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運び手の流儀

作者: 堂那灼風

 サンタクロースは実在する。サンタクロースと言っても歴史上の聖人ではない。クリスマスイブの夜、子供たちにプレゼントを運ぶ――いわゆる『サンタさん』である。その正体はれっきとした国家公務員であった。

 『サンタさん』は隠密でなければならない。それが唯一無二の鉄則である。子供たちに夢を運ぶ存在である以上、その姿は何人にも見られてはならないのだ。掟に背いた『サンタさん』を待つものは、ライセンスの剥奪である。

「それでは、例年通りよろしく頼む。くれぐれも迂闊な行動は慎むように」

 質素な執務机に両肘を立て、熟年の男が渋い顔で言った。目線の先には、一冊の分厚いファイルを抱えた派手な身なりの男がいる。

「承知していますよ。我々を誰だとお思いなのですか」

 仕事の仔細をまとめたファイルを繰りながら、男は成金趣味なスーツの背を向ける。黒光りする革靴の音も高らかに、用は済んだと帰り支度を始めてしまった。

「そうは言うが、用心に越したことはない。我々の守秘義務は絶対なのだから」

 どうやら上司らしい男は、疲れのにじむ声で念を押す。

「そう毎回言われなくとも分かっていますよ。見習い時代から仕込まれていますからね」

 若い男は鞄にファイルを仕舞いながら諳んじる。『サンタさん』にとってはイロハのイにも等しい大原則である。しかし、それだけに疎かにもなりやすいというのが目下の危惧であった。

「わかっているのなら良いが……、くれぐれも注意するように。あの男のような事態になってはどうしようもないのだからな」

 その言葉に、若い『サンタ』は心底鬱陶しそうな顔をする。もちろん、上司からは見えない絶妙な角度である。

「私も直接会ったことはありませんが、その方のような失態などありえませんよ。我々にもプロフェッショナルとしての矜持がある」

 荷物をまとめ終わった若い男は、鞄を抱えあげると踵を返す。ふと、ドアへの途中で立ち止まって付け加えた。

「振り込みはいつも通りよろしくお願いしますよ。なにぶんこの不況ですからね。我々としても義務に見合う利権が無くてはやる気も起きないというものです」

 上司の男は苦虫を噛み潰したような顔をした。この若い『サンタ』は解雇も減給もされないのを良いことに、鼻持ちならない態度を改めようともしない。無言で首肯する上司を確認すると、若い『サンタ』は悠々と一礼し執務室を辞去した。その取って付けたような作法もまた、上司の癇に障るのである。

「まったく、近頃の『サンタ』どもは……」

 一人になった執務室で、男は溜息とともに呟く。彼にとっては人数不足も問題ならば、権益に胡坐をかく若手の質もまた、大きな問題であった。

 かつては師弟関係の下で『サンタ』技術の研鑚を積み、免許皆伝の証としてライセンスを取る、という流れが確立されていた。しかし、その伝統もいまや崩れ去ろうとしている。元々『サンタ』は狭き門であったが、後継者不足のため、内面的に問題のある者でも『サンタ』と認めざるをえなくなっているのだ。

 日本に現存する『サンタさん』は僅かに五人。その秘密性からサンタクロース技術は一子相伝であり、たったの三家からしか新たな『サンタさん』は生まれない。その上、二〇年前に後継者不在のまま断絶した服部のように、残る三家も後継者問題に喘いでいるのが現状である。特殊な技術を身に付け、更に国家公務員試験特種を通過した者だけに与えられる『サンタ』のライセンスであるが、ここ五年は一度たりとも発行されていないのだ。

「あれから二〇年……、『サンタ』も変わってしまった」

 執務室の隅に掛けられた『サンタ』の帽子をみつめ、男は誰に言うともなく零す。その目は遠く、ここにはいない誰かに語りかけているようだった。

 今年もクリスマスが間近に迫り、『サンタさん』の活動もいよいよ本格化してくる。しかし、状況は絶対的な人員不足である。特命福祉派遣員派遣事務局局長・白井は執務室で頭を抱えているのだった。……


 一日の終わりにネオン輝く街を歩く。それが服部三郎の日課である。

 このところ徐々に薄くなってきた頭に毛糸の帽子をかぶり、褪せて擦り切れた朱のコートに身を包む。数十年変わらない三郎の冬着だ。

 繁華街、裏路地、公園、それぞれの場所に集まる様々な人間を眺め、ときには言葉を交わしながら、三郎は歩いてゆく。かれこれ二〇年もそんな生活を送っているので、当地の人間たちにとってはちょっとした名物である。

