表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
作家画家  作者: 間楽面明
2/2

忘れられない感情


   2章 忘れられない感情


 朝の匂いで目が覚めた。いつからだろう、寝ていたのは。

 目が覚めるとPCを点けっぱなしにしてその場に倒れるようにして寝ていたようだ。

 食用少女と無関係だった少年は必然的に出会い、そして恋に落ちた。その少女を狙う魔の手に屈しないなんて事は普通の少年には出来なかったが、命を懸けて自分を守ってくれた少女を命を懸けて助け出す。

 端的に言ってしまえばギブアンドテイクの話し。

 病的なまでの恋心の噺。


 その文章を一度読み直して、文節や文脈が変な部分を直していく。俺はこの作業が一番苦手だ。毎回ミスをかなり多くの数をしてしまうので、編集さんに多大なご迷惑をおかけしているのだ。

 三十ページ目あたりを見ている時、部屋の扉が開いた。

 しかし、そこには誰もいなかった。

「お、おい、ワンコ……だろ? 何してんだよ」

 返事がない。不気味に揺れるドアノブに僕の視線は釘づけだ。

 少し視線を周囲に向けると、床に這いつくばって、某映画のサダコの様な形相でこちらに這い寄ってくる。

「ちょ、ワンコ、どうした。おい」

 俺も少し後ずさりをしながら問う。部屋の電気はリモコン式で、電気を消すスイッチを踏んでしまった。

「お前、どうしたんだよ……おい、おい!」

 じわり……じわり。距離が詰まってくる。俺の背中は壁に当たり部屋の隅まで後ずさりをしながら逃げた。

「お、落ち着けワンコ……落ち着け三國川……」

 彼女の手が俺の足の指先に触れる。くるぶし、膝と彼女の細い指で這い上がってくる。

 飛び跳ねてぐちゃぐちゃになった赤みがかった髪の毛があちらこちらに跳ねていて、前髪か横髪か分からないが顔全体を隠してしまい、表情が分からない。

「おい! ワンコ! ちょ、おい!」

 足の付け根にも手が触れて、これは放送禁止物になると一瞬思って終ったが、さらに上に指が伸びてきた。

 いよいよおかしい状況に俺は抵抗が出来ないでいる。

 この距離に近付いて思い出したのだ、彼女が部屋に閉じこもり俺を避けていた事を。

 肩に触れた彼女の手に力が入り、顔を上げて目をのぞかせる。

「ワンコ……」

 虚ろな目は何を物語っているのか分からないが、文字通りこちらを見詰めている。

 彼女は胸を俺の胸に密着させて、体重を全てそこに預ける。

 細いその指は肩から両頬へと移動させて、虫を連想させられるような動きで触れてきた。

 細く尖った瞳で永遠にも感じられる短い時間見つめてから、俺の唇に齧り付いた。

 噛んだ。

 痛い。

 ちょっとまて、マジで食う気か!?

 とっさに彼女の喉を押すと、彼女の噛む力は緩み離れた。そのまま覆いかぶさった彼女から転がるようにして逃れた。

 口中に生臭く思い味が広がる。血の味だ。

「お、おい……どうしちまったんだよ……!」

 口から滴る血を押さえて、彼女の方を見る。睨むべきか、どうするべきか分からないまま見開いていた。

 俺が逃れる時に彼女は倒れ込むようにしていて、腰が高い位置にある状態でうつ伏せになっている。腕を立ててゆるりと起き上り、こちらを見た。

「ね……ねこちゃぁ~ん……おなかすいたぁ……これまずいー……」

「はぇ?」

「にゅぅ~……」

 そのまま倒れ込むようにして突っ伏した。

 即座に反応は出来なかったが、完全に動かなくなった彼女を見て状況が少し理解出来た。

「お、おい、ワンコ大丈夫か!」

 歩み寄ると「う~ん」と言いながら寝てしまっている。

『ぐぅううぅうぅうううぅううううう』

 抱え上げた瞬間、あまりにも長い腹の虫が鳴いた。


   ***


「っふ。はは、マジかよ」

「笑わないでよぉー。しょうがないじゃん、本当の事なんだもん」

 話を聞いてみると、部屋に閉じこもって二日ほどはトイレ以外で部屋から出ていなかったようだ。その後さらに三日はご飯をどうにか作ろうと苦戦したものの、今までご飯を作った事が無かったワンコはただただ焦がしたフライパンや鍋を増やすだけで終わらせた。おかげで料理を作るまで片付けから始める羽目になったが。

 机で食事の時の様に向かい合わせで、紅茶を飲みながら食後のひと時を過ごす。

「なんでネコちゃん唇怪我してるの?」

「え……これは……覚えてないのか?」

「……うん? 覚えてないって何?」

 これは言っていいのだろうか。間接キスであの乱れっぷりをしたワンコに言うのはまずい気がする。

「ワンコが呼びに来て、俺が倒れて、な。机にぶつけちまったんだ」

「……そっか……それならしょうがない、ね」

 すっかり飯を食べて満足をしたワンコは、俺の心配をよそに欠伸をしながら答える。

「あと、ごめんね。この前取り乱しちゃって」

「ああ、こっちも悪かったよ」

「勘違いしてると可哀想だから言うけど、素直に折れるのはいい男じゃないよ?」

「いや、正直自分の何が悪いのかもわかってないが、多分取り乱す原因は俺だし。謝っておくべきって判断して、な」

「ふぅん。鈍感なだけなのかな?」

「そりゃお互い様だろう」

「私は鈍感じゃないよ! ちょっと変な子なだけだもん」

「自分で言ってちゃ訳ないな」

 五日ほどの時間が解決してくれる。そんな関係は……何か儚い時間の様な……。

 中学三年の終わりに誰しも感じるような「ああ。もう長くないんだな」という焦燥や期待や不安が織り交ざった不思議な感情。それに近い何かを感じた。

「飯も食ったし、明日までに小説の手直し終わらせて送って、って事だから俺はもう戻るよ」

 立ち上がり、部屋から出る。

「あ、私もあと五日で仕上げなきゃ一週間後の展示に間に合わないんだった」

「そうか、お互い頑張ろうな」

「ご飯忘れないでね!」

「おー。覚えてたらな」

「覚えてるよ、ネコちゃんならね!」

 振り返るとドアが閉まっていた。なんだそれ、カッコイイな。どっかで聞いた事あるようなセリフだけれど、それはそれで好きだ。

 部屋に戻り小説の直しを終わらせた。




































お。かしい、どれぐらいだったか・記憶がない?

 たぶん小説にしたら1ペ。ージ分ぐら、い記憶がない。

  ど。う言う事だろう。

 落ち着け。


 文章の改行や句読点が崩れるほどに混乱していた。

 空を仰ぎながらそう考える。

 どこから記憶が途切れているのか思い出してみる。

「もしもし、すみません。打ち合わせに来た猫実です」

『はい、8番ブースでお待ちください』

「はい、分かりました」

 そう、俺は出版社のロビーにいた。これは間違いない。原稿は印刷しなくていいとの事だったので、とりあえずノートPCを持って行く。

 しばらく待っていると、編集さんが来た。

 そうだ。

 ここからだ。

 何を話したか全く覚えていない。

 ただ一つ、言われた事だけは覚えている。

「非常に……言いにくいんだが……君には才能が無い。一度声をかけていてこういうのは申し訳ないけれど、一緒に仕事はしたくない。ネタは良かったから別の作家に書いてもらうよ。その使用料だけで手を打たないか」


 才能が無い。

 仕事をしたくない。

 事を荒げさせないように使用料の掲示。


 完全に見放されていた。


 辛いどころではない。そう言った時は丁寧に気を使った対応をされるほど傷が深くなっていくものだ。


 最後のメールは……打ち合わせすらなくこう至るのは。やはり言っている事を裏付けるものなのだろう。

 



