専業主夫、希望します!~家事修行
柾がやったこともない家事に挑戦するのを、温かく見守る友人たちが主人公に見えなくもない。
「じゃあ、坂上さん、家事スキル、磨いてくださいね!」
ワインバーでデートした日、有子からこのようにお願いされた柾は、もちろん二つ返事で承知した。専業主夫になろうが、有子の赴任先への同行だろうが、なんでもござれ、どんとこいと大風呂敷を広げた状態である。
何しろゼミの同窓会での一目惚れから偶然の再会、その再会の祭に無職を理由に交際を断られ、その後数ヶ月、紆余曲折の末に有子との交際にこぎ着けた柾にしてみれば、有子とともにあるためにはどんな努力も惜しまない所存であると宣言したいくたらいなのだ。
とはいえ、である。有子の依頼ならなんでもかなえたい柾ではある。そうではあるが、家事というのは未知の領域だった。坂上家には主夫も主婦もいない。毎日の食事も掃除も洗濯も、住み込みと通いのハウスキーパーたちが分担してくれている。
家事とはなんぞや。柾はそこから始めなくてはいけなかった。仕事経験ゼロなら、家事経験もゼロである。
小学校のときに雑巾を縫ったかも?
調理実習でジャガイモの皮をむいたかも?
……というレベルなのだ。中学では、実習のときは戦力にならないから洗い物係を命じられた。適材適所だと言われたから記憶に残っている。
高校では何をやったか記憶がない。柾は首をひねった。授業、あったっけかな。どうだったかな……?
というわけで、柾は、またもや友人1に相談事があるともちかけた。
「おい、坂上から、また相談だと」
「あの子とはうまくいってるんだろ?」
「この前飲んだとき、ピンクのオーラ、出まくってたもんな」
「相談事って、また難題を持ち込まれるんじゃ……?」
というようなやりとりを経て飲み屋に集まった友人四人の面々は、「専業主夫に、僕はなる」という柾の宣言を聞いて、納得すると同時に、思いっきり引いた。
有子が仕事を辞めないのなら、有子と一緒になるために、柾が専業主夫になるというのは悪くない選択だと思う。そこは納得だ。それよりも、家事など絶対にしたことがないだろうに、堂々と、しかも自信ありげに専業主夫宣言をかます謎のメンタルのほうが問題だよな、と四人の気持ちは一つになった。
案の定、想定されていたとおりに謎のメンタルの持ち主である柾からやっかいな相談が持ち込まれた。
「それで、家事ってなにすればいいの?」
そこからか!
四人には、互いの心の声が聞こえたような気がした。
いち早く冷静に戻った友人1が状況確認に動いた。
「まあ待て。確認するけど、坂上が専業主夫になるって、有沢ちゃんとのことでいいんだよな?」
問われた柾は、嬉々として数日前の有子とのやりとりを説明した。
「なるほど。有沢ちゃんは、自分の仕事が全国区だから、家事をして家を守ってくれる専業主夫にあこがれると。それで、おまえが専業主夫は問題ない、ついて行くと答えたら、家事スキルを磨いてほしいと頼まれたと」
これって、彼女から結婚を申し込まれたってことなのか?
いや、それともこいつから結婚をほのめかしたってことになるのか?
専業主夫になるって、どういうことなのこいつは分かっているのか?
こいつはそこのところちゃんと考えて専業主夫になるって言っているのか?
肝心なところが曖昧なので、首を傾げたくなった友人四人である。柾はそんな友人の疑問には全く気づかず、己の危機を訴える。
「そうなんだよ。だから、家事をできるようにならないと、僕は有子さんと一緒に行けない!」
おや、名前呼びになったんだな、と気づいた四人だが、ここでそれに突っ込むと柾の有子語りが始まる可能性が高いのでスルーを決め込んだ。
「事情は分かった。問題は、坂上に、家事どころか、生活のスキルも全くないってことだよなあ」
友人1がぼやくようにつぶやいた。
すると、友人3が提案した。
「それなら、一人暮らし、経験してみるのがいいんじゃないかな」
「一人暮らしなんて、坂上ができるはずないだろう」
即座に友人4が鋭く指摘する。
「それは分かってるって。だから、まあ、完全な一人暮らしは無理だろうから、俺のとこでしばらく一緒に暮らして、家事とかやってみたら、家事ってどんなものとかわかるんじゃないのかな」
一人暮らしにしては広めのマンションを借りている友人3は、3LDKの余っている一部屋を柾に提供しようというのだ。ともに生活しながら家事とはなんぞやを手っ取り早く体験すれば、今後の見込みも立つだろうという目論見だ。
「みんな実家暮らしだし、まともに自炊とかしているの、俺しかいないだろ」
なるほどと皆が納得した。言われてみれば、確かに友人3以外は実家以外で暮らしたことがない。
