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第二章八千矛放浪


 その日の東京は、曇っていた。

 湿度がかなり高く、べたついた風の中、薄汚い雨が思い出したように降った。

 夕闇が街並みを覆う頃、弥仁は都心をさまよった。

 なにを探してだろう。

 時折、思い出したように線の細い弥仁の顔が、空を見上げる。

 強い光を持った黒い瞳が空を見つめる。だが、なにが見えるわけもない。

 が、弥仁は感じていたのかもしれない。

 人々の怨念が漂い、いつ果てるともない苦しみの中、地獄の業火にのたうちまわる数々の霊が集う、不浄の地だということを。

 弥仁の師である龍樹には、この地には近づかぬ方がよいと、言われている。

 第二次大戦、いや、それ以前より、この地には理不尽な死にかたをし、それいえにこの世に未練や妬心を残した荒御魂や怨念の漂う霊域になり果てているというのだ。

 だからだろうか、この地に人が集まるのは。霊達が寂しいと呼ぶのかもしれない・・・。

 都心の一角にビルに囲まれるようにして古い社がある。その鬼王神社に、弥仁は導かれるようにたどり着いた。

 ここには巨大な鬼の荒御魂が眠っていると、神人達の言い伝えにある。

 それがどんなものなのか、いつのものなのかは弥仁にはわからない。

 ただ、ここには五王弥仁でさえ惹かれる、何かがあるということは確かだった。

 男が待っていた。

 背の高い痩身の白人の青年。黒い髪で、黒い瞳。彫りが深くラテン系らしい。

 いつも、相手をあざ笑う、嫌みな笑みを浮かべている。

 名を、ベルゼブブという。―――魔王だ。

 悪魔の中でも最高級の部類に位置し、今現在、神人を侵しているやっかいな存在だ。

 弥仁とは面識があるらしく、弥仁を認めると会釈をした。

 「久しぶりですね、八千矛」

 紳士然とした、口調だった。

 「出来れば会いたくなかったな」

 つまんなさそうに、弥仁がつぶやいた。

 「この前斬った右手、生えてるじゃん」

 ベルゼブブは、無表情に自らの右手を見た。

 「そうですね、この間は無様な姿を見せましたね」

 「ふん」

 弥仁は鼻を鳴らす。

 「この腕は、治したのですよ。こう、つなげてね」

 そう、つなぐ仕草をしてみせる。弥仁をバカにするように。

 「便利だね、悪魔って」

 「フフフ・・・。あなたもなって、みませんか?」

 「遠慮しておく」

 「そう、残念ですね。では、この前のけりを付けるというのはどうでしょう?」

 「いいよ、別に」

 弥仁は構えた。

 いつの間にか、手には金剛杵が握られている。

 「この体も、だいぶ痛んできたのでね」

 ベルゼブブの体中の筋肉が、みるみる膨張していく。体がふた回り以上巨大になった。

 「無理をしても、もう、かまわないでしょう」

 顔だけは無表情だ。

 「代えは、いくらでもある」

 「いやだいやだ・・・。何人の体を奪った?」

 「悪魔などは、人が作り出したもの。私がこの社に惹かれたのも、この地が不浄の地だから・・・」

 ベルゼブブは冷たく笑う。

 「人こそが不浄の根元。この世にある全ての罪悪は、人が生み出し背負うもの」