『嫌だ……』

『嫌だ……嫌だ……』

『もう……死にたい……』


 声にならない声で空に向かって叫んだ。

 大粒の雨が頬を伝う感覚を覚えた。

 雨なのか、涙なのかどちらだろう。

 そんな事はもうどうでもいい。目を開けるのを諦めて横たわる。粘り気の帯びた土が背中にへばり付く。

 口の中に堅い水の味がする。不意に手を顔に乗せて撫でる。

「苦……」

 そう言った。

 しばらくそうしていると、顔に乗った土もじわりじわりと流れ落ちた。

 今の記憶ごと洗い流されればいいのに。そんな風にも考えたが、幾ら横たわっていても何も解決はしなかった。雨はひとしきり強くなっていく。

 秋の冷たい雨も俺の心を温めるには程よい温度だ。


 気づけば雨が俺を避けていた。

 うっすらと目を開けると顔があった。

「おい、大丈夫か?」

 誰もがこんな時はワンコがいると想像するだろう。俺も一瞬その発想を持った。

「荒鮫……」

 髭をこさえて、面影は残るが一緒に住んでいた頃とはまるで別人の荒鮫がいた。

「お前も落ちたか」

 お前……も。その言葉に表も裏も無かった。

 肩を抱え上げてボロボロの傘で相合傘をしながら、何も考えず引っ張られて歩いた。


  ***


「少しは落ち着いたか?」

 ボロ布ともいえる服を渡してくると想像したが、思ったよりもまともな服を着させてくれた。

 黒い服にはメタルバンドよろしくのスカルや血の雰囲気を醸し出す薔薇が絵描かれている。

「……」

「いつだったっけな、お前が過労で倒れて病院に行ったのは」

「……」

「その時は病院のベッドの上で虚ろな目をしてたけどよぉ、今はそれよりも死んだような目になっちまってるぞ、猫実」

「……ああ……」

 それきりしばらく何もしゃべらなかった。

 少し落ち着いてみると、ブルーシートで覆われた小屋の中にいる事や、そこにある生活用品……と言っていいのだろうか。生活感のある物が揃っている事から、今荒鮫はホームレスをして生きているという事に気付いた。

 ずっと俯いていた俺は一度荒鮫の顔を見た。

 口元はほくそ笑むように動き言う。

「また一緒に住むか? こんな所だけどよ」

「……」

「冗談だよ、ホームレスもそれなりに大変なんだぜ。炊き出しに並んで、空き缶集めて小銭集めだよ。それで集めた小銭もパンとかを食ったり、他にも……まあ、色々ですぐになくなっちまうんだ」

「……」

「お前は割と潔癖っぽく生きてきてたから、こんな所に来るとは思って無かったなぁ。ああ、悪い。久々に昔を知ってる奴に会った上に、そいつも俺と同じような状態になってたから、ついはしゃいじまった」

「……いいよ、気にするな……」

 いつの間にか俺はまた俯いていた。

 そうか、俺はこいつと同じ……それよりも下に落ちているんだろう。

 生きている事すらもう意味がない。

 本当に死にたい。

 人生で二度目だ、こんな感情。

「俺の……親父の話した事、あったか……?」

「いんや? そう言えば家の保証人の話の時も猫実の名字じゃなかったな、おばさん」

「……ああ」

 初めて本気で死のうと思った時。それは中学三年の秋だった。

「……高校受験を控えてた頃だけどな……俺の父親が……詐欺を働いてた事が分かったんだ」

「どっかで聞いた事があるような話だな」

「そうだな。もう一人の馬鹿野郎は今刑務所でよろしくやってるだろうよ」

「あいつの事は、まあ。後輩だし責めないでやってくれ」

「……もういいよ。あの泥棒の事は。それよりも、続きを話そうか」

 俺の思い出したくもない過去。

 もう十年近く前の話しだって言うのに、まったく薄れない怒りと恐怖。

「俺はあの時普通に……本当に普通に進学校に行くつもりだったんだ。そしてそのまま医療関係で働いて、普通の人生を何事もなく生きていくつもりだったんだ。

 でも、ある時それは変わった。

 親父は詐欺を働いて多くの人間を苦しめていた。

 あの時、あの瞬間まで父親だと思い接していた人間が……その姿が全て爛れ落ちるように崩れてくように目の前から消えてしまった。

 消えたはずのソレがいつまでも影を潜ませて母親を苦しめていつしか、目の前からそちらも消えていたんだ。

 いつしか俺は親戚夫婦に引き取られて、高校も編入扱いでずっと浮いていた。

 その後は自分で奨学金をはらってお前と同じ専門学校に行ったんだ――」

 荒鮫と出会い、もう一人のクズ……いや、彼の事はもうどうでもいい。ある程度息の合った俺たちはルームシェアをしようと思い家を借りて生活をしていた。

 やっぱり息が合うだけでは生活が出来ないということは身に染みて覚えさせてもらった。

 生活力が無いとやはり……今の荒鮫のようになる。

「少しは落ち着いたか?」

「え……? ああ」

 そういえば、最初は何も話す気が無かったが、いつの間にか彼に心を許していた。

 言葉を聞くと聞こえが悪いが、自分より下の人間を見ると人は安心するのかもしれない。それがたとえ昔の友人であったとしても。

「しかし、何であんなとこで倒れてたんだ?」

 俺は経緯を大まかに話した。ワンコの事は全て伏せる形でこれまでのいきさつを。ただ、居候させてもらっている状態だという事だけは伝えた。

「そうか……まあ、専門の時の先生も言ってたみたいに、編集によっちゃお前の作品を絶賛してくれるかもしれないぜ? その時までがんばれよ」

 なんだか皮肉なものだ。夢をあきらめて、人並みの生活をあきらめて、ここでただ生きているだけの元友人にこの様な言葉を言われるとは。

「そういえば、ここどこなんだ?」

 ビニールシートとダンボールで出来た小屋。俺が打たれていた雨は、しきりに降り続いており、シートに当たる雨音が長い事こだましている。

「前の家があった所の近く。行徳のちょっと路地に入った所にある公園だ」

 行徳。ワンコの家のある浦安からやく二駅。出版社の集まる九段下から十キロ以上ある距離を歩いてきたという事だろう。

 どれだけの距離を俺は頭を真っ白にして歩いてたんだ。

「そうか、懐かしいな」

 ここだけの話そんな事は微塵も思っていないが自然と口に出ていた。

「居候してるなら、家主さんが心配してるんじゃないか? って、成人男性が一日帰ってこないぐらいどうて事ないか」

「そうだな……心配されてるかもしれないな……」

 主に飯の心配だと思う。

「じゃあ帰った方がいいだろう?」

「……」

 いや、しかしどうだろう。ワンコと一緒に生活するうえで、事情を説明したのもあるが『小説家になるまで住む家が無いんだ。少しの間だけ住まわせてくれ』と言う風に言っていたのもあって、また一からやり直しになった以上彼女に迷惑をかけるのは聊か気が引ける。

 どうだろう。一度落ちるところまで堕ちてみるのは。今まで見えなかった苦労やその他色々が見えてくると思う。

「俺も、少しホームレス生活ってやつをやってみるよ」

「……はぁ? いきなりどうした」

「いや、な。ちょっとこれ以上迷惑かけるのも気が引けてな」

「そ、そうか。んならこの公園の隠れられそうなところここしかないから、別の所教えてやる」

「恩に着る」

 いや、なんだかそれもおかしな話だが。

「炊き出しは都内の方に出ないとなかなかないから、歩いて行く形になるぞ。炊き出しやってる所の近くはトモダチ多いからな」

「トモダチ?」

 なんだかカタコトな言い回しだった。

「ああ、他のホームレスの事だ。俺らの間じゃホームレスって言い方よりもこっちで通ってる。地域やその世代によっても違うみたいだがな」

 と言う事で、今日一晩はここで泊めてもらってから別の所で生活する事になった。

 寝て初めて知るが、ダンボールの上は思いのほか暖かった。


 翌朝、目覚めて場所を移動した。移動中に話を聞く。

 彼の収入源は主に空き缶らしい。都内でもよくみかけるホームレスだ。炊き出しは毎日行われている訳ではなく、週に一度指定の場所で行われているらしい。出来れば秋葉のような場所で生活する事をオススメされた。収入源になる物が多く『落し物』と言う形であるらしい。

