が願いに関係する者の『真実の名』へ辿り着いた時、夢は覚める。君たちが願いによって変容させた世界に生きるだろう。ただ……」
『声』が途切れた。
「あの……」
話し掛けると再び『声』が聞こえた。
「まぁ、ここら辺は言わない方がいいか。とにかく、要約するとゲームのマルチエンディングみたいなものだな。好きな奴と本当の名前を共有すると、そいつのルートに入る的な……? 例のゲーム、した事ないけど」
「マルチエンディング!」
復唱してこぶしを握った。手が汗ばんでいる。
「ああそれから」
応答のなくなる直前に言い残された。
「誕生日おめでとう。――」
最後に名前を呼ばれた気がした。風が窓を打つ音と重なっていたので、聞き間違いだったかもしれない。
『声』の気配が消え、暫く経ってから階段を下った。洗面所から出て来た兄と廊下で擦れ違った。ふと疑問に思う。
「あれ……? そう言えばお兄ちゃんの名前……何だっけ?」
兄が振り向いた。恐らく呆れているんだろうな。細めた目付きの視線を送ってくる。
「教えない」
言い置いて先へ行く兄の背を見ていた。
追記2025.6.8
「もしかしたら」「の」を削除しました。