 その後は多少の贅沢もする。その贅沢というのが他でもない入浴だ。日毎の稼ぎを頼りにしている三郎にとっては、コイン一枚でさえ軽い出費ではない。しかし、三郎には奇妙なことに幾らかの貯蓄があった。日雇い労働者に身をやつす以前の蓄えである。どういうわけか、三郎はその貯蓄を入浴だけに使っているのだ。

 今日もいつもの銭湯へ入る。ロッカーの立ち並ぶ脱衣所に入ると、三郎はいつも自分の使う区画へ向かう。するとそこには先客がいた。普段は使用者の少ない区画だったので、三郎は驚いた。相手も人気の少なさを見込んでいたのか、少なからず驚いたようである。

「君は……さっきまで一緒に働いていなかったかね」

 その男に見覚えがあり、三郎は問うた。老人にいきなりそんなことを問われて男も呆気にとられてはいたが、やがて答えた。

「ええ、多分。西竹建設の」

 三郎はその答えに頷く。確かに今日は一日中、西竹建設の工事現場で地面を砕いていたのである。

「あなたも、ホームレス……ですよね」

 慌てて服をしまい込もうとしていた手を止め、男が聞き返す。その眼は色褪せたコートに向いていた。

「ああ。もう二〇年もね。君が子供の頃から私は路上生活者だよ」

 三郎は苦笑しながら答えた。男は何か腑に落ちない点でもあるのか、首を傾げている。そして一つ身震いすると、苦笑いして言った。

「僕は昨日からなんですよ。あなたもホームレスだと聞いて、なんだか安心しました」

 そして、どことなく余裕のある手つきで服を片付け始めた。三郎も自分の支度を済ませると、二人連れだって風呂場へ入った。

 クリスマスの夜だからか、今日はそれほど賑わっていなかった。二人は少し奥まったシャワーに並んで陣取った。

「そう言えば、なぜ私がホームレスだと聞いて安心したんだい」

 沈黙を破ったのは三郎の問いかけだった。

「僕は昨日からホームレスだって言いましたけど、なんだか恥ずかしくて。仕事も無くして、アパートも追い出されて、そしたらなんだか、自分がみすぼらしくなった気が」

 男は苦笑しながら答える。言いながらシャンプーを泡立て始めた。

「そんなことを思ってたら、随分と年季の入ったコートを着たあなたが現れたもので」

 それっきり男は黙った。目を瞑り、頭を洗うことに集中しているようだ。

「そう言えば、あなたはよくここに来るんですか」

 ふいに男は尋ねた。定職を持たない身にとって、銭湯は決して安くない。

「ああ、割と頻繁に来ているよ。風呂は大好きなのでね。――色々な人に出会える」

 三郎は笑いながら返答した。男はその答えを想定していなかったのか、鼻白んだ様子である。さすがに懐事情に踏み込むような質問は憚られるのか、そのまま口を噤んでしまった。

「これまで何をしていたのか、訊いても良いかな」

 再びの沈黙を挟んで、三郎が遠慮がちに問う。初対面でする質問でもないように思えたが、男は特に気にする風でもなく答えた。

「会社員ですよ。それなりの学歴を積んで、それなりの会社に入って、それなりに昇進して。普通の人生でした。でも、会社に不正があったらしくて。社長は捕まって、あっけなく倒産。僕たちも捨てられました」

 転落も既に割り切ってしまっているのか、男は軽い調子で語った。そして語り終えると洗顔に没頭し始める。

「……そうか。失礼、私は服部だ。服部三郎という」

 三郎は自分もシャンプーを取りながら名乗った。まさに泡を流しているところだった男は慌ててシャワーを止めると名乗り返した。

「僕は乾俊之です」

 その名に三郎は引っ掛かりを覚えたが、その正体は判然としなかった。何かとても大切な名前のような、それでいてとても古い記憶に沈み込んでいるような、大河の畔で淵を覗き込んでいるような感覚である。それからしばらく、二人して無言の時間が続く。決して居心地の悪いものでもなかったが、良いものでもなかった。