 新宿の方に行くと暴力団団体に『売り子』として雇ってもらう事も出来るそうだ。どうやら売る物は様々で本などの青空市でやっている物から非合法の物まで様々らしい。

 あと、トモダチには気を付けろとの事だ。省エネタイプの危害を加えてこないトモダチも多いようだが、たまにナワバリ争いでいちゃもんを付けてくるようだ。

 何故行徳などと人があまり寄りつかない場所にいるかと聞くと、炊き出しが多いが多い場所にも行きやすく、浅草にもすぐに行ける。その上都内でないからナワバリ争いが少ないとの事だった。

 服などは収集日に袋に入っている物をそのまま頂いたり、ボランティアで配られている事が多い。彼はボランティア団体で配られている物を貰ったという。ヘヴィメタル系のシャツが多かったのはそれが理由らしい。何故か多く配られているとの事だ。

 浦安でこいつを見かけた理由が空き缶集めで回っているついでに万引きをしていたという事も分かった。捕まったら捕まったで温かい布団で寝られるから良いらしい。

 一時期俺が誘われていたコンビニオーナー業務を引き継いでいたというのに、なんとも世間とは回る物だ。

「ホームレスも色々大変なんだな」

「まあな。若い奴が都内に住むのはおっくうになるぜ。いざなってみると」

「そんなもんか」

 結構長い事歩いた。途中で足が棒になるようだった。

「この辺でよく炊き出しやってるから、飯に困ったら行けよ」

「そうか、ありがとう」

 荒鮫と分かられてから、とりあえず当てもなく彷徨ってみることにした。

 こうして、いざ自分がホームレスになってみると、見えてくるものが変わるかと思ったがそうでもなかった。

 しばらく飯も食ってなかったので腹が減ったが、財布の中にもほとんど小銭しか入っていなかったので、コンビニでパンを買うのも諦めようと思った。


 ホームレスになると全てがどうでもよくなった。生きる事も、小説も、全て。

 そんな生活をしてフラフラと彷徨って、気づけば数日が過ぎていた。飯はコンビニの残飯を漁った。今はほとんど外に捨てられていないが、稀にゴミ捨て場に廃棄済みの食品を入れて居るコンビニが都内から少し外れた場所にある事が分かった。

「荒鮫が行徳に住んでたのはこれが理由か……」

 そんな風に噛みしめながら食べた。

 また雨が降った。雨の日は何も出来ない。普段からする事もこれと言ってないのだが。

 俺はコンビニの傘立て忘れられていた傘を盗んでからふらふらと歩いていた。

 ふと思い立ち、浦安方面に一度行ってみようと思った。最初の二日ほどは気が引けたが、なんだかもうどうでもよくなってきたので、あのあたりの飯どころも探しておこうとでも思ったのだろう。



「ネコちゃん……」

 焦燥からか、その言葉を聞いて振り返る前に、俺は傘を捨てて逃げ出した。

 なんでだ、なんでいるんだよ。

「まって! まってよ!」

 かすれた声で、叫んでいる。また飯を食ってなかったのか。

「まって! ネコちゃ――ひゃんッ!」

 雨音にかき消されそうな声と、水の跳ねる音が聞えた。

 ちょっとした浦安の路地裏の出来事だ。アスファルトで出来た地面の水たまりに、彼女は倒れ込んでいる。

 いたたまれなくなって、振り返り、そこへ駆け寄る。

 お互い気を荒げて目を見合った。

 すると、彼女は俺を強く抱きしめた。その倒れた体勢から無理矢理に引き寄せるようにして、座り込んだ俺の背中に手を回して、強く抱きしめた。

 その細い腕と頬は冷たかった。

「なんで、なんで、急にいなくなったのよ!」

「……悪い」

「もうどこにも行かないで!」

 しばらく雨の音だけが俺達を包んだ。

 俺は彼女が俺の存在をどのように見ているのかという疑問が頭に浮かぶ。

「……お願い……だから」

 いまにも途切れそうな声でそう言って、抱きしめていた腕の力徐々になくなり、そのまま倒れ込んだ。

「お、おい。ワンコ、大丈夫か!」

 顔を見ると青ざめていた。明らかにおかしい彼女の肌色を見て、すぐに捨てた傘を拾いに行ってから、彼女を背中に抱えてあのマンションへと向かった。

 散らかった部屋になっていたが、俺が選択しておいたタオルがまだあったので、それをすぐに使い彼女の身体を拭いて、床に落ちていた服に着替えさせた。下着はブラジャーだけ外して、見ないようにして服を着せた。

「すげぇ熱じゃねぇか……」

 体温を測ると三十九度八分。病院に連れて行くべきなのか悩んだ。しかし、今下手に動かすと余計に悪化するのではないかと思い、すぐに栄養剤と消化に良い食事を用意する事にした。

「緊急事態だ、悪いが金借りるぞ」

 虚ろな瞳で頷く。放り出されていた財布の中を確認して、食材を買うには十分だと思い走って買ってきた。

 先に栄養ドリンクを飲ませてからおかゆを作ると、彼女は寝ていた。

 少し落ち着いて、ワンコの部屋の化粧台の椅子を床にある服をどけてベッドの近くに持ってきて座って様子を見た。

 寝て居ても苦しそうに息を荒げている。

「悪いな……本当に……」

 俺は謝らずにいられなかった。

 今寝てしまっているワンコに聞かねば真実は分からないが、おおよそ間違いないだろう。俺を探して今日は雨の中走り回っていた事は。傘を持っていなかった理由は分からないが、短くても三十分ほどは雨にさらされていたのだろう。あの冷たい頬はそれを裏付けていると思っていいと思う。

 しばらくすると、少しずつだが苦しそうに寝ている姿も落ち着いてきたので、俺は風呂に入る事にした。

 改めて顔を見ると髭は生えっぱなしになり、元から長い髪がぼさぼさになっているのも相まって、如何にもホームレスといった感じになっている。

「これでよく、あいつ俺の事見つけられたな……」

 髭を剃り、眉毛を整えてから数日ぶりに体を洗った。

 風呂を上がってから髪を乾かしてもう一度ワンコの所へ向かった。

「ったく……本当になんでこんな事したんだよ……」

 ワンコは、もうすっかり落ち着いて寝ていた。

 そういえば、さっき荒鮫に話していて頭の片隅によぎったのだが、ワンコの生い立ちについて俺はほとんど知らない。出会ってから色々あったせいで、彼女とはその話を中心に色々な話をしていたが、お互いの素性については話していないままだった。

 彼女の体調が良くなったらその辺を話してみよう。

 なんだか今日は疲れた……。

 ベッドの傍らで座っていたら猛烈に眠気がやってきてそのまま――

『ピピピピピ・ピピピピピ』

 寝落ちする寸前で、ワンコの携帯が鳴った。今時珍しいガラパゴス携帯は服に埋もれており、探し出すのに数コールかかったが鳴りっぱなしだった。

「吉川マネージャー……?」

 そういえば、個展まで時間がないって言っていたな。あれから何日経ったんだ? まだ終わってないとしたらその連絡に違いない。しかし今ワンコを起こすわけにはいかない。こんな状態で絵の話をしたら嫌でも動くに違いない。

 かといって、これを放っておいても何度もかけてきそうな気がした。

 十コール目あたりで俺は意を決して出ることにした。

「もしもし……三國川の携帯です」

『えっ……あ……』

 驚く女性の声が電話のスピーカーから聞こえてきた。多分ワンコの声が聞こえると思っていたのに男の声がしたのに驚いたのだろう。

「すみません。今三國川は体調を崩して寝込んでしまっており、看病をしてた時にマネージャーと書いてあった携帯を確認しましたので、要件次第では出た方が良いかと思い電話を取りました」

『え、あっ! ……そうでしたか。明日の個展の出展物の搬入が完了したのでご連絡をしたのですが……咲ちゃんは大丈夫そうですか……?』

「そう……ですね。先ほど雨に長い事打たれていたようで、かなり疲れ切って寝ている状態です。熱もかなりあったので様子次第では病院に運ぼうかと……」

『そうですか……個展の状況の確認と明日の入り時間……あっ、ああ!』

 電話のスピーカーが割れそうな声で、吉川マネージャーが叫んだ。

『そんな状態なら明日入れないじゃない……あれほど体調には気を付けてって……いや、でもなっちゃったからしょうがないし……あ、すみません。取り乱してしまって。彼女にとってもかなり大切な個展になるので、本人不在となると……』

