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七夕

七夕の贈り物(後編)

作者: てとろ

激遅七夕小説くんの続き。

「……とまあ、ここの空も意外と良いものでしょう、ナツ様?」

 歩き出して間もなく、土浦は約束通り書類を半分だけナツに持たせた。そこそこ重い荷物を持っているのにも関わらず、ナツはあちこちをきょろきょろと見回していたので、土浦が天界の日本支部は初めて来るのかと問うと、『……ま、まあ、そんな感じですね』と微妙な肯定が返ってきた。特に空が気に入ったようで、色の混じり合う空のことを、土浦に対して控え気味に質問した。それについて、天照大御神様の神通力のぶつかり合いでいろいろな色が出て綺麗になっているという説明を懇切丁寧に二十分程話して、それが終わったところだ。

「はふぅ……そうなんですね。何度見ても綺麗な空です……」

 土浦の丁寧な説明を、相槌を打ちながら聞いていたナツは、度々空を見上げては満足げな息を漏らしていた。

「まあ、私も天界に来てから百年以上たちますけど、日本支部を離れたことがないので他の支部がどうなっているのか興味はありますけど。どうなんでしょう、ナツ様?」

 土浦は説明が長かったのに、最後まで聞いてくれたナツに対して嬉しさ半分、興味半分の気持ちを抱いていた。

 どうしてナツ様はこんなに聞くのがうまいのだろう?仕事場の同僚は、私の説明は丁寧だけど長すぎるから誰も聞いていない、聞くはずがないと言うのに……

 そんな興味を抱きながら、ナツに当たり障りのない質問をする。そのはずだったが、ナツは土浦の前に回り込んで通せんぼをすると、むっとした表情で土浦の顔を見やった。

「様付け禁止にしましょう!あと、敬語も!」

 そう言うと、ずんずんと土浦の方へ歩み寄ってきた。迫力こそないものの、今までの態度とは異なる様子に土浦は気後れをする。

「し、しかし、私のような下っ端がそのようなこと……」

「大丈夫ですよ!もっと楽しくおしゃべりしましょ?」

 そういって、今度は土浦に微笑みを投げかける。

「しかし……」

 それでも、土浦はためらってしまった。そもそも、土浦はこんなに自由に移動ができるほどの身分の神様の隣を歩くというのすら初めてのことなのだ。今から会いに行く織姫様でもこんな移動方法はできないだろう。緊張が勝ってしまうのも仕方がない。

 渋っている土浦を目にして、ナツは妥協点を投げかける。

「じゃあ、せめて様だけはなくしてほしいです。それだけはお願いできますか?」

「それくらいであれば……」

 なぜこの神様はまるで友であるかのように接してくれるのだろう?格式の高い神様がたはこのような方たちばかりなのであろうか?

 土浦は接し方に少しの疑問を感じてはいたが、向こうからのお願いを断るのも失礼かと感じ、それを承諾した。

「ありがとうございます!……もっといろいろなお話をお聞かせください、土浦さん!」

 ナツは先ほどの微笑みとは異なり、満面の笑みを投げかけた。土浦はその笑顔にドキリとしつつ、次の話題を思案し始めた。

「そ、そうですね……では、今から渡る日本支部では有名な川の話でもどうですか、ナツさ……さん?」

「はいっ!」

 ナツの笑顔からすぐに目を離すと、顔を隠すようにして足早にまた歩き始めた。少し遅れてその横にナツが並び、お互いの歩みにそろえて歩いていく。

結局、土浦はナツがどこから来たのか聞けずじまいであることも忘れて天の川のことについて話していくのであった。


そうして、織姫様のいる館に到着した。その間にも、土浦が話好きであることとナツが聞き上手であることで話が途切れてしまうことはなかった。日本支部の天界の話。土浦の百年間におよぶ天界での暮らしの話。そして、天界に来る前の話。どの話も盛り上がったが、ナツは特に人間界での出来事についての話をなぜか慈しむかのように、噛みしめて聞いていた。

二人で歩いたため、予定していた時間よりも少し多く歩いていたが、はじめの十五分とは全く違い、疲れはあまり感じなかった。それは、単純に二人になったから荷物が少し軽くなったということもあるかもしれないが、それだけではない。

そういえば、まだ人間界で付喪神をやっていた時にも、一度だけこのようにたくさんの話をしたような気がするな。あれはいつだっただろうか?

