王道・コンセプト強調型 世界を救った勇者だが歴史改変で「最弱の村人」に書き換えられた。加護も魔力も失ったが、積み上げた【英雄の技術】と【魔王の娘】の力で、偽りの救世主と歴史の理を殴り倒す。
プロローグ:因果の断層、最期の抱擁
世界が白く染まる直前、そこには確かに「勝利」があった。
魔王城の玉座の間。
伝説の聖剣『エターナル』を振り抜いたアークの背後で、魔王という名の絶望が、光の粒子となって霧散していく。
カイル、リィン、セツナ。共に死線を越えた仲間たちの歓声が響き、誰もが「明日」を信じて疑わなかった。
ただ一人、崩れゆく玉座の傍らで膝をつく、魔王の娘・ルナを除いて。
「……殺しなさい、勇者。お前たちが望んだのは、この世界の『汚れ』が全て消えることでしょう?」
父を失い、魔力を使い果たした少女の瞳には、一切の生への執着がなかった。
アークは、仲間たちが止める間もなく、聖剣を鞘に納めて彼女へと歩み寄った。
彼が差し出したのは、剣ではなく、血に汚れた無骨な手だった。
「汚れなんて、どこにもねえよ。……俺がお前を、ただの女の子として連れて帰ってやる。約束だ」
その言葉が、ルナの魂を震わせた瞬間だった。
空が、ありえない裂け目を見せた。
天から降り注いだのは、黄金の糸――「歴史の編纂」という名の、世界の強制執行。
『――不都合な因果を検出。魔王による救済の歴史へと再構成を開始する』
無機質な声が響くと同時に、アークの意識が剥離し始める。
仲間たちの姿が、まるで書き換えられる文字のように歪んでいく。彼らの記憶から、魔王を倒した勇者の姿が消え、別の「正しい物語」が上書きされていくのが見えた。
「これは、歴史の……修正……!?」
アークの全身が光に呑み込まれ、存在が「消去」の淵に立たされたその時。
必死に手を伸ばしたルナの指先が、アークの胸元に触れた。
「アーク、離さないで……! 私を置いていかないで!」
絶望の淵にいた少女の、生への強烈な執着。
そして、彼女を救おうとした勇者の、理不尽な世界への反逆心。
二人の強い因果が結びついた瞬間、書き換えの嵐の中に「特異点」が生まれた。
世界はアークから「勇者」の地位を奪い、ルナから「魔王の娘」の力を奪った。
二人を、物語に必要のない「ゴミ(村人)」として排斥することで、整合性を保とうとしたのだ。
「……いいぜ。地位も、名誉も、過去も、全部くれてやる」
意識が闇に落ちる寸前、アークはルナを強く抱きしめ、天を睨みつけた。
「その代わり――この『最悪の出会い』だけは、お前の筆でも消させねえからな!」
かくして、英雄は死に、物語は裏返った。
あとに残されたのは、書き換えられた世界の片隅で、ただ静かに始まった「最弱の復讐劇」の芽生えだけだった。
第一話:世界が裏返った朝
首筋に、冷たい鉄の感触があった。
眠りから覚めた瞬間、視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井ではなく、雨漏りのシミが浮いたボロ家の梁だった。
喉元に突きつけられているのは、ただの錆びた鍬だ。
「動くな、ドロボー! これ以上、うちの芋を盗む気か!」
叫んだのは、昨夜まで俺を「人類の希望」と呼んで涙を流していたはずの、隣町の宿屋の親父だった。
だが、その瞳に宿っているのは、英雄への敬意ではない。害獣を見るような、剥き出しの嫌悪だ。
「……おじさん、何冗談言ってるんだよ。魔王は倒した。昨日の祝宴で、あんたが一番飲んでたじゃないか」
俺の声は、なぜか酷く掠れていた。
親父は顔を引きつらせ、鍬をさらに強く押し付けてくる。
「魔王? 祝宴? 寝ぼけてんのか、この浮浪児が。魔王様はこの国を守る偉大な守護神だろうが! 不敬なことを抜かすと、憲兵に突き出すぞ!」
親父の言葉が、脳内で不快な音を立てて弾けた。
何を言っている。魔王は、俺がこの手で。
俺は親父の腕を軽く払いのけようとした。英雄と呼ばれた俺の筋力なら、赤子の手をひねるより容易いはずだ。
しかし。
「……っ、重い……?」
腕が動かない。まるで、自分の身体が他人のものにすり替わったかのように、力が入らない。
自分の手を見る。
マメだらけで、剣の重さを支えていたはずの逞しい手は消えていた。そこにあるのは、ひょろひょろと細く、泥に汚れた、ただの子供の手だった。
這い出すようにして家を出た。
そこは、王都の目抜き通りですらなかった。豚の鳴き声と肥溜めの臭いが立ち込める、名前も知らない辺境の村だ。
広場の中央には、かつて俺が打ち倒したはずの「魔王」の巨大な石像が、慈愛に満ちた表情で立っていた。
道行く人々は、その石像に祈りを捧げている。
胃の底からせり上がってくる不快感を抑え、俺は水溜りに映る自分の顔を覗き込んだ。
そこにいたのは、伝説の聖剣を振るった勇者アークではない。
どこにでもいる、目立たない顔をした、ただの村人だった。
「……全部、消えたのか」
言葉にした瞬間、背後で微かな足音がした。
振り向くよりも早く、誰かが俺の袖を掴む。
「見つけた……やっと、見つけた」
そこにいたのは、豪奢なドレスをボロボロに汚した少女だった。
その額には、禍々しい角の跡がある。
かつて俺が、魔王の城で唯一見逃した、魔王の娘。
彼女は怯えたように震えながら、周囲を警戒するように俺の影に隠れた。
「みんな、おかしくなっちゃった……お父様が、世界を救った聖者様になってる。誰も、本当のことを覚えてないの」
彼女の指が、俺のボロいシャツを強く握りしめる。
俺は、その震える指を払いのけることができなかった。
「お前……俺が誰か、わかるのか?」
少女は顔を上げ、大きな瞳に涙を溜めて頷いた。
「……アーク。世界を、地獄に変えた……大罪人の、アーク」
最悪の再会だ。
俺を覚えている唯一の人間が、俺を殺したいほど憎んでいるはずの仇の娘だなんて。
だが、俺は彼女の手を握り返した。
「……そうか。なら、まだ始まってすらいないな」
俺は、自分の細い腕を見つめる。
剣は失った。地位も、仲間も、名声も。
だが、この胸の奥にある、魔王を斬った時の「感触」だけは、歴史の修正でも消しきれていない。
「行こう。俺の歴史を、取り戻しに」
少女は何も答えず、ただ俺の隣を歩き出した。
第一話 完
第二話:錆びついた聖剣と村人の拳
空はどこまでも青く、残酷なほど穏やかだった。
村の外れにある納屋の裏で、俺は重さ数キロしかないはずの薪割り用の斧を振るった。
――重い。
一振りごとに肩の関節が悲鳴を上げ、視界がチカチカと火花を散らす。かつて数トンの竜の首を撥ねた腕が、たかが樫の木一本に手こずっている。
「……無駄だよ。貴方の体、マナの回路が全部閉じちゃってる」
木陰に座り込んだ魔王の娘――ルナが、膝を抱えたまま呟いた。彼女の瞳には、かつての敵への敵意よりも、どこか奇妙な共犯意識のような色が混じっている。
俺は答えず、三振り目を見舞った。鈍い音と共に、ようやく薪が割れる。
「回路が閉じてるなら、こじ開けるだけだ」
「死ぬよ。今の貴方は、ただの『村人A』なんだから」
ルナの指摘は正しい。この世界の「歴史」は、俺を最底辺の存在として定義している。ステータスを視認する術は失ったが、自分の肺が焼けるような熱さだけで、現状の無力さは嫌というほど理解できた。
その時、村の入り口から土煙が上がった。
蹄の音。武装した数騎の馬が、平和な村の静寂を切り裂いていく。
先頭を走るのは、白銀の鎧に身を包んだ騎士だった。そのマントに刻まれた紋章を見た瞬間、俺の指先が微かに震えた。
聖騎士団。かつて俺が副団長を務め、共に魔王軍を壊滅させた仲間たちの組織だ。
「……カイルか?」
思わず口から漏れた名は、かつての右腕のものだった。
馬を降りた騎士は、村長を呼びつけると、冷徹な声で宣告した。
「この近辺に、魔王様の恩恵を否定する不届き者が紛れ込んだとの報告があった。家宅捜索を行う。反抗する者は『歴史の敵』と見なす」
カイルの声だ。間違いない。だが、その瞳にはかつての温厚さはなく、冷酷な選別者の光が宿っている。
彼はあろうことか、俺たちがいた納屋の方へと視線を向けた。
「隠れているのは誰だ。出てこい」
ルナが息を呑み、俺の背中に隠れる。彼女の角の跡は、歴史改変の「残り滓」だ。見つかれば即座に処刑されるだろう。
