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停止した部屋

作者: 輪村

【登場人物】


女性 入院中の患者。

男性 女性のもと見舞いに訪れる。

医師 女性の担当医。

理事長 女性が入院している病院の理事長。








【第1場 病室】


コンコン(ドアをノックする音)

ガチャ


医師(以下:医)「こんにちは」

女性(以下:女)「…どうぞ」

医「…」

女「…」

医「…」

女「…あの、私に何か」

医「……あ、ああ。どうも。今日は、その、とても良いお日柄だね。その、…はは、洗濯物がよく渇きそうだ」

女「…ええ確かに。三時間程前まではそうでしたわね。……もう大分日が傾いていますわよ」

医「えっ、あっ…あはははは、違いない。最近はあれだ、めっきり日が落ちるのが早くなってきましたよね」

女「………」

医「…あ、ああ、えっとその、…私はこの度この病院に配属されました、研修医です。若輩者故何分…その、色々と不慣れなものでして……」

女「……」

医「私の場合その、昔から緊張やら動揺やらがそのまま態度に出てしまうのですよ。取り繕ったりということがどうにも苦手なのです。ははは、駄目ですよねこんなことでは。」

女「聞いておられるのですね」

医「…え?」

女「私のことです。私のこの身に起こった、不幸な事件のことです」

医「…」

女「…この部屋に入ってきたときから随分とお気遣いなさってくれているようだわ。この小さな町のことです。嫌でも耳に入ってくるでしょう」

医「…ぼ、僕はまだ、ぼんやりと概要を聞いた程度で…事件の事細かな事情は知りません」

女「そんなに硬くならないで。…お心遣いは感謝しますわ。」

医「…僕にとって、あなたは始めて担当する患者です。あなたの回復と社会復帰を、全力で支援したい。例えそれが、どれだけ困難な道であったとしても」

女「まあ。素晴らしい心持ちですわね。でも、少し大袈裟ではなくて?私はもう、自分では随分と回復しているつもりですのよ。傷ももう、ほとんどまったくと言っていいほど痛みませんの」

医「……ご気分の方は、良さそうですね。」

女「そうですわね。気分は大分良好ですわ。…………お日柄もとても良いし」

医「…もう日暮れですけどね」

女「…ふふふ」

医「ははは」

女「……ただ、気分は良いのだけど、少し寒いわ。この病院はシーツを出してくださらないのかしら」

医「え?シーツなら…」

女「?」

医「…なんでもありません。備品庫に行って出してきましょう。ところで、今日はあなたに面会を希望している方がお見えです」

女「私に?」

医「ええ。この病棟の規則はご存じですよね?見舞いの際には必ず医師が一人以上立ち会わなくてはいけないことになっているんです。」

女「…一体誰かしら」

医「その方は、あなたの古くからの知人だと言っておられましたよ」

女「…」

医「では、お通ししますね。どうぞ。お入りください」


ガチャ。


男性(以下:男)「やあ。こんにちは」

女「……こんにちは」

男「いや、もう日暮れだ。こんばんはの方が適切だったかな」

医「聞いていらしたんですか。人が悪いなあ」

男「ははは、悪い悪い。……久しぶりだね。調子はどうだい」

女「……」

男「今日は随分と調子が良さそうだね。前途有望な青年が担当医になって良かった。ここの病院は基本的に、患者も医師も、年寄りや気狂いばかりで辛気臭いことこの上ないからね。いつも消毒液の臭いと死臭とが病棟に充満している」

女「……あの」

医「ちょっと、なんてことを言うんですか!」

男「ああ悪い悪い。かくいう私ももう人のことをとやかく言えない老いぼれになってしまった」

女「あの!」

男「ん?どうしたんだい。急に声を荒げたりなんかして」

女「……あの…大変失礼な事をお聞きするようですけど……」

男「なんだい。何でも言ってごらん。僕と君の仲じゃないか」

女「………」


女「どちら様、でしょうか」


男「…」

女「…その、私の、記憶違いだったらごめんなさい。あなたのような方には、今までお会いした記憶がありませんわ」

男「…」

女「それにさっき、あなたは何度もこの病室に足を踏み入れたような口ぶりでしたけど、私がここへ収容されたのは二日前のことです。面会に来た人だって、…あなた以外にはいないわ。誰かと間違っておられるのではないかしら」

男「…」

女「…ご気分を害されたようでしたら申し訳なく思います。ごめんなさい。私、この頃少し忘れっぽいところがああるんです。だから、貴方のことも、ひょっとすると…」

男「いや、いい」

女「あの、本当にごめんなさい。私…」

男「謝らなくていいと言っているんだ」

女「……えっと」


男「だって私は、これからもこの先も、貴方の中に存在し得ない人間なのだから」


男「気にする必要は、今もこの先も、全くないのだよ」

女「………ごめんなさい。私、素養のない女なんです。貴方の仰っている事、よく分からないわ」

男「ああ、君にはきっと分からないだろうね」

女「……私をからかっているの?」

男「とんでもない」

女「からかっているのでしょう。私を」

男「違うよ」

女「…いえ、そうよ。きっとそうよ。私のことを、私のこの身に降り注いだ凶事のことを、嘲笑いに来たんでしょう!」

医「ちょ、ちょっと。落ち着いてください」

女「きっとそう!そうに決まってる!ああ!嫌になるわ!本当に!みんな心の中で、惨めな私を嗤っているに違いない!!さっきだってそう!あの、あの病室の端の窓から、お婆さんがじっとこっちを見つめていたわ!」