もはや、思い出すことのできない思い出に耽りながら、館の門の前で歩みを止める。

「ナツさん、最後までありがとうございました」

 ここで別れになると思うと、名残惜しいと思うと同時に胸がチクリと痛んだ。しかし、それを見せまいと精一杯の笑顔でお礼の言葉を言った。

「い、いえいえっ!こちらこそ楽しいお話ありがとうございました!」

 少し恥ずかしそうにしながらも丁寧にペコリと頭を下げる。

「では、織姫様に届けてきますね。書類をもらってもいいですか?」

「あ、はい!よろしくお願いします!」

 この書類をもらってしまうと、前に進まなくてはいけなくなる。もっとナツさんと喋っていたい。自分の前からいなくなってほしくない。つい先ほどお会いしたばかりなのに、こう思ってしまうのはどうしてだろうか?

 よくわからない胸の痛みと闘いながら、書類をもらうために自分の持っていた方の書類を地面に一度置いて、両手を伸ばしていく。

「あ、最後に……」

 書類の下に両手を伸ばし、土浦の掌がナツの手を包み込む。

「とっても楽しい時間をありがとうございました!記憶がなくなっているって聞いていたので最初は不安でしたが、前と全く変わってなかったですね!私からは何も言えない決まりなので何が何だか分からないかもしれないですが、私はあなたに会えて本当に良かったです!これからも自分を責めることはしないでくださいね?」

「えっ」

 手の中にどさりと書類が乗って結構な重みを感じる。

しかし、そんなことがどうでもよくなるくらいのことが起こった。ナツの言葉が途切れた瞬間にナツは消えてしまった。それはまるで溶けるかのようだった。

いったいどういうことだ?自分に記憶がない?前に会ったことがある?だめだ、情報が多すぎて整理がつかない。

ざわついた心の中に、より一層ズキズキと胸の痛みが襲う。

別れの言葉も言えなかった。


その場で少しの間、放心していた土浦であったが、手の中の書類の重みをやっと意識して、織姫様のところに来ていることにも気が付いた。

とりあえず、仕事を終わらせよう。考えるのはそれからだ。

そう思っても、やはり考えることをやめることができない心のまま、館の扉を三回叩いた。数秒の間があり、ガラガラと扉が開く。そして、中から和装の女性が出てきた。

「こんにちは。ご用件は何でしょうか?」

「あ、あの、願い事報告書をお届けに参りました」

 その女性は表情をあまり変えることなく、話を続けていく。

「お暑い中、ありがとうございます。その件に関しては織姫様から伺っております。館の中で織姫様がお待ちですので、どうぞお上がりください。ご案内させていただきます」

「あ、はい、よろしくお願いします」

 まるで機械であるかのように淡々と要件を済ませてくれるのは、心の整理ができていない土浦にとっては都合がよかった。玄関で靴を脱いで、その女性についていき、しばらく歩いたところの襖の前で止まる。

「では、ここでしばらくお待ちください。すぐにお呼びして参ります」

「分かりました」

 そう言って、女性が開けた襖から部屋に入った。中は長い座卓の周りに座布団が並べられただけのシンプルな部屋であった。土浦が部屋に入ると、女性は襖を閉じて織姫様を呼びにいくためにさらに奥に進む足音が聞こえた。

 その音も聞こえなくなると、土浦は座布団の一つに正座で座る。その時に、一枚の古ぼけた紙が座卓の上に置かれていることに気が付いた。特に見ようと思っていたわけではないが、そこに書いてあった『土浦なつみ』という文字が目に入ってきてしまった。

 土浦?まさか、そんな偶然……

 そう思って、中身を読んでみたら『願い事報告書』であった。しかもそれは、だいぶ前のもので文字もところどころかすれてしまっているが、『願い事:……、と触れ合いたい。……』というところだけ読むことができた。