俺は錆びついた斧を握り直した。
「待ってろ」
「……アーク、無理だよ。今の貴方じゃ……!」
ルナの制止を無視し、俺は表へ出た。
カイルの鋭い視線が俺を貫く。彼は俺の顔を一瞥したが、そこに「再会」の驚きは微塵もなかった。
「……ただの村人か。その斧を捨てろ。不快だ」
カイルが腰の剣を引き抜く。それは、かつて俺の右腕であった証として、俺が彼に託した聖騎士団の象徴――白銀の長剣『レギルス』だった。
剣尖が俺の喉元を指す。
「ひざまずけ。貴公のような者が魔王様の平和を乱すのだ」
俺は動かなかった。膝を折る方法など、もう忘れてしまった。
代わりに、右足を半歩引く。重心を落とし、肺の底に溜まった熱を一点に集める。
魔力はない。スキルも死んだ。
だが、千回、万回と繰り返した「最適の踏み込み」は、魂が覚えている。
「……何をしている? 死にたいのか」
カイルが苛立ちと共に剣を突き出した。
最速の刺突。並の戦士なら反応すらできず心臓を貫かれる一撃。
――だが、遅い。
俺の身体は、思考よりも先に動いていた。
わずか数センチ、首を傾けて剣筋をかわす。同時に、踏み込んだ。
カイルの懐。無防備な脇腹に向けて、俺の「村人の拳」が突き刺さる。
「が、ふっ……!?」
鉄の鎧越しに、衝撃が彼の肺を叩く。
力任せではない。相手の勢いを利用し、骨の隙間を狙い抜く、英雄の技術。
カイルは無様に地面を転がった。周囲の騎士たちが、信じられないものを見たという顔で固まる。
「貴様……何を……」
泥にまみれたカイルが、憎悪に満ちた目で俺を睨む。
俺は痺れる拳を見つめ、静かに息を吐いた。
「……カイル。お前の突きは、まだ外側に流れる癖が治ってないな」
カイルの顔から血の気が引く。
それが、かつて彼にその癖を指摘し続けた「唯一の男」の言葉だったからだ。
だが、事態は好転しない。騎士たちが一斉に抜剣し、殺気が膨れ上がる。
「……逃げるぞ、ルナ!」
俺は背後の少女の手を掴み、森へと駆け出した。
背中を焼くような殺気を感じながら、俺は確信していた。
世界がどれだけ書き換えられようと、俺が俺であるという証明は、この拳の中に残っている。
第二話 完
第三話:魔王の娘は、涙の味を知っている
シダ植物が肌を刺す。湿った土の匂いが鼻をつく。
俺とルナは、追っ手の馬音を背後に聞きながら、死霊の森と呼ばれる禁域の深部へと潜り込んでいた。
「……はぁ、はぁ……っ、もう、無理……」
ルナが力尽きたように倒れ込む。
かつて魔族の姫として君臨していたはずの彼女の足は、泥だらけで、至るところが枝で切れていた。
俺は立ち止まり、周囲の気配を探る。騎士たちの鎧が擦れる音は遠のいたが、代わりに森特有の不気味な静寂が降りてきた。
「ルナ、足を見せろ」
「触らないで! ……貴方に、情けをかけられる筋合いなんてない」
彼女は俺の手を拒絶するように振り払った。
その瞳に宿るのは、燃えるような憎悪――ではなく、今にも崩れそうなほどの孤独だった。
俺は黙って、近くに生えていた薬草を石で潰した。英雄時代に培ったサバイバルの知識だ。
「俺を殺したいなら、せめて歩けるようになってからにしろ」
強引に彼女の足首を掴む。ルナはびくりと肩を震わせたが、もう抗う力も残っていないようだった。
冷たい薬草のペーストを傷口に塗る。彼女の肌は驚くほど白く、そして冷たかった。
「……どうして、私を助けるの?」
ルナが膝を抱えたまま、消え入りそうな声で問う。
「貴方のお父様……魔王を殺したのは、私よ。貴方にとって、私はただの仇のはずでしょう」
「ああ、そうだ。お前は魔王の娘で、俺は英雄だった男だ。本来なら、こうして隣り合って座るはずもなかった」
俺は空になった薬草の束を捨て、空を見上げた。鬱蒼とした木々の隙間から、赤い月が覗いている。
「だが、今この世界で『本当のこと』を知っているのは、俺とお前だけだ。お前がいなくなれば、俺が世界を救ったという事実も、この世から完全に消えてしまう」
それは、打算。
だが、それだけではない。
ルナの震える指先が、さっきから俺のシャツの裾を、無意識に、縋るように握っているからだ。
「……お父様は、優しかったの」
ルナがぽつりと、自分に言い聞かせるように呟いた。
「魔王なんて呼ばれてたけど、本当は、争いが嫌いだった。私に、人間が作るお菓子の話をたくさんしてくれた。……なのに、今のあの人は違う」
彼女の頬を、一筋の雫が伝う。
「王都の石像みたいに、いつも冷たく笑って、人間たちに『平和』を押し付けてる。あんなの、私のお父様じゃない。私の知ってる世界は、どこにもない……」
感情を押し殺している彼女の肩が、激しく上下した。
悲しい、という言葉は出てこない。ただ、その沈黙の重さが、彼女の喪失の深さを物語っていた。
俺は彼女の肩を抱くことも、慰めることもできない。
なぜなら、彼女の幸せを壊したのは、紛れもない俺自身だからだ。
「……ルナ。一つ、約束しよう」
俺は立ち上がり、彼女の前に手を差し出した。
英雄の証である聖剣も、奇跡を起こす魔力も、今の俺にはない。
あるのは、泥に汚れた拳と、書き換えられた不格好な運命だけだ。
「俺は、俺が英雄だった証拠を取り戻す。その過程で、お前の『本当の父親』を取り戻す方法も必ず見つけてやる」
「……そんなこと、できるわけない」
「ああ、今の俺は最弱の村人だからな。だが、歴史が俺を『無かったこと』にしようとするなら、何度でもその歴史を殴り飛ばしてやる」
ルナは涙を拭い、俺の手をじっと見つめた。
やがて、彼女は迷いながらも、その小さく冷たい手を、俺の汚れた掌に重ねた。
「……もし嘘だったら、その時は本当に貴方を呪い殺すから」
「ああ。覚えておくよ」
二人の間に、奇妙な、それでいて切り離せない「契約」が結ばれた瞬間だった。
その時、森の奥から、獣の唸り声のような不快な音が響き渡った。
歴史改変によって生み出された、この世の理から外れた化け物たちが、俺たちの存在を嗅ぎつけたようだ。
俺は腰の薪割り斧を引き抜く。
「行くぞ。ここからは、死ぬ気で走れ」
第三話 完
第四話:書き換えられた「英雄の記憶」
闇の中から現れたのは、本来この森には存在しないはずの異形だった。
狼の肉体に、腐った大樹の根が絡みついたような姿。その顔があるべき場所には、感情のない白磁の仮面が張り付いている。
「……何、これ。魔物じゃない」
ルナの声が震える。かつて魔族を統べた彼女ですら、その存在に本能的な嫌悪感を露わにしていた。
それは「歴史の修正者」。
この世界にそぐわない異物――すなわち、改変前の記憶を持つ俺たちを排除するために、世界そのものが生み出した「免疫細胞」のようなものだ。
仮面の狼が、音もなく地面を蹴った。
速い。
今の俺の動体視力では、かろうじて残像を追える程度だ。
「ルナ、伏せろ!」
俺は彼女を突き飛ばし、薪割り斧を盾にする。
ガィィン、と硬質な音が響き、斧の刃が半分から砕け散った。凄まじい衝撃が腕を伝い、肩の骨が軋む。
「っ……あ……!」
二撃目がくる。狙いは俺の喉笛だ。
避けられない。そう直感した瞬間、脳の奥深くで何かが熱く爆ぜた。
視界が、不自然なほどに「遅く」なる。
肺に吸い込んだ空気が、冷たい魔力の粒子となって全身の血管を駆け巡る感覚。
――違う。魔力じゃない。これは。
俺が英雄時代、無意識に行っていた呼吸法。心臓の鼓動を意図的に制御し、神経の伝達速度を限界まで引き上げる『縮地』の予備動作だ。
身体が、悲鳴を上げている。
今のなまりきった村人の肉体でこれを行えば、筋肉が断裂しかねない。
だが、俺の魂が叫んでいた。
――止まるな。俺は、アークだ。魔王を穿った、ただ一人の英雄だ。
「……はぁっ!」
俺は砕けた斧の柄を捨て、あえて仮面の狼の懐へと飛び込んだ。
狼の爪が俺の肩を浅く裂く。熱い血が飛ぶ。
だが、その痛みさえも、加速した意識の中では遠い出来事のようだった。
俺は、右拳を固く握る。
狙うのは仮面の中心。この世界の理が集中している一点。
「……『一ノ型・空断』」
魔力は乗っていない。だが、踏み込みの速度と、腰の回転、そして拳を叩きつける瞬間のわずかな「捻り」。
英雄時代に数万回繰り返したその型は、肉体の限界を超えて、物理法則をねじ伏せた。
ドォォォォォン!