男「…ほう。お婆さんが?」

女「そうよお婆さん!真っ黒な瞳でいつまでもいつまでも私を見つめてきて…こちらが何かを問いかけてももごもご口を動かすばかり!何を考えてるのか分かりもしない!気味が悪いわ!きっと…きっと私の噂を聞きつけて、冷やかしのために覗きに来たに決まってる!こんな小さな町ですもの。噂なんて風よりも早く伝わるわ。…ああ、ああもう本当に…嫌になる」

男「…その老婆は今はもう居ないようだね」

女「……ええ」

男「暗くなったので、帰ったのだろうか」

女「言ったでしょう。彼女が何を考えているかなんて分からなかったと。分からないし知らないし、興味もないわ。…ああ…嫌だ嫌だ嫌だ…」

男「確かにそれは気味の悪い体験だ」

女「ええ本当に…。本当にそう…」

男「他人からじっと見つめられるのはあまり気持ちの良い物ではない」

女「…」

男「私たちは自分自身の姿を目視することは出来ない。自分の身体なのに、他人の方がより詳しく知覚することが出来る。視られるということはそういうことだ。自分の知り得ない身体像を他人が認識するということだ。これはとても気持ちの悪いことだ」

女「…う、うう」

男「泣かせてしまってすまないねお嬢さん。随分嫌なことを思い出させてしまったようだ」

女「…っ……」

男「落ち着いてきたかい?」

女「………ええ。ごめんなさい…急に取り乱したりなんかして」

男「君が謝る必要は無いよ。ただでさえ精神が不安定だったのだろう」

女「…そうね。………そうでしょう。あんな事件の起こった後じゃ……誰だって気が動転すると思いますわ」

男「君は先程からしきりに『あの事件』を口にするね。よっぽど辛い体験をしたんだろう」

女「………ええ。…とても」

男「もし…君がかまわないのなら、その事件とやらの内容を私に話してみるつもりはないかい」

女「…」

男「心傷を負っている相手にこんなことを言うのは不躾なのは承知しているよ。しかし、他人に話をすることで心が癒されることもあるんだ。君自身、今の気持ちに整理をつけてみたいんじゃないかね?先程から度々自分の方からその話題に触れているのは、その表れではないかと思ったわけだが」

女「…」

男「改めて口に出すことで、その事件とやらを見つめ直すことが出来るかもしれないよ。人間は見られることは不快に思うものだが、見るという行為は対象への理解を改め、深め、更新することが出来る」

女「…」

男「まあ、もちろんそれは、見る側が対象を正しく認識している場合に限られる訳だが」

女「……あなたが先程から何を言わんとしているのかよく分かりませんが…でも、一理あることも確かです。…聞いていただきたいわ。あなたのおっしゃるとおり、私自身誰かにこのことを聞いてもらった方が楽になれるような気がします」

男「君がその気になってくれて嬉しいよ」

女「…先に断っておくけれど…この事件は何の関係も無い第三者に取っては面白くも興味深くもない話だと思いますわ。三流小説のような、ありきたりな、ごくつまらない話です。奇抜な話を期待してここに来たのだとしたら、がっかりさせてしまうかも」

男「一向にかまわないよ」

女「ありがとう。…話は私の生い立ちまで遡るのですけど……




私の母親は、私が生まれてすぐに死んでしまいました。

父も私が五歳の頃に、馬車に轢かれてこの世を去りました。

そういうわけで、その後ずっと孤児院に収容されていたのだけど、

そこで一人の男の子ととても仲良くなったの。

活発で、そのくせ泣き虫で、いつも懲りずに悪戯を繰り返しては、孤児院の監督官のおば様にこっぴどく叱られて泣いている男の子。

今思うと、なんだか…少し父に似ていたのかしら。

とにかく私はいつもその子に引っ付いて回って、その男の子も私を引っ張り回して、そして私を巻き込んだことでよりきつくおば様に叱られて、そうなるとその子は泣きながら私に怒るの。

どうして止めなかったんだよって。お前のせいでおばさんに怒られたんだからなって。

私の手を掴んで有無を言わさず引っ張り回したくせに。ふふふ、理不尽よね。

仲が良かったというよりは、私が彼の子分のような感じだったかしら。私、自己主張の少ない大人しい子だったから。

そりゃ私だって聖人じゃないから、彼の言動に腹の立つことはあったわ。

でもね、彼は悪い子じゃなかったと思うの。

ほら、彼も私と同じ孤児だったわけでしょ。誰かにかまってほしくて、そのくせ内心いつもどこかびくついてて…きっと、ずっと不安を抱えていたのよね。愛情に飢えていたのよね。

性格が正反対なのにどこか引かれ合っていたのは、やっぱり通じるところがあったからだと思うわ。似たもの同士だったのよ、私たち。

悪気があったわけじゃないと思うの。むしろ、その本質はとても善良だったように思うわ。悪い人じゃないのよ。悪い人じゃないの。決して。

だから子供ながらに、意識はしないまでも本能的に感じていたように思うわ。私がしっかりその子を見て支えてあげなきゃ…って。彼は哀れな少年だったのよ。だから私が支えてあげなければいけないの。悪い人だなんて、思ってはいけないの。決して、絶対に、そんな、そんなことは。