 その時、土浦の頭に激痛が走った。

 悔しい?なんでだ?いや、自分が悪い?そうじゃない?違う違う違う、忘れちゃいけないこと?頭が痛い、痛い痛い。

 そうやって、部屋の中でのたうち回っていると再び襖が開けられた。

「相当苦しいようじゃの。しかし、それはそなたが選択した道であるのだよ?」

 そう言って、和装の背の高いすらっとした女性が部屋に入って土浦に近づく。のたうち回っている土浦の頭に手をかざすと、神通力を使って痛みを和らげた。

「お、織姫様、お見苦しい所を申し訳ありません……」

「いやなに、これも想定内じゃ!そんなことより、なぜ自分がこんなことになっているのかを知りたくはないかね?」

 織姫様は土浦に向かい合うようにして座り、真剣な顔で尋ねる。

「織姫様は知っていらっしゃるのですか?」

 のたうち回って乱れた服装を直し、姿勢を正して織姫様に向き合う。

「知ってはおるが、それはそなたが一度捨てたものたちなのじゃ。再び知ろうと思うかは先ほどの断片から決断せい!」

 そう言われて、先ほどののたうち回っていた時に出てきたイメージを反芻する。

 ……あれは、ナツさんだ。間違いなく先ほど見ていた笑顔だ。次のシーンでは泣いていた。そして、自責の念。なぜこんなにも後悔しているのか。最後にはつい先ほどの『自分を責めないでくださいね』という言葉が浮かんできた。もし知ったら、再びこの後悔に悩まされるかもしれない。それでも……

「それでも、教えていただけませんか?」

「承知したのじゃ。では、とりあえず、仕事を終わらせるかの。願い事報告書を受理するのじゃ」

 土浦は持ってきた書類を受け渡す。

「確かに受け取ったのじゃ。……では、話そうかの?」

「よろしくお願いします」

 そう言って、織姫様は書類を自分の隣に置くと、話を始める。

「そうじゃのぅ……こほん。昔々、とある家に女の子が居ました。その女の子には、長年大切にされてきたことで意思を持った付喪神が小さい頃から見えていました。いつも話し相手はその付喪神」

 織姫様は物語を話すかのように語る。

「いつしか、同年代の友達から気味悪がられてしまったのに加え、うまく人と喋ることができず、いじめられる日々が続きました。それでも、その付喪神と話すことはやめられませんでした。きっと恋をしていたのでしょう」

 織姫様は懐かしむように語るが、土浦には全く覚えがないことだ。それでも、自分のことなのであろうということはわかった。

「しかし、大きくなっていくにつれて、これはかなわない恋だということに気が付いてしまいました。いじめと夢の崩壊により、彼女は死を選んでしまいました。七夕の日に、その付喪神にまた出会いたいという思いを乗せながら」

 一呼吸いれて、話を続ける。

「一方で、付喪神は後悔していました。なぜ自分なんかいたのだろうか?あんないい子が死を選んでしまうのだったら自分なんていなければよかった、と。それから長い年月が経ち、付喪神が天界にやってくる日が来ました。その時に『あの子のことを覚えているとずっと後悔してしまう。だからその記憶を消してくれ』と頼みました。天界はそれを受け入れて、記憶を改ざんしてしまいました。めでたくなく、おしまい」

 土浦は絶句した。おそらく、記憶は消去されたのではなく、鍵をかけるようにしてブロックされていたのであろう。その証拠にこの話を聞いて、鍵となる術式が壊れたかのように記憶がなだれ込んできた。

 部屋に一つだけある窓が風で揺れた。

 いじめられているということを全く想像させない、けなげな笑顔。いつも家の中で動けない自分の話を楽しそうに聞いている顔。いつもはおとなしいのに、話が盛り上がってくるとお茶目な部分も見せてくれたところ。そして、最後の場面は先ほど見た泣いているところだ。滅多にこんなことがなかったので、慌てふためく自分と、その様子を見て泣きながらも笑顔を見せてくれたところ。