衝撃波が森の木々を揺らす。
仮面の狼は、その白磁の顔面ごと粉砕され、霧のように霧散していった。
静寂が戻る。
俺は、膝から地面に崩れ落ちた。
右腕の感覚がない。全身の毛細血管が切れたように、肌の至るところから血が滲んでいる。
「アーク……!?」
ルナが駆け寄ってくる。彼女の目に映っているのは、英雄への畏怖ではない。ボロボロになった一人の少年への、言葉にならない動揺だ。
「……あ、あはは……。たった一発で、これかよ……」
俺は仰向けに倒れ、赤い月を見上げた。
笑いが止まらなかった。
身体はボロボロだ。指一本動かすのも億劫だ。
けれど、確かに感じた。
歴史を書き換えられようと、スキルを奪われようと、俺が積み上げてきた「技術」だけは、この魂に刻み込まれている。
それは、神にも、黒幕にも、決して奪えない唯一の武器だ。
「……ルナ。俺の勝ちだ」
俺は、震える左手で、彼女の汚れた指先を軽く叩いた。
彼女は、何かを言おうとして口を噤み、ただ黙って、俺の傷だらけの右手を自分の両手で包み込んだ。
その温かさだけが、今の俺が生きているという唯一の証明だった。
第四話 完
第五話:元・仲間の冷たい視線
森の出口は、深い霧に包まれていた。
右腕を吊り、足を引きずりながら歩く俺を、ルナが肩を貸して支えている。
「……重い。やっぱり置いていけばよかった」
「悪いな。村人Aの割に、骨格だけは英雄並みなんでね」
軽口を叩きながらも、俺の視線は霧の向こうにある一点を射抜いていた。
そこには、異様な「圧」が立ち込めている。
ルナが足を止めた。その小さな身体が、見たこともないほど激しく震え出す。
「アーク……あれ……」
霧を切り裂いて現れたのは、一人の女だった。
しなやかな肢体を包む藍色の軽装鎧。腰には二振りの小太刀。
流れるような黒髪をポニーテールにまとめ、切れ長の瞳をさらに細めてこちらを見つめている。
「――見つけたわ。歴史を汚す、不浄の鼠を」
その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
セツナ。
かつての俺のパーティーで、偵察と隠密工作を担っていた「影の立役者」。
そして、俺が背中を預け、誰よりも信頼していた――元・恋人だ。
彼女の瞳には、かつて俺に向けていた慈愛も、共に死線を越えた情熱も、欠片すら残っていない。
あるのは、害悪を駆除しようとする義務感と、底冷えするような軽蔑だけ。
「セツナ……。お前まで、俺を忘れたのか?」
俺の問いに、彼女は微かに眉をひそめた。
「馴れ馴れしく私の名を呼ぶな。……驚いたわ。ただの村人と聞いていたけれど、その目は、まるで戦場を知る者のそれね」
彼女が小太刀を抜く。
抜刀の予備動作がない。かつて俺が彼女に教えた、無拍子の構え。
その刃が、迷いなく俺の喉元へと突き出される。
「待って! 彼は……!」
ルナが前に出ようとするのを、俺は左手で制した。
「下がってろ。……セツナ。お前、その刀の重心、少し右に寄ってるぞ。昔の癖が出てきている」
セツナの動きが一瞬、止まった。
その隙を突き、俺は半歩踏み込む。
だが、今の俺に攻撃する力はない。ただ、彼女の小太刀の柄に、そっと指を触れただけだ。
それは、かつて修行の合間に、彼女の癖を直すために何度も繰り返した「合図」だった。
「っ……!?」
セツナは弾かれたように飛び退いた。
彼女の瞳に、激しい混乱が走る。
彼女の脳内にあるはずのない「記憶」が、身体の感覚として疼き、論理を乱しているのだ。
「何をした……? 今の、この感覚は……何なの……」
彼女は自分の手首を掴み、吐き捨てるように言った。
呼吸が乱れ、剣尖が微かに震えている。
「セツナ。俺は、アークだ。お前と一緒に魔王を――」
「黙れ!!」
彼女の叫びが、霧を吹き飛ばした。
彼女の瞳に、暗い火が灯る。それは拒絶の炎だった。
「魔王様は、この世界の救世主。それを討つなどとほざく狂人は、万死に値する!」
セツナの全身から、濃密な殺気が噴き出す。
それはかつて、敵対する魔族にのみ向けられていた、本物の殺意。
俺は奥歯を噛み締めた。
歴史改変は、記憶を奪うだけじゃない。
共に積み上げた「絆」を、そのまま「殺意」に変換して俺にぶつけてくるのだ。
「……無理だよ、アーク。もう、彼女は……」
ルナが悲痛な声を上げる。
俺は、震える右腕をゆっくりと下ろした。
痛みはもう感じない。ただ、胸の奥が、氷を詰め込まれたように冷たくなっていく。
「わかってる」
俺は、セツナの冷たい視線を正面から受け止めた。
「言葉じゃ届かないなら、力ずくで思い出させてやる。セツナ、お前を救い出すのは、世界を救うより骨が折れそうだ」
俺は腰に残った砕けた斧の柄を握りしめた。
元・仲間の、かつての恋人の、命を賭けた否定。
それを叩き潰さなければ、俺の「英雄」は始まらない。
第五話 完
第六話:最弱の身体に眠る、最強の呼吸
空気が凍りついた。
セツナの構えが、視覚から消失する。
次の瞬間、俺の頬に熱い線が走り、一拍遅れて血が噴き出した。
「――避けた?」
セツナの困惑に満ちた声。彼女は俺の背後に立っていた。
本気で首を撥ねにいって、わずかに皮膚を掠めるに留まった事実が、彼女のプライドを逆撫でしたらしい。
「今の私についてこれる人間なんて、騎士団長のカイル様くらいのはず……。貴様、本当にただの村人なの?」
「……さあな。ただ、お前の足運びが、あまりに教科書通りで読みやすかっただけだ」
俺は荒い呼吸を整え、肺の奥を意識する。
全身の節々が、限界を告げる警報を鳴らしている。
魔力による身体強化は使えない。だが、人間の身体には、まだ開かれていない「予備の動力」がある。
心拍数を意図的に引き上げ、血流の爆発的な循環によって筋肉の出力を強制的に高める――禁忌の呼吸法、『雷鳴肺』。
英雄時代、俺が最後の一撃を放つためだけに編み出した、文字通り命を削る技だ。
「……アーク、やめて! 死んじゃう!」
ルナの悲鳴が耳に届く。
彼女には見えているのだろう。俺の肌が異常に赤熱し、毛穴から蒸気が立ち上り始めているのを。
「いいわ。その小賢しい技術ごと、切り刻んであげる」
セツナの姿が再びかき消える。
今度は一撃ではない。八方から迫る、死の連撃。
右、左、右上、背後。
銀光が網の目のように俺を包み込む。
俺は斧の柄を、盾には使わなかった。
――目を閉じる。
音を聞くのではない。空気の震え、セツナが踏み込んだ瞬間の土の悲鳴を感じ取る。
「そこだ」
心臓がドクンと跳ねた。
加速した世界の中で、セツナの小太刀が、まるで泥の中を進むように遅く見える。
俺は最小限の動きで、彼女の太刀筋の内側――死角へと潜り込んだ。
肉体がミシミシと音を立てる。肺が焼ける。
だが、俺の右拳は、吸い込まれるようにセツナの腹部に吸い付いた。
「っ、が……っ!?」
衝撃が彼女の正中線を貫く。
力ではない。彼女自身の突進力と、俺の最小の転換。
セツナの身体が、弓なりに折れて後方へと吹き飛んだ。
彼女は木々に衝突し、小太刀を一本取り落としながら地面に伏した。
「はぁ、はぁ……っ、ぐ……」
俺は吐血した。
視界が赤く染まる。右腕の筋肉が、数本断裂したのが分かった。
村人の肉体で『雷鳴肺』を使うのは、やはり無謀だった。
だが、セツナはまだ動けるはずだ。
彼女はふらふらと立ち上がり、信じられないものを見る目で俺を凝視した。
その瞳の奥に、かつての記憶の断片が火花を散らす。
「……今の……カウンター……。ありえない……。それは、私がかつて……」
彼女が額を押さえ、苦悶に顔を歪める。
書き換えられた歴史と、肉体に刻まれた「アークとの鍛錬の記憶」が、激しく衝突している。
「セツナ……。思い出せ……。俺が、お前に教えたんだ……」
俺が手を伸ばそうとした、その時。
空から、巨大な「黒い矢」が降り注いだ。
セツナと俺の間に突き刺さったそれは、地面を抉り、黒い煙を噴き上げる。
「――そこまでだ。不完全な修正対象よ」
上空。
そこには、黒い翼を広げた「魔族の近衛兵」たちが浮遊していた。
彼らが手にしているのは、歴史の歪みを焼き払う『因果の灯火』。
セツナは茫然と空を見上げ、俺はルナの腕を掴んだ。
「ちっ……。セツナ! 生き延びろよ! 次こそは、その曇った目を叩き直してやる!」
俺は混乱するセツナを残し、再びルナを連れて森の深部、さらなる逃亡へと足を踏み出した。
駆け出す寸前、俺の視界の端に「ある物」が映った。
先ほど魔族が放った『黒い矢』の爆撃によって抉り出された土の中から、半ば折れ、赤茶けて錆びついた「一振りの剣」が突き出していたのだ。
それはかつての戦争の遺物か、あるいは歴史の修正によって埋没させられた残骸か。
だが、今の俺には「鍬」よりも「斧」よりも、手に馴染む形状の鉄が必要だった。
「……こいつを借りていくぜ」
俺は走り抜けざまにその『錆びた鉄くず』を土から引き抜き、腰に差し込んだ。