…あ、ごめんなさい。私ったら関係のない話ばっかり…。

とにかく私は、引っ込み思案で友達なんて多くは出来なかったけれど、彼のお陰で幸福な少女時代を送ることが出来たわ。彼さえいれば、私は他に何もいらなかった。

そうして、私たちは孤児院で成長して退所して、その子と私は座学の成績が良かったから、援助金をもらって孤児院の近くの全寮制の学校に通うことになったわ。

そこで…彼に…あの人に……出会ったのよね…。

あ、ごめんなさい…思い出すと震えが……ええ、ええ。大丈夫よ。ありがとう。続きを話すわ。

その人は…第一印象はとても良かったわ。あの人嫌いの私の幼馴染みが、初めて私に友人を紹介したの。それが彼。

成績はいつも主席だったわ。朗らかで、知的で、人望があって、いつもどこか余裕があって…。ふふふ、私の幼馴染みとは、正反対ね。

それでも、二人は不思議と馬が合っていたように思うわ。幼馴染みはいつも他人に対して攻撃的なひねくれ者だったけど、そんな彼の放っているギスギスした剣呑な空気を包み込めるだけの度量をあの人は持っていたのでしょうね。同年代の他の人たちと比べても、彼は随分大人に見えたわ。

とにかく私は幼馴染みに友人が出来たことが嬉しかった。幼馴染みの彼も、その友人と話しているときはすごく楽しそうに見えた。

今まで私ぐらいしか話す相手がいなかったんだもの。私相手じゃ会話も限られるし、当然よね。二人は私にとっては眠くなるだけの幾何学やら倫理学やらの議論をして、いつも盛り上がっていたわ。私は二人が話している内容を全部理解することは出来なかったけど、それでもそんな二人を見るのは楽しかった。とても。とても穏やかな日々が過ぎていったわ。

でも、そんな日々は長くは続かなかった。

潮の干満の様に徐々に、でも確実に、私たちの関係性は壊れていってしまったの。

どこからそうなってしまったのか、その転機ははっきりしてる。

彼が、友人が、

私に愛の告白をしたの。

…………驚いたわ。彼は、その、私のことを…幼馴染みに話しかけたら引っ付いてくる付属品のようなものだと思ってると…そう思っていたから。

もちろん会話をすることはあったけど、内容はいつも幼馴染みの彼の事か、そうでなければ他愛のない必要最低限の日常会話とか…そんなことだった。

もちろん大切には思っていたわ。幼馴染みの大切なたった一人の友人ですもの。でも…。

正直彼にそれ以上の思い入れは無かったし、それに私にとっては幼馴染みの彼の方がずっと大事な存在だったから。彼から告白を受けるずっと以前に、私たちは結婚の約束をしていたから。だから。

その旨を彼に伝えて、彼も納得してくれたようだった。いつもの、あの、柔和そうな、人の良さそうな笑顔で、分かったと頷いたの。…どうしてかしら。


そのとき以後の彼のその表情を、どうしても私は思い出すことが出来ないの。


それから長い間、私たち三人の関係は表面上は何も変わらなかったわ。

でも水面下では、じわじわと変化が起きていた。友人の彼が、幼馴染みの彼に対してどこか余所余所しい態度で笑うようになった。取っていた講座を変更して、幼馴染みと鉢合わせる機会を減らしていた。そして…なるべく私が一人きりの時に、接触してくるようになった。

もちろん嫌だった。嫌だったわ…。でも、どうしてだか…分からないけど…でも、何故か私は彼を拒めなかった。

もともと主体性の薄い人間ですもの。相手に流されやすいのかもしれないわ。ああ、そんな軽蔑してような目で見ないで頂戴。とにかく私は彼に毅然とした態度を取ることが出来ないでいた。彼を見捨ててはいけないと、そう思った。…あれ、これは…これでは……あの時彼に感じた事と…同じ…。

………ご、ごめんなさいね。ちょっと目眩が。

どこまで話したかしら。そうだわ。彼は度々私と二人きりで会うように要求してきた。

彼の私への干渉は日増しに大胆さを増していった。それに比例するように、彼の態度も別人のように横柄になっていった。

本当に…別人としか言いようが無いわ。何時間も何時間も、私に怒るの。幼馴染みと会ったこと、話をしたこと、泣きながら、怒るの。私も泣きながらそれを聞くの。何も悪いことをしていないけど、謝るの。そうしなきゃいけない気がして、謝るの。どうしてかしら。ああ、また、目眩が。

幼馴染みはその内、私たち二人の関係に気付いたわ。どこかおかしいと思っていたんでしょう。三人で会話をしていても、沈黙が目立つ。時々友人が急き立てるように私をどこかへ連れて行く。

でも彼は私たち二人の異常に気付いてからも深く関わってくるようなことはしなかった。何故?私を愛していなかった?いえ違う。彼は私を愛していた。愛していたからこそ私の自主性を尊重して何も言わなかったの。彼は、彼は悪くないわ。彼?彼は…いえ、違う。彼はその彼はあ、ああ。目眩が…。




………ごめんなさい。動揺してしまって…。ええ、ええ大丈夫よ。お水をありがとう。話を続けさせてもらうわ。

学校を卒業して、私は役所で勤めるようになって、幼馴染みは技能士見習いとして町の工房に出入りさせてもらうようになって、例の友人は大学院に進学して、それぞれが別の道を歩み続けるようになってからも、その歪な関係は続いていた。友人は私を呼び付けて怒鳴り、号泣する。この頃になると、次第に暴力が目立つようになってきていたわ。幼馴染みは私の身体に浮き出た切り傷や青痣を見て、酷く心配そうな顔をして、何度も何度も私に控えめに忠告をしてきた。もう奴とは会わない方がいいと。