「くっ……」

 そして後悔が溢れてきた。以前に感じたやり場のない後悔とともに、なぜそれを忘れようとしたのかという現在の自分に対する後悔をも感じた。

 それを見透かしたかのように、織姫様は優しく語りかける。

「動くこともできず、誰とも会うことのない神は大切なものを失ってしまうと自暴自棄になってしまうものじゃ。それで?この約百年の間に色々なものたちと触れ合ってきてこの記憶改ざんについてどう思ったのじゃ?」

 土浦は唇を噛みしめて織姫様に答えていることも忘れ、自分自身を責めるかのように答える。

「忘れるんじゃ、なかった!なぜこんなに大切なひとを忘れたいと思ったのか、今ではその気持ちが分からない……」

 その答えを聞いて、織姫様は満足げに頷いた。

「この百年も無駄ではなかったということじゃな!だがのぅ、わらわはその百年を天秤に乗せないといけないのじゃ。ということで、今からは記憶ではなくつい最近の出来事について語ろうかのぅ」

「ナツさんのことですか?」

 土浦は若干食い気味に織姫様を問いただす。

「まあ、そう慌てるでない……先ほどまでおぬしと共にいた少女はその『土浦なつみ』本人であることは察している通りじゃろ?」

「なんとなくですが、分かっていたと感じます」

 あの時に覚えた違和感はきっと失ってしまった記憶が呼び起こしたものなのであろう。今思えば、記憶が早く気が付いてと言っていたのだろうかと思う。

「あの子はその時からずっと冥界にいるのじゃ」

「ずっと……亡くなったあの時からですか?」

 もう冥界に旅立ってから百数十年が経っているだろう。その長い年月を人の魂としての形状を保ち、さらに記憶まで存在するというのは土浦には聞いたことがない事象だった。

「そうじゃ。こんなことはめったにないのだがの、彼女はおぬしに対する思いでそれを成し遂げてしまったのじゃ」

「そうなんですね……」

 土浦は肯定したものの、どれほどのスケールのことなのか測りかねた。土浦の反応からこれが一大事であることが分かっていないことを察した織姫様は重大な補足をする。

「これは一大事なのじゃ!たった一人の人間が冥界に居続け、神々に中てられることで徐々に蓄積されてきた力に、ほかの魂たちも人格が崩壊してしまったものですら冥界に居続けてしまい、冥界に魂の循環が成り立たなくなってしまうのじゃ!」

「そ、そんなことが起こりうるのですね……!」

 そう答えはしたものの、今はナツがどうして、どうやってここに来たのか、その後にどうなったのかを知りたい気持ちでいっぱいだった。

「それを見かねた冥界の王が天界に相談を持ち掛けてきたことによって、彼女の願い事があり、現世にはない未練を残していることが分かったのじゃ。それが、この『願い事報告書』なのじゃ」

 先ほど目にした古ぼけた紙を土浦の前に持っていく。

「そして、未練を叶えてやることにより、魂の循環の中に戻そうとしたのじゃ。それがこれまでの顛末なのじゃ」

「ま、待ってください!ということは、彼女はもう……」

 古ぼけた願い事報告書の滲んでしまって読めなくなった字を追いながら、ナツの笑顔や仕草を思い出す。そして、記憶の中のなつみの笑顔と仕草に重ね合わせた。

「もう現世へといってしまったじゃろうな」

 土浦は理解できたものの、付喪神の時からしてもあまりにも重大で、そして急な話であった。そして、今から知らされる内容はさらに土浦を混乱させるものであった。

「それで、おぬしに決定を下してもらいたいことがある。それが、さきに言った、百年を天秤に乗せるということじゃ」

「ど、どういうことでしょうか?」

 これに関しては土浦にも見当がつかないことだった。

「決まっておろう。おぬしが彼女の後追いをして付喪神の頃や天界の記憶をすべて消して人間の魂として現世に行くか、ここにとどまるかの選択じゃ」

「そ、そんな選択……」

 できるわけがない。どちらも大事なものなんだ。この百年間でもお世話になった神々は数えきれないほどだ。それを捨てるという選択をすぐにできるほど薄情にはなり切れないが、ナツのことも大事だったのだ。

