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Melodia

作者: 有理数

 給食時間になると、放送委員の人が音楽を流してくれる。

 ぼくの住んでいるところは本当に小さな街で、大きなお店もなくて、大抵の買い物は商店街で済ませるような寂しいところだった。だから大型のショッピングモールに行くには随分時間がかかってしまうし、当然そんなところに行く機会も少ない。だからといって何かに不自由しているわけではなく、遊ぶところだってあるし、当然学校もある。ただ、大きなお店や、都会のような煌びやかなところが無いだけで、ぼくたちはそれでも普通に生活することだってできたし、それで満足だった。

 ぼくが最初に音楽を聴いたのは、父親が幼い頃に手に入れたという、ビートルズの大きなレコードだった。機械に乗せたレコードがくるくると回って、部屋に大音量のジョン・レノンの声が響いた時、なんて素敵なのだろうと思った。レボリューション。これがぼくの音楽の始まりのはずだったが、どうにもぼくの街は小さすぎて、音楽には随分疎かった。音楽のCDを手に入れるには山を越えなければいけなかったし、パソコンを持っている人なんていない。たまに街に出たおじさんやおばさんが持って帰ってくる雑誌に載っているミュージシャンも、結局活字や写真でしかなかった。それは音楽ではないのだ。

 だから、僕は惹かれたのだった。

 突然響き渡った、あの時間の音楽に。





 ぼくの通っている学校では、小学五年生になったらなにかしらの委員会に入らなければいけなかった。保健委員会になったら、児童の保険の管理――朝の健康チェックや、冬場のマスクの着用を呼びかけたりする。そんな風にいろいろな委員会があるのだけど、放送委員会というのに興味があったことは一度もなかった。給食時間に連絡事項を読み上げたり、先生が用意したクラシックの音楽を流す。あとは集会の司会進行をしたり……だからこそ、なんて面倒な委員会なのだろうと、ぼくは最初から無視を決め込んだはずだった。当然まったく目もくれず、他の委員会にさっさと挙手して決めてしまっていた。

 しかし、そんな五年生になって数日後、給食時間にビートルズが流れた。今までずっと退屈なクラシックばかりが流れていたのに、突然歌声が響き渡ったのだ。しかし、音楽なんてものにそれほど興味のないクラスメイトたちは、そんな異変にちっとも気が付かなかった。一緒に机をくっつけて食べていた班のメンバーも、ぼくが急にそわそわしだしたことに一瞬だけ目配せするばかりで、すぐにおしゃべりに戻ってしまう。それでもぼくは、この高揚する気持ちを抑えることができなかった。

 どうして突然、給食時間にビートルズが流れたのか。おそらく放送委員の人が流したんだ。いや、そうに違いない。ぼくは給食に手がつかなくなってしまい、今すぐに放送室に向かいたくなった。ぼくはビートルズの曲をちょっとだけしか知らない。だけど今流れているこの曲はビートルズで、だからぼく以外にもビートルズを知っている人がいるということになるのだ。周りの皆にビートルズの話をしても、知っている人は誰もいなかった。だから共有できる人がいなかった。だからこそ、こうして自分の知っている音楽が耳に触れたとき、どうしても心がふるえあがった。誰だろう。誰がビートルズを流しているんだろう。

 全員でのごちそうさまを済ませて手早く食器を片づけると、ぼくはすぐに走って放送室に向かった。普段は誰も入れないし、鍵が掛かっているのだけど、もしかしたらその放送委員の人が出てくるのとちょうど出会えるのかもしれない。そんな気持ちで、どきどきしながら放送室に駆けた。廊下にはすでに、お昼休みのために遊ぼうと騒ぎ出す他の学年の人たちがいて、放送室の前で待っているのはすこしだけ恥ずかしかった。それでも、ぼくの好きな音楽を知っている人に出会えるかもしれないという期待は、そんな恥ずかしさをすぐに忘れさせた。ぼくは音楽が聞きたかったし、もっとビートルズのことを知りたかった。もしさっきの曲を流した放送委員の人がもっと音楽に詳しいのなら、ぼくはその人と話をしたかった。そして、もっと音楽を聴かせてほしかったのだ。

 ぼくは扉をじっと見つめ続けていたが、開く気配がなかった。おかしいな、と思った。もう出て行ってしまったのだろうか。それとも、まだ中で何か作業をしているのか。なんとなく息を吐いたとき、廊下から歩いてきた女の子が、ぼくに話しかけてきた。ぼくは、その子を知っていた。