その頃には…彼ら二人が顔を合わせることはほとんどなくなっていたと思うわ。初めは幼馴染みの彼が接点の梯子となって顔を合わせていた私たち三人だったのに、いつの間にか私が梯子の役割を担うようになっていたのね。もうほとんど無いに等しい、朽ちて千切れかけた穴だらけの梯子だったけれど。

…こんな言い方をしているとなんだかとっても不幸そうな印象を持たれそうだけれどね、私、そんなでも実はとっても幸せだったのよ。

理由なんて一つに決まってる。彼が、幼馴染みの彼が、私の傍に居てくれたから。

彼が傍にいる。私の傍にいる。それだけが私の幸せ。彼の幸せだけが、私の幸せ。他には何もいらない。彼の笑う顔さえ見ることが出来たら、その他の物なんて見えなくたってかまわない。

恋人ってそういうものじゃないかしら。相手を支えて、受け止めてあげることができる。逆に、それが出来なくなったら恋人じゃなくなってしまうのよ。相手を思いやれない人間なんて生きている価値が無いの。私が私である意味が無くなってしまうのよ。…言ってること、分かるかしら?

とにかく私は…幸せだった。すごく、幸せだった。彼と式を挙げる日も近付いてきてた。それに、…それに


赤ちゃんが出来たの。


信じられる?私と彼の愛の結晶が、私の体内に宿っているの。こんな幸せなことが他にあるかしら?

ずっと長い間二人ぼっちだった私たちに、新しい家族が出来るの。血の通った家族が出来るの。人生でこんなに幸福でいっぱいになれることがあるかしら。初めてこの病院でそのことを聞いたとき、涙が溢れて止まらなかったわ。あの時のことを思うと、今でも体中が歓喜で震えて、目頭が熱くなるわ。ああ、あなたもそんなに目を潤ませてくれて…分かってくれるのね、この気持ちを。ありがとう。

私はあの時、この世界中で一番幸福な人間だったと思うわ…。でも、ついこの間、そんな私を凍り付かせる出来事が起こった…。

そう。遂に起こったのよ。

………あの事件が……。

っあ、やだ私ったら、ごめんなさい。コップは弁償するわ。…ごめんなさい。震えているのは放っておけば治るの。そんなに心配しないで。ありがとう。あなたは良い人だわ。



例の友人が、私たちの家に来たの。

その時夫はまだ帰ってきていなくて、小さな借り家に私一人だった。

その日も、その友人はどこか様子がおかしかった。何故あの時私は家の扉を開けたんでしょう。私は馬鹿な娘でした。おろおろと愚者のように狼狽えながら彼の言うことを従順に聞いていました。

だって、だって彼の言うことは聞いてあげないといけないから。私が受け止めてあげないと、彼は、いえ私は。

彼は恐ろしい形相をしていました。血走ったぎょろぎょろとした目で私を見ていました。

それは飢えた獣のようにも見えましたが、私にはどちらかというと、いじめられっ子の少年のように見えました。

酷く非力で、孤独な少年の目をしていました。

彼はいつものように私に罵詈雑言を浴びせました。どこで聞きつけたのでしょう。私が懐妊したことを知っている様子でした。

彼の視点が次第に定まらなくなってきました。乱暴な言葉を口走るのは止めないままに、手や足がぶらぶらと力が抜けた様子で動き始めました。

いつもこの段階を得て彼は暴力を振るい始めます。その日はいつもよりその段階に至る時間が早かったように思います。

嫌な予感が次第に濃くなってきて私は焦り始めます。でも逃げ出しません。何故?彼を信じていたいからです。彼が何かを言って私も何かを言い返します。何を言っていたのか思い出せません。私は泣いています。泣きながら彼に何かを彼に言っています。



『どうして、どうしてお前は―――――――――――――――――――』


『―――がう、違う。私は―――――――――――――――――』



彼の腕が、拳が、私を乱暴に小突いてきます。

彼が暴力を振るうのは、彼の感情が昂ぶってどうしようもないときです。言葉で表しきれないから、彼は全身で泣きながらその気持ちを表現するのです。彼は可哀想な人です。彼は何も悪くありません。

じゃあ誰?誰が悪いの?私?私が悪いの?

違う。違う違う違う私は悪くない私は何も悪くないだってでも彼は、彼は、あ、


私の、お腹に―――――――――――――――――――。」




『お前は俺の×××だろう?』


『どうして、どうしてお前は』



私の、お腹に










女「っああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」








医「!!!?ちょっ、大丈夫ですか!?」

女「…っああ、ああ……」

男「……。」

医「やはり無理をしていたんですよ!心的外傷を抉り返してしまったんだ…」

女「あ、ああ…。」

男「……落ち着いてきたかい?」

女「あ、私……私…。」

男「もう、無理をして喋らなくてもいいよ。辛い経験を蒸し返してしまって、申し訳なかった。」

女「…それ以後は…あなたたちの知っている通りの結果です。私はかつて体験したことがないほど酷く暴力を振われて、…この病院に担ぎ込まれましたわ。」

男「………。」

医「……。」

女「…長い話を聞いてくれてありがとう。確かにあれは私にとってショッキングな出来事でした。思い出すと震えが止まりませんわ。でも、私の心傷なんか、この事件から救われた一つの大きな奇跡を鑑みると、どうってことはありません。」

男「…ほう。その奇跡とは。」

女「赤ちゃんです。…あんなに酷い暴行を受けたのに、私のお腹の中の赤ちゃんは無事だったんです!」

男「……。」

女「ああ、神様は私から一番大事な物を奪わずに残しておいてくださった。なんて慈悲深いお方なのでしょう。涙が出てきますわ。ほら、見て。もうこんなに大きくなって…。この体内に新しい命が宿っているのよ…。私の、私の赤ちゃん…。」