「そう、ですよね」

『無理矢理にでも連れてきていただけませんか?』

「え?」

 この状態のワンコを……動かせというのか……。

『十四時半から一時間だけで大丈夫です。その後病院に直行するタクシーも手配しておきます。なので、どうかお願いします! あっ、でも、えーと。貴方の予定などは……』

「申し遅れました、猫実です。自分の予定はないのですが……少しだけ待っていただけますか、折り返しお電話します」

『……分かりました。お早目にお願いします……』

「はい、では」

 電話を切ってワンコの方を見ると、話し声で目が覚めたのかこちらを見ていた。

「ネコちゃん……吉川さん……?」

「ああ、明日の個展の事で電話したらしい」

「私行かなくちゃ……朝九時からよね……」

「いや、十四時半から一時間だけでいいらしい」

「ああ、スポンサーの人が来てくれる時間だ……そっか……正装で行かなきゃ……」

「あ、おい、起き上るな。まだ寝てろ」

「……うん」

「腹減ってないか? さっきおかゆ作ったんだ」

「うん。食べる」

「温めてくるから、ちゃんと寝てろよ」

 鍋に入ったおかゆを温め直し、お玉ですくって程よい温度まで冷ましてからもって行く。生姜入りで、ネギを刻んだ物を乗せているのでかなり体が温まるはずだ。先ほど温めていた時から冷凍庫で冷やしていた氷も出来上がっていたので、ポリ袋に水と伴に入れてタオルで包んだ物を一緒にもって行く。

 部屋に行き、化粧台の上の小物をずらしてそこにお盆を置く。

「ほら、熱いから気を付けろよ」

 木で出来たの敷き皿ごとおかゆと蓮華を渡す。

「うん……あーん」

 なんの躊躇もなく口を開けて目をつむっていた。そりゃそうか。蓮華に少し掬い、このままではまだ熱いだろうと思い、吹いて冷ます。

「うん、おいひい」

 熱のせいか、頬を赤らめて目を薄く開いた状態で笑顔を向けてきた。味もろくに分からないぐらい熱があるだろうに、気を使っているのかもしれない。

「た、食べながら喋るなよ……ちゃんと噛め」

「うん……」

 静かに口を動かして彼女は食べる。先ほどと同じように俺は何度も冷ましてから彼女の口元に蓮華を運んだ。その度笑顔をこちらに向けてくれた。

 食べ終わる頃には少し元気になっているように見えた。やはり数日飯もろくに食べてなかったのだろう。

「吉川さんに明日謝らなくちゃ……」

「あ、そうか。電話折り返すって言ってたんだった。本当に、明日行けそうか?」

「うん、私から電話するよ……」

 電話をすると、彼女は普段の姿からは想像もつかない礼儀正しい言葉を使っていた。いや、それは先ほどの俺も同じなのかもしれないが。

 こんな一面もあるのだなと。俺は感心すると同時に彼女の事を本当に何も知らないのだと不安にも似た感情を覚えた。

 電話を切ってから、一息溜息をついてからこちらを見た。

「ネコちゃん……明日一緒に来てくれるの?」

「ああ、流石に心配だからな。その後病院行くぞ」

「ありがとう……」

 他にも何か言いたげにしていたが、何も訊いてこなかった。

 あまりの出来事の連続で忘れかけていたが、俺は彼女の前から忽然と姿を消して、その後ここにいるのだ。

 主人公と言われる存在はどう考えてもワンコのような人間だ。それに迷惑をかけて困らせるわき役は俺みたいな人間なのだろうな……。いや、それにも役不足な気もするが。

「じゃあゆっくり休めよ」

 氷袋を包んだタオルを渡して、俺は部屋を後にしようとした。すると、服の裾を掴み引き留めてくる。

「お願い……そばにいて……」

「ワンコ……」

「お願いだから……」

 力もひねりもないその言葉は俺にそうさせるには十分だった。


 翌朝、俺はワンコの隣で目覚めた。説明の必要もないと思うが、単純に看病をして一晩隣で寝ただけだ。やましい事は何もしてない。

「いい顔して寝てるな……良かった」

 床に敷いた布団をあまり埃や音をたてないように慎重に畳んでから、部屋にもって行った。

 昨日片付けたばかりなだけあって、彼女の部屋に積もった埃は大分なくなっていた。コロコロやお掃除ワイパーはとても便利だ。偉大な発明だよ。

 朝九時。遅い起床だったが、この後の予定を考えたら丁度良い時間だろう。ワンコはギリギリまで寝かせておく。

 改めて部屋を見直すと、俺がいない数日でかなり散らかっていた。昨日の夜と同じようにコロコロとお掃除ワイパーの力を使い音を極力立てないようにして部屋中を掃除する。普段は触る事の無い物まで放り出されているのをみて、俺がいない間の彼女を思った。

 俺が居なくなって二日ぐらいは絵に集中していたんだと思う。あと五日で完成させなければいけない絵があると言っていたしその点は間違いないと思う。その後俺がいない事に気付いたワンコは最初に俺の部屋を見たんだと思う。でもいつものと変わらない様子で、その日は冷蔵庫にあった適当な物を食べて過ごした。その証拠にキッチンにはまた、焦げ付いた鍋などが転がっていた。

 その後、帰ってこない俺の事を心配してだろう。電話などをしていたのに違いないが、俺が雨にそのまま打たれていたせいで、携帯は壊れて反応していなかった。

 何か手がかりがないかと部屋中をひっくり返して探したに違いない。そのせいで部屋の中には手紙や、それ以外にもいろいろな物が散乱していて、まるで泥棒にでも入られたみたいだ。

「本当に心から謝らなきゃ、だな……」

 もうそれ以外の言葉が出なかった。

 部屋を片付け終わって、ワンコの様子を見に行くとすっかり目を覚ましたようで、状態を置きあがらせてぼーっとこちらを見ていた。

「おはよう。体調はどうだ?」

「うん、だいぶ良くなったみたい」

「そうか、とりあえずおかゆ温めてくるからちょっと待ってな」

 そう言って俺は台所で余ったおかゆを温めて、昨日と同じようにしてもって行く。

「もう一人で食えるか?」

「うん。食べられる……でも、あーんしてほしい」

「はぇ?」

「だから……食べさせてほしいの」

「た、ったく。なんだよ。いつものお前らしくもねぇ」

「熱のせいね、きっと」

 消えてしまいそうで、それでも心の底から笑っている笑顔をこちらに向けてきた。そんな笑顔を見せられたら無碍に断る事も出来ない。

 昨日と同じようにして食べさせたつもりだったが、少し元気が出て血色のよくなった彼女の唇はとても艶めかしく見えて、気が引けて仕方なかった。

 個展会場の場所は昨日の夜、彼女の携帯の中にある事を聞かされて、メールを確認してしらべておいた。そして、タクシーも電話で手配しておいたので、十四時ぐらいに到着するだろう。

「そろそろ支度しておこうか」

「うん……ドレス着なきゃ……」

「あ、おい、あんまり無理するなよ。どこにあるんだ、そのドレス」

「クローゼットの中にかけてある」

 意外だった。見ると整頓された衣服がそこには仕舞われていた。恐らく一線を越えた価格の衣服なのだろう。

 それ、と言われて赤く、しなやかな手触りのドレスを取り彼女に渡す。

「気が得るから……出ていってよ」

「あ、ああ。すまん」

「ネコちゃんも、スーツにしておいてね、一応……」

 すっかり看病モードになっていたので、着替えも手伝う気でいたが追い出された。いや、うん。当たり前だよな。

 言われた通りスーツに着替えてから、何度か扉越しに大丈夫か? と問い、俺はそわそわと待った。何故こんなにそわそわしているのか分からないが、無性にそうであった。

「いいよ」

 その言葉で俺は堰を切ったように部屋に入った。

 するとどうだろう、赤く長いドレスは彼女のボティラインを際立たせており、足元ギリギリまで一枚の布を折り重ねたような容姿になっているそれは女性らしさや品格すべてを醸し出しているようだった。