意識が遠のく中、俺は確信していた。
セツナの瞳は、最後に揺れた。
歴史は、まだ完全じゃない。
第六話 完
第七話:「お前は、誰だ?」
意識が、粘りつくような闇の中に沈んでいた。
自分の心臓の音が、遠くで鳴る警鐘のように聞こえる。
『雷鳴肺』の代償は重い。全身の筋肉が剥離し、血管が熱を帯びて破裂寸前だ。
「……死なないで。お願い、目を開けて」
頬に、冷たく湿った感触。ルナが布で俺を拭っているらしい。
無理やり瞼を押し上げると、そこは湿った洞窟の隅だった。焚き火の微かな明かりが、ルナの不安げな横顔を照らしている。
「……セツナ、は……」
「逃げたよ。空から降ってきた黒い連中に、彼女も連れて行かれたみたい……」
ルナが震える手で、俺に水を含ませる。
俺は痛む体を無理やり起こした。視界が激しく揺れる。
セツナを救い出すどころか、自分を保つのさえ精一杯だ。この「村人の体」の限界値は、俺の想像よりもずっと低い。
「アーク、もうやめようよ。世界全部が敵なんだよ? かつての仲間だって、貴方を殺そうとしてる」
ルナの声が、洞窟の壁に虚しく反響した。
「……お父様が魔王だった世界の方が、まだマシだった。みんなが私を憎んで、貴方が私を追ってくる……それだけの方が、ずっと分かりやすかった……」
彼女は膝に顔を埋めた。
歴史改変は、絆を壊すだけじゃない。人の心の拠り所さえも、汚泥のように塗り潰していく。
その時、洞窟の奥から、乾いた足音が響いた。
「ほほう……『雷鳴肺』を村人の体で使う馬鹿が、まだ生きていたとはな」
ルナが悲鳴を上げて俺の背後に回る。
暗闇の中から現れたのは、ボロボロのローブを纏った、片目の老人だった。
その手には、杖代わりにした歪な形の黒い剣。
俺はその「剣」に見覚えがあった。かつて俺が、魔王軍の軍師から奪い、ある男に託したはずの呪物。
「……ブラドか?」
老人は動きを止めた。唯一残った眼を細め、獲物を鑑定するように俺を凝視する。
「ほう。その名を呼ぶか。だが、俺の知るブラドは、英雄アークと共に果てたはずの男だ」
ブラド。かつて「賢者」と呼ばれ、俺の師でもあった男。
彼は俺の前に跪くと、無造作に俺の胸ぐらを掴み、その瞳の奥を覗き込んできた。
「記憶を弄られ、体を書き換えられ、運命の糸を千切られた惨めな亡霊め」
ブラドの手が微かに震えている。
彼は突き放すように俺を離すと、地面に唾を吐いた。
「言え。お前は、誰だ?」
俺は、震える脚で立ち上がった。
ルナが支えようとするのを手で制し、まっすぐにブラドを見返す。
名前なんて、もう意味をなさないかもしれない。
今の俺は、カイルにとっては侵入者で、セツナにとっては大罪人で、この老いぼれた賢者にとっては亡霊だ。
だが。
「……アークだ。魔王を殺し、世界を救い――そして今日、元仲間の腹を殴った、最低の英雄だよ」
ブラドは一瞬、呆然とした顔をした後、枯れ木のような声を上げて笑い出した。
「くく……、あっははは! 違いない! その傲慢な物言い、間違いなくあのクソガキだ!」
笑いながら、彼はボロボロのローブを脱ぎ捨てた。
その背中には、大きな「欠落」があった。歴史の修正によって、無理やり消された翼の跡。
「待っていたぞ、アーク。世界が嘘をつき始めてから、俺はずっとこの時を待っていた」
ブラドは黒い剣を俺の足元に投げ出した。
「準備をしろ。歴史の裏側を暴きに行く。――まずは、お前の記憶に眠る『本当の戦場』を掘り起こすことからだ」
第七話 完
第八話:村人の少年と、死霊の森
「歴史の修正力にも、『穴』はある」
ブラドは腐った切り株に腰掛け、濁った瞳で森の深淵を指差した。
死霊の森。そこは常に霧が立ち込め、生者の記憶が吸い取られると言われる禁域だ。だが、ブラドの説は違った。記憶が消えるのではない。ここが「世界のゴミ箱」だから、整合性が取れなくなった事実が捨てられているだけだという。
「アーク、お前の聖剣『エターナル』は、歴史改変で消滅したことになっている。だが、お前が魔王を斬ったという『事実』そのものは消せない。世界はその事実を、この森のどこかに隠蔽したはずだ」
「……ゴミ箱の中に、俺の剣があるってことか」
俺は右腕の痛みを堪え、ブラドが投げ出した黒い剣――呪剣『モルス』を拾い上げた。
重い。物理的な重さではない。怨念が腕に絡みついてくるような、不快な圧迫感だ。
「待って、アーク! その剣は……!」
ルナが悲鳴に近い声を上げる。彼女には見えるのだろう。剣から立ち上る、どす黒い魔力の奔流が。
「今の貴方の体じゃ、その呪いに焼き殺されるわ。お願い、行かないで……」
「大丈夫だ。呪いなんてのは、要するに『強い思い込み』だろう?」
俺はルナの頭に軽く手を置いた。彼女の髪は、湿った森の空気で少しだけ冷たくなっていた。
「英雄だった頃の俺なら、こんなもの目もくれなかった。だが、今は村人なんだ。泥水だろうが呪いだろうが、飲み干して力に変えるさ」
俺は一人、霧の中へと足を踏み入れた。
数歩進むだけで、背後のブラドとルナの気配が完全に消える。
視界を遮るのは、白く濁った霧と、不自然にねじ曲がった樹木だけ。
――ガサリ。
背後で音がした。
振り向いた瞬間、視界が「過去」に塗り潰される。
『アーク! 早くしろ、魔王の防壁が解けるぞ!』
カイルの声。隣を走るのは、まだ笑顔があった頃のセツナ。
かつての最終決戦の情景が、ホログラムのように周囲に展開される。だが、それは美しい思い出ではない。
触れようとすると、彼らの顔がノイズのように歪み、ドロドロとした黒い液体に変わっていく。
「……幻覚か」
歴史の修正力が、俺の精神を「正しい記憶(嘘)」で上書きしようと襲いかかってくる。
俺は呪剣『モルス』を地面に突き立て、意識を一点に集中させた。
感情を殺せ。
懐かしさも、怒りも、喪失感も、すべては「今」を止めるための重りだ。
「俺が欲しいのは、思い出じゃない。……奪われた『証』だ!」
叫びと共に、俺は呪剣を振り抜いた。
黒い斬撃が霧を切り裂く。
その向こう側、森の最深部にある巨大な逆さ杉の根元に、それはあった。
光を失い、錆びつき、まるで数百年放置されたかのような無惨な姿。
だが、その柄の形状、刀身に刻まれた「世界を救う」という誓いの銘。
間違いなく、俺の半身だった聖剣だ。
俺が駆け寄ろうとした時、杉の影から、巨大な「仮面の化け物」が這い出してきた。
前回の狼とは比較にならない。複数の人間の腕が絡み合い、蜘蛛のような形を成した、歴史の守護者。
俺は呪剣を構え直し、奥歯を噛み締めた。
右腕の筋肉が再び悲鳴を上げる。
だが、目の前には俺の「誇り」が転がっている。
村人の拳では届かなくても、この呪いと心中してでも、あの一本を掴み取る。
「……来いよ。ゴミ掃除の時間だ」
第八話 完
第九話:かつての愛剣、今の鈍鉄
腕が、内側から爆ぜそうだった。
左手に握った呪剣『モルス』から、ドロりとした負の感情が血管に流れ込んでくる。絶望、怨嗟、自己嫌悪。それらが泥流となって脳を焼き、俺という人格を村人の殻ごと握り潰そうとしていた。
「……っ、が……あぁぁ!!」
叫びを上げることで、辛うじて理性を繋ぎ止める。
目の前では、無数の「腕」で構成された蜘蛛型の守護者が、その指先から歴史の修正力……黒い雷を放とうとしていた。
逃げ場はない。
俺は一歩、泥濘を蹴った。
最弱の肉体に、呪剣の狂気を強引にブーストとして流し込む。
心臓が早鐘を打ち、視界が真っ赤に染まる。
化け物の「腕」が、鞭のようにしなって俺を打ち据えにきた。
本来なら、その一撃で俺の骨は粉々に砕けていたはずだ。
だが、俺は呪剣を盾にせず、あえてその「腕」を左肩で受けた。
「アーク!」
霧の向こうからルナの悲鳴が聞こえる。
左肩の肉が削げ、鮮血が舞う。だが、その激痛こそが、呪いの毒に沈みかけていた俺の意識を現実へと引き戻した。
俺は止まらない。
止まるわけにはいかない。
守護者の股潜りを抜け、死に物狂いで逆さ杉の根元――「それ」に手を伸ばした。
指先が、冷たい鉄に触れる。
瞬間、頭の中に凄まじい「拒絶」の波動が走った。
『――不浄ナリ。其ハ、名モ無キ村人。英雄ノ剣ニ触レル資格ナシ』
聖剣『エターナル』の残滓が、俺を他人として認識し、弾き飛ばそうとする。
歴史改変は、剣に刻まれた契約さえも書き換えていた。今の俺は、聖剣にとって主ですらない。
「……ハ、笑わせるな」
俺は、弾き飛ばされそうになる指を、血が滲むほど強く柄に食い込ませた。
「他人が決めた名前なんてどうでもいい。……この剣筋を、お前は忘れたっていうのか!」
俺は左手の呪剣を捨て、両手で「錆びた鈍鉄」を掴み取った。
守護者が巨大な腕を振り上げ、俺を圧殺しようと振り下ろす。
死の影が俺を覆った。
俺は目を閉じ、ただ一点――魔王を斬ったあの瞬間の、腕の角度、呼吸、踏み込みの深さを再現した。
「……思い出せ。俺は、ここ(魂)にいるぞ」
キィィィィィィン!!