「もしかして、昔どこかでお会いしたこと無いですか」

 体を洗い終わった俊之が出し抜けに尋ねた。三郎はしばらく記憶を辿っていたが、やがて首を振った。

「どこかで見たような気がするんです。それも、思い出せないくらい昔に……」

 首を捻りながら俊之は言う。シャワーを浴びながら眉をひそめている。しばらく考えこんでいたが、突然思い出したように溜め息をついた。

「すみません、勘違いです」

 恥ずかしそうに俊之は続ける。

「昔、夢の中でサンタクロースに会ったんです。そのときのサンタさんがあなたにそっくりで。もう二〇年も前の夢なのに、いまだに忘れられないんですよ」

 笑いながら俊之は湯船に向かおうとする。するとその背中に三郎の声が掛った。

「乾君。その記憶は間違いないか」

 笑い話にしては真剣な声だった。俊之は驚きながらも答えた。

「ええ。夢ですけどね」

 その答えに、三郎は一人で納得している。わけがわからず、俊之は事情を尋ねた。

「君のその夢は、夢ではないかもしれない」

 三郎の答えは予想外のものだった。

「それは、二〇年前のことなのかね」

 三郎は一つ一つ、パズルを組み合わせるように確認していく。

「忘れもしませんよ。ちょうど二〇年前、僕が七歳の頃の話です」

 俊之は話が見えないながらも答える。真剣な顔つきの三郎に対し、湯船に向かう途中で立ち尽くす姿が所在ない。

「そうか、ありがとう」

 三郎は短く言うと、自らも湯船に向かう。二人並んで湯船の隅に腰を下ろすと、熱い湯が心地良かった。

「乾君、君はサンタクロースを信じるかね」

 三郎が静かに問う。しかし俊之は、その真意を量ることができなかった。

「昔は信じていました。さっきの夢だって、友達に話したんです。でも誰も信じてくれませんでした。母だってそうです。まあ、今思えば当然ですよね」

 昔を懐かしむような笑みを浮かべながら、俊之は答えた。

「では……君は、サンタクロースになりたいと思うかね」

 今度こそ、俊之には意味が分からなかった。三郎の意図するところが読めず、困惑も露わに答える。

「わかりません。そもそも、サンタクロースなんていないじゃないですか」

 困惑し、駆け引きも嘘偽りも無い返事だからこその、俊之の本心であった。

「いないものがどんなものかなんてわかりません。だから、なりたいかと聞かれても答えようがない」

 三郎はその答えに聞き入っている。他に客もいなくなり静寂の落ちた空間に、水音と声が反響する。

「そりゃ昔は、サンタは憧れでした。だからこそ僕は、あの夜の夢を忘れずにいたのかもしれない。サンタさんは……子供たちの夢ですから」

 言葉を切り、俊之は逆に訊き返す。

「なぜそんなことを」

 三郎は一呼吸つき、信じてもらえないかもしれないが、と前置きして始めた。

「君の見たサンタクロースは私だ」

 一瞬の沈黙が落ちる。あまりに予想外の告白に、俊之は唖然として返す言葉もない。しかし、一寸立ち止まってみれば、驚愕より猜疑が先立つ言葉である。出方を窺うように俊之は沈黙している。

「あの晩、君は前々から欲しがっていた自転車を貰ったはずだ。『サンタさん』にお願いしなければならなかった理由――それは、君のお父さんが自殺し、借金で家計に余裕が無かったから。違うかね」

 俊之は絶句した。父親の会社の倒産、それに伴う自殺。三郎は当時の俊之が置かれていた状況を正確に言い当てていた。

「……なぜあなたがそれを」

 俊之が興奮を押し隠しつつ問い質す。三郎は厳かに答えた。

「私が『サンタさん』だからだ」

 一呼吸おいて三郎は続ける。

「我々『サンタさん』は国の指令で動く。絶望的な状況にある子供に希望を。それだけを目的として。もちろん大変な子供などいくらでもいる。だから我々は、政府に責任のある状況に対して宛がわれる」

 そこで三郎は、俊之に気遣わしげな視線を向けた。

「君のお父さんの会社は、国が潰したようなものだった。詳しくは知らないがね。国の事業と利害が対立して、消されたんだよ。君にも、無論お父さんにも罪は無い。いわば『サンタさん』とは、国の罪滅ぼしだ」

 一言一句漏らすまいと、俊之は聞き入っている。三郎も、全てを伝えるため言葉を紡ぐ。

「『サンタさん』の存在は、政府でも一部の人間しか知らない。あくまで極秘裏に、子供たちの枕元にプレゼントを送り届けるんだ」

「母は知っていたのですか」

 俊之は尋ねた。あの日、自転車を前にして目を見開く母の姿が思い出されていた。

「知らない。我々の存在は、誰にも、知られてはならないからね」

 俊之は納得しかねる顔を保ったままである。

「なぜ国はそんなことを。正面から援助でもなんでもすればいいじゃないですか」

 対して三郎は悲しげに答えた。

「できないよ。貧しい家庭はいくらでもある。生活保護の制度もある。表立って特別扱いをすることはできない」

 それでも、と俊之はなおも食い下がろうとする。しかし、三郎はそれを制して言う。

「これを正義と呼ぶかどうか、それは人それぞれだ。しかし『サンタ』たちは、いや、私は、理不尽に泣く子供に夢をあげたかった。それが、私の願いだった……」

 三郎は深く心に刻むように、ゆっくりと語る。その姿に、俊之は問う。

「今はもう『サンタ』ではないのですか」

 その問いに、三郎は頷いた。

「僕が、あなたの姿を見てしまったから」

 その言葉にも頷いた。そして言う。

「『サンタ』は夢を運ぶ者。姿を見られ、存在がばれてはならない。だから私はライセンスを剥奪された。それからこの生活だよ」

 その告白で、俊之は俯いてしまった。

「それじゃ、あなたも僕と一緒じゃないですか。僕があなたを見たせいで、あなたは仕事を失った。あなたは悪くないのに」

「それが我々の掟だよ。姿を見られた者に『サンタ』を続ける資格は無い」

「でも、今の今まで僕自身も夢だと思っていた。あなたが白を切り通せばそれで済んだはずでしょう。それなのになんで仕事を失うような真似をしたんです」

 罪悪感が転じてか、俊之は三郎を責めるような口調で言い募る。しかし三郎はその言葉を苦にもせず、当たり前のように答えた。

「それが『サンタ』だからだ。それが我々の鉄則だ」

 そこで一旦言葉を切り、三郎は力強く言い直した。

「それ以前に、我々の誇りなんだよ」

 俊之は何も言えないでいる。誇りの為に全てを投げ出したという男の独白に、水音さえもが静まり返って聞き入っているようだった。

「二〇年前も私を止めようとした男がいた。『サンタ』も年々少なくなっている。私がいなくなるのは痛手だったろう」

 三郎は遠い眼をして微笑した。

「せめて後継者ぐらい残していけ、と恨みごとも言われたものだ。彼は、良い奴だったよ」

 ふう、と息を吐き、三郎は湯船の中で足を伸ばした。たゆたう白髭は穏やかで、それでいて高潔な風格を醸していた。

「確かに私は、誇りと引き換えに仕事を捨てた。だけどね。だからこそ、私は今でも『サンタ』の誇りを忘れずにいられる」

 若い俊之には三郎の境地は理解できなかった。自らの生活を犠牲にしてまで守る誇りにどれほどの価値があるのか、彼には計り知れなかった。故に俊之は問う。

「あなたは人生を棒に振ったんじゃないんですか。……後悔していないんですか」

 その言葉に、三郎は笑いながら反論する。

「私は後悔していないよ。君に夢を与えられたのなら、それこそ本望だ」

 ここに至って、俊之は何かを掴んだ気がした。この服部三郎という男にとって、そして『サンタ』と呼ばれる人間にとって、救った人数は問題ではないのだろう。乾俊之という絶望の少年に笑顔を与えた。その純然たる一つの事実こそ、彼らの喜びであり、人生なのだ。それは俊之が今まで見たことの無い類の、無垢で崇高な願いに思えた。

 思い至った瞬間、俊之は自らの内に新たな希望が芽生えた気がした。それは寒空の星のように、温かで心強い光だった。俊之は、決意の籠った眼で三郎を見た。

「僕は仕事も失って、これからは惨めに生きていくと思っていました。あの頃だって父が死んで、明日の生活も知れない、絶望でした。でも違う。僕はあなたに夢を貰った。やり直せるものなら……僕もあなたのようになりたい」

 それだけ言って、俊之は風呂を出る。深い喜びを湛えた三郎が、一人残った。


 銭湯から出ると厳しい冷風が俊之を撫でた。襟を立てると俊之は歩き出そうとする。その背中に、先ほど別れたはずの男の声が掛った。

「乾君、待ってくれ」

 振り返ると、案の定そこには色褪せた『サンタさん』が立っていた。彼は相当慌てて出てきたらしく、氷点に迫ろうかという外気に湯気を上げていた。呼吸を整える僅かな間を置いて、三郎は問う。