 口元がにやりと、つり上がる。

 「私の体になる事ほど、罪深き人間にふさわしいことはないでしょう」

 弥仁はなにも答えられなかった。人の醜い姿、浅ましい姿などは嫌というほど見てきた。ベルゼブブの言うことが、真実かもしれないと迷う。

 「なら、始めようか」

 今度も勝てるとは、思えなかった。強いのだ。自分の神人としての力を吐き出してなお、五分になるかどうか・・・。

 「けど」

 金剛杵の先が、光を放つ。

 「やらなきゃね」

 ひとり、口篭もる

 「よろしいですか?」

 ベルゼブブは、まるで楽しむかの如く、軽いステップで、弥仁に対峙した。

 「では、始めましょう」

 二人の影が、空を舞った。



 雨が降っていた。



 気がつくと、雨が降りしきる地上に立っていた。

 また、この地に戻ってきたのか・・・。

 軽い後悔と、自らへの侮蔑を感じる。

 ベルゼブブは、大地に足が着いている感触に、違和感を覚えた。

 「また、滅ぼされましたか・・・」

 弥仁に、前の体を切り裂かれた感触が残っている。

 そして、死が、ベルゼブブをこの地から連れ去った・・・。

 「しかし、今回は休めなかったようですね」

 自らの安息の地、絶望と暗黒の世界。

 地獄とも魔界とも呼ばれている世界から、ベルゼブブは再び引き離されたらしい。

 転生とも呼ばれる体験を何度か経験してはいるが、自らの意志で行ったことはない。

 ただ、人がそれを望むのだ。

 この魔王たるベルゼブブの力、いや、魔王たる存在を。

 ベルゼブブは自らの意識を高め、魔眼を開いた。そして、新しい体を確かめた。

 年齢は40歳をいくつか過ぎたくらい。

 日本人。男性。

 過去は・・・

 脳のあたりを探る。

 まだ、わずかにこの人間の人格が残っていた。

 「ほう怯えているのか・・・」

 口に出した。そして、笑う。

 ニヤリ―――

 唇が頬まであがる。サタンの笑み。

 目だけは冷たい光を放っている。

 ・・・男の意志が、混乱の中、ベルゼブブに問う。

 (わたしをどうするつもりだ・・・)

 しかし、その意志の言葉は、ぼんやりとしたイメージにしかならず、それも拡散して消えた。

 ベルゼブブはなにも答えない。

 ただ、冷ややかに笑っている。

 無視された意志は、怒りのイメージをとばす。必死にあがき、もがき、自分があることを主張する。

 が、それはすぐに四散する。

 疲れたのか、集中力の途切れた意志はベルゼブブの見つめる中、いつしか弱くなっていった・・・。

 「それが、生きているということなのかもな・・・」

 意味もなく、ベルゼブブは呟いた。

 この男が何故自分を転生させたのかはわからない。ただ、ベルゼブブの中に暗い、黒い炎が生まれていた。

 魔王として生まれたいえの業なのだろう。

 ―――この世に対して罪悪をなす。

 「人の原罪を、我が背負って見せよう・・・」

 この男の罪業は自分を転生させた。いえに、我はこの男に変わり罪人となろう・・・



 ベルゼブブの意志に反応したのか、雨足が強くなっていった。





 (警察署の中って、どこもこんなに雑然としているのだろうか?)