錆びついた刀身が、微かに震えた。
それは輝かしい光の奔流ではない。
ただ、歴史の修正という「壁」を、内側から強引に抉じ開けるような、鈍い、だが重厚な一撃。
振り下ろされた蜘蛛の腕が、俺に触れる直前で真っ二つに裂かれた。
守護者の仮面が砕け、断末魔のない絶叫が霧を震わせる。
俺の手の中には、依然として錆びたままの、輝きを失った剣がある。
けれど、その重みだけは、確かに俺の知る「英雄の証」だった。
「……はぁ、はぁ……」
俺は剣を杖代わりに、立ち上がる。
全身の傷口が痛み、視界は最悪だ。
だが、俺は確かに掴み取った。歴史という嘘に抗うための、唯一の「真実」を。
霧の向こうから駆け寄ってくるルナの足音を聞きながら、俺は錆びた剣を強く握り直した。
「……次は、もっと高くつくぞ。俺の歴史を盗んだツケはな」
第九話 完
第十話:歴史の歪み、その最初の破断点
手の中にあるのは、かつての威光を失った、ただの「鉄の棒」に等しい。
錆びつき、刃こぼれした聖剣『エターナル』。
だが、ルナが差し出した震える指先がそれに触れた瞬間、パチリと小さな火花が散った。
「……痛い。この剣、泣いてるみたい」
「泣く? 剣がか」
「拒絶されてるの。世界そのものに、『お前は存在しないはずだ』って、ずっと否定され続けてる」
ルナの言葉に、ブラドが鼻で笑いながら近づいてきた。彼は俺の持つ錆びた剣を一瞥し、深く刻まれた眉間のシワをさらに深くした。
「当然だ。その剣は、歴史の整合性を壊す『猛毒』そのものだからな」
ブラドは地面に枯れ枝で円を描き、その中心に点を打った。
「アーク、お前が魔王を討ったあの日。そこで歴史は二つに割れた。本来ならお前が英雄として称えられるはずの『正史』。そして、今俺たちが立っている、魔王が救世主として君臨する『偽史』だ」
「誰がそんな書き換えをしたんだ。神か?」
「神かもしれんし、単なる世界のバグかもしれん。だが、決定的なのは『破断点』の存在だ」
ブラドは枝を強く押し付け、円の境界を抉った。
「歴史が書き換わるには、必ず起点となる事件がある。この偽史における最初の矛盾――それが起きた場所へ行き、その歪みを正さない限り、お前の体もその剣も、いずれ消滅する」
消滅。その言葉の響きに、ルナの顔が青ざめた。
「……消えるって、アークが?」
「世界が『間違い』を修正し終えれば、端役(村人)に紛れ込んだ英雄の魂など、塵も残らず拭い去られるだろうな」
ブラドの視線は冷酷だった。だが、その瞳の奥には、俺を煽るような熱が灯っていた。
「最初の破断点は、この北にある『静寂の聖域』だ。かつてお前が、仲間たちと最初に魔王軍の幹部を倒した場所……。あの日、あの場所で起きたことが、今と違う形に書き換えられている」
静寂の聖域。
あそこで俺たちは、絶体絶命の窮地を、カイルとセツナとの完璧な連携で切り抜けたはずだ。
もし、あの日、俺たちの絆が壊れるような「結果」に書き換えられていたとしたら。
「……行くしかないな」
俺は錆びた剣を、ボロボロの布で腰に括り付けた。
身体はまだ重い。一歩歩くごとに、内臓を掴まれるような違和感が走る。
だが、腰にある「鉄の重み」だけが、俺をこの世界に繋ぎ止めていた。
「アーク、待って」
ルナが、俺のボロいシャツの袖を掴んだ。
「……もし、歴史を元に戻したら。お父様は、また貴方に殺されるの?」
彼女の問いは、鋭く俺の胸を刺した。
正史に戻れば、俺は英雄になり、彼女は「討たれた魔王の娘」に戻る。
再び、憎しみ合う関係へ。
俺は、彼女の悲しげな瞳を見つめ、短く答えた。
「……分からねえ。だが、今の『操り人形』の父親を見て、お前は笑えるのか?」
ルナは唇を噛み、ゆっくりと首を振った。
「……行こう。私も、本当のことが知りたい」
夜明け前の青白い光が、森の出口を照らし出す。
俺たちは、自分たちの存在を否定する世界へと、再び歩みを進めた。
この先に待つのは、かつての栄光か、それとも救いのない絶望か。
錆びた剣を握る右手の感覚だけが、妙に冴え渡っていた。
第十話 完
第十一話:少女の願いは、呪いと同じ重さで
森を抜け、北へと続く街道に出た頃、ルナの様子に異変が起きていた。
彼女の額にある、かつて角があったはずの「痕」が、どす黒い紫色の光を放ち、脈動していた。
「……っ、アーク、あつい……頭の中が、ぐちゃぐちゃになる……」
ルナがその場に膝をつく。彼女の呼吸に合わせて、周囲の草木が不自然に枯れ、地面には霜が降りた。
ブラドが険しい顔で彼女の背後に回り、その小さな背中に手をかざす。
「……歴史の強制力だ。魔王の娘という『設定』が、彼女の中に無理やり魔力を流し込もうとしている。だが、彼女の心(魂)がそれを拒絶しているせいで、魔力が暴走し始めておるな」
「魔力なんて……いらない……! こんな力があるから、お父様は……!」
ルナが叫ぶと同時に、彼女の影が爆発的に膨れ上がった。
影は意志を持つ触手のようにのたうち回り、街道の石畳を粉砕する。
これが、魔王の血筋に眠る真の力。今の彼女にとっては、己を壊す毒でしかない。
「アーク、離れてろ! 彼女に飲み込まれるぞ!」
ブラドの警告を無視し、俺は影の奔流の中へと踏み込んだ。
鋭い影の棘が俺の腕を切り裂く。だが、俺は止まらない。
英雄時代、俺は幾多の魔族と戦ってきた。だからこそ知っている。魔力は、その持ち主の感情に寄り添うものだということを。
今の彼女の魔力がこれほどまでに痛々しいのは、彼女自身が「誰かに止めてほしい」と切望しているからだ。
「ルナ!」
俺は暴れる影を強引に掻き分け、彼女の冷え切った身体を抱き寄せた。
凄まじい衝撃が俺の肋骨を軋ませる。村人の薄い胸板では、彼女の魔力の波に耐えきれず、視界が白く点滅した。
「放して……! 貴方まで、壊れちゃう……!」
「壊れるかよ。俺は最弱の村人なんだ。これ以上失うものなんて、何もないんだよ」
俺は彼女の耳元で、静かに、だがはっきりと告げた。
「その力を嫌うな。……お前の父親が、お菓子をくれたその手で、お前を守るために遺した力だろう。呪いにするか、願いにするか……お前が決めろ」
ルナの目から、大粒の涙が溢れ出した。
瞬間、暴れ狂っていた影が凪のように静まり、彼女の周囲に柔らかな闇の衣となって溶け込んだ。
額の痕から光が消え、彼女は俺の胸の中でぐったりと力なく崩れる。
「……ずるいよ。貴方は……いつも、勝手なんだから……」
消え入りそうな声で、彼女はそう呟いた。
ブラドがやれやれと首を振り、歩み寄ってくる。
「命知らずめ。だが……これで彼女も『力』の扱いを覚えた。これからの戦い、お前の錆びた剣だけでは到底足りんからな」
「……ああ、助かったよ、ルナ」
俺は彼女を背負い、再び歩き出す。
その時、俺の腰にある『錆びた鉄くず』が、ふわりと持ち上がったルナの魔力の残滓を吸い込み、不気味に共鳴した。
ギチッ、と嫌な音が鳴る。
ただの折れた鉄塊だった剣の表面に、ルナの影の力に呼応するように、まるで血管のような「赤黒い紋様」がジリジリと浮かび上がり、鉄そのものが脈動を始めたのだ。
それは聖剣の輝きとは対極にある、泥臭く、執念深い、呪いにも似た変質だった。
アークは一瞬、腰の重みの変化に目を見張ったが、すぐに口元を緩める。
「いいぜ……。お前も一緒に、この少女の『呪い』を背負ってくれるんだな」
彼女の重さは、呪いよりもずっと軽かった。
だが、その背中で眠る少女の寝息は、俺がこの世界で守り抜かなければならない「最初の責任」として、ずっしりと心に響いていた。
街道の先、最初の目的地である『静寂の聖域』が、霧の向こうにその鋭い尖塔を覗かせていた。
第十一話 完
第十二話:騎士団長となった「親友」の剣
『静寂の聖域』。
かつて俺たちが魔王軍の猛攻を凌ぎ、反撃の狼煙を上げた白亜の神殿は、今や黒い蔦に覆われ、不気味な静寂に支配されていた。
その中央広場、かつて俺と彼が「背中を任せ合う」と誓ったその場所に、一人の男が立っていた。
「……遅かったな、不浄の輩よ」
白銀の鎧を月光に光らせ、カイルがゆっくりと振り返る。
その傍らには、十数人の精鋭騎士たちが整列し、一斉に抜剣した。その規律正しさは、かつての義勇軍のような自由さを完全に削ぎ落とした、冷徹な軍隊のそれだった。
「カイル。ここが『破断点』なんだな。あの日、ここで俺たちが勝ったはずの戦いが、別の何かに書き換えられている」
俺の言葉に、カイルは感情を排した瞳で俺を見据えた。
「何を言っている。ここは、偉大なる魔王様がこの地に慈悲を授け、私に『正義』を教えた聖地だ。……お前のような狂人が、聖なる静寂を汚すことは許されない」
カイルが右手を挙げる。
彼の手にあるのは、俺がかつて彼に贈った聖剣『レギルス』。
本来、邪悪を払うはずのその剣は、今やどす黒い「法の魔力」を纏い、威圧的な光を放っている。
「カイル様、ご命令を。この村人を処刑いたしますか?」
副官が問う。だが、カイルはそれを手で制した。
「……いや。私の肌が、この男を殺せと騒いでいる。騎士団長自ら、この歴史のバグを排除する」
カイルが一歩、踏み出す。
その瞬間、大気が爆ぜた。
速い――なんてレベルじゃない。セツナの速度とは質の違う、重戦車が弾丸の速度で突っ込んでくるような絶望的な突進。
「ルナ、ブラド、下がれ!」
俺は錆びついた聖剣を鞘ごと盾にする。
ガギィィィィィィィン!!