「私の跡を継がないか」

 俊之に向けられたのは、予想もしない、それでも心の奥で望んでいた勧誘だった。

「……本当に、僕でもなれますか」

 手を差し伸べる三郎に、俊之が問い返す。

「そのために追い掛けてきたんだ」

 笑う三郎の手を、俊之が取る。言葉は必要なかった。

「これからどうするのですか」

 晴れて弟子となった俊之の質問に、三郎は意外な答えを返した。

「連絡だ。少し、電話をかけてくる」

 そう言うと、三郎はコートの前をはだけた。すると俊之の目には、燃え上がらんばかりの真紅が飛び込んできた。みすぼらしく褪色した表の朱ではない。その裏で二〇年もの間、雌伏の時を過ごしてきた『サンタ』の魂である。まるで三郎の心を映すかのごとく、生気を持って輝いていた。

 三郎は内ポケットに手を入れ、何かを探している。しばらく漁ってようやく目当てのものを見つけ出した。

「あったあった。よもや、今になってこれを使う時が来るとはな……」

 感慨深げに三郎は古びた名刺を眺める。かつて出奔の際に、旧友から渡されたものだった。

「どなたです、それは」

 俊之が問う。三郎は感慨深そうに名刺を見やる。答えとして、二〇年前の出来事を語り始めた。……


 それは夜も更けたクリスマスイブのこと。失態だった。四家の一つ服部の跡取りとして『サンタさん』になって十五年。心のどこかに余裕と慢心が巣食っていたのかも知れない。三郎は鉢合わせてしまった少年を前に、遅すぎる後悔を抱いていた。

「おじさん、サンタさんだよね」

 俊之少年が問いかける。しかし、三郎は言葉を返すことができなかった。言葉を交わせば、夢は現になりかねない。三郎は、黙って微笑み返すことしかできなかった。

「サンタさん来てくれたんだね。ありがとう」

 ありがとう。無邪気に喜ぶ俊之を前に、三郎は胸を引き裂かれる思いだった。乾家の事情は聞き及んでいる。父親を失い、借金を抱えて母親は東奔西走の日々。幼い俊之がいかに心細く、また希望の持てない状況であるかは想像に難くなかった。

「ねえサンタさん、プレゼント持って来てくれたの」

 期待に目を輝かせる俊之を前に、三郎は一つの決断を迫られていた。『サンタさん』最大の禁忌である遭遇に陥った際の、最終手段であった。

 三郎は一つの芝居を打った。胸のポケットからコルク栓で密閉された小瓶を取り出す。大仰な身振りも忘れない。俊之の視線は小瓶に注がれていた。次に三郎は小瓶を開けた。中に入っていたのは一枚のハンカチであった。それを自分の鼻先へ持っていくと、三郎は手で扇いで匂いを嗅ぐ真似をした。

 『サンタさん』が何か始めたのを見て、俊之は思う壺にそれを真似した。三郎が差し出したハンカチを、自分でも嗅いでみたのである。

 こうして俊之のクリスマスイブは終わった。曖昧な結末を残し、夢だと結論付けられるように仕向けた上で、三郎は自らの仕事を遂行したのであった。時刻は深夜零時頃、その足で事務局へ戻った三郎は、自らの失態を打ち明け、辞職を申し出たのである。

 特殊な技能を要する『サンタ』の仕事である。隠密性を保つため、通常は全ての業務を一人で行う。そのため、少々の失敗は揉み消すことも可能なはずだった。

「申し訳ありません。私は姿を見られてしまいました。もう、『サンタ』を続けることはできません」

 正直に申し出た三郎に対して、驚いたのは当時の事務局局員だった白井である。

「何故ですか服部君。あなたは優秀な『サンタさん』だ。これまで十五年間、あなたはそれを証明してきた。一度の失敗で消えてしまっていいような人材ではない」

 引き留める白井に対して、三郎は静かに首を振った。

「また起こらないとも限りません。それに、もう顔を見られてしまっている。これが元で『サンタ』の存在がばれては何にもならない。そしてこれは、心持の問題でもあるのです」

 静かに語る三郎を前に、白井は戸惑いを隠せない。ただでさえ少ない『サンタさん』がこれ以上減るような事態は、何としても避けたいところであった。

「私はね、『サンタ』は礼を言われてはいけないと思っているんです。私たちは、ただ子供たちの理不尽を少しでも楽にしてあげるために働いている。それだけが、私たちの意義であり、喜びなんですよ。裏方が表舞台に立ってはいかんのです」