 弥仁は思った。

 薄い仕切り板で遮られた狭いスペースに無理矢理机と椅子が詰め込まれ、そこに座らせられている。

 その隙間から、弥仁は目線をさまよわせた。

 目の前に古びた大型の冷蔵庫があった。

 冷蔵庫の扉に、ゴミの分別表が貼ってあり、その横に黒ずんだ手拭き用のタオルがかけてある。

 冷蔵庫の上には電子レンジとやかんがのっており、その隙間にお盆が何枚かたてかけてあった。

 その横に食器棚があり、年輩の刑事らしき男が湯飲み茶碗をしまっていた。

 それらに遮られてはいるが、署員の喧噪が署内に響き、弥仁にはよく聞こえた。

 ひっきりなしの電話のベル。

 「岩村係長、今来ますよ」

 「明日、110番なんで、いるかどうかわからないんですよ。何時か?いや、110番なんで、わかんないんですけど」

 「岩村係長、休みでいないって」

 「はい東杉並署、刑事課」

 「いい加減な、報告書・・・」

 「いや、明日、泊まりだよ」

 「どうすりゃいいのよ」

 背後に、人の気配がする。

 見ると、ラーメンの出前持ちが入ってきた。ぶっちょうずらで、ズカズカと弥仁の前を通り過ぎる。

 誘拐資材、突発資材と、シールが貼ってあるロッカーの横を抜けて中に入っていった。

 その背中を見ながら、弥仁は溜息をついた。

 もう、ここに連れてこられて一時間が過ぎただろうか。

 ただ、だらだらと時間だけが過ぎていく。

 突然、ジリリリと、低いベルが鳴った。

 <緊急事件発生、緊急事件発生・・・>

 機械的な女性の声がスピーカーから鳴り響いた。

 続いて無線らしき声。

 <緊急事件発生。JR東口・・・>

 弥仁でもドキリとしたが、署員の方は意外と冷静だった。

 「何事件?」

 「ひき逃げ」

 「いやー、ホシは逃げてんじゃないの」

 バラバラと出ていく刑事課の署員。

 そんな人の波に逆らうように、一人の少年が刑事課長・強行犯係・盗犯係という札のついた扉を開け入ってきた。

 「よう」

 背の高い細面の顔をにやけさせ、少年は弥仁に手を挙げた。

 「家出少年」

 にやにや笑う。

 「うるさい」

 弥仁は苦笑いをした。一番来てほしくない相手だった。

 「何で雄馬なんだよ」

 久々年雄馬、弥仁より3歳ほど年上か。

 神人の武を司る武神会のリーダーをしている。

 「とりあえず、二十歳で成人だしな」

 そう、大人ぶる。

 「おじん」

 弥仁の声は無視した。

 「たまたま東京にいたということもある」

 「自分こそ、なにやってんだか」

 そんな弥仁を、雄馬はうるさげに睨んだ。

 「黙って東京に来て、ふらふらして警察にやっかいになったお前を迎えに来てやったんだろ。少しは感謝しろよ」

 弥仁は、あれから一週間ほど、神社の境内でゴロゴロしていたらしい。近所の人達から、ちょっとっ気味悪がられていたと言われた。

 「呼ばれたんだよ」

 弥仁は、ぽつんと答えた。

 「誰に?」

 「わかんない」

 「んで、そのかっこうか」

 弥仁の着衣は、ぼろぼろだった。

 「これは、ベルゼブブと戦った」

 「そいつは・・・」

 雄馬は、言葉に詰まった。

 「勝った」

 「そうか」

 内心、動揺を隠せない。

 ベルゼブブ。

 弥仁の話だけに聞く、悪魔。その力は化け物だと口癖のようにいっているが、雄馬には想像もつかない。

 「じゃあ、もう用はないんだろ」

 「うん―――」

 今度は弥仁が、言葉に詰まった。

 違う、とは言えなかった。

 自分でもよくわからない衝動に駆られていたのだ。まるで、この地の数々の怨霊や、亡者に引き寄せられたみたいなのだ。

 「戻るぞ」

 迷いを振り払うように雄馬が言った。

 「ああ」

 仕方なく立ち上がる。

 部屋の外には、とりあえずお世話になった警察官が立っていた。

 「どうも」

 弥仁はぺこりと頭を下げた。

 目線を合わせないようにして、部屋を出る。

 何か、雄馬と警官が話している。弥仁は、興味を失い出口を探す。

 ここに来るときに使った、暗い、コンクリートむき出しの階段に向かい歩いた。

 「あっ」

 弥仁の足元の床が、消えた。

 いや、足に感じるコンクリの感触は確かにあった。しかし、弥仁の目には自分の足元に広がる巨大な空間、いや、おもねり波打つ巨大な固まりだった。それが広がっていた。

 「なんだ、これ・・・」

 弥仁は呟く。

 巨大な力を持った何かが弥仁を見つめていた。

 いや、弥仁だから、正気を保ていたのだろう。常人なら、恐怖のあまり錯乱するのではないか。

 とまれ、弥仁は、これが、現実のものではないと気づいた。

 「幻視?」

 なにかが、この地に呼んだ。それが見せたのか。

 それの姿が消え、新たに何かが現れた。

 「この隆起する物体は・・・」

 巨大な生物のようだった。

 いくつかの赤い瞳が獲物を探しているのだろう、辺りを見回している。

