7 兄の協力
「え……?」
動揺していた。耳を押さえたまま一歩、後退する。タイチ君を見た。彼もこちらを見ている。私とは違い、目の前の相手は凄く落ち着いているような気がする。
胸の鼓動が騒がしい。
これはいけない。完全に負けてる。経験の差が激しい。
やはり逆ハーレムくらいの経験がないと彼には太刀打ちできない……!
…………逃げ帰ってしまった。
玄関の戸を後ろ手に閉める。
何も言わず走り去ったから、タイチ君も呆れているかもしれない。メッセージで謝っておこう。
まだ顔が熱い。自分が弱過ぎて悔しくて。両手で鞄を握り締めた。
翌日は休日で、遅い時間に目覚めた。ベッドの中で昨日の夕方に起きた出来事をぐるぐる考え続けていた。
部屋を出る。階段を下っている途中で再び、昨日キスされた場面のイメージが過り耳を押さえた。頬に熱が上るのを感じる。
この人生では前の人生よりタイチ君に近付ける……?
希望が胸に灯る。しかし。
「きっとタイチ君は、ほかの子ともああいう事してるよね」
つい思い至ってしまい、何とも言えない虚しさに似た気持ちに苛まれた。独り言ちて苦笑した。ひと時、瞼を閉じる。
胸の底に抑えた本音に触れるのをやめて階段を下った。
「っあああああ……!」
居間の方から声が聞こえる。障子を開けて居間に入ると、兄が四つん這いの格好で畳を叩いている場面に出くわした。
「お、お兄ちゃん。どうしたのっ?」
「畜生! また外したっ!」
兄の視線の先へ目を向けると……。
居間の一角にはテレビがあって、画面に馬のキャラクターが映っている。丸っこくて可愛らしい体型の二足歩行する馬で、三角形の赤い旗を手……蹄かもしれない……に持ち、喜びのリアクションをしている。
「これ、私もやってた!」
思わず声にしてしまい、慌てて口を塞いだ。横目に兄を窺う。睨まれた。
「やってた?」
「あっ……えーと。ゲームでね」
何とか言い訳を紡ぎ出せた。苦笑いで兄の視線を受け流す。
あー。やっぱり。ここはただの過去じゃない。
兄がやっているのはタイムリープ後の私の名前にもなっている悪役令嬢の登場する例のゲーム内で遊べるミニゲームの一種で……簡単に説明すると馬のキャラクターたちがレースして、ゴール時の一着から三着までのキャラクターを当てると所持金が増えるイベントだった。
……ただ兄は今、例のゲームをしている訳ではない。
一瞬で理解してしまった。やはりここは元いた世界じゃないのかも。あのミニゲームは現実世界で言うところの「競馬」に相当するんだと思う。
前時間軸の過去で兄がしているのをたまーに見掛けた。意外だった。節約や貯金を「生き甲斐」と語っていた兄が、せっかく貯めたお金を失うかもしれない遊びに手を出すのを不思議な気持ちで眺めていた。「当たった」と聞いた事は一度もない。
「あと少しで当たるとこだったのに!」
兄がとても悔しそうに顔を歪め、拳で畳を叩いた。
前の人生でも同じ事を言ってたよ、お兄ちゃん。
苦笑しながら気付いた。『あっ、このパターン知ってる!』と。この着順が来たという事は、次は……。しかもこのミニゲームは、これでもかと言うくらいにやり込んでいたし。
少しの間、無言で考えた。
「答えを教えてあげる」
口に出した。顔を上げて微笑み掛ける。
「『二、十一、八』だよ」
怪訝な目付きで見られた。
悪戯を咎められそうな気配を感じ台所へ逃げた。パンとコーヒーを準備している時、居間の方から雄叫びが木霊した。
暫くして兄が台所へ来た。静かな口調で聞いてくる。
「こづかいいる?」
「いらない」
コーヒーを淹れながら答えた。兄は猶も言ってくる。
「じゃあ何か奢ってやる」
「いらない」
コーヒーを淹れ終わった。
「……何だったら受け取る?」
その言葉を待っていたよ。口の端が自然と綻ぶ。
「教えてほしい事があるの。やっぱり、お兄ちゃんに協力してほしい」
真剣に相手の目を見た。
「これから話す事は絶対に他言無用だからね! じゃないと私、頭のおかしい子だと思われて社会的に詰むから!」
「じゃあ話すなよ。オレも聞かないから」
拗ねた様子の兄が「折角お祝いしようとしてんのに」とブツブツ呟いている。居間へ戻るつもりなのだろう。踵を返す兄へはっきりした声で伝えた。
「私、未来の記憶を持ってる。これからも『当たり』を教えてあげられるけど?」
兄の動きが軋んで止まった。
「何だって?」
「教えるけど、これは口止め料なの。これからお兄ちゃんには共犯になってもらう」
「お前、何かしでかしたの? もしかして」
「これからするんだよ」
兄の喉仏がゴクリと唾を呑んだように上下した。
掻い摘んで説明した。タイムリープした事と名前が変わっている事と未来で夫になった人の事。私の目標についても。
「振り向いてもらう為には、私も逆ハーレムを作るくらいじゃないと……」
強く、兄を見つめた。
「タイチ君に対抗できるレベルの指導をしてくれそうな人って、身近にお兄ちゃんしかいなくて」
「オレに聞くんかいっ! よりによって一番聞いたらダメな奴だろ」
「?」
「首を傾げんなっ!」
「え? お兄ちゃんって何人も彼女いるって言ってたよね? 未来で」
「うっ? オレ……そんな事言ってたの? それはナイ!」
「何故?」
じとっとした目で睨まれた。
「オレは純愛しか受け付けん」
「えっ?」
「多分、彼女いるとか言ったのは……見栄を張ったんだと思う」
兄の実態が思っていたものと違っている?
半ば呆然と視線を返した。
「な……何で?」
やっとの事で疑問を絞り出す。
「うっ。心当たりは……あるが……」
ちらりと窺う如く、一瞥が送られてくる。
「とにかく、お前のプランはダメだ! それに、お前の予想した通りに当たっても全然嬉しくねーよ。意味がねーんだよ」
「じゃあ、いらない」
ピシャリと言い放ち瞳を逸らした。断られるのは予定の内だよ。
「お兄ちゃん抜きでやる。バイバイ」
パンを置いた皿とコーヒーの入ったマグカップを持って居間へ移動しようとした。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっ! 待て」
行く手を阻んでくる。居間への障子の前に立つ兄へわざと冷たく微笑む。
「バイバイ」
「落ち着け。協力する。だから一旦落ち着け」
何だかんだ言っても、兄は私に甘い。
俯きがちにやや瞼を伏せる。考えていた。
昔にあった出来事を思い出して胸の奥がちくりと痛む。もう一度、苦笑した。