「そこで何をしているの、佐塚くん」

 一年生の時に同じクラスだった、浅名さんだった。





 ぼくは一組で、浅名さんは四組だった。ぼくたちは一年生の時に一度だけクラスメイトだったが、グループで一緒に活動するときに一言二言話す程度の関係で、特別親しかったわけではなかった。ぼくは彼女が、ぼくの名前を覚えていたということにすら驚いたくらいで、彼女が放送委員であるということには、とても驚いた。浅名さんはおとなしい感じの女の子で、とてもとても音楽を好んでいるようには思えなかったからだ。いや、それは『へんけん』というやつかもしれない。別に女の子が音楽に詳しくたっていいし、ビートルズを聞いたりしたっていい。だけど、浅名さんがそうだったなんて意外だった。

「さっきの曲を流したのは、浅名さんだったの? ぼく、ビートルズが好きで、さっきの曲を聴いて嬉しくなって……誰が流したんだろうって気になって、その人と仲良くなりたいなあって思って、ここに来たんだ」

「……佐塚くん、あの曲知っているの?」

「知ってるよ。昔から大好きなんだ」

「そう、なんだ。…………わたしも好き。いいよね」

「浅名さんは、音楽に詳しいの? ぼくは全然詳しくなくて」

「うちの叔父さんやお兄ちゃんが、音楽が好きなの。だから、たまに聞かせてもらえるし、CDを買ってきてくれる」

「羨ましいな。じゃあ浅名さんは、かなり音楽を知ってるんだね」

「えっ、うーん、そういうことに、なるのかな」

「普段はクラシックが流れてるでしょ? 今日は突然ビートルズで驚いた」

「先生にね、わたしの好きなCDをかけてもいいですかって聞いたんだよ」

「すごいね。ああ、嬉しい。ねえ浅名さん、ビートルズで何の曲が好き? ぼくは全部の曲を聴いたわけじゃないから、なんだか明るくないんだけど」

「わたしは……えっと、さっき流した曲が好きだよ」

「有名な曲だよね。ぼくも好きだ」

 ぼくと浅名さんは、昼休みの間、音楽の話をした。浅名さんは先ほど流した曲がすごく好きだったみたいで、話の間中は、その曲のことばかり話していた。他にもたくさんアルバムを持っているらしく、ぼくのように、父親がたまたま手に入れた一枚限りのレコードとは違って、とても恵まれているようだった。

「いいなあ、今度聴かせてくれない? ぼく、もっとビートルズ聴きたいし、音楽も聞きたいんだよね」

「いいよ。貸してあげる。ビートルズだけじゃなくて、いろんなミュージシャンのCDがあるよ」

「本当? すごい。貸して。まあ最初は、ビートルズだけでいいけど、これからどんどん貸して」

「うん。わたしも、音楽が好きな友達ができてうれしい」

 浅名さんはやわらかく微笑んだ。





 浅名さんの担当の曜日は水曜日らしく、水曜日の給食時間はかならずビートルズが流れた。ぼくはそれが流れると、班のメンバーとのおしゃべりを中断させて、ちょっと誇らしげに、この曲はなになにっていうんだぜ、とか、この曲はギターの人が作曲しているんだなんてことを彼らに教えた。なんだか佐塚くん、気持ち悪いよ、と彼らには笑われたが、仕方なかった。ほんとうに嬉しかったし、水曜日がとても楽しみに思えた。

 はじめて浅名さんと出会ってから、二日に一回ほど、放課後に会ってCDを貸してもらうことになった。ぼくは、どうせ浅名さんが放送室から出てくるのなら、最初に話した時のように、放送室の前で話せばいいんじゃないかと提案したけど、給食時間が終わったら、放送室の鍵を閉めて先生に返したり、いろいろとやることがあって、かなりぼくを待たせてしまうから駄目と浅名さんは言った。だから放課後、ぼくと浅名さんは誰もいない管理棟の理科室の前で、こっそりCDの貸し借りをすることになったのだ。

 ぼくの家にはCDプレーヤーが無かったので、彼女のお兄さんが使っていたというCDプレーヤーも一緒に借りた。はじめはビートルズばかりを聴き、次に浅名さんと会ったときにCDを返して、あの曲がよかったなんてことを話した。浅名さんも嬉しそうで、あの曲もいいけどこの曲もいいよねと語り合った。それから次のアルバムを貸してもらって、また家で聴いた。夢中だった。音楽をいつまでも求め続けたぼくには、今までのことを考えると、何もかもが寂しすぎた。だけど浅名さんに会って、家に帰っての時間は変わり、音に溺れる日々が続いた。

 ビートルズの曲を全部聞き終えると、今度はまた別のミュージシャンの曲を教えてもらい、アルバムを借りた。浅名さんはぼくがちょうど聞いているミュージシャンの曲を、水曜日に流してくれた。だから給食時間は楽しかったし、その日の放課後、理科室の前で浅名さんと話すのはもっと楽しかった。給食時間に流れた曲で知らない曲が流れると、あれは今貸しているアルバムとは違うアルバムに入っているから今度貸すよと言ってくれる。浅名さんは微笑みを絶やさなかった。ぼくはほとんど頷いてばかりで、浅名さんにお世話になってばかりだった。

 もしかしてこうしてほとんど毎日のように会ったり、CDを貸してもらってばかりなことが、彼女にうっとおしく思われてないかな? と思ったこともあった。だから一度だけ、そのことを問うてみた。

「ねえ浅名さん、こうやってCD貸してくれるのはいいけど、迷惑じゃないかな? ぼくばっかりが騒いでいるというか、もし浅名さんがCDを貸すのが面倒とか、ぼくの態度がうざったいんだったら……」

「そんなことない。楽しいよ」

 浅名さんは首を振った。

「佐塚くんと会うのは楽しいし、音楽の話ができるのも嬉しいよ」

「そう?」

「そうだよ」

「そうかあ……うん、ぼくも楽しい。いつもありがとう。じゃあこのCD借りていくね」

「こちらこそ」

 浅名さんと一緒にいるのは楽しかった。

 音楽の話をするのも楽しかった。





 だけど半年ほど経って、浅名さんからけっこうな枚数のアルバムを借り終える頃には、浅名さんとは少しだけ話が合わなくなった。僕はギターの歪んだ、うるさく掻き鳴らすロックが好きになりはじめ、彼女にそれを要求してしまったのだ。ぼくは知り合いが持って帰ってくる音楽雑誌を浅名さんに見せて、このバンドのCDは持っていない? と尋ねる。だけど浅名さんが持っていないことが多くて、がっかりした。そのがっかりが露骨に出てしまい、浅名さんは謝る。ぼくは別にいいよと言ったけど、ほんとうは残念だったし、正直なところ、どうして持っていないんだと自分勝手に心の中で怒ってしまったのだ。

「そっか、さすがの浅名さんでも持ってないか」

「ご、ごめん……おじさんに今度頼んでみるね」

「でも、おじさんは持ってるの?」

「それは、わかんないけど……」

「じゃあ、こっちのバンドは」

「それも、わかんない。わたしの知らないバンド……」

「……そっか、ありがとう。訊いてみただけだよ」

「あ、あの佐塚くん」

「今日は帰るよ。またね、佐塚さん」

 ぼくは苛立ってしまって、それだけ言い残して、いつもの場所を去ってしまった。

 ぼくは少しずつ浅名さんのところへ行かなくなり、最後は何の別れも言わないで、CDを返しただけで、ぼくはあの場所に行くのをすっかりやめてしまった。もう会うのはやめようとか、もう貸し借りはいいだとか、そういう断りさえ一つも入れずに、ぼくは勝手に行かなくなったのだ。音楽はわざわざ市に住んでいる親戚に電話して買ってきてもらうようにした。音楽雑誌に載っているバンドを見て、増えていくCDラックを背にして。浅名さんのお兄さんのものだというCDプレーヤーは、返しそびれたまま机で埃をかぶってしまった。ぼくは自分のCDプレーヤーを買ってしまったからだ。

 そうしてぼくは小学校を卒業し、中学生になった。

 浅名さんと再会したのは、中学三年生になってからだった。





 ぼくは放課後に、玄関で友人と話をした。その日は、ぼくと彼の部活は休みだった。

 その頃にはこの街もちょっとだけ音楽が入ってきていて、商店街には小さいながらも書店ができ、その中にCDが売られるようにもなった。ぼくはわざわざ親戚に連絡せずにそこで注文するようになり、同じようにそこでCDを買う友人たちと音楽の話をした。ぼくは浅名さんのことを覚えてはいたし、たまに思い出してなんだか胸が痛いこともあったけれど、それでも日常に溶け込む中では、それほど思い出してばかりでもないくらいには、彼女のことを少しずつ頭や心の隅っこのほうに押しやることはできていた。

 その友人があるとき、思い出したように話をした。彼はぼくの友人の中でも、一番音楽の話が合う友人だった。

「そういえばさ、小五くらいのとき、給食の音楽が突然ビートルズになったことあったよな。あの時は全然知らなかったけど、今思い返せばそうだった気がする」

 ぼくはどきっとした。突然傷口が抉られたような、やっと忘れかけていたことを思い出したようで、思わず友人から目を逸らしてしまった。靴をはきかえながら、なんてことないように返事をする。そんなことあったね。なんだか曖昧な答えだったけれど、それは何かを悟られたくなかったからで、でも、いったいそれが何であるかも、ぼくは自分でわからなかった。

「お前あの頃からビートルズ好きだったんだよな?」

「そうだよ」

「じゃあ、随分喜んだわけだ」

「ああ」

「あの頃、俺は音楽なんて全然知らなかったからなあ。あのビートルズは、誰が流したんだったかな?」

「その時四組だった、浅名さんって子だそうだよ。今、A組の」

 ぼくはまったく無関係のように、まるで誰かから聞いた話のように、そっけなく答えた。ぼくは、浅名さんにしたことや、別れ際のあの会話や、まるで逃げるみたいに会わなくなっていったことが、後ろめたくなっていたのだ。浅名さんとは、あれ以来話していない。会ってすらいない。今も音楽を聴いているのだろうか。音楽の趣味が合わなくなって、CDを持っていないからって、突き放すようにしてしまったぼくのことを、浅名さんは今も覚えているのだろうか……。

 ぼくが感傷に浸りだかけた時、友人が素っ頓狂な声を出した。

「え? 浅名?」

「うん。ぼく、浅名さんと放送室の前で会ったんだ」

「五年生の時だよな?」

「うん」

「浅名は放送委員じゃなかったと思うけど。五年の時の四組の放送委員、俺だったから」





 ぼくは家に帰って押し入れに飛び込むと、箱に入っていたCDプレーヤーを取り出して、夕飯の準備をしていたお母さんに、後で食べると言って家を出た。ぼくは自転車に乗って道を走りながら、先ほどの友人との会話を思い出していた。

 ――浅名は、放送委員じゃなかった。

 ――あの時の水曜日の担当は、浅名さんっていう六年生だったよ。

 ――もしかしてそれって、浅名のお兄さんなんじゃね?

 浅名さんは部活をやっていたから、今の時間に玄関で待っていれば、きっと会えるはずだと思った。だからこそ、その日部活が無かったぼくは一度家に戻り、わざわざCDプレーヤーを持って来たのだ。埃まみれになっているCDプレーヤーは、返しそびれていて、返しそびれていたことすらも忘れていた。だけどこうして浅名さんの真相を悟ってすぐにこれを思い出すあたり、結局ぼくは、浅名さんとのいろいろなことを、なんだかんだ忘れらないのだとわかっていたのだ。

 二人で会い始めるきっかけになったあの日も、廊下からやってきた浅名さんと話しただけ。

 放送室から出てきたわけじゃない。

 だから彼女が放送委員だという根拠は、ひとつもなかった。

 浅名さんは、嘘を吐いたのだ。

 本当の水曜日の放送委員の担当は、一つ上の浅名さんのお兄さんで、あのビートルズを流したのは、その浅名さんのお兄さんだったのだ。ということは、浅名さんが自分でビートルズを流したわけじゃない。それなのに、浅名さんは自分が流したと言った。お兄さんのことを話すことなく、本当に自分が流したのだと、自分が放送委員なのだと嘘を吐いた。

 それにあの日、浅名さんはその日に流れた曲の話しかしなかった。ぼくはそれが、浅名さんがその曲が本当に大好きだからだと考えたけど、本当にそうだったのだろうか? 本当に詳しいのなら、もっといろいろな曲の話をしてくれるのではないか。だけど、浅名さんは頑なに、あの日の給食時間に流れた曲の話ばかりをしていた。……まるで、他の曲の話はされたくないみたいに。

 もしかしたら。

 浅名さんは、放送室の前で会ったあの日、その曲『しか』知らなかったのではないだろうか。

 でも、次の日からはちゃんと別の音楽の話をしていたし、音楽に詳しかった……。

 つまり、浅名さんは、出会ったあの日あの時だけは、完全に音楽の素人で、まったく何も知らなかったのではないか。ぼくがやってきて、ぼくが音楽の話ばかりをするから、それについてきてくれただけなのではないか。おそらく浅名さんはあの日、ビートルズなんてまったく知らなかった。だけど『給食時間に流れた曲』は、まったく知らなくたって感想は言える。だってあれは、全校生徒がみんな聴くことのできる音楽で、当然浅名さんだって聴くことができたからだ。だから、『さっきの給食時間に曲を流した人に会いに来た』と言って放送室にやってきた僕との共通の話題は、浅名さんも聴いていた『給食時間に流れた曲』しかなくて、浅名さんはその曲のことだけをしきりに話した。そして家に帰って、音楽に詳しいという叔父さんやお兄さんにいろいろと教えてもらい、ぼくとの会話や貸し借りのために、音楽に詳しくなっていったのではないか。

 これは全部、推測だった。

 だけど、浅名さんが嘘を吐いていたことには変わりがない。自分が放送委員であること、あの日あの時、ビートルズなんてまったく知らなかったのに、知っているなんて嘘を吐いたこと。浅名さんは、ぼくに嘘を吐いたのだ。

 ぼくは別に、怒っているわけではなかった。

 だけど、わからなかった。

 どうして浅名さんがそんな嘘を吐いたのか。

 浅名さんを突き放したぼくには、それを知る権利はないのかもしれない。もう三年も話していないのだから。

 それでも、もう一度話そうと思った。

 ぼくは学校に辿り着くと、すぐに玄関へと向かった。





 部活の友達と話しながらやってきた浅名さんは、玄関の横の壁に背中を預けているぼくに気付くと、はっとしたように眼を見開いて、一瞬だけ立ち止まった。部活の友達がどうしたのと問うと、浅名さんは笑顔に戻って、なんでもないよと言った。それから先に帰っててとも言った。部活の友達はぼくのことにも気付いていたが、何かを察したように浅名さんに微笑みかけ、手を振って去っていった。浅名さんは同じように彼女に手を振り、その手がゆっくりゆっくり勢いを失っていくと、うしろめたそうに顔を俯け、それからそっと、こちらを見た。ぼくはあまり間を開けないように、彼女を呼んだ。

「浅名さん」

 口に出すのも、久しぶりだった。

「……佐塚くん」

「久しぶりだね」

「うん、そうだね……」

 ぼくは片手にもっていたCDプレーヤーを見せた。

「これ、返してなかったから」

「あ……うん……ありがとう」

「それと」

「…………」

「どうしてあの時、嘘を吐いたのか、教えてほしい」

「……嫌」

 佐塚さんは答えた。「恥ずかしいから」

「でも、もう四年も前のことだよ」

 ぼくが一押ししても、佐塚さんはぼくを何度も窺うように視線を合わせたりはずしたりするばかりだった。

 それから長い沈黙があって、佐塚さんは顔を下に向ける。

「四年前のことが、今でも同じだから恥ずかしいのに」

「えっ?」

「……わたしは、佐塚くんと放送室の前であった時、嘘を吐いた」

「うん」

「ほんとうは、お兄ちゃんが放送委員で、わたしは違う委員会だった。あの日は、お兄ちゃん、初めて放送委員会になって、先生に言ったらしいの。いつもクラシックばかりじゃなんだから、ぼくの好きな曲を流していいですかって。わたし、あの日の朝にお兄ちゃんが給食時間に曲を流すって知ってたから、あの音楽、聴いてたんだ」

 浅名さんは続ける。

「そしてたまたま、放送室で佐塚くんに会った。佐塚くんは、ビートルズを流した放送委員――つまり、お兄ちゃんに会いに来た。でも、お兄ちゃんはすでに鍵を返して教室に戻っていた。だから、放送室の前で待っていても、佐塚くんがお兄ちゃんに会うことはない……だから、欲が出てしまったの。佐塚くんと、これを機会に仲良くなれるんじゃないかって。だから、あんな嘘を吐いて……」

 ぼくの推測は、当たっていた。浅名さんにとっては、ぼくと彼女のお兄さんが出会うことが嫌だった。だから、次の日からは放送室ではなく、理科室の前で会うように提案したのだ。放送室の前だと、自分が放送委員ではないこと、そして、水曜日に曲を流しているのが自分ではないと悟られてしまう可能性があったからだ。

 でも、それでも、まだわからなかった。

「知ってるよ、なんとなく、知ってた」

「そっか。だから、会いに来たんだもんね。……怒ってる?」

「怒ってなんかない。ただ、知りたかったから」

「何を?」

「どうして、嘘を吐いたのか」

「佐塚くんと、仲良くしたかったの」

「どうして?」

「わからないの? 鈍感なんだね」

「うん?」

「わたし、佐塚くんのことが好きなんだよ」

 ぼくは、顔を上げた。

「…………は?」

 ぼくは浅名さんが真実を語るとき、きっと恥ずかしいだろうからと目を逸らしてみせた。目を合わせない方が、言葉をくれると思ったからだ。だけど彼女が口に出した言葉は、ぼくにとっては本当に文脈もなにもない言葉にしか思えなくて、せっかく外していた視線を、浅名さんに戻すことでしか、その意図を問おうとすることができなかった。浅名さんはさっきまでのそわそわしたような態度とは変わって、ぼくを真っ直ぐ見ていた。

「四年前のことだけど、あの時と何も変わってない。佐塚くんのことが好きだったし、今も好き」

「……ちょっと待って、ちょっと待って、えっと、待って、それが今までのことと、なんの関係が」

 ぼくはいままで随分平静でいられたはずだったのに、やっとでてきたのはそれくらいで、それがもしかしたら彼女を怒らせたり、どこか失礼だったりするかもしれないと考える余裕もないくらいに、動揺していた。関係あってもなくても、その言葉は、浅名さんがとても真面目に言ってくれたものだったからだ。だけどぼくには、またわからないことが増えて、そして、まだわからないことはわからないままだった。

「わからないの? わたし、別に音楽のことなんて詳しくなかった。ビートルズだって何にも知らなかった。放送委員でもなかったよ。だけど、佐塚くんと話したかった。だから嘘を吐いたの。それだけ、本当にそれだけだよ」

「……えっと、ぼくは」

「別に、応えてくれなくてもいいよ。佐塚くんにとっては四年前のことで、過去のことだと思うし」

 浅名さんは、悲しそうに言った。

「でも、わたしは変わってないから。だから恥ずかしいって言ったの」

 ぼくには言葉が浮かばなかった。

 でも、過去のことだっていうのは、ちょっと違うと思った。四年前のことだけど、ぼくが音楽を聴いていて、例えば勝手にビートルズが流れ出したりすれば、やっぱり浅名さんのことを思い出していた気がするし、どうしても忘れられないところがあった。無理やり忘れようとしていたところもあったかもしれない。でも、そうやって無理やり押しやらなければ忘れられないほど、ぼくにとって、浅名さんはそれほど大きな存在だったってことなのかもしれないって、気付いていたはずなのに。

「浅名さん、ぼく、君にひどいことしたよね」

「そうかな」

「何も言わないで、勝手に会わなくなったでしょう」

「……そうだったね。うん、寂しかったな。佐塚くんは知らないかもしれないけど、わたしおじさんに無理言って、佐塚くんが最後に言ってたバンドのアルバム、買ってきてもらったの。それで一週間くらい、いつもの場所で待ってた。でも、来なかった」

「……」

「別に、佐塚くんは悪くないよ。嘘を吐いてた罰だって思ったし、別に音楽に詳しかったわけじゃない。だって佐塚くんが欲しかったのは、音楽の話ができる親しい人だったんだから。本当のわたしは、そんな人じゃなかった。だから、本当なら佐塚くんとあんな風に話ができること自体、ありえないことだったんだよ。だから、元に戻っただけだって思って」

 話をしながら、浅名さんは泣きだしてしまった。

 ぼくが求めたのは、なんだったんだろう。

 確かに、音楽の話ができる人と親しくなれたらいいとは思っていた。だけど、こうして四年経った今、多くの友人が音楽を知って、ぼくと同じようにイヤホンを耳に刺して、好きなバンドの話をしている。だけど、それで満たされたのか。ぼくが欲しかったのはそれだったのは確かだけど、それが浅名さんじゃなかったから、もう浅名さんとは無関係だってことを、どうして簡単に認めてしまっていいのだろう。浅名さんじゃなくてもいいのなら、今でもすっかり浅名さんを忘れられていたはずだ。だけど今でも覚えていて、こうして向き合っている。それって、たとえ最初は浅名さんを、音楽を知っている友人として求めていただけだったのが、ぼくの中で、また別の関係になりたいって、思い始めたからじゃないのか。

 ぼくは浅名さんに近づいて、彼女の涙を拭ってあげた。

「浅名さん。ぼくも、君のこと好きだと思う。というか、好きだ」

「えっ……」

「四年前が過去のことだって言うけど、でもこの四年間、ふとした時に、浅名さんのこと思い出していたんだ。それは、ぼくが浅名さんにひどいことをしたからだろうなって思ってたけど、でも、ほんとうは違った……と思う。今話してて、はっきりした。ぼくも浅名さんのこと、好きだよ」

「……慰め?」

「違うよ。慰めるためにこんなこと言わないよ」

「でも、わたし嘘吐いたのに」

「嘘吐いたから、なに? ぼくだって君にひどいことしたよ。音楽の趣味がどうとか、CDの貸し借りとか……それがぼくに合わなくなったから勝手にいなくなるなんて、ぼくは最低だったね。ごめん。だから、今日はこれを返しに来た。これがあると、今でも浅名さんが嘘を吐いたままになっちゃうでしょう。でも、ぼくが本当に教えてほしかったのは、浅名さんのお兄さんのCDプレーヤーから聴こえる曲じゃなくて、ほんとうに浅名さんが好きな音楽であるべきだったんじゃないかって。うん……今は、そういうことを浅名さんと分かち合いたいなって、思ってるんだ」

「……」

「ねえ、浅名さん。ぼくのために嘘を吐いたとして、今は――あの時は、音楽が好きじゃなかったかのかもしれないけど、今は、どうなの?」

「……うん、好き。佐塚くんのために聴きはじめた音楽だけど、でも、今はそういうものじゃなくなったよ。四年間、音楽ばっかりだった……今はちゃんと、音楽が大好き」

 ぼくは、浅名さんに何かを求めすぎた。

 だけどそれは一方的なもので、傲慢で、無知だったからだ。

 ぼくはもう浅名さんの気持ちを知っていて、ぼく自身の気持ちにも気付いた。

 この四年間で、ぼくも少しは大人になったんだろう。

 だから、無理やり押し付けられたり、押し付け合ったりした何かが通らなくても、ぼくはもう逃げないし、勝手にいなくなったりしない。浅名さんは、ぼくの欲しい音楽に無理に付き合ってくれた。ぼくが求めるものを、あの時、気持ちを隠して、嘘を吐いてまで、ぼくに話をしてくれた。ぼくのために。だけどぼくは、それがぼくのためであることをほとんど無視して、それが当たり前のように浅名さんを利用していたようなものだった。だけど今は、そういうことがどれだけの過ちか知っている。浅名さんがぼくのためにやってくれていたとしても、例えぼくへの気持ちのために一緒にいてくれたとしても、ぼくがそのことに無関心であったのなら、それだけで浅名さんは傷ついていたのだし、あまりにも身勝手だったのだから。

「そっか。それは、よかった。ぼくが浅名さんにひどいことをしたけど、音楽は好きでいてほしかったから」

「もういいんだよ。ひどいことしたって、佐塚くんはずっと言ってるけど、もう怒ってなんかない。それよりもわたし、この四年間、すごく寂しかった」

「うん」

「だから、その埋め合わせはしてね」

「何をすればいいの?」

 浅名さんは、ポケットからイヤホンを取り出した。

「夢だったの。恋人同士で片方ずつ付けるの」

 なんて恥ずかしくて、そして可愛らしい夢だ。

 でも浅名さんが笑うのを見ていると、いいのかもと思った。だって同じイヤホンをつけるということは、近くにいて、二人を包み込むように同じ音楽を聴くことができるんだから。きっとそれも、ぼくと浅名さんがずっと望んでいた、ぼくたちだけの時間になるのだろう。だから傍にいようと思った。浅名さんとぼくが、笑っていられるのなら、それがぼくたちが一番聴きたかった音楽で、それからも流れつづくような、音楽であり続けてくれる。それがなんだっていい。ただ、そこにぼくがいて、浅名さんがいるのなら、それはなんだって、それは音楽のままでいてくれるんだろう。


 

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