大学入学以来一人暮らしをしている友人3の指導の下でなら学べることがあるだろうと柾も同意し、諸事打ち合わせの上、二週間後の週末から同居を始めることとなった。
そして迎えた同居開始の日。ほかの三人も柾の様子を見ようと顔を出したので、3LDKのさほど広くはないリビングに大の男が五人。わいわいと賑やかである。
「おお。ベッドまである。布団は客用のがないから、寝袋生活って話じゃなかったか?」
友人2が柾が荷ほどきをしている部屋を覗いて驚いた。すかさず家主である友人3が柾をあごでしゃくって示した。
「こいつが持ち込んだんだよ」
「寝袋生活もいいけど、是非寝具を持って行ってくださいって、うちの鎌田が手配してくれたから」
「鎌田って、ああ、おまえんとこの家で支配人みたいなことをやっているあのおじさんね」
友人4が納得した。
「ベッドはいいとして、だいたい片付いたら、早速お茶でもいれてもらおう」
これまた覗いていた友人1が家事ミッションを提示した。
「えーと、お湯と、急須と、お茶と、湯飲みがあればいいんだから……」
柾は指を折って数えた。
「どこにあるか、場所、教えてもらえる?」
「お湯はね、沸かすの」
「ポットにはいってるんでしょ?」
「自動でポットに入るかよ。電気ポットでも、ヤカンで沸かすにしても、誰かがお湯を沸かさないとだめだ。そしてうちにヤカンはない。あるのは電気湯沸かし器だから、これを使え」
友人3は、数分でお湯が沸くという電気湯沸かし器を差し出した。
「東京の水道の水は俺の実家と比べると、あんまりおいしくないと思うから、俺はペットボトルの水を使ってる。ほら」
そう言って、柾に電気湯沸かし器の使い方を実演して見せた。
さて、お湯は電気湯沸かし器が沸かした。次は……。
結局、お茶をいれる、ただそれだけでも友人たちが実演して見せなくてはならないということが明らかになった。
お茶の葉を「適量」急須に入れる、お湯を「適温」に冷ましてから急須に注ぐ……。複数の湯飲みに注ぎ入れる際には少しずつ順番に注ぐと味が均等になる。ほんのちょっとしたことが、柾の頭にも体にもインプットされていない。
「あー。お茶をいれるのって、考えてたより、結構たいへんなんだね……」
お茶くらいと思っていた柾は、自分のできなさ加減をつくづく思い知り、がっくりと肩を落とした。友人3はそんな柾を慰める。
「そうでもない。自分でやれば慣れるから。俺だって家にいたときは自分でお茶なんていれなかったよ。一人暮らしをするようになって、初めて料理とか、洗濯したんだからさ」
なるほど、それなら今の自分と大差はないではないかと納得し、柾はうなずいた。
「わかった。有子さんのために、何でもやれるようにならないとね。うん。頑張るよ」
さて、柾が一人暮らし経験もどきを始めてから三週目に突入したウィークデイの夕方、有子からの連絡を受けて、柾はいそいそとデートに出かけた。柾から外出の連絡を受けた友人3は、自分も息抜きをしようと、いつものメンバーを誘って飲みに出た。急なことで、友人1しか捕まらなかったが。
「で、どうなの、あいつとの生活」
「まあいろいろ」
「いろいろって、教えろよ」
友人1は興味津々である。期待しているのは柾の失敗談だろうことは友人3も十分承知しているので、いくつか披露することにした。実際のところ、こうして友人を誘ったのも、話したくてうずうずしていたからである。
「俺が仕事に行っている間に、リビングとキッチンの掃除をしておくように頼んだけど、目に付くところにあったゴミだけ拾って掃除機を動かしていなかった。床をぐるぐる動き回って勝手に掃除してくれるんだから、スイッチを押すだけなのに!」
「掃除の定義からか……」
「お風呂の掃除を頼んだら、ぐるぐる回る掃除機を持って行こうとしたから止めた」
「掃除違いか……」
「味噌汁ならできそうだって言うから、任せたら、お湯で味噌を溶いただけだった。せめて具はないのかと聞いたら、さいの目になった豆腐とか、短く切りそろえた菜っ葉がないとほざいた」
「あーネットで調べないのか……」
「ご飯を炊くように頼んだら、なぜかおかゆの目盛りに合わせて水を入れて炊いた。なんか水が多すぎるなと思ってはいたらしいが……白米の線でいれろって言わなかった俺が悪いのか?」
「大量のおかゆか……」
「俺がいないときに電子レンジで牛乳を温めようとして、金で縁取りしたカップをだめにした」
「黒ずんじゃうやつ……」
「まあこれは、同じカップを鎌田さんが届けに来たけどね。あとは、とにかく座ってる。俺が指示しないと何もしない。でも、悪気はないんだよね」
「いろいろってのがいろいろ過ぎて、なんと言ったらいいかわからんな」
友人1の想定を上回ったらしく、あきれ顔である。友人3は苦笑した。
