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アリス・イン・ディファレンス・エンジン

作者: 阿弖流為

 時は十九世紀中頃、イギリス。


 前世紀に興った産業革命のうねりは止まるところを知らなかった。Viva 産業革命! 石炭、鋼鉄、蒸気、資本――強大な力が、世界を喰らい尽くそうとしていた。

 そう。大英帝国は栄華を極めていた。眠らない帝国、大英帝国。我らが大英帝国海軍(Royal Navy)に栄光あれ! 号砲(We salute you)!


 グレートブリテン島屈指の大都市、オックスフォード。宗教と学問と文化の中心地。帝国全土から集まった、野心に燃えた若者は、競うようにして科学、工学、宗教学、言語学、金融学を学んでいた。

 クライスト・チャーチ・カレッジの講堂では、今まさに数学の講義が終わったところだった。単位の名は『位相幾何学』。難解極まりない最先端の学問。

 講師の名はチャールズ・ドジソン。若き天才。頭脳明晰にして、その業績はあまりに多彩。詩人にして数学者。彼の書いた論文や書籍は多数。博学家にして夢想家!

 彼はまた、昼の顔とは別に夜の顔も持っていた。社交界の偉大なるジェスター。貴族の退屈な御婦人方は夜な夜な、舞踏会を我が物顔で闊歩する美しい紳士ドジソンに抱かれる自分を瞼の裏に映し出し、恋い焦がれながら居城での無味乾燥な夜の眠りに付いていた。

 ドジソンはそれ程に美しかった。ブリテン人の末裔に相応しい繊細な顔と物憂げな碧い瞳を持っていた。そして彼は独身だった。貴族のうら若き娘から未亡人まで、御婦人方に言い寄られない日は無かった。ドジソンはそらんじた。この一年で平均すると一日に2.7人の女性から言い寄られていた。


 *


「せんせー。教えてください」と講堂から追いかけて来る女子生徒。シェリー夫人の男女同権運動が実を結び、ここオックスフォード大学でさえ、今では聴講生に貴族の娘達が混じっていた。彼女は教えを請うた。「トーラスに投影した多面体のオイラー数って、なんで2ずつ変わっていくの? 分かりませーん。どうしてですかぁ?」

 ドジソンは振り返った。その瞬間、ドジソンを呼び止めたレディのハートはときめいた。彼と話がしたい。その一心で、この初歩的な質問を引っ提げ必死に追いかけてきた乙女の想いを、いったい誰が責められよう!

 ドジソンの甘いマスクは、そのいじらしい生徒を見つめた。

 彼女は若くそして目を見張るほどに美しかった。高い鼻。カールした髪型も、深いブルーの服は最新の流行。着こなしも完ぺき。きっと、家柄も申し分ない。男だったら誰だって、このうら若き乙女に下心を抱き、鼻の下を伸ばし手取り足取り教えただろう。


 しかしドジソンは違った! 彼は声に出さず、心の中でこのレディを罵倒した。


(うるせーよBBA!!)


 ドジソンは重度のロリコンだった。うら若き乙女でさえも、十四歳を超えていれば、彼にとってそれはBBAを意味していたのだ。


 *


 大学から屋敷に戻ったドジソンを待っていたのは、一抱えもありそうな手紙の束だった。彼は仕分を始めた。案の定、殆どはどうでも良い手紙だった。いくつかは暖炉の火にくべ、いくつかは机の隅に追いやった。


 一通の手紙が目に入った。ライオンの紋章があしらわれた蝋封。住所は無く差出人は『ドリーナ』となっていた。

「BBAからかよ」

 ドジソンは悪態をついた。それを放り投げようとしたが思い直し、渋々開いた。


『前略

 最新作を読みました。楽しみにしていた分、がっかりです。

 展開が強引すぎます。というか、主人公に都合が良過ぎます。

 何よりもハートのクイーンが誰彼構わず

『首をちょん切れ』と喚き立てるのは、

 不愉快にさえ感じられます――』


 書き出しは概ねそういった内容だった。

 ドジソンは気晴らしに異世界転生ファンタジー小説を書いては、とある小説投稿サイトに投稿していた。少女偏愛的趣味に満ちた作品だった。

 手紙の差出人は彼のファンだった。アップする度に、ドリーナと名乗る彼女は熱のこもった感想を送って来ていた。ある時は文法の間違い。またある時は比喩の使い方。重箱の隅的感想が、つらつらと書き連ねられていた。


 もう一通、ロンドンから手紙が来ていた。ドジソンは差出人の名を見て、ニヤリと笑顔をこぼした。新進気鋭の大学であるユニヴァーシティ・カレッジの教壇に立ち、ドジソンと同じく、最新鋭の数学である位相幾何学や群論、そしてブール代数を教える男からだった。彼はドジソンの盟友とも言える人物だった。

 内容は、彼のかつての教え子の力になって欲しいというものだった。

 友人の名はオーガスタス。その教え子の名はオーガスタ。紛らわしい!