 そう言うと、三郎はライセンスの証である帽子を脱いだ。それを白井の執務机に置くと、背を向けて立ち去ろうとする。すると、予想外に大きな白井の声が、深夜の執務室に響いた。

「行くな。上司として、君の友人として頼む。君の力は『サンタ』に必要だ。現状四人で一杯一杯なんだぞ。君まで抜けてどうする」

 必死な声に、三郎は後ろ髪をひかれる思いも禁じ得なかった。しかし、それでも毅然と言い放った。

「駄目だ。俺は掟を破った。これ以上続けても、俺は『サンタ』の誇りに泥を塗るだけだろう。俺が子供なら、そんな奴に来て欲しいとは思わん」

 苦しみを押し殺した拒絶だった。

「生活費は、君の生活費はどうする。突然仕事を失ってそう簡単に生きていけるものではないぞ」

 頭の奥では無駄と知りながら、白井もなんとか思い止まらせるべく言い募る。

「あいにくだが、その心配はないさ。お陰さまで貯蓄は十分だ。俺だって『サンタ』なのだからな」

 皮肉っぽく三郎は言った。これまで使わずに貯め込んでいた『サンタ』の報酬をこのような形で使うことになろうとは、彼自身思ってもみなかった。

「君には『サンタ』の意義が分からないのか。『サンタ』がどんな奴だろうと関係ないだろう。理不尽な涙を流す子供たちに笑顔を、それが『サンタ』じゃないのか」

 仕事に対する白井の真剣さ、情熱の伝わる叫びだった。しかし、それでもなお、頑なに三郎は拒み続けた。

「だからこそだ。だからこそ、子供たちの許には、きちんとした『サンタ』が行ってやらなきゃならないんだ。それが俺たちの誠意ってものだろう」

 意地と意地のぶつかりあい、仕事にかける信念の対決だった。しかし、平行線に思われた舌戦はあっけなく幕を閉じた。

「……そうか。どうしても行くと言うのなら、もう止めはしない」

 無言の背中が、三郎の決意を物語っていた。白井はその背中に、最後の指令を出した。

「その代り、自分の始末は自分でつけろ。君の言う信念に適う後継者を、君自身で見つけ出せ。どうせ服部の末裔は君なんだ。辞職ではなく、少し早い引退と考えさせてもらう」

 形式上は三郎の辞意を撥ね付けながらも、その行為は彼の意志を尊重するものだった。

「それまで君の帽子は預かっておいてやる。後継ぎを連れて取りに来い」

 机を離れ、三郎のすぐ後ろに迫った白井が何かを手渡した。それは名刺であった。事務局と白井の連絡先が記してある。三郎の帰還を信じての餞別だった。

「……約束する」

 一言だけ告げ、三郎は事務局を後にした。その後の足取りは誰も知らない。服部三郎はクリスマスを境に行方をくらませたのだった。……


「こうして、私はこの生活を始めた。今日の日を信じてな」

 喜びに満ちた眼差しで、三郎は自らの弟子を見つめる。俊之は未だ『サンタさん』を理解しきっているとは言い難い。しかしそれでも、三郎の話に感じ入るところはあったようである。

 語り終えた三郎は、辺りを見回して公衆電話を探している。黙って聞いているだけだった俊之は、この再会に運命を感じずにはいられなかった。

 志を新たにする俊之を残し、三郎は道端の公衆電話へ急ぐ。そして何処かへ電話をかけ始めた。ややあって繋がったのか、二言三言の問答を交わす。

「申し訳ございません、派遣事務局という部署は存在しておりません。失礼ですが、何かお間違えではないかと――」

 三郎を知らないと見える若い女性局員は、あくまでとぼけるつもりのようだ。あいにくと二〇年前に携帯電話などという便利なものは普及していない。連絡はどうしても、事務局を通じての間接的なものになってしまった。埒が明かないと見るや、三郎は単刀直入に告げる。

「……白井に伝えてくれ」

 にやりと笑って、受話器の向こうへ三郎は言った。澄んだ風が吹いて、粉雪がちらつき始めた。色褪せた赤いコートも、くたびれた俊之のジャケットも白に戻してゆく。

「服部の後継者が現れたと」

 紗雪の舞うクリスマス、新たな『サンタさん』が生まれようとしていた。















日本のクリスマス文化に対する反発から生まれました。

2009年頃執筆。

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