 どこかで見たことがあったような気がした。

 弥仁は考えた。

 どこだろう・・・。

 「おい弥仁」

 いきなり現実に引き戻された。

 「うん、あっ、雄馬・・・」

 「何ぼっとしてんだよ。」

 時間にして、一分と立っていなかったらしい。雄馬がいぶかしげに弥仁の顔をのぞき込む。

 「なんでもない」

 「変な奴だな」

 雄馬は、弥仁を横目にさくさく歩き出した。

 「いくぞ。何かあったらしくてな、お前、早く連れてがないと、俺が怒られる」

 ふん、と鼻を鳴らす。

 「なんだろ」

 弥仁は、あたりを見回した。が、なにもない。

 「なにがだよ」

 雄馬が振り返る。

 「なんでもない。いや、なにかあったの?」

 気がつき、尋ねた。

 変に急いでいるのは、何かしら弥仁に用があってのことだろう。

 「ああ。事件があったみたいだな」

 「なに?」

 階段の途中で立ち止まる。

 「越の国の御霊三珠四之宮神社で、死人が出た」

 雄馬の声が、低く、囁くようになった。

 「なにしてたん?」

 それに比べ、弥仁は相変わらず、のんびりしていた。本人は、認めたくはないだろうが慣れていた。人死にも、超現実の世界も・・・。

 「なん何でも、神事に失敗したとか」

 「ふぅん。なんの神だっけ?」

 「表向きは、琴平神ってなってるな」

 「裏では?」

 「わかんね。堅気じゃないのは確かだな」

 「いやだいやだ」

 弥仁は、溜息をついた。

 また、厄介なことのために自分を連れ戻すことにしたのだろう。

 足取りも重く、弥仁は警察署を後にした。




 警察署を出ると、夕闇が広がっていた。

 「こっちだ」

 雄馬は不機嫌そうに歩いていく。

 「急いでるんでな。バイクだ」

 「わかった」

 弥仁は首をすくめた。雄馬の荒っぽい運転には辟易としているのだ。

 「なんだよ、その顔は」

 「なんでもない」

 警察署の駐車場には、雄馬自慢のバイクがあった。

 雄馬は愛車にまたがると、ヘルメットをとった。

 「ほら」

 と、ヘルメットを渡そうとする。が、弥仁は違うものを見ていた。

 「誰だ?」

 弥仁の鋭い声が誰何する。

 「八千矛・・・」

 低い、獣のような声がした。

 しかし、夕闇に人の姿は見えない。

 突然、暗闇から、ぬっ、と巨大な腕が伸びて、弥仁をつかんだ。

 が、弥仁の体はすでに護身の力に守られており、その腕ははじかれた。

 「八千矛・・・」

 暗黒の中から痩身の長髪の男が現れた。白人だが髪の色は黒。目だけが赤々と燃えている。

 黒のスーツに無造作にズボンのポケットに両腕をつっこんでいる。さっきの腕が、この男のものとは思えなかった。

 「お前か」

 弥仁は、呆れたように溜息をついた。

 痩身の男は、ギロリと、弥仁を睨む。

 「八千矛・・・」

 ぶん、と男から腕が伸びた。どこから伸びたのだろう。空間からいきなり現れたように見えた。

 「ぐあ!」

 弥仁の金剛杵が、その腕をはじく。

 にやり、と、男が笑った。

 「おい、誰だよ、そいつ」

 雄馬は、訳が分からないらしく、おそるおそる訊く。

 「アスモデウス」

 弥仁は、無表情に答えた。

 「最近、俺の前に現れるようになった、魔王だ」

 「魔王」

 「ああ」

 痩身の男、アスモデウスの視線が、雄馬を見た。

 「アスモデウス・・・」

 雄馬は息を飲んだ。本物の魔王を見るのは初めてだった。

 「普通の人間と変わらないじゃん」

 アスモデウスが笑った。魔王の笑み。

 雄馬の全身に戦慄が走った。恐怖ではない。この世のものではない、異世界のものを見た。そんな、異常感覚にとらわれた。

 「そうでもないよ」

 弥仁はつぶやいた。

 「八千矛・・・」

 「お前、それしか言えないのかよ」

 弥仁は金剛杵を構えた。

 ぬっ、と、暗黒の空間から再び腕が伸びた。

 「きくかよ!」

 弥仁が弾く。その腕を、切り払う。アスモデウスが避けた。

 アスモデウスが逃げた場所に、鬼の腕があった。

 「お前だけじゃない」

 弥仁が吐く。

 弥仁の意思に従うがごとく鬼の腕が魔王を襲う。

 アスモデウスはニヤリ、と笑った。両腕を鬼に捕まれた。が、渾身の力を込めて振りほどく。

 唸り声を上げ、鬼の腕を切り裂いた。

 ―――隙が出来た。

 「おい」

 雄馬が叫んだ。

 「乗れ!」

 キック一発でエンジンをかけ、アクセルを開いた。

 「ああ」

 慌てて弥仁が飛び乗った。

 フルスロットルで、雄馬のバイクが飛び出した。

 警察署の前にいた、警官の怒声が響く。

 駐車場に一人残されたアスモデウスは、しばらくバイクの背中を見ていた。鬼の腕ももうない。

 「八千矛・・・」

 そう呟く。

 そして、暗黒に飲み込まれるよう、姿を消した・・・。




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