「なぁに、今すぐに答えを出す必要はないぞ。そうだな……一週間以内に決めてくれればよいのじゃ」

「一週間ですか……」

 百年という時間を考えるには、あまりにも短い時間だ。

「じっくり考えてくるのじゃ。心が決まったら、わらわのもとへ来るとよい」

「では……もし、こちらへ参らなかったら、どうなるのでしょうか?」

 考えても答えの出ない問題を考えたくなく、思考放棄した時にどうなるのかを恐る恐る尋ねた。

「そうじゃのう……わらわがサイコロでも振って、物理の神にでも託そうかの!」

 はっはっはと笑いながら、そう答えた。自分の運命をそんな風に決められてしまうのは納得がいかない。やはり、きちんと考えて答えを出さなければならないようだ。

「分かりました……それでは、本日はお暇させていただきます」

「今日は仕事ではあるが、遠いところにご苦労だったぞ。では、また」

「はい……」

 土浦はゆっくりと立ち上がると、とぼとぼと襖の方へ歩いていく。一礼をして、部屋から出ていくとさらにゆっくりと歩みを進めていく。案内された道を戻っていき、織姫様にその足音が届かなくなるのに、数分間もかかった。

「さて、と……わらわも願い事報告書を処理するとするかのぅ」

 そう言って、土浦が持ってきた願い事報告書を神通力で宙へ浮かばせた。織姫様が立ち上がり、歩き出すとそれらはふわふわと織姫様についていく。織姫様が部屋から出ると、先ほどの表情を変えない機械的な女性が部屋の前に立っていた。

「なんじゃ、おぬし、聞いていたのか」

「はい……あの土浦という付喪神にあのような選択をさせて良かったのですか?お言葉ですが、本来、精霊が人間となることは特例以外では認めてもらえないはずです」

 今まで変えていなかった表情を初めて訝しげな顔にする。

「では、あやつが人間になることを望んだのなら、今回がその特例になるということじゃろ。あと、わらわは土浦家の人間に恩があるのじゃ。ここでそれを清算したいという思いもあるのじゃ。それに……」

「それに?」

 女性は、織姫様が言い淀んだことを聞き返す。

「その、なんだ、愛しい奴と別れてしまうのは、つ、辛いことじゃろ?」

 少し恥ずかしげに自分の体験談を話す。

「はぁ……分かりました。しかし、こんな特例、私があなた様の侍従をしている期間ではこれっきりにしてくださいね?いろいろ、処理が大変なので」

「お、今回はわらわの意見をすぐ通してくれるのか。頼りにしているぞ!」

「はぁ……」

 きっとこんな苦労をしているのは天界では自分だけだろう。人間界や冥界でもこんな苦労をしている人がいるのなら、見てみたい。

 女性はそう思いながら、織姫様が自室に帰るのに付き従うのだった。



 土浦は会社に帰ると、特に何事もないままその日の仕事は終了してしまった。さらに、そのまま六日が経過していた。その間に考えても結論は全くでなかった。つまり、どちらを取るのかという選択は完全に均衡しており、考えても、考えてもその天秤が傾くことはなかったということだ。もう明日には織姫様のところに結論を言いに行かなくてはならない。それにも関わらず、今日も仕事に出てきており、そろそろ就業時間になるところだ。七夕の願い事の処理もあらかた終わり、今はそんなにやることがない時期なので、土浦はもう帰る支度をし始めようと思っていた。

「やっほー、つっちー!元気?」

 そんな時間に部長が土浦に話しかける。

「あ、部長。なんですか?普通に元気ですよ」

 土浦は悩んでるそぶりを見せまいと淡々と返事をした。しかし、それを見抜いたかのように部長は土浦の言ったことを否定する。

「いやいや!絶対悩んでるでしょ!今日、晩御飯一緒に行こうかー」

「はぁ、まあ、いいですよ」

 土浦にとっては脈絡もなく、唐突なことではあったが正直ありがたい申し出だった。少しでも気を紛らわして、リフレッシュをしてから明日までに決定を下したかったからだ。

「おっけー!もう仕事終わってるよね?じゃあ、行こうか!」

「あ、ちょ、待ってください!」

 そう言って、すぐさま会社から出ていこうとする部長を追いかけるようにして土浦も席を立った。二人はそのまま会社を出て、数分間歩いたところにあるラーメン屋に入った。

「さて、土浦君。実は、わたしは織姫ちゃんに色々聞いてるんだよ」

「まじすか」

 ラーメン屋の案内された席に座るか座らないかの瞬間に、部長は新しい事実を土浦に突き付けた。

「まじだよ!まあ、だからつっちーに願い事報告書を運んでもらったのだよ!あと、つっちーが今、何で悩んでいるかも知ってるよ」

「そ、そうだったんですね……」

 こんな重大なことを話せる友人なんて今までにナツさんくらいしかいなかった土浦にとっては嬉しい反面、部長には最もお世話になっているので、天秤が傾いていないということを知られていることに引け目を感じてしまい、変な声で返事をしてしまう。そんな返事に対して部長は大笑いを返し、その後に真面目な顔になった。

「つっちーは人間界に行くべきだよ」

「えっ」

 意外な言葉だったので、土浦は一瞬部長が何を言っているのか分からなかった。じわじわと今言われた言葉が意味を持ってくる。

 なぜ部長はそんなことを言うのだろう?もしかしたら、嫌われている?それとも仕事の出来の悪さだろうか?

 そうやって考え込んでる土浦を見て、部長は先ほどとは違う笑みを投げかける。

「そういうところだよ、つっちー!そういう人間っぽさがあるから、わたしはつっちーに人間界に行ってほしいと思う」

「し、しかし、みんなのことを忘れてしまうんですよ!部長のことも!」

 少し怒気を含み、荒げた声で主張をする。それでも、部長の笑みは崩れない。

「それでも、つっちーには人間界に行ってほしい。人間の良いところも悪いところも見てきてほしい」

「なんでそんなこと簡単に言えるんですか!百年もやってきたんですよ!私は忘れたくない!」

 土浦は店の中で注目を集めてしまう。しかし、そんなことを気にも留めずに部長のことを責め続けた。それに対して、部長はやはり顔を崩さないまま答える。

「じゃあ、つっちーはなつみさんのことはどうでもいいのかい?」

「っ……!それが決められないから、悩んでいるのでしょう……」

 土浦は我に返ったように声を抑えた。二百年間の付喪神の時の記憶で唯一、やり取りをしたのがなつみだ。思い出してからはもっと一緒にいてあげたかったと思わずにはいられなかった。後悔だってある。

「つっちーはさ、とっても良い子だと思うよ。普通の精霊や神は、人間界に転生できるなんていわれても、こっちから願い下げだと言ってしまうようなプライドみたいなものを持ってる。けど、つっちーにはそれがない。一度、人間界に行くのがこの世界を均衡に保つためにも大事だと思うんだ。つっちーに共感してしまうわたしも行けるのであれば人間界に行った方が良いのかもしれないね」

「……」

 神や精霊をやる器とは異なるということだろう。その証拠に誰かを忘れたくない、一緒に居たいと思う気持ちは人間のそれと同じものだ。

「一度、わたしのことを忘れてしまっても、わたしはつっちーのことを忘れないし、つっちーの魂は変わらないんだよ。また、いつかどこかで出会ったときに関係を築きなおすのも悪くないと思わない?ほら!わたしが超絶有能に見えるようにしておくから!」