「まあね。こういう、なんていうのか、暮らしていくための基本的な流れって、普段、生活している中で、親を見ながら、ちょっとした手伝いなんかもして、学ぶんだと思うんだよね。ていうか、坂上を見ているとそう感じる。俺もさ、偉そうには言えないわけよ。高校までは上げ膳据え膳で、何もしなかったからさ。でも、毎日の食事のためには買い物しないといけないとか、風呂のスイッチを入れるとか、食事をしたら皿を洗って拭くとか、玄関を掃除するとか、ゴミを出すとか、そういうのは、知ってるわけ。でも、そういう、なんて言うのかな、毎日の生活に欠かせない何かっていうのを坂上は知らないんだよね。だから、体が動かない」
友人3はこれまでの二週間の経験を踏まえて柾を分析した。
「ああ、まあ、言いたいことはなんか分かるような気がする」
「だからさ、いま、坂上は、そういう生活のあれこれ、今まで見えていなかったものを、まさに可視化している状態なわけよ」
「たしかに、家事って見えにくいっていうか、意識しないとわからないもんな。そう考えると、シャドウワークって言い得て妙なんだなあ……」
妙なところで感心する友人1である。
「そんなわけで、家事スキルがどうのこうのっていう段階じゃないね。俺と一緒に暮らしてみて、今まで誰かがやっていてくれたことがどういうもので、それが自分の生活にどう関わっているのかを理解しないと、先に進めない」
「でも、失敗はしても、料理は教えてるんだろ。得意そうにスクランブルエッグの写真を送ってきてたぞ」
「あー。あれは、目玉焼きに挑戦したら、卵を割る段階で失敗したやつな」
「割るのを失敗してつぶしたのか……」
「まあ、やらせてみないことには始まらないからな。でも、俺もプロじゃないし、最初に味噌汁の一件があってからは料理は手伝い程度にしかやらせてない。仕事があるから四六時中教えるわけにもいかないし。もともとこのお試しは、家事ってどんなものかを坂上が分かるために始めたんだからさ」
「いずれ、プロに任せないとだめな感じ?」
「坂上は頭はいいから、さっき言ったことを自分でもなんとなく理解し始めてる。だから、そのうち、自分で考えるんじゃないかな。まあ、それに、あいつも味噌汁で懲りたらしくて、いろいろサイトを見ては掃除のやり方とか、朝飯の献立とか調理法を勉強しているようだからちょっとは進歩してるんじゃないかな」
なんとなく、できの悪い息子が頑張っているのを見守るような気持ちになる友人二人である。
翌朝、柾は大はしゃぎで友人3に報告した。
「家事の勉強を始めたって言ったら、有子さんが、喜んでくれた!」
良かったなと答えて、友人3は、柾が用意した朝食に箸をつけた。最近、柾が覚えた献立で、火を使わない簡単なものだ。レンチンでスクランブルエッグを作り、最近覚えたスーパーでの買い物で購入してきた、洗わなくて良い野菜でサラダ、これもスーパーの大量生産の食パンとヨーグルト。ネット情報ではトーストするはずだったらしいが、残念なことに友人3のトースターは壊れていた。
白くて柔らかなパンをもそもそ食べながら柾はうきうきと報告を続ける。
柾は、家事スキルを磨くよう要望されてから、お試し一人暮らし体験をしていることを有子に報告していた。実際に顔を合わせての報告は初めてで、柾は、友人3との同居生活のあれこれを逐一語り聞かせたのだ。友人3が友人1に語った失敗談を正直に話してみれば有子に笑い転げられ、ネットで調べて細々した家事を試行錯誤で挑戦していることには感心された。最近は朝食を作り始めたと説明したところ、それはすごいと褒められた。
「有子さんが、いつか僕の料理を食べてみたいって言ってくれたから、料理、しっかり勉強しないと」
「ああ、頑張れ」
その後、都合四週間を友人3のマンションで過ごした柾は、「家事をなめてた。ここに誘ってもらって、僕がいかに生活ってものについて何も知らなかったかがよく理解できた。ありがとう」と友人3に頭を下げた。
「で、家事、どうするの?」
「うん。家に来ているハウスキーパーの加藤さんに相談したら、実地で経験を積むのが手っ取り早いだろうって、仕事をしながら教えてくれることになった。料理は、大友さんが教えてくれる」
「大友さん?」
「うちの料理担当してくれている人なんだ」
「じゃあ大丈夫だな。あと、みんな心配してるんだから、ちゃんと報告しろよ」
『僕の専業主夫になるためのスキル向上のためにいろいろ心配をかけましたが、この四週間で、いやというほど己の未熟さを痛感しました。今後は、家に戻り、先達に師事して家事修行します』
というメッセージを受け取った友人たちが、詳細を聞かせろと友人3に迫るまであとわずか。
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。