「ど、どう?」

「す、すごく似合ってるよ。綺麗だ」

「ふふ、ありがとう」

 本当に少し元気が出ているようで良かった。

 彼女は疲れたのかベッドの上に腰かけて、少し俯いた。

「あ、そうだ。一応着替えももって行っとこう。終わったらすぐ病院に行くしな」

「うん……この格好もちょっと寒い……」

 俺はすぐに彼女の上着を持ってきた。我ながら女性の服の位置を把握しているのもどうかと思うが……仕方ないだろう。

「ありがと……ネコちゃん。隣に座って」

 背中から羽織らせるようにしてかけてやると礼を言ってきた。最近彼女が礼を言ってくるのが増えた気がする。

「え、ああ」

 と、俺は言われた通りにベッドの右隣に腰を掛ける。

 すると、ワンコは身体をこちらに倒れさせてもたれてきた。

「あ、おい、ワンコ……」

「ちょっと疲れちゃった……もたれ掛けさせて……」

「……タクシーが来る時間までだぞ」

「うん……」

 タクシーを呼んである時間まであと十分少々。

 俺たちは会話もなく、ただたまに近くで目が合って、恥ずかしくて目を逸らす。

 そんな、甘い時間を過ごした。


     ***


「あ、咲ちゃん! 良かった! 大丈夫?」

 タクシーを降りると、スーツ姿の女性が駆け寄ってきた。声の印象から三十路前後だと思っていたが、どうやら肌艶などから俺達とそう変わらない年齢の様だ。

 長い黒髪を後ろで束ねている簡素な髪型に、縁の細いフレームの眼鏡。ワンコの隣に立つと見劣りしてしまうが、化粧などをもっとちゃんと乗せると栄える美人であろう。

「吉川さん、すみませんご迷惑をおかけして……」

「いいのよ! まだスポンサーの方は来てないわ、中で準備をしましょう」

「あ、でもちょっとまって。猫実くんを紹介させて」

「そうだったわ、猫実さん本日はありがとうございます」

「いえ、おかまいなく」

「えっとね、こちら吉川さん、私の絵の値段交渉をしてくれたりしてくれるマネージャーさん。とっても敏腕マネージャーなのよ」

「ちょっと、咲ちゃんそんなに持ち上げないでよ」

「いいの。それでね吉川さん。この人が私の同居人の猫実くん。私はネコちゃんって読んでるわ。気軽にそう呼んであげて」

「……どうも」

 他にそう呼んでいる人がいなかったので、ちょっと引っかかったがそう答えた。

「あと、私の絵の原作者」

「……?」

「え?」

「うん」

「今なんて?」

「私の絵の原作者」

「え?」

「は?」

「私の絵は全部ネコちゃんが書いた小説をもとに描いてるのよ」

「え、は? ちょっとまて」

「そ、そうよ。そんなの初耳よ」

「え? 言ってなかったっけ?」

「「言ってない!」」

「え、あ、ごめんなさい。てっきり二人には話してる物かと……」

 ちょっとまて、そんな話聞いてないし、そもそもこいつの書いた絵なんて最初に会った時の写真の様にうまい絵しか見た事ないぞ。

「ちょっとまってね……いや、待ってる暇はないわ……いいから二人ともこっちきて」

 関係者用出入り口から、中規模のホールの裏口に引っ張って連れて行かれた。長いヒールを履いて歩いているワンコはとても辛そうに歩いていた。

 事務室の様な場所に通されて俺達二人は座らされて、高圧的な目で見降ろされた。メガネが反射して目が見えないのが怖い。

「咲ちゃ~ん? なんで私に黙ってたのかなぁ? ね?」

 これはヤバイ。大声を出さずに、どろりとワンコの顔に近付いて行って、見開いた目は瞳孔が細くなり笑っている口元も引きつっている。端的に言おう、怖い。

「い、いや、あのね。吉川さん……隠すつもりは無かったし……言ったと……思ってたの……」

「そんな事どうでもいいの。いつからなの? どの作品からなの?」

「えっとそれは……」

 俺も少し気になった。少なくとも俺と出会ってから、二年ほど前からと言う事になる。

「ここにある作品全部……一年半前から……」

「……」

 吉川さんの顔から引きつっていた笑顔も消えた。消沈しているようだ。

「嘘でしょ……私が契約して半年目からずっと……」

 丁度ワンコと俺が出会った時期と同じぐらいに吉川さんは契約していたようだ。

「あの、猫実さん」

「はい」

「実は絵画に原作と言う物が付く形は今までに前例がないんです。いや、オマージュという形ではありましたが、今回ここで発表されているのはそう言った物は無いです。なので、今彼女が言っている事が本当なのかもわかりません。ここにある絵画がご自身の作品が原作だと思われるようでしたら間違いないかと思われますが……一度中を見て、猫実さんの絵を元に書かれているか見てきていただけませんか?」

「あ、えーと。俺……いや、僕は絵はからっきしで……描いた事すら」

「へ? 絵が描けない? それで原作? え?」

 吉川さんは目を丸くして俺とワンコを交互に見る。

「一応小説を少々……それも出版社から否定されましたが……」

「私……ネコちゃんの小説に惹かれて、絵を描いてみたらこれが上手くいって……」

「そんな……前代未聞よ……」

「……」

 混乱。

 つまり、どういうことだ?

 俺がワンコに見せてた小説が、短編長編問わず全部絵になっている? いや、そこは分からないのか。兎に角現状をどうすればいいのか……。

 しばしの沈黙のあと、吉川さんの携帯のバイブ音が響く。電話に出てから、一息ついて言う。

「あの、猫実さん。この度は大変失礼な事を致しました。原作と言う形で意図せずこの個展にかかわる事になってしまっているとは知らずに、このような……」

「吉川さんッ……!」

 咲ちゃんは黙って。と言わんばかりの眼光で睨みつけてから続ける。

「今回の作品については全て彼女が言っているだけで、根拠がないと思いますので――」

 唇を噛みながら言葉を発している。

「――貴方の事は公にせず内密に」

 言葉を言い切る前に頬を叩く音が響いた。

『パチン』

 その場の空気が硬直する。壁を隔てた外にも音が漏れたのだろうか、薄くが確かにあった喧騒も一瞬止まった。

「私は猫実くんが原作じゃないと絵は描けないよ! 絶対に!」

「さ……それは一時の感情がそうさせてるだけよ!」

「一時の感情がこれだけの数の作品を作り出せると思うの!?」

「単に引っかかる物がとれただけかもしれないじゃない」

「そんな事ないのは貴女が一番わかってるでしょ!」

「――ッ、私は咲ちゃんのサポートで世界に羽ばたかせるために!」

「論点をずらさないで!」

 白熱した会話が続く。

 驚いた俺は何も言えずにいたが、ワンコの顔が赤くなっている事に気付いて止めに入る。

「一旦二人とも落ち着け……落ち着いて下さい! ワンコ、お前も一旦座れ」

 背中を支えながらワンコを座らせる。

 一応熱がぶり返していないかを、額に手を当ててやはり少し熱かった。今の興奮も原因だろうが、息の荒げ方が明らかにおかしい。

「猫実さん……」

 振り返ると目を赤くして、肩をいからせた吉川さんが立ち尽くしていた。やや俯いた表情はいまにも泣き出しそうで、怒り出しそうで。そんなごちゃまぜの感情が表面ににじみ出てきている。

「わ、私は……咲ちゃんの為に……咲ちゃんを絶対に、絶対に世界に……」

「吉川さん、俺が言えた事じゃないけれど……」

 その先の言葉を言っていいのだろうか。すべてを投げ出して、ワンコからもつい一日前まで逃げ出してた野郎が。いや、いけない。

 出かけた言葉を唾と一緒に飲みこむ。

「俺が言えた事じゃないけれど、このまま穏便に済ませるためには」

「ネコちゃん!」

 叫び声にも似た声でワンコが後方で言う。思わず振り向く。

 こちらを見る目は、今までに無い力強さを秘めていた。今にも倒れそうな身体とは裏腹に目だけは、俺だけではなくその体調不良をも否定するかのような眼光だ。

「本当にいいのかよ。分かってんだろう」

「いい。また私はそれで一からやっていく」

 俺にはなんとなく……いや、これまでのワンコとの生活から分かった。こいつが好きな事嫌いない事。

 俺の言おうとしている事も、多分ワンコには分かっているのだろう。

 踵を返し、一息ついてから吉川さんに一歩近づいてから言葉を出す。距離が近づくと、身長差から見下ろすような形になる。

「今あんたが言っているのはワンコの……三國川咲の夢を応援するようにして、本人の目標と違う形にして引っ張る事だ。型にハめないと世界に羽ばたけないと思っているんじゃないだろうか。そうだな、有名になるのは王道の漫画だけ、そんな固定概念を振りかざして今彼女にこれからの事を話していなかっただろうか。三國川の意見は違うはずだ……」

 頷くのを確認してから、語り続ける。

「俺の作品を使って、今までにない芸術、今までにない自分だけの作品を作る事が目的になっているんだ。確かに売る事は必要だが、芸術家としてやっていくことを決めた以上、三國川にはそこを中心で生きていくことが出来ないと覚悟をして、一作一作を描いていたはずだ。だからこそ貴女はそれを認めて、個展を開けるほどのオファーを集める事が出来た。違うだろうか」

 吉川さんは俯いたままゆっくりと椅子に腰かけた。

「遠回しに言ったのは……いや、いいわ」

「ああ、もう分かっているなら直球で言うと、貴方は三國川を応援する自分に酔って足を引っ張っている事に気付いていない」

 先ほどまでの言い争いをしていた姿からは想像も出来ないしおらしい姿に変貌していた。ものの数分の事だった。

「吉川さん、言いだし辛いんだけれど……そろそろ来客がいらっしゃる時間じゃ」

「ええ、先ほど電話があって、間もなく到着されるそうよ……」

 俯いたままげんなりと答える。

「私とネコちゃ、猫実くんの二人で対応するわ」

「えっ、いや、でも」

 意外な言葉だったのか、顔を上げると目が腫れぼったくなり涙が眼に貯まりきって、瞬きをしたら堰零れそうだった。

「そんな顔を見せたら失礼でしょう。英語は私が出来るから」

 英語……英語!?

「ネコちゃんは私をリードしてくれるだけでいいわ」

 リード……リード!?

「足元がフラフラだから……ね?」

 はにかむ笑顔が明らかに不自然だった。今すぐにでも横になりたいだろうに、家で寝ておきたいと思っているだろうに。

「よし、分かった。リードってやつを、やってみよう……」

「気負わなくていいよ、ちょっと肩を貸してくれればいいわ」

「そ、そうか」

「ふふ……堅いね」

「お、おう」

 こんなやり取りをすると、少しだけ吉川さんの顔には笑顔が戻っていた。情緒不安定なのか、それとも状況がそうさせるのか。校舎であってほしいものだ。

「じゃあ行ってくるね」

「……うん、咲ちゃん……」

 何かを言おうとしていたが、俺は急かされて事務室から個展会場の中に移動させられた。

 個展会場に入ると、人はまばらなものの多くの人が絵を閲覧していた。

 客層は本当にまばらで、ただ絵を見に来ているだけだと思われる美大生らしき男女グループや、珍しいもの見たさで来ている老人夫婦。スーツの男性もちらほらといた。

 肝心の絵を見ようと思ったら、ワンコが腕を組んできた。左腕を絡ませるようにして、体重を預けてくるので、それを支えようとすると手を添えて「大丈夫」と小さく呟いた。

 多分リードして、と気丈に言う物の、何かにつかまっていないと倒れてしまうほど辛いのだろう。こんな状態であんな重要な話をして良かったのだろうか。

「ネコちゃん、入口の所の絵を見ている人……」

 そう言われて個展会場の一般入場口の近くを見てみると、ステッキを付いている老人がいた。

 彼女の辛くない速度で歩みを進める。徐々に近づいていくごとに、彼女の背筋がシャキリとしていきているのが、腕から伝わった。それに倣い俺も背筋を伸ばす。

「Hello.」

 これは分かった。その後の会話は何も分からなかった。

 ああ、なんていうんだろう、こう。昔の漫画だったかの表現で『オーペラペラペラ』なんて言葉を使っていたけれど、本当にそんな感じだ。オーマイガーだ。

 全く物怖じをしないどころか、辛さを一切見せない笑顔を出して英語で返していた。

 話をしているとき、少し彼女は離れた。

 相手の老人は鼻筋の高く彫りの深い老人で、髪は恐らく地毛で金髪だろう。色は抜けて白とも金とも取れない淡い色になっている。

「Oh,Mr.Nekozane! Nice to meet you」

 これだけ聞き取れた。というか、多分聞き取りやすく言ってくれたのだと思う。手を差し出してきたので、力強く握手をしなおして「ナイストゥーミーチュー」とカタコトで返した。

 それから五分ぐらいだろうか、話していて話の雰囲気が堅い話から俺の話しになったようで、こちらをチラチラを見てきた。Mr.Nekozaneと流暢な言い回しで俺の名前も何度も連呼されていたので間違いないだろう。多分。

 老人がこれまでの紳士な対応から突然声を大きくして「Oh my god!」と映画でしか効かない様なセリフを言った。

 これは原作だという事を説明したのだろうか。

 そして再度手を差し伸べてきて、言う。

「キミニ、トテモ、キョウミシンシンデス」

 と、覚えたてであろう日本語を言ってきたので、思わずセンキューとカタコトの英語で返した。カタコトの日本語とカタコトの英語の不思議な会話だった。

 最後にワンコが名刺を交換して、老人は去って行った。

 見送った直後に彼女は寄り添うようにして、また俺の腕につかまった。

 ほんの一分前毅然とした態度で話していた少女が、今は病人であることを隠す余裕もなく高い音で息を荒げている。

「ごめ……ごめん……もう……動けない……」

 顔をうずめるようにして、俺の身体に寄りかかってきた。

「お、おい。ワンコ……」

 徐々に足にも力を無くしている。一瞬背負う事を考えたが、どうやらドレスのせいでそれもままならなそうだと即座に判断で来た。

「悪い、後で怒るなよ」

 漫画でしか見たことが無いが、見おう見真似で膝の裏に腕を通し、もたれ掛られた左腕を背中に回す。

 持ち上げるとき、羽の様に軽いという言葉を聞いた事があるが、本当に予想以上に軽かった。

 が、運動不足のせいで、少し膝が笑った。現実はこんなもんだよな。

 周囲の視線を集めつつ、来た道を戻り関係者出入り口に行くと、目の周りを腫らした吉川さんが出迎えてくれた。そのままタクシーへ誘導されて、俺達は病院へと向かった。



   ***



「おはよう、ネコちゃん」

「おぅ……」

「うつしちゃってごめんね」

 見事に俺は風邪をうつされた

 それはそうか、あんだけ密着してずっといた上に、それをする前までは路上生活で廃棄の弁当を食い漁る日々だったのだから体調管理なんてものは存在していなかったものと考えられる。

 何て言い回しをしているのだろう。これもまた熱のせいである事にした。

「もう、こうなったのもネコちゃんのせいだからね」

「お前の風邪がうつったんだろう」

「私が風邪をひいた理由は?」

 ワンコは座り込んで、床に敷いてある布団の上で寝ている俺の隣でそう呟いた。

 俺は上半身だけ起き上り、ワンコと話すに最適に形にしようとする。

「悪かったよ。俺にも色々あったんだ……小説家になる夢が絶たれちまったしな……」

 俺は、家を出た日の事……その経緯を話した。

 話し終えるとワンコは悲しそうに、でもそれをなるべく顔に出さないようにして苦く微笑む。

「大丈夫だよ……まだ、出版社もあるんだし……」

「もう八年もやって芽が出なかったんだ、なれっこないよ……」

「でも、そうやってホームレスの体験をするって、取材って事だよね? やっぱりまだやって行こうって気持ちがあるからだよね」

「いや……あれは……逃げたんだ……」

 俺は両手で頭を抱えるように顔を隠して、ワンコの目線を逃れようとした。いや、正確には彼女の顔を見ることが出来なかった。

「私はネコちゃんの作品が好きだよ。こうやって好きな人がいるんだからがんばろうよ」

「……これ以上は……迷惑かけれないだろう……ここにずっといるわけにもいかないし……」

 ため息を吐きながら言う。

「ネコちゃん……私……」

 そこで何も言わなくなった。

 俺は不安になって手で隠していた視界を、開いてワンコの方を見た。

 すると、真剣な顔をして、真っ直ぐな目で乗り出すような形でこちらを見てた。

「私、ネコちゃんにずっとここにいて欲しいよ。それに、この前個展会場で言ったでしょ……ネコちゃんの小説が私の作品になってるの……でもね、居て欲しい理由はそれだけじゃないの……なんて言っていいのか分からないんだけれど……私が一緒に居て欲しいって思ってるの……それだけじゃだめなの……その……えっと……」

 最初の理由ははっきりと言い、その後徐々に口ごもりながら言った。

 真剣にこちらを見ていたのに、徐々に目が泳ぎ顔が赤くなってきた。

「えっとね。その、ね。私ね……」

 一度深呼吸をしてから。

「ネコちゃんの事……好きだったみたい……」

 俺の頭の中は、その理由はなんだったのだろうと、朦朧とした思考回路の中をめまぐるしく考え始めた。

 友達の紹介で出会ったワンコは最初は普通の友達だった。ルームシェアの事情を知っていた上に、さほど家からの距離も遠くないという事で、何度か遊びに来てはデッサンのモデルをしてほしいと言われていた。

 でも、それが理由だとは思えない。

 ではその後俺が家から逃げ出す時に手助けをしてくれた時にはもう、気があったのだろうか。いや、そうではなくあれは完全にあだ名の通り、捨てられた猫を助けるぐらいで手伝ってくれたのだと思う。

 それ以降生活を支えてきた事が一番の理由なのだろうか……。多分風邪を看病したのが直接的な理由ではないだろう。

「な、何か反応してよ!」

 焦ったように、泣きつくように。そんな感じで言われて我に返った。

「あっ、ごめん、そんな事言われたの初めてだからさ……何て反応すればいいのか分からなかったんだ」

「私だってこんな事言ったの初めてだよ!」

「その……なんで、なんだ?」

「私もよく分からないの……」

「……え? 分からないって」

「好きになる理由なんて……分からないよ。初めて……なんだもん」

 意外だった。予想以上に意外だった。もう二十歳になろうかっていうほどの年で、一度もそういった経験が無いとは思ってもいなかったのだ。

 しかも、その顔つきも、声色も、嘘ではないように見えた。一緒に住んで、何度も顔を合わせて話しているワンコの表情を見間違えるとは思えない。俺を悦ばせようとして言っているのではないだろう。

「それで……その……返事は……?」

「え? あ、ああ……」

 即答をするべきか、考えてから返すべきか。

 俺の心はどうなのだろう。一度ワンコからも逃げ出そうとした俺は、相応しいのだろうか。

「今……ネコちゃんが考えてる事当ててみようか」

「な、なんだよ急に」

「黙ってるからさ、多分こう考えてるんだろうなって思って……」

「……」

「ネコちゃんはさ、俺なんかがって思ってるでしょ」

 図星だ。俺にふさわしいか、何て考えていた。

「私さ……ネコちゃんだから好きなんだよ……ネコちゃんだからいいんだよ……だから、こんな風に一緒にいる時間を大切にしたいし……ずっと一緒にいたいの……たとえもっと条件のいい人が現れたって、どんな人がいたって、ネコちゃんがいいの!」

「ワンコ……俺は、さ。どうしようもなく駄目なやつで……稼ぎもないし……何か楽しい事をしてやれるとは思えないんだ」

「ネコちゃん……」

 今にも泣き出しそうな顔をして呟く。

「でもな、俺は……俺もワンコの事をな……ずっとこの関係が、ずっとこうして遠くにも近くにも居ない関係が続けばなんて思ってた。それ以上のやましい事を考えたら、自分がどこにも居場所がなくなると思って、保身をしてたんだ……だから――」

「いや……私……このまま友達だなんて――」

 俺はもうどうしようもなく気持ちが高ぶって、ワンコを抱き寄せた。

 無理やりに抱き寄せると、ワンコは俺の上に倒れ込むようにして、二人は布団の上でもつれ合った。

 俺はワンコの頭を抱え込むようにして抱きしめて、耳元で囁くように言う。

「こう言う事は男から言うべきだったのに、言わせちまってごめん……」

「……ううん、いいの、私が言いたかったの……知って欲しかったの、この気持ち」

 そっとワンコの手が俺の背中に触れて温かい感触が伝わってきた。

「俺も好きだった。過去形じゃないな……今でもこれ以上なく好きだ」

 その後は何も言わずに、強く抱きしめ合った。

 何時間も、そんな風にしていた気がした。

 でも、そんな事はなくて……俺は気づいたら寝こけてしまっていたんだ……。


   ***


 風邪もすっかりよくなって、結局また俺は部屋の片づけから入る事になった。

 これまでと変わらない生活がもどってきたような感じだ。

 今までと違うのは、ワンコと俺の関係が『ルームメイト』から『恋人』になった事だろう。『同居』から『同棲』に自動的になったのだ。

 これが物語なら出来過ぎている気もするが、俺にはそんな事どうでもいい。今まで伝えられなかった、押しつぶしていた思いを伝えられたから良かった。それでいいだろう。

「あ、そういえば。ちゃんと付き合おうとか言ってないんだよな……でもどうなのだろう。これのままでいいのかな……」

 浮かれ調子で掃除をしながら考えている事を口に出していた。

 しかし気分は上々だが、イマイチ完全にノリ切れない所がある。夢を失い恋人を手に入れたというのはやはり聊か複雑なものだ。

 そのうちにワンコが目を覚ましてリビングにのそのそと歩いてきた。

「おはよ……」

 眠気眼をこすりながら、ボタンを掛け違えたシャツでそう言ってきた。

「おはよう、おかげで元気になったぜ」

「んー。よかったぁー」

 細い目で笑いながらテーブルに座った。俺はおおよそ終えた掃除に一区切りを付けて、朝ごはんを用意した。

 こうして二人で向かい合わせでご飯を食べるのは、あれからは初めてだ。

「ねえ、ネコちゃん。ずっとここにいるよね?」

 ご飯を食べて目が覚めたのか、それともまだ夢の中なのか。食事をとりながらそう訊かれて、俺は照れながら答える。

「お、おう。こことは言わず、どこまでも一緒にいるぜ」

「ふふ。クサイセリフね」

「なっ」

「冗談、嬉しいよ」

 そんな風に笑って、惚気て、食事を終わらせた。

 ソファアで一休みする事にした俺は、少し勇気をだして隣に座った。

 意識をすると緊張で心臓の鼓動が早く脈打つ。

 本当ならばこのまま甘い会話を幾重にも重ねていきたいと思っていたが、ずっと心に引っかかっている事を話すことにした。

「ワンコ、あのさ。この前の話なんだけれど」

「この前の話?」

「ああ、お互い風邪やらで結局訊けなかったから、改めて訊くんだけれど。俺の小説が原作になって絵を描いてるってどう言う事なんだ?」

 ワンコが風邪の間も、俺が寝込んでいるときもずっと疑問だった。

 結局あの後吉川さんから俺の方へは何も連絡がないし、ワンコの方も特にそれについて話してくれる様子も無かったので、今まで聞けずにいた。

「うんとね……どこから説明すればいいのかな……」

 右手をしきりに唇に触れて考え込んだ。

「一から説明してくれるかな?」

「うん、そうね。まず、私のスランプの話をしなきゃだね。

 私ね、ネコちゃんに会ってすぐの頃スランプだったんだ。会ってすぐってよりも、会った時はスランプで色々な刺激を得なきゃって思って、出入りの緩そうな大学とか専門学校の学生に話し掛けてたのがきっかけなんだけど……。

 スランプの時に、吉川さんに言われたのは『あなたの絵はあんまりにも忠実すぎる』って言葉だったの。デッサン力を認められて画家業で少し走り出したのは良いんだけれど、デッサンが出来るだけだと生き残っていけないって事で色々模索してたのよ。

 そこで、色々な事を取り入れようとしたけれど、やっぱり駄目でね……ネコちゃんが『小説書いたから意見くれ!』って言われた時は、本当に特に何も考えてなかったんだけれど、ネコちゃんのルームシェアをしてちょっと苦しいって言ってる中で、こんなに楽しそうな話を書ける、書いてるって思うとね……一枚の絵にしてみよう、してみたい! って思ったの」

「俺が書いた小説を毎回飽きもせずに読んでくれたのはそう言う事だったのか」

「うん。あ、でも一読者としても好きだったよ! その後、その絵を吉川さんに見せて、色々な所に売り込みに行ってくれて、面白い世界観だって評価してくる人がいたの。それが、この前来てくれたヘンリーさん……あ、あの老人のイタリア人ね。

 それで、何度も小説を見せてくれて、何度も私はそれを絵にしたの。どうしても一枚の絵に収まらないときは、何枚の絵にしたわ。そうしたら、どんどん色々な所で噂になってるよって、吉川さんから教えてもらって、個展を開こうって話まで出てきたの」

「そうだったのか、この前の方はヘンリーさんと言うのか」

「うん、実は私が留学してた時の」

「ちょっとまて、お前留学してたのか」

「え、この話もしてなかったっけ? 絵画留学でパリに行ってたのよ。それで、そこの恩師の親しくしている人って繋がりで、ヘンリーさんと知り合ったの。世界中飛び回る資産家って聞いたけれど、よく日本で会うから親日家なのかもしれないわね」

「そうなのか。あ、ごめん、話しを遮って。続けて」

「それでね、ヘンリーさんが絵画が趣味の友人にお勧めしたら好評で描いた絵が、結構な頻度で売れたの。

 私はその時すごくうれしくって……そんな時、ネコちゃんがルームメイトのトラブルが起きたからどうしようって相談してくれたじゃない? やっぱり絵が売れるようになったのはネコちゃんのおかげだし、小説を一番に読めるって思った打算もちょっとあって、空いてる部屋を使ってもいいよって言ったの。あとは、ネコちゃんも知ってのとおり個展に向けて絵を描きためる生活を毎日送っていたのよ」

「そうだったのか。この前ヘンリーさんと話してた内容は?」

「えーっとね。ネコちゃんの事を、真っ先に紹介したわ。私の絵の原作者です! ってね。吉川さんと同じように絵の原作って事は、アーティストなの? って勘違いしたから、ちゃんと日本の誇るべき小説家です! って紹介したわ」

「おいおい、俺は小説を出版すらできてねえんだぞ……」

「いいじゃない。私だけの小説家って何だか、ロマンチックよ」

「文学的な事言うようになったじゃねぇか」

「ネコちゃんの影響ね。って言っても、そんなにネコちゃんの小説に文学的表現は無い気がしたけれどねー」

「うるせーよ。ところで、他の出版物の小説でそうやって描こうとは思わなかったのか?」

「あ、うん。それね。思ったよ。でも駄目だった。何冊か読んでみたんだけれど、その作者の生き様みたいなのが曖昧にしか受け取れなくて、絵にしようとしてもありふれたものになっちゃったんだ。私が納得いかないだけで、他の人はいいかもしれないけれど、やっぱり自分が納得行ってない絵は、線に迷いがでちゃうからね……」

「そんなものなのか……」

「うん。だから私の絵の原作は全部ネコちゃんの小説。だから胸を張って画家の原作を作ってるって言っていいんだよ!」

「お、おう……」

「それでさ、私からも訊きたいんだけれど……もう、小説は書かないの? 出版社から見放されちゃったって言ってたし……あ、ごめん、あんまり思い出させて傷つけようとかじゃなくて」

「いや、大丈夫。それは割り切ってる」

 そうだ、俺はこれからどうするべきなのだろう……。

 小説をこのまま書き続けてやっていくにはちょっと無理があるとも思い始めている。

 恋人同士となったとはいえ、このままワンコに養ってもらうわけにはいかない。

「あの、さ……ネコちゃんがもしよかったらなんだけど……」

「……?」

「私の原作を作る事を中心に活動して行ってみない?」

「――え?」

 どういうことだ。

「やる事は今まで通りで大丈夫! 小説を書いて、色々なネコちゃんの世界を私に見せて! それでもっと色々な物語を絵にして行って、色々な人々を、描きたいの!」

「で、でもよ。吉川さんが言ってたみたいに前例なんてないんだろう?」

「前例がないなら、私たちが最初の一人……最初の二人になればいいのよ!」

 なるほど、得てして納得できる意見だ。

「だけど、それをどうやって説明するんだよ。俺が書いた小説を公表するのか?」

「それが一番手っ取り早いと思う。やっぱり文章が絵になってるなんて、他の人は意味が分からないかもしれないから、見て納得してもらうのがいいわよ」

「でも公表するにも、結局出版物にならないと人は見れないだろう? そこで俺が小説家になれなかった……そういう点で問題が出てくるんじゃいかな」

 やはりそこに結局行きつく。俺の実力不足でワンコにもかなり迷惑をかけると言う事だ。

 すると、彼女は歯茎をみせんばかりの笑みを浮かべた。

「へっへーん、その点は任せて! もう手は打ってあるわ」

「どう言う事だよ」

「実はね、吉川さん経由で出版社に掛け合ってもらってるの。今までの作品を全部乗せた作品集と、画集を合わせた『作家画家』ってタイトルで出版をするって話がちゃくちゃくと進んでるのよ!」

「……は?」

 背中に電気が走り、鳥肌が立った。

「ど、どういうことだよ……俺の作品が……俺の小説が……本になるのか?」

「そう! しかも、小説家じゃなくて、原作画家っていう新しいジャンルでね!」

 彼女の笑みに偽りはないようだ。裏表のない、透き通った笑顔。

 胸が躍るとはまさにこの事だ。

 自然と俺も笑っていた。

「本当……本当だよな」

「うん!」

「今日エイプリールフールとかじゃないよな!」

「もう冬になる季節じゃない」

「嘘だろ、いや、嘘じゃないよな」

 俺はワンコの両手を握りしめて言った。その手に抵抗もせずに、にっこりと笑い返事をしてくれた。

 いても経ってもいられなくて、この喜びを分かち合いたくて、涙が出るほど嬉しい気持ちを伝えたくて。

 ワンコを抱きしめた。

「ありがとう、ありがとう!」

「お礼をいうのは私の方だよ。それに、小説家って形でデビューできなくなっちゃってごめん」

「いいんだよ。俺は多くの人に喜んでもらいたくて、小説を書いてたんだ。そのためには出版物にならなきゃいけないから……もうよく分からんけれど、俺の夢が叶ったんだよ!」

 あふれる涙は嬉しさの涙だ。

 それにつられてワンコも泣いた。

 笑い泣きで俺達二人は暫くじゃれ合う子猫のように、子犬の様に転がった。

 無邪気に抱きしめて、無邪気に笑って、無邪気に泣いた。

 これ以上は語るまい。

 語らずともどれほどの喜びか、分かってもらえると信じて。



「本当にありがとう! ワンコ、いや、三國川咲! 愛してるぜ!」

「私もよ、ネコちゃん!」







   エピローグ


 

 私は文章を愛する。

 そんな戯言は一度も言ったことが無い。いや、今はじめて言った。

 ちなみに私は作家ではない。

 画家だ。

 原作画家である。

 愛する妻と共に、

 この文章を。

 この文字を。

 一枚の絵に変えて世界へと羽ばたく。

 私は骨であり肉である。

 妻は羽であり、翼であり、飛ぶ鳥そのものである。

 共に羽ばたこう。暗闇の水平線の果てまで。

 いつまでも


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