凄まじい火花が散り、俺の体は数十メートルも後方へと弾き飛ばされた。
石畳が削れ、両腕の骨が軋む音を立てる。
「……く、っ……」
「無意味だ。村人の筋肉で、私の神速を受け止められるはずがない。……死ね、アーク」
カイルの剣が、処刑人の冷徹さで振り下ろされる。
俺は、震える手で錆びた剣の柄を握り直した。
カイル。お前が信じているその「正義」が偽りだとしても、その剣の鋭さだけは本物だ。
ならば、俺も本物で応えるしかない。
俺は、肺の奥で『雷鳴肺』の火を灯す。
今の俺は最弱だ。だが、お前の剣筋を世界で一番知っているのは、歴史を書き換えられた俺だけだ。
「……見せてやるよ。俺たちが、本当はどうやって戦っていたのかをな」
俺は、振り下ろされる『レギルス』の刃に向かって、自ら首を差し出すように踏み込んだ。
第十二話 完
第十三話:証明できない真実
カイルの『レギルス』が、俺の首筋を断たんとして迫る。
死の影が網膜を焼く瞬間、俺はあえて剣を抜かず、鞘のままカイルの懐へと潜り込んだ。
「死に急いだか、ネズミが」
カイルの冷徹な声。だが、その直後、彼の動きにわずかな「淀み」が生じた。
俺が踏み込んだ位置――そこは、かつて彼が右脇腹に負った古傷を庇う際、どうしても生じてしまう数ミリの死角だった。
歴史が書き換えられ、その傷が「無かったこと」になっていたとしても、彼の魂に染み付いた回避行動の癖までは消し去れていない。
ガッ、と鞘の先端がカイルの鳩尾を突く。
「なっ……!?」
カイルの剣筋が大きく逸れ、神殿の太い柱を容易く両断した。
俺は息をつく暇も与えず、彼の足首を払い、さらにその背後へと回り込む。
「……お前は、右からの連撃のあと、必ず左重心で踏みとどまる。無意識にな」
「貴様、何を……!」
カイルが振り向きざまに横一文字に薙ぐ。
俺はそれを紙一重で、膝を折ってかわした。
脳が焼ける。血管が悲鳴を上げている。だが、加速した意識の中で、俺は彼に語りかけ続けた。
「思い出せ、カイル! 三年前、この神殿で魔王軍の軍団長に追い詰められた時、お前を突き飛ばして身代わりになったのは誰だ!」
「黙れ! 私は魔王様の恩寵により、無敗の騎士として今日まで歩んできた!」
「嘘をつけ! お前のその左の籠手、内側に小さな傷があるはずだ。それは俺が修行中、木刀を滑らせて付けた傷だ!」
カイルの動きが止まった。
彼は弾かれたように自分の左腕を見る。
そこには、歴史改変で美しく磨き上げられた白銀の装甲があるだけだ。傷など、どこにもない。
「……そんなものは、無い。私の記憶にも、この現実にも!」
「肉眼で探すな! 心で思い出せ!」
俺は錆びた聖剣を、ついに引き抜いた。
光はない。ただのボロ布を巻いたような、不格好な鉄。
だが、その刃をカイルの剣と噛み合わせた瞬間、甲高い音が聖域に響き渡った。
キィィィィィィン――。
その音は、かつて俺たちが剣を交え、互いの技を磨き合ったあの日々の旋律だった。
「……あ、が……っ!?」
カイルが額を押さえ、激しくよろめいた。
彼の脳裏に、今の「正しい歴史」には存在しないはずの光景がフラッシュバックしている。
泥にまみれ、笑い合い、共に不味い飯を食った、名もなき義勇兵たちの記憶。
「やめろ……。私の頭の中に、汚らわしい偽物を流し込むな!」
カイルの全身から、黒い魔力の波動が爆発的に膨れ上がった。
歴史の修正力が、彼の混乱を鎮めるために、より強力な「洗脳」を上書きしようとしている。
彼の瞳から光が消え、機械的な殺意が宿る。
「排除……対象……。歴史の……敵……」
カイルの構えが変わる。それはもう親友の剣ではない。
世界そのものが俺を殺すために振るう、処刑の刃だ。
俺は唇を噛み切り、鉄の味を噛み締めた。
言葉は届かない。証拠もない。
なら、この錆びた剣で、彼の「偽りの正義」を叩き割るしかない。
第十三話 完
第十四話:スキルなし、だが経験はある
カイルの全身から噴き出す魔力が、物理的な圧力となって俺の肺を圧迫する。
かつての彼は、光の加護を武器にする「聖騎士」だった。だが今の彼は、歴史のバグを消去するための「黒い断罪者」と化している。
「システム・エラー……消去、実行……」
カイルの口から、感情の死んだ機械的な声が漏れる。
彼が床を蹴った。石畳が粉砕され、衝撃波だけで俺の肌が裂ける。
速すぎる。今の俺には、彼の軌跡すら追えない。
だが、俺には視覚に頼る必要はなかった。
――カイル、お前は全力で踏み込む時、わずかに右肩が下がる。
――突進の終着点、お前は必ず最短距離で心臓を狙う。
俺は目を閉じ、錆びた剣を正眼に構えた。
「死ね」
死神の鎌のような『レギルス』の刃が、俺の胸元に吸い込まれる。
刹那、俺は半身を引いた。
避けるのではない。彼の刃が俺の服の繊維を断つその瞬間、剣の側面に自らの錆びた刀身を「添えた」のだ。
「……何っ!?」
カイルの声に驚愕が混じる。
俺は力を入れていない。ただ、彼の凄まじい突進エネルギーを、円を描くような手首の返しだけで外側へと受け流した。
かつて、魔王軍の剛腕将軍を相手に編み出した、受け流しの極意。
スキル画面には表示されない。数値化もできない。ただ俺の魂にだけ蓄積された、実戦の泥臭い知恵――『経験』だ。
勢い余ったカイルの体が、大きく前方に流れる。
その無防備な背中に、俺は錆びた剣を振り下ろそうとし――止めた。
今、彼を斬っても歴史は戻らない。
俺が狙うのは、彼の背後。この聖域の「破断点」として歪みを放ち続けている、黒い光を放つ祭壇の核だ。
「そこか……!」
俺はカイルを足場にするように跳躍した。
村人の貧弱な跳躍力を補うのは、ルナから流れてくる微かな闇の魔力。
「いっけぇぇぇ!! アーク!!」
ルナの叫びが聖域に響く。
俺は空中で、錆びた聖剣を両手で握りしめた。
今の俺には、派手なエフェクトを伴う必殺技はない。
ただ、最も効率的に、最も確実に、対象を粉砕する「一点」を見抜く目がある。
「……壊れろ、偽物の世界!」
俺の一撃が、黒い祭壇の核を捉えた。
パキィィィィィィィン!!