「……ははっ。そんな部長は願い下げですね」

 土浦が微笑むと部長はさらににっこりする。

「おっけー!最後の決断は一晩考えるといいよ!明日の朝、織姫ちゃんのところに行く前にわたしにも決断を知らせに会社に来てくれない?」

「はい。分かりました」

「じゃあ、ラーメン食べようか!」

 ほったらかしにしていた注文を今更する。すぐに出てきたラーメンを二人は無言ですすっていく。


 翌日。土浦はいつも行く時間よりも三時間も早く会社にやってきた。そこには部長がいつもの椅子に座って待っていた。

「お、つっちー来たね」

「はい」

 少し緊張した面持ちの土浦を見て、部長はすぐに察した。

「人間界、行くことにしたんだね」

「はい……」

 小さく返事をすると少し項垂れた。そんな土浦を見て、部長は元気づける。

「そんなにテンション低くて人間界やっていけるの~?もっと明るく行ってきなよ!」

「あの……部長!」

 土浦が項垂れたまま声を張り上げて部長のことを呼んだ。

「ん?どうした?」

 何がどうなっているのか分からないと部長が混乱しているところに、土浦は懐から二つのものを取り出して部長に渡す。

「これ!辞表と感謝の手紙です。今まで本当にありがとうございました!」

 土浦は頭をあげてにっこりとしながら、感謝の意を伝えた。そうすると、その意味を理解した部長は目に涙を浮かべた。

「え……。こんな……こんなことしてもらったら、そりゃ泣いちゃうよ……うっうっ……」

 嗚咽を漏らしながら、袖で涙を拭き、精一杯の笑顔を土浦に向ける。

「……うん!この手紙はあとでじっくり読ませてもらうよ。ううっ…………人間界に行っても頑張ってくれ!うん!わたしの方こそ、本当にありがとう!」

「……はいっ」

 土浦は深々とお辞儀をする。その床には涙がしたたり落ちていた。

「さようなら……」


 このままだと名残惜しくなってしまい、決意が鈍ると思った土浦は最後に部長に別れを告げて、織姫様のところへ向かう。

 二時間の道のり。つい一週間前のナツとのやり取りを懐かしむように思い出す。三百年も存在している土浦にとってはほんの少し前なだけなのに、懐かしく感じてしまうのはやはり、なつみと重ね合わせてしまうからであろう。

 そうこうしているうちに、あっという間に織姫様の屋敷へたどり着いた。前と同じように扉を叩くと、この前よりも早く、侍従の女性が迎えに来る。

「お待ちしておりました。織姫様は先日と同様の部屋で待機されております」

「承知しました」

 そういって、織姫様のところへと向かう。これからどのようなことが行われるのかは不安ではあるが、決意を固めた土浦にとってはその不安さえ些細なものだった。

 襖を開ける。

「お、よく来たのぅ。どうじゃ?決心はついたかの?」

「はい」

 力強く答えた。

「それで?どちらにするのじゃ?」

「はい。人間界に行きたいと思います!」

 もう迷いはない。天界を去ってしまうことは寂しいことだけれど、人間界に行って後悔を晴らさなければ!

「よう言った!とはいうものの、そう言うと思って、準備はしてあるのじゃ。この陣の中に入ってくれ」

 部屋の床には大きな術式が書かれていた。土浦のような付喪神出身では到底扱うことができないようなとても大きなものだ。

「分かりました」

 そういって陣の中に入る。

「すべての記憶はなくなる。その代わりと言っては何じゃが、精霊としての力の残滓を使って彼女と同じところへ送ることにするぞ?願いことなしの大サービスのそなたへの贈り物じゃ!大切に扱うがよい!」

 術式が展開され、青白く光り輝く。

「織姫様も、何から何までありがとうございました!」

「なぁに!どうせいつかどこかで会うのじゃ。その時にまた土産話でももってきてくれい!」

「はい!」

 光がさらに強くなる。

「では、さよならじゃ!」

 その言葉を最後に光が土浦を包み込み、土浦の視界は真っ白になる。

 あれ?自分はどうしてこんなところにいるんだ?というか、自分とは何だろう?あー、眠くなってきた。少し眠ろうか……




「そういえば」

「ん?どうした?」

 二人は真夏の草原で寝転んでいる。

「昨日の夜、面白い夢見たの」

「え?君も見たんだ?実は、僕も昨日面白い夢を見たからちょうど話そうと思ってたんだ」

「そうなんだ!あなたはどうせ丁寧に話してくれるんでしょ?先に聞きたいな!」

「そうだな、じゃあ、どこから始めようか……まず、僕が七夕の願い事を書類にまとめてるんだ。おかしいでしょ?それで、……」

 星がちらちらと光る。

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