男「…長話をしてさぞかし疲れたことだろう。私はそろそろお暇させていただくことにしよう。」

女「ええ。聞いてくださってありがとう。あなたが最初に言った通り、なんだかすっきりとした気分になったわ。」

男「それは良かった。…この、ベッドの端に引っかかっているのは、キルトですかな?」

女「ええそうです。」

男「君が作ったのかい?」

女「ええ。」

男「ここまで大きく仕上げるのにはさぞかし時間がかかったろう。」

女「ええ。もう随分長い間そのキルトにかかりっきりですわ。病室ではやることがないから、お医者様に頼んでここまで持ってきていただいたの。」

男「美しいな。素晴らしい出来映えだ。」

女「ふふ、ありがとう。私はこれ以外に何の取り柄もない女だから…。この世で一番大事な人にあげるの。お洋服の生地は高いでしょ?だから、布きれをかき集めて、あの人に洋服を作ってあげるの。この子が生まれてくるまでに、この子のお洋服も作ってあげたい…。あの人は地味な柄が好きなんだけど、喜んでくれるかしら…心配になってきたわ。」

男「…きっと、すごく喜んでくれると思うよ。」

女「ふふふ。そう言ってくれると希望が持てるわ。」

医「あの、そろそろ、面会時間が…。」

男「分かっている。もう帰ろうとしていたところだ。では私はこれで。」

女「ええ。また来て頂戴。」

男「…ああ。また来るよ。必ず、また来るよ。」

女「…。」(にこやかに微笑みながら手を振る。)


ガチャ バタン






【第2場 病院内のロビー】


         男性、医者、移動中。

男「……。」

医「……。」

男「……。」

医「…あの。」

男「ん?」

医「…一つ伺ってもよろしいでしょうか?」

男「なんだい?」

医「あなたは先程の女性とはどういった関係なのですか?」

男「…さっき病室内で彼女にも説明したように思うが。」

医「……確か、彼女の中に存在し得ない存在とかいうようなことを言っていましたね。」

男「その通り。私は彼女にとってはこの世に居ないも同然の人間だ。」

医「率直に言いますが意味が不明です。そうやって僕のこともからかうおつもりですか。」

男「心外だな。私は誰のこともからかったつもりはない。」

医「ではもう少し具体的に言ってくれても…あっ、理事長。」

理事長(以下:理)「…これはこれは。(頭を下げて会釈)」

男「(微笑んで会釈。)」

理「こら君。診察室の外では他人を尋問するようなことはよしなさい。」

医「えっ。尋問だなんて、僕はそんなつもりは。」

男「では私はこれで。」

医「あっ、あの。……行ってしまった。理事長、彼は何物なんですか。」

理「おかしなことを聞く。彼は見ての通り入院患者の元に見舞いに来た初老の紳士だ。それ以外にその質問にどう答えればいいのかね。」

医「理事長はその紳士とお知り合いなのではないですか。」

理「…。」

医「違うんですか?さっき親しげに挨拶をしておられましたけど…。」

理「君にはあれが親しげに見えたのか。そうか。」

医「違うんですか?」

理「…。」

医「…あの、良ければ話してもらませんか。」

理「何をだ。」

医「…彼女のことです。」

理「…。」

医「今日彼女の話を聞きました。…でもどうにも腑に落ちないところがあって…。彼女自身も、混乱をしている様子です。」

理「…。」

医「僕は彼女の担当医ですよ。興味本位で聞いているわけじゃない。知る権利と義務がある。」

理「…分かった。すまない。君に全てを話そう。」

医「やはり何かあるのですね。彼女には。」

理「ああ。私が言葉を濁すに至ったのは、彼女について話すにあたって多大なバイアスがかかる危険があったからだ。それを承知で聞いて欲しい。」

医「…分かりました。」

理「私が知っているのは、一人の偏屈で弱気な青年の証言だ。」




理「彼は名のある議員の一人息子だった。」

理「父親は体面や外聞を強く重んじる人間で、息子にも自分と同様のエリート街道を歩む事を強く望み、数多の教養を幼い頃から彼に叩き込んだ。」

理「その甲斐あってか、彼は勉学において優れた成績を残すことが出来、権威ある大学への進学が認められた。」

理「そして彼はその大学で、とある男女二人組と出会う。…どのような二人組か、もう想像はついていることだろう」

医「…孤児院で共に育った、恋人どうしの二人組…ですね」

理「その通りだ」

理「そして彼は女性の方に、人生で初めてと言える情熱的な恋を経験することになる。一目惚れだ」

理「二人が恋仲であることを知らない彼は、彼女に近寄る口実を作るために男の方にすり寄っていった」

理「動機はいささか不純だったわけだが…きっと何か通じるものがあったのだろうな。趣味や感性が一致した青年と男はまあそれなりに意気投合し、共に時間を過ごすようになった」

理「しかし過ごす時間が長くなるにつれ、青年は二人の病理的一面を度々目にするようになる」

理「気付いた端緒は、女の首元にうっすらと出来ていた青痣だった」

理「青年が女に、その傷はどうして出来たものかと尋ねると、女は言葉を濁して微笑みながら束ねていた髪をほどいて痣を隠した」

理「その後、青年は彼女が再び髪を束ねているところを在学中一度として見なかった」

理「男は実に短気な奴で、何かにつけて周囲に当たり散らす気難しい人間だったが、」

理「彼女に傷が出来るのは決まって男が荒れた後だった」

理「青年は、彼女が年中丈の長い上着を羽織っているそのわけを理解した」


理「女は恋人から暴行を受けていたのだ。」


医「……。」

医「…彼女の話では。」

理「女が暴行を受けていたのは青年からだという話だったろう。その理由はまた後ほど話すとして…。君。君は、両親が子どもに与える精神的側面についてどの程度の知識と理解があるかね」