ガラスが砕けるような音が響き、視界が強烈な白光に包まれる。
耳鳴りの中で、俺は確かに聞いた。
カイルの、聞き慣れた、情けないほどに人間臭い悲鳴を。
「……あ、ぐ……。アーク……お前、また、無茶しやがって……」
光が収まった時、そこには立ち込めていた黒い霧が晴れ、膝をついて肩で息をする、元の瞳に戻ったカイルの姿があった。
だが、安堵する間はなかった。
聖域の周囲から、更なる「歴史の修正者」たちの気配が、黒い波となって押し寄せてくる。
「……ったく、一難去ってまた一難かよ」
俺は折れそうな足を叱り飛ばし、親友に向かって手を差し出した。
第十四話 完
第十五話:裏切り者の刻印
「……アーク、なのか。本当に」
膝をついたカイルが、震える手で俺の顔を確認するように見上げた。その瞳には、先ほどまでの機械的な冷徹さはなく、困惑と、そして懐かしさが混濁している。
「ああ。ひどい面だろう。村人の一人に数えられてるんだよ、今は」
俺が差し出した手を、カイルは掴もうとした。
だが、その指先が触れる直前。
カイルの白銀の鎧に、じわりと「黒い染み」が広がった。
「――う、あ、ああぁぁぁ!!」
カイルが絶叫し、自身の腕を掻きむしる。
鎧に刻まれていた聖騎士団の紋章が、まるで生きた毒虫のようにのたうち回り、禍々しい反逆者の烙印へと書き換えられていく。
「ブラド! これはどういうことだ!」
俺の問いに、物陰から様子を伺っていた老賢者が苦々しく吐き捨てた。
「歴史の整合性が保てなくなったのだ。正気を取り戻したカイルは、今の世界にとって『壊れた部品』に過ぎん。世界そのものが、彼を廃棄対象として再定義している!」
神殿の周囲を取り囲んでいた騎士たちが、一斉にカイルへと剣を向けた。
彼らの瞳からは、先ほどまでの「団長への敬意」が完全に消失している。
「……対象、カイル。聖騎士団長から、一級大罪人へ変更」
「処刑を開始する。魔王様の平和を乱す不純物を排除せよ」
かつての部下たちが、感情のない声で宣告する。
それは、数分前までカイルが俺に浴びせていたものと同じ、冷たい拒絶。
「……そうか。俺も、お前と同じ側に来ちまったんだな、アーク」
カイルは自嘲気味に笑い、烙印の痛みに耐えながら立ち上がった。
彼の持つ『レギルス』は、主の反逆と共に光を失い、死鉄の色に変色している。
「ああ。歓迎するよ。居心地は最悪だが、自由だけはあるぜ」
俺は錆びた聖剣を構え、カイルと背中を合わせる。
村人と、大罪人の騎士。
かつての英雄コンビは、今や世界中から追い回される最悪の手配犯となったわけだ。
「ルナ、ブラド! こいつらは俺たちが食い止める。その隙に脱出路を確保しろ!」
「でも、アーク! 貴方の体はもう……!」
「いいから行け! 俺は、こいつと肩を並べて戦う日を、ずっと待ってたんだ!」
ルナは唇を噛み、闇の衣を翻して神殿の奥へと走った。
俺とカイルは、同時に息を吐き出す。
迫り来るのは、かつての自分たちが鍛え上げた精鋭たち。
皮肉な話だ。自分たちの積み上げてきた強さが、今度は自分たちの命を刈り取るために襲いかかってくる。
「アーク。お前の言う『経験』ってやつ、俺にも少しは残ってるかな」
「安心しろ。お前の剣筋の汚さは、歴史の神様でも修正しきれてねえよ」
俺たちは同時に地面を蹴った。
英雄としての力はない。だが、背中から伝わる確かな体温が、何よりも強い力を俺に与えていた。
第十五話 完
第十六話:魔王軍の残党、英雄を嗤う
神殿の回廊は、血と鉄の匂いに満たされていた。
カイルの『レギルス』がかつての部下の剣を弾き飛ばし、俺の錆びた聖剣がその隙間を縫って鎧の継ぎ目を叩く。
「……はぁ、はぁ……っ、連携が、ガタガタだな、お前」
「黙れ……、身体が勝手に、止まってしまうんだ……っ!」
カイルの顔は苦悶に歪んでいた。かつての部下を斬る心理的抵抗ではない。彼が剣を振るうたび、その筋肉が「反逆は許されない」という世界の強制力によって縛られ、麻痺を起こしているのだ。
その時、神殿の天井が不自然なほど黒い影に覆われた。
「――ひゃははは! 見ろ見ろ! 英雄と聖騎士が、泥を啜って身を寄せ合っているぞ!」
上空から降りてきたのは、巨大なカラスのような翼を持つ怪人だった。
かつて魔王軍の軍団長の一人として、俺たちが国境付近で壊滅させたはずの男――死霊術師ザガン。
だが、今の彼に致命傷を負わせた記憶の痕跡はない。それどころか、その胸には「平和の守護者」であることを示す、魔王の聖印が輝いていた。
「ザガン……。お前、生きていたのか」
「おやおや、心外だね。私は一度も死んでいない。魔王様の慈悲によって、この地の治安を守る『親衛隊』に任命された名誉ある騎士だよ!」
ザガンが杖を振ると、神殿の床から無数の死者の腕が這い出し、俺たちの足を掴んだ。
「かつての勇者アークが、今やただの盗人村人。そして正義の象徴カイルは、裏切りの犬! これ以上の喜劇があるか?」
ザガンは指を鳴らし、俺たちの周囲に黒い魔弾を配備した。
「アーク、君のその錆びた棒切れで、何ができる? 君が守り抜いたはずの民衆は、今や君の処刑を望んでいる。君が愛した仲間は、君を忘れた。……滑稽だ、死ぬほどに滑稽だよ!」
嘲笑が神殿に反響する。
カイルが怒りに任せて跳躍しようとしたが、身体が硬直して転倒した。
「……カイル、動くな。無理に動けば神経が焼き切れる」
俺は一歩、前へ出た。
足首に絡みつく死者の腕を、錆びた剣の重みだけで断ち切る。
「ザガン。お前は一つだけ勘違いしている」
俺は、震える手で剣を正眼に構えた。
視界の端で、ルナが物陰から心配そうにこちらを見ているのが分かった。
「俺たちが滑稽なのは、今に始まったことじゃない。……俺たちはいつだって、泥を啜って、嘲笑われて、それでも最後の一撃を通してきた」
俺は『雷鳴肺』を最大出力まで引き上げる。
心臓が爆発しそうなほどの鼓動。耳の奥で、歴史が軋む音がする。
「世界がお前を『聖者』と呼ぼうが、俺の腕は、お前の薄汚い魔力の味を覚えているんだよ」
俺の瞳に、黄金の光が微かに宿った。
それはスキルによる発光ではない。魂の奥底、歴史改変の手すら届かない領域に残された、英雄の残り火。
ザガンの顔から余裕が消え、焦燥が浮かぶ。
「……殺せ! その村人を、今すぐ塵にしろ!」
黒い魔弾が一斉に俺を狙って放たれた。
第十六話 完
第十七話:再会の旋律、聖女の祈りは届かない
放たれた無数の魔弾が、俺の周囲の石床を爆砕した。
視界を覆う砂塵の中、俺は『雷鳴肺』による超加速で、弾道のわずかな隙間を潜り抜ける。肉体がミシミシと悲鳴を上げ、皮膚から噴き出した汗が蒸気となって立ち上った。
「……無駄だと言っているだろう、虫ケラが!」
空中のザガンが再び杖を掲げる。だが、その動作が完遂されることはなかった。
神殿の奥から、冷たく、澄み渡った鈴の音が響いた。
一瞬にして、ザガンの黒い魔力が雪解けのように霧散していく。
「――そこまでになさい。神聖なる学び舎で、これ以上の汚らわしい殺生は禁じられています」
整然と並ぶ騎士たちが一斉に道を開け、最敬礼で膝をついた。
奥から歩み寄ってきたのは、純白の法衣を纏い、黄金の杖を携えた女性だった。
風に揺れる銀糸の髪。慈愛に満ちた、だがどこか空虚な翡翠色の瞳。
「……リィン……」
俺の喉が、熱い塊を飲み込んだように詰まった。
リィン。かつての俺のパーティーの要であり、いかなる傷も癒やす「奇跡の聖女」。そして、俺がこの命を賭けて守り抜くと誓った、かけがえのない仲間。
だが、今の彼女は俺を見ていない。
俺の隣で喘ぐカイルや、その背後に隠れるルナにさえ、等しく「哀れみ」の視線を向けている。
「カイル様。貴方ほどの御方が、なぜこれほどまでに歴史を乱す者たちに惑わされたのですか? 嘆かわしいことです」
「リィン……違うんだ。アークは……この男は……!」
カイルの声は届かない。リィンは静かに杖を掲げた。
「その者は、アークではありません。歴史に仇なす、名もなき村人の姿をした『災厄』です」
リィンが祈りを捧げると、彼女の背後に巨大な「魔王の紋章」が浮かび上がった。
かつて彼女が神に捧げていた祈りは、今や歴史を書き換えた「魔王」へと向けられている。
彼女の放つ癒やしの光は、俺にとっては肌を焼く劇薬へと変貌していた。
「……リィン、俺だ。覚えてないのか? お前が魔法を使いすぎて倒れた時、俺が背負って三日三晩歩いたあの道を」
俺は一歩、彼女へ歩み寄る。
リィンの眉が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、不自然にピクリと動いた。
だが、彼女の瞳はすぐに冷たい静寂を取り戻す。
「……知りません。私の記憶に、貴方という不純物は存在しません」
彼女の杖から放たれた光の束が、俺の足元を爆破した。
衝撃で吹き飛ばされながら、俺は見た。
彼女の頬を、一筋の雫が伝い、地面に落ちる前に蒸発するのを。
彼女の魂は泣いている。だが、書き換えられた「聖女」という役割が、彼女の心に分厚い鍵をかけているのだ。
「……祈りは届かない、か」
俺は錆びた剣を杖代わりに立ち上がる。
目の前にいるのは、救うべき仲間。だが今は、俺を殺そうとする最強の敵。
俺の「英雄の証」を取り戻すための旅は、かつての絆を一つずつ、力ずくで引き裂いていく残酷な儀式になろうとしていた。
第十七話 完
第十八話:奪われた栄光の代償
神殿の四方を、巨大な光の柱が囲んでいた。
聖女リィンが展開した『神域・魔王の庭』。それは、魔王に従わぬ者の存在を物理的に消去する絶滅の結界だ。
「……熱い、な」
カイルが漏らす。彼の白銀の鎧が、光に焼かれてじりじりと黒ずんでいた。歴史から拒絶された「裏切り者」にとって、リィンの光はもはや癒やしではなく、処刑の炎だ。
「アーク、これ以上は無理よ……! 貴方の体、もうボロボロじゃない!」