 手紙を読み終えたドジソンは溜息をついた。オーガスタは彼より十五歳年上の女性だった。ドジソンはもう一度悪態をついた。


「BBAか……」


 *


 ドジソンが彼女と会ったのは、それから二週間後のことだった。


「はじめまして、ミスター・ドジソン。御高名はうかがっていますわ。ド・モルガン先生からご紹介をいただいた、オーガスタ・エイダ・ラブレスです」


 黒い服に身を包んだ華奢な女性だった。アラフォーを過ぎていたが、それでも尚、美人だった。彼女は自分のことを『エイダ』と呼んでくれと言った。


(まじBBAだ……)


 ドジソンは萎えた。年上の女性と話すのは苦痛でさえあった。じっとこらえて、彼は訊いた。まだ可能性はある。


「子供いますか。女の子」

「はい」希望が持てた。

「歳は幾つですか」

「もう二十三歳になりますわ」希望が潰えた。


 ドジソンは萎えた。仕方が無いので、エイダの少女時代を思い描くことにした。全盛期はとうに過ぎているとはいえ、彼女は絶世の美女だった。脳内に浮かび上がった十二歳のエイダは妖精そのものだった。ドジソンは少し元気が出た。


 オーガスタスからの手紙に書いてあった。エイダはあの押しも押されもせぬ貴族、ラブレス伯爵の夫人。超セレブ!

 彼女はチャールズ・バベッジなる人物と共に『解析機関』という装置の開発に携わっていた。その装置はプログラムに従い計算を行うという、まるで前例のない画期的なものだった。プログラムを変えれば、三角関数から微分、積分、オイラー級数……、ありとあらゆる計算ができるという代物だった。

 しかしそれは、あまりに複雑で、巨大なものだった。開発は難航した。遂に予算を使い果たし、プロジェクトの存続は崖っぷち立たされた。


「助けてください~。解析機関が完成すれば世界は変わるんです~。凄いんです~。あと少し、お金さえあればいいんです~。あと、もうちょっとなんです~」


 ほろほろと涙を流しエイダは訴えた。しかしドジソンが情にほだされることは無かった。BBAの涙は彼の感情を揺さぶらなかった。というかエイダの訴えからは、どう見てもドツボにハマって抜け出せないような香りがぷんぷんしていた。デスマーチだった。確実に駄目なパターンだった。

 だがドジソンはこの『解析機関』というアイディアに興味を持った。

 位相幾何学という新しい数学を志している彼の直感は、エイダが語る以上に、この機械が大きな可能性を秘めていると、彼自身に囁きかけていた。彼は『解析機関』の製作者であるバベッジなる人物と会うことにした。


 *


 チャールズ・バベッジは優秀な数学者ではあったが、頑固一徹を絵に描いたような職人肌の男だった。同時に、気の良い老人でもあった。彼はドジソンに製作途中の『解析機関』を見せて回り、原理を一通りレクチャーした。それは大きな家ほどあった。カムとギアとシャフトの化け物。まさに蒸気の恐竜だった。

 常人にはとても理解のおぼつかないそれの全体像を、ドジソンは一瞬にして理解した。

 エイダは言った。


「これが完成すれば、どんな複雑な計算でもできるようになるんですぅ! 凄いんですぅ! でも、大学の先生も、お役人も、実業家のお金持ちも、だから何だって言うんですぅ! 酷いですぅ!」


 ドジソンはしかし、大学や役所や投資家の言うことの方が理にかなっていると思った。科学計算のためだけに、それこそドーバー海峡を札束で渡してしまえるような大金をかけ、この巨大な装置を完成させるのはナンセンスだと思った。

 科学的好奇心をそそる機械なのは確かだ。しかし度を越している。実利を考えるなら計算するための人間コンプターレを雇い、手作業で計算した方が、遥かに安上がりだ。

 いや、違う。この機械の真髄は他にある。彼は興奮気味に言った。


「馬は好きか」

「大好きです!」


 間髪置かずエイダは答えた。彼女は生粋のギャンブラーだった。競馬がある度に散財していた。


「勝ち馬の予想はどうしている」

「えっと……お馬さんの血統とか、最近の勝ち負けとか、ジョッキーとの相性とか、得意不得意なコースとか? 組み合わせて考えてますぅ」

「つまり、君という一種の演算器に情報という入力を加え、勝ち馬予想という出力を取り出している! 『解析機関』も同じことができる」

「考えるの? 機械が?」

「違う。しかし出てくる結果が同じなら考えているのと同じことだ。過去の起こったこととそれらに関連する情報。その相関関係を繰り返しパターン学習させる。やがて『解析機関』は知識を蓄積し、教師データに基づき内部にある行列式ベクターマシンの重み付けを帰納的に変えていくことで、パラメータは現実へと近似していく。つまり未来予測。これぞ強化学習!」

「ドジソンさんの著書、『行列式初歩』に書いてある内容ですね!」

「いかにも。『解析機関』は真理を導く」

「おお! 億万長者! 超セレブ!」

「ギャンブルだけでは無い。先物取引、証券取引、戦争。我が大英帝国は、その全てを手に入れる。我々は、情報を制するのだ」

「おお! 我が大英帝国に栄光を(I salute you)!」

「I salute you!」

 二人は祝福しあった。その言葉に合わせ、大砲の音が聞こえてきたような気がした。


 *


 ドジソンは彼の人脈を全て使い、金策に走った。彼はドリーナに手紙を書いた。数日後、彼はバッキンガム宮殿に呼ばれた。そこでヴィクトリア女王と謁見した。ドリーナは彼女のペンネームだった。ヴィクトリア女王は、ドジソンの小説のファンだったのだ!

 女王の命により大英帝国は、挙国一致で『解析機関』完成に向け全力で取り組むことを決めた。ドジソンは畏まって言った。

「Yes, Your majesty! (くそBBA)」


 やがてロンドン、そしてオックスフォードの地下には数十台の『解析機関』が置かれた。

 各々の『解析機関』はネットワークでリンケージされた。複雑な機械的リンク機構と、長大な機械式チェーンが情報を伝達した。言葉通り、うねうねと動く巨大なリンク機構リンケージが、巨人ビッグデータを捕まえる網目ネットワークを構成していた。全てのネットワークはハミルトン閉路を構成していた。ローワン、君の研究成果は素晴らしい!

 ネットワークの設計は研究者仲間のケンプ氏が担当した。彼はリンク機構のスペシャリストでもあった。彼の考案したチェーンによる情報伝達機構は、後に〈ケンプ鎖〉と呼ばれることとなる。

 地上にある全てのタイプライターがリンク機構で『解析機関』に接続された。新聞社、証券取引所、公文書館、出版社、ブックメーカー、企業のオフィス、個人の書斎。

 イギリスの石炭使用量の7.8%と水使用量の1.3%が『解析機関』稼働のために使われた。ロンドンの街は蒸気に満ち溢れた! 『解析機関』は世界情勢からゴシップまで、ありとあらゆる情報を貯め込んだ。記憶媒体であるパンチカードの総重量は60万ポンド(約270トン!)にまで膨れ上がった。


 遂に『解析機関』は稼働を始めた。


 大英帝国は戦争に勝った。大英帝国に栄光を(We salute you)!

 大英帝国は貿易で巨万の利益を得た。大英帝国に栄光を(We salute you)!!

 大英帝国は金融を制した。大英帝国に栄光を(We salute you)!!!

 6インチ砲による号砲が、イギリス中に鳴り響いた。


 しかしドジソンの表情は冴えなかった。

 彼は失恋していた。最愛の恋人、アリス・リデルちゃんにフラれてしまったのだ!

 ドジソンはいつも通り、彼女の服を脱がせ写真に撮ろうとしていた。しかし彼女は「おじちゃん、嫌い!」と泣き出してしまったのだ。


 失意の底にあった彼は、あるアイディアを思いついた。愛おしい妖精もやがてBBAとなる。彼に必要なのは永遠の幼女。そう、『解析機関』でエミュレートされた仮想人格!

 彼はそれをALICE(Artificial Little Infinite Characteristics on analytical Engines)と名付けた。彼の決断は速かった。全身全霊を注いで開発にあたった。

 彼は『アリス』の他に『エイダ』と『メイベル』という人格を設定し、三台の『解析機関』を繋いだ。幼女三人寄ればかしましい。見る見るうちにアリスは成長した。


 ドジソンははやる心を抑えタイプライターのキーボードを叩いた。


『こんにちは、アリス。キャロルおじさんだよ』


 ドギマギしながら彼はアリスからの返事を待った。『解析機関』が備え付けられている地下では高圧蒸気がすさまじい力でシリンダーを動かし、無数のギアとカムが恐ろしい勢いで回り、猛烈な勢いでパンチカードが行き来していていた。構文解析、知識データベースからの検索、パターンマッチング、多層的な畳み込み演算。アリスは答えを導き出した。

 ドジソンがまんじりと見入る中、プリンターが動き出した。アウトプットされた用紙にはこう書かれていた。


『氏ねロリコン』


目指したのはSFではなくカート・ヴォネガット的ナンセンス小説でしょうか。個人的にはアルフレッド・ベスターちっくな感じで書けたと勝手にほくそ笑んでおります。


☆用語集★

BBA:15歳以上の女性。

解析機関:スチームパンク定番ネタ。ググって下さい。

位相幾何学:トポロジーとかグラフ理論とか、そっち方面の学問。

チャールズ・ドジソン:世界一有名なロリコン。(フィクションです)

エイダ・ラブレス:スティーヴ・ヴォズニアックの次に有名だろうプログラマ。(フィクションです)

ド・モルガン:コンピュータを扱う人間はこの人に足を向けて眠れない。(フィクションです)

チャールズ・バベッジ:夢追い人。(フィクションです)

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[良い点] やっぱり『アリス・エデュケーション』は最高だぜ! この作品のタイトルを見た瞬間、あの作品を彷彿させてしまいました。  例の作風が見られるだろうか、いやしかし今回もハズレだろうな。そんな薄…
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