医「僕ですか?…学生の時、理事長がそのテーマで発表していた書籍には一通り目を通しました」

理「ふむ。及第点だ」

医「ありがとうございます」

理「両親の存在は幼年時の子どもの心理に多大な影響を及ぼす」

理「子どもは母性によって無償の愛を受けることでこの世に自分が存在しても良いのだという安心を手に入れ、そして父性によって母性と切り離されることで秩序と節制を…自分を制御する術を身につける。両親の存在によって健全な自我を手に入れるんだ」

医「あなたが提唱している基本理念ですね。仮に両親が揃っていた場合でも、父性と母性を充分に提供出来なければ精神の健全な発達に悪影響が及び歪みが生じるという」

理「まあ歪みのない人間などこの世にはいないのだがな」

医「…その話が今までの話とどう関係するのでしょうか」

理「その男は、物心つく前に孤児院に捨てられ、天涯孤独の幼少時代を過ごした。周囲と上手く折り合いのつけられない手のかかる子どもだった彼は、両親の代わりとなってくれるような善良な保護者を見つけることも叶わなかった」

理「私の書籍について研究したことがあるなら分かっているだろうが、私の理論はあくまでも経験則による仮説であって実証には至っていない。そうである以上、みなしご蔑視に繋がりかねないこの理論を安易に振りかざすべきでないことは承知しているつもりだ」

理「だがその青年からは…男が常にひどく孤独の影に怯えているように見えた」


理「横柄で粗暴な態度の割りにいつもどこかびくついていて余裕がない。溢れ出る自己愛は父によって制されることがなかったためと、母への憧憬に焦がれ飢え乾いている自分を隠すため」

理「男はさながら、大きな子どものようだった」

理「そして母性への渇望は、ともに育った少女へ向けられた。彼にとって彼女は、全てを受け入れ抱擁する存在でなければならなかった」

医「……彼女が言っていました。恋人は互いを受け入れ、支え合わなければならないのだと…」

理「子どもにとって、母から庇護を受けられないということは死活問題だ。生命活動を維持できなくなる。その恐怖や怖れが彼の心には深く染みついていた」

理「…だから彼は彼女に暴力を振ったんだ」

理「人一倍見捨てられるのを恐れる癖に、彼女が自分を本当に見捨てないか常に確認していないと不安でしょうがなかった」

理「精神が不安定なとき、彼女が自分の望まない振る舞いをしたとき、男は決まって暴力を振った」

理「そして彼女は男を、その行為を、受け入れ続けたんだ」


医「…分かりませんね。どうして彼女は拒まなかったんです?家族同然で育ったとはいえ、大学に通う時分にはその程度の思考力判断力は身についていたはずです」

理「…彼女が五歳まで父親と暮らしていたことは知っているかい?」

医「ええ。彼女が病室で言っていました」

理「彼女の父親というのがこれまたろくでもない人間で、度々酒に走っては忘我することを繰り返す貧しい男だったらしい。幼い娘には母親は病に冒され死んだと言ったが、実際は男に愛想を尽かして家を出て行ったらしい」

理「そして彼は酒に呑まれる度に酒臭い息を漏らし泣きながら娘にこう言った」

理「お前だけは、俺を見捨てないでくれと」

医「…」

理「ある時一度だけ彼女が父親を拒絶したことがあった」

理「彼女のただでさえ少ない夕飯を酔っ払った父親が床にブチ撒いた時だ。飢えていた彼女は腹を立てて、泣きながら彼を大嫌いだと罵った。もちろん本心ではなかった。どんな人間でも彼女にとってはたった一人の肉親だ。一時の感情に身を任せてそう言っただけだった。しかし、例によって酒の魔力で精神が退行していた男はショックを受けた様子で玄関口から一人外に飛び出していった。」

理「そして再び玄関のドアをくぐって戻って来ることは永遠になかった。千鳥足でふらついていた男は、家のすぐ前の路上で馬車に轢かれて死んだ」

医「……」

理「この事件が幼い彼女の心にどれだけ深いトラウマを植え付けたかは推し量って余りある」

理「そして再び、家族のように共に育った男から、かつて死んだ父親が口にしたのと同じ言葉を投げかけられる」


『俺にはお前しかいないんだ』


『頼む。俺を、見捨てないでくれ』


医「…」

理「彼女の中には男と手を切るという選択肢などは無かった。彼女にとって、自分がきっかけとなって父親が死んだことは受け入れがたい事実だった。かつて父親を突き放した自分を戒め、罪滅ぼしをするかのように、男の要求を受け入れ続けた」

理「男が己の全てを受け入れる存在を望んだように、女もまた己の奉仕的欲求を満たす存在を望んでいた」

理「彼らは共依存の関係にあった。お互いを求める事で、実に危ういバランスで自分を保っていたんだ」


相手を思いやれない人間なんて、生きている価値が無いの

私が私である意味がなくなってしまうのよ


理「そしてある時、遂にその均衡が完全に崩れてしまう」

理「彼らが子どもを授かったんだ」

理「本来それはとても喜ばしい…祝福すべき事柄だ。事実、女は懐妊したことをとても喜んでいた」

医「…」

理「しかし…妊娠というものは、男にとっては実感が伴わない不可解なものであることが多い。ある時から急に女房の腹が脹れてきてそれが自分の子どもだと言う。家族を持った経験がない男の心中には特に色濃くその違和感が感ぜられたに相違ない」

理「そしてそれに加えて、男の心を支配したのは強い猜疑心だった」


理「『これは本当に自分の子なのか?』という…」


医「…」

理「ここで男が思い出したのは、同じ大学に通っていた友人の青年のことだった。青年が女に好意を寄せていたことは明らかだったし、卒業以後も何度か二人で会っていたようだった」

理「もし男の脳裏をかすめた疑惑が本当なのだとしたらそれは男への裏切りに他ならないし、その事実は彼自身を崩壊させかねない衝撃を与えることになる。なぜなら彼女は、『絶対に彼を裏切ってはいけない』のだから」

理「その男にとって彼女は唯一の救いだ。寒風吹き荒ぶ極寒の社会の中で、彼を守り温かく包み込む毛布のような存在だ。彼女が男を見捨て、男の前から消える。それは彼がまた毛布を剥ぎ取られ極地に放り出されることを意味する。凍死してしまう。かつて、実母から捨てられた恐怖が蘇る」

理「そして、彼の頭に降って沸いた疑惑を裏付けるかのように、女が家を空けることが多くなる」

理「外出する前とした後、やけにうきうきと幸せそうな表情をする」

理「ふっくらと張ってきた腹の子を、実に愛おしそうに撫でる」

理「…自分にとっては誰の子やら判然としない腹の子だ」

理「……限界が近付いていた」

理「彼はやはり暴力を振った。彼なりに、自分の元に繋ぎ止めようと必死だったに違いない。…馬鹿な話だ…」

医「……」

理「…そしてついに、女が恐れていた事態に発展してしまう」




『どうして、どうしてお前は俺から離れていこうとする。俺にはお前しかいないのに。』


『違う。私は、ちゃんとあなたを。』


『頼む。俺を愛してくれ。見捨てないでくれ。



お前は俺の恋人だろう?』















理「結果的に、赤ん坊は流れた」

医「…」

理「君は…この町の法令にはもう目を通したかね?」

医「いえ、まだ」

理「そうか。この町では胎児を流す直接的な原因をつくった者にも殺人の罪が適用される。百年程昔に流行病で子どもの数が激減したとこの町の文献にあるが、きっとその時の名残なのだろうな。未来を担う存在を抹消したと言う観点から、妊婦を殺した場合は通常の殺人の二倍、十歳未満の子どもを殺した場合は一.五倍重い刑罰が科せられる。被疑者が父親である場合もまた同様だ」

理「男には十年間の懲役が科せられた。君のもといた町ではどうだったか知らないが、ここでは妥当な判決と言えるだろう」

医「…その女性は、男性と共依存の関係にあったのですよね」

理「ああ。先に述べた通りだ」

医「その男性を庇護しなければならないという強い強迫観念を抱かされていたと」

理「ああ」

医「では何故他の男と密会をすることが出来たんです?それは彼女にとっても重大なルール違反になるはずだ。その頃にはもう心理的な呪縛からは解放されていたのですか」


理「」


理「彼女は浮気などしていなかったよ」

医「…」

理「していなかったというか、君の言う通りすることなどできなかった。何度も言うように、彼女の命を支えていたのは愛さなければならない義務感と必要とされている安心感だったからな」

医「では、男は勘違いを」

理「ああ。間男は存在しなかった。彼女は夜中に抜け出して、その間ずっと牛舎でキルトを縫っていた」

医「…」

理「夫と、生まれてくる赤子のために。来るべきその日に、驚かせたくて誰にも秘密で」

医「…なんてことだ」

理「そして…その結果がこれだ!夫は狂い刑務所に!子は失われた!最も愛すべき存在を一度に二つとも失ったんだ!彼女が…彼女が一体…何をしたというんだ…」

医「…理事長」

理「……すまない。取り乱してしまって」

医「………話は、それで終わりでしょうか」

理「…いや、まだ続きがある」


理「男は…それらの事情を知った」

理「そしてようやく目が覚めた。これまでの自分の稚拙さ、幼稚さ、身勝手さにようやく思い至った」

理「男は猛省した。することができるようになった」

理「固執していた自分像から離れ、自己を見つめ直し否定する勇気を、やっと手に入れたんだ」

理「それは時間によるものなのか、環境によるものなのか、読んだ本によるものなのか。それは分からない」

理「恐らくその全てが彼を変えたのだろう」

理「十年の刑期を終えて彼が帰ってきたとき、もう暗闇に怯える卑屈な少年の影はどこにもなかった」

理「かつて削げて窪んでいた彼の頬はつややかで健康的な朱色に染まり、手入れをされていなかった頭髪はきっちりと整えられ、落ち窪んでいた目は輝きを放ち、曲がっていた背は真っ直ぐに伸びていた」

理「十年の歳月は彼の内面も外見をもすっかり変えてしまったのだよ」

理「彼は出所後かつての自分の女房のもとへ会いに行った」

理「彼女にしたことを悔い、彼女に許しを請うて願わくばまた共に人生を歩みたいと思っていた」

理「いやそれが叶わずとも、一言詫びの言葉を彼女にかけられるだけでもいい。彼は良識的な考え方を受け入れて以来、長きに渡って堕胎した赤児の亡霊とその母親の悔恨の念の幻影とにさえなまれてきた。彼自身、心の底から必要としていたのだ」

理「ただ一言詫びの言葉を」

理「ただ一言許しを請うこと。それだけが彼の望みだった」

理「しかし」



女『あの…』


女『あなたは、誰なのですか』




女『一体、どちら様でしょうか』




医「それすらも、彼女は許してはくれなかったのですね」

理「…ああ」

医「…」

理「我が子を失った彼女は目も当てられないほどに憔悴した」

理「精神的ショックなどと表現するのも生温い。心臓を抉り取られたかのような狼狽ぶりで、事件後一週間はまともに人の言葉を喋ることすら出来ない有様だった」

理「しかし事件から二週間が経過した時、ふいに彼女の精神状態が安定した傾向を見せ始めたんだ」

医「…そのことが、十年後に自分の夫を認識することが出来なくなったことと直接的な関係があるのですね」

理「まさしくその通りだ」

理「君にももう分かってきた頃だろう」

理「この一連の出来事の全貌が」

理「あの部屋で、今何が起こっているのかが」


医「分かっているも何も…もう全て答えは出揃っているではないですか」


医「彼女はこれ以上ない精神的負担を味わった」

医「病室で彼女が口にしていた述懐は事実とは違っている。彼女は」

医「見ることが出来なくなったのですね」

医「自分自身と、その状況を」


理「精神に混乱を来たした彼女は、自分自身を騙すことで自分の精神を守ろうとした」

理「『赤ん坊はまだ腹の中にいる』」

理「彼女はそう思いこむ事によって、精神の安寧を得た」

理「これが彼女が自身についた一つ目の嘘だ」

理「しかし、時が経つにつれ一つの問題が生じる」

理「妊娠したにも関わらず月日が流れても流れても子が生まれない。これは一体何故なのか」

理「このままでは嘘が破綻してしまう。また地獄に叩き落とされてしまう」

理「彼女が次に用意した嘘。これもまた単純至極なものだった」


理「彼女は時の流れを止めたのだ」


理「以来彼女の頭の中にある記憶は、あの事件が起きて数日後から更新されることがない」


理「腹の子を撫で、夫の来院を待つ人生の中で最も幸福に充ち満ちた瞬間、その瞬間で止まっている」



医「だから、認識出来なかった」


医「十年越しに見た夫の顔を」


医「歳をとり精悍になり別人のようになった男の顔を…」




理「…以来その男は己のしたことを悔やみ続け、贖罪のため、隣町から毎週欠かさず彼女のもとへ会いに来る。それで彼女の症状が改善されるというわけではないが」

医「その、もう一人の男は」

理「なんだね?」

医「彼女を愛していたもう一人の男は、さぞ辛かったのでしょうね」

理「…」

医「今までの話を総括すると、彼女が身を護るため自身についていた嘘は次の三つになる。一つは『赤ん坊はまだ腹の中で生きている』『部屋の中の時は事件後一週間前後で泊まっている』そしてもう一つ。『自分に暴力を振っていたのは恋人ではない。大学時代の友人の方だ』…」

理「……恐らく、彼女が恋人の行いを全面的に許容しようと努力している中で、精神系統に無理が生じたのだろう。その友人は、男の悪魔的行為を代わりに行わせることにおいて、最も都合の良い存在だったに違いない」

医「しかし、それではあまりにも」

理「当然の結果だよ。その男は我が身可愛さに二人の歪な関係を黙視していた卑怯者だ。愛する人が恋人が暴力を受けていると知ってから、不埒な輩に苦言を呈することはいつだって出来た。しかししなかった。何故だか分かるか?彼は勉強においてもその他諸々のことにおいても敗北というものを生まれて味わったことがなかった。二人が強固な依存関係を築いていることを早々に見抜いていた彼は、そこに自分が介入すれば、彼女の口からはっきりとお呼びでないと思い知らされることになる。そのようなことは、彼のちんけなプライドが、許さなかったのだ!」

医「…」

理「プライドが何だ。体面がどうした!あの時行動に移すことが出来ていれば、最悪の事態は、回避することが出来たかもしれないというのに!」

医「だからなのですか」

理「…何がだ」

医「彼女を一時的に退院させた時の報告書を読みました。筆舌に尽くせない狼狽ぶり、混乱ぶりで、介護人が付き添ったとしてもとても生活を送ることが出来る状態ではなかったと」

理「…」

医「しかし隣町から毎週通ってくる男のことを考慮にいれたとしても、彼女だけでこの病院の入院費を支払い続けられるわけがない。まして彼女のような症例の場合、治療不能と断定されて早々に病院を追い出されるのが普通だ。しかし、そうなっていないということは、病院内部で誰かが彼女がここに残るよう手を回しているのでしょう」

理「何が言いたい」

医「贖罪のつもりなのですね。あなたも」

理「分からんな。何を言っているのか」

医「分かっているくせに」

理「……」

医「……いえ、申し訳ございません。忘れてください」

理「いや、いいんだ。いいんだ」



理「彼ら三人は一見一人一人が互いを深く愛しているように見えて、その実誰のことも愛してはいなかった。結局彼らが狂おしいほどに愛していたのは自分自身に他ならなかったんだ」


理「そして己の醜さや愚かさや過ちを眼前に突きつけられたその瞬間から、悔やみ、恥じ入り、発狂し、彼等の時間はそこで止まっている」


理「今もあの部屋で…止まっているんだ」










【第4場 再び病室】





月光が、おびただしい量のキルトで侵食された部屋を照らし出す。

鏡に映った老婆が、病衣の下にシーツをくるみこんで、不自然に張った腹を撫でている。

愛おしそうに、撫でている。







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