背後でルナが叫ぶ。
俺の視界は、限界を超えた『雷鳴肺』の反動で赤く染まり、耳鳴りは止まない。錆びた聖剣を握る右手の感覚は、とうに失われていた。
「リィン……っ!」
俺の声は、光の濁流に飲み込まれて届かない。
結界の中心で祈る彼女の姿は、神々しいほどに美しく、そしてあまりにも遠かった。
このままでは、カイルも俺も塵になる。
その時、俺のシャツの裾を、冷たくて小さな手が強く引いた。
「……私の血を使って、アーク」
ルナが、自身の腕を鋭い爪で傷つけようとしていた。
「なっ、何をやろうとしてる!」
「お父様の……魔王の血には、あらゆる結界を『書き換える』力がある。私が私の意志で、この結界を内側から食い破る。そうすれば、道ができる……!」
ルナの瞳に、悲痛なまでの決意が宿る。
魔王の娘という宿命を受け入れる。それは、彼女が「平和に暮らす少女」でいられなくなることを意味していた。
一度でもその力に染まれば、世界は彼女を「次代の魔王」として認識し始める。
「やめろ、ルナ! それをやれば、お前は本当に……!」
「いいの。アークが死んじゃったら、私が『お姫様』でいる理由なんて、一つもなくなるんだから!」
ルナの傷口から、どす黒い魔力が溢れ出す。
それはリィンの光を侵食し、結界の壁にドロドロとした穴を開けていく。
「あ、が……ああぁぁぁ!!」
ルナの悲鳴。彼女の小さな体が、反動の衝撃で激しくのけぞる。
俺は反射的に彼女を抱き留めた。
その瞬間、ルナの腕から飛び散った魔王の血が、アークの握る『錆びた鉄くず』に吸い込まれるように着弾した。
ジッ、と肉が焼けるような音が鳴り、剣が激しく震動する。
第十一話で浮かび上がった赤黒い紋様が、魔王の鮮血を糧に、より禍々しく、より鋭利な「ノイズ」を纏い始めた。
度重なる戦いでボロボロに欠けていた刃の隙間を、ルナの魔力が漆黒の刃として補完し、歪な形へと再構築していく。
それはかつての聖剣『エターナル』のような美しさは微塵もない。
だが、神の光を喰らい、理を切り裂くための「復讐の牙」へと、その剣は進化したのだ。
「……ルナ、ごめんな。俺が、不甲斐ないばかりに」
「いいから、走って……! あいつを、リィンを、止めて……!」
俺はルナをカイルに託し、結界の裂け目へと跳んだ。
意識の混濁、肉体の崩壊。
だが、リィン。お前がその手を汚して「偽りの平和」を祈り続けるなら、俺がその手を引いて、泥沼の現実へと引きずり戻してやる。
俺は錆びた剣を逆手に持ち、リィンの心臓――ではなく、彼女が掲げる「黄金の杖」へと、全身全霊の突進を見舞った。
奪われた栄光。その代償として失うものがどれほど大きくても、俺はまだ、この手を離すつもりはない。
第十八話 完
第十九話:血塗られた『正しい歴史』
錆びた聖剣が、黄金の杖と激突した。
金属音ではない。まるで巨大な教会の鐘を内側から叩き割るような、不快な衝撃が鼓膜を震わせる。
「……っ!」
杖を介して、膨大な「光」が俺の腕に逆流してきた。
熱い。血管の中を煮え繰り返る鉛が走っているようだ。だが、その熱の中に、別の何かが混じっていた。
視界が、一瞬にして塗り潰される。
そこは、魔王城の玉座の間だった。
血の海の中で、俺は魔王の胸に聖剣を突き立てていた。隣には、カイルが、セツナが、そしてリィンが、勝利の歓喜ではなく、深い絶望の表情で立ち尽くしている。
『……アーク。これで、本当に良かったの?』
リィンの声。だが、今の彼女のような空虚な響きではない。震え、涙に濡れた、生身の彼女の声だ。
魔王の死体から、黒い霧が溢れ出し、世界を覆い尽くしていく。
空が割れ、そこから「巨大な筆」のような何かが降りてくるのが見えた。
――整合性が取れません。
――この結末は、予定された幸福の総量を下回ります。
――歴史を、再定義します。
「……あ、あが……あぁぁ!!」
脳が弾けそうだった。
俺が見たのは、魔王を倒した「その後」の真実。
俺たちが救ったはずの世界は、その救い方が「あまりに悲劇的すぎた」ために、世界そのもののシステムによって拒絶されたのだ。
「……離れなさい、不浄の者」
リィンの冷徹な声で、意識が現実へと引き戻される。
俺は杖を弾き飛ばされ、石床を転がった。
リィンは眉一つ動かさず、再び杖を構える。だが、彼女の瞳の奥、翡翠色の輝きが、ほんの少しだけ揺れていた。
「今、見えたのは……何だ。リィン、お前も見たのか? あの、筆を……」
「黙りなさい。私の祈りは、この完璧な平和を維持するために捧げられています。貴方の見せる幻覚など、一顧だにする価値もありません」
リィンが杖を地面に突き立てる。
足元の石畳が光の幾何学模様に変化し、俺を拘束しようと這い上がってきた。
カイルが這いつくばりながら俺の手を掴もうとするが、届かない。
「アーク、逃げろ……! こいつは、俺たちの知ってるリィンじゃない。世界の『歯車』そのものだ!」
カイルの叫び。
リィンの背後から、黒い触手のような「歴史の修正力」が伸び、彼女の法衣を内側から食い破っていた。
彼女自身も、この書き換えられた歴史を維持するための、血塗られた生贄に過ぎなかったのだ。
「……平和、か。笑わせるなよ」
俺は拘束を強引に引きちぎり、立ち上がった。
口の端から垂れる血を拭い、俺はリィンを――その背後にいる「世界」を睨み据える。
「仲間の記憶を奪い、心を壊して、その上に成り立つ平和なんて……俺が全力でブチ壊してやる!」
その時、神殿全体が大きな震動に見舞われた。
地響きと共に、神殿の壁が崩れ落ち、そこから「魔王の娘」としての力を解放したルナが、どす黒い翼を広げて空へと舞い上がっていた。
第十九話 完
第二十話:二度目の旅立ち、最悪のバディ
崩落する神殿の瓦礫が、光の結界を物理的に押し潰していく。
空に舞うルナの姿は、もはや愛らしい少女のそれではない。背中から生えた漆黒の翼は、周囲の魔力を無慈悲に喰らい、リィンの放つ聖なる輝きをどす黒い闇へと染め変えていた。
「アーク! 今のうちに……逃げて!」
空からの叫び。彼女の細い指先から放たれた闇の奔流が、俺を拘束していた光の鎖を焼き切った。
俺は倒れていたカイルの襟首を掴み、ブラドが待つ崩落の隙間へと走り出す。
背後では、聖女リィンが感情の消えた瞳で空を見上げ、杖を掲げていた。
「……傲慢な魔の末裔よ。その翼、私が神の名において折り畳みましょう」
極大の光が収束し、神殿の天井を突き抜けて放たれる。
直撃の瞬間、ルナが苦悶の声を漏らし、糸の切れた人形のように落下してきた。
「ルナ!」
俺は全力で跳躍し、空中で彼女の小さな身体を抱き止める。
落下の衝撃で地面を転がり、背中に激痛が走った。腕の中のルナは、翼が消え、顔色を失って激しく呼吸を乱している。
「……バカね。逃げろって……言ったのに」
「俺が逃げる時は、お前を背負っている時だけだ」
ブラドが魔法で土煙を巻き上げ、追っ手の視界を遮る。
「長居は無用だ! 歴史の修正が始まる前に、この聖域を離れるぞ!」
俺たちは、崩壊する『静寂の聖域』を後にした。
背後で神殿が轟音を立てて完全に崩れ去る。それは俺たちがかつて手にした「最初の勝利」が、歴史の地図から物理的に抹消された音だった。
数時間後。聖域から遠く離れた荒野の岩陰で、俺たちは腰を下ろした。
カイルは自分の左腕に刻まれた「裏切りの刻印」を黙って見つめている。
ルナは俺の隣で、精根尽き果てたように眠っていた。
そして、俺の手元にあるのは、相変わらず錆びついたままの聖剣『エターナル』だ。
「……アーク。俺は、もう元には戻れないんだな」
カイルがぽつりと呟いた。
「ああ。お前は今日、世界の平穏に牙を剥いた。立派な大罪人だ」
「ふん……。騎士団長をクビになって、村人と、魔王の娘と、腐れ賢者の逃避行か。……笑えない冗談だ」
カイルは自嘲気味に笑い、それから拳を強く握りしめた。その目には、再び戦士としての光が宿っていた。
ブラドが北の空を指差す。
「次の破断点は、王都の中枢……魔王城そのものだ。だが、今のボロ雑巾のようなお前たちが行けば、門を潜る前に塵になるぞ」
「わかってる。……だが、行くしかないだろう」
俺は立ち上がり、錆びた剣を背負い直した。
かつては世界を救うために集まった仲間だった。
今は、世界に拒絶された者たちだ。
俺と、俺を憎むはずの魔王の娘。そして、俺を殺そうとした親友。
これ以上ないほど「最悪のバディ」だが、この胸の痛みだけは、どんな完璧な歴史よりもリアルに脈動している。
「……行くぞ。俺たちの『真実』を、歴史に叩き込みにな」
二度目の旅立ち。
俺たちの前には、書き換えられた残酷なほどに「正しい世界」が、どこまでも広がっていた。
第二十話 完
第二十一話:偽りの英雄、真実の泥
黄金の光が降り注ぐ王都・エリュシオン。
かつての戦乱が嘘のように、街は活気に満ち溢れていた。行き交う人々の顔には穏やかな笑みが浮かび、物乞いや傷病者の姿はどこにもない。
だが、その光景を城壁の外から眺める俺たちの胸には、えも言われぬ不快感がこみ上げていた。
「……気持ち悪い街だな」
カイルがフードを深く被り、忌々しげに吐き捨てた。
彼の「裏切りの刻印」を隠すためのボロ布の下で、不自然なほど清潔に保たれた王都の空気が、彼の戦士としての本能を逆撫でしている。
「平和なんだから、いいことじゃない。……お父様が望んでいたのは、こういう景色だったはずなのに」
ルナが俺の袖を掴み、小声で呟く。
彼女の言葉は正しい。だが、俺たちの目には、その「平和」の土台が泥沼であることを示す違和感が、至るところに映っていた。
王都の至る所に掲げられた巨大な肖像画。
そこには、俺の知る魔王の姿はない。慈悲深い聖者のような微笑みを浮かべた「偽りの魔王」が、民を見守るように描かれている。
そしてその隣には、彼を支える『四人の英雄』の姿があった。
「……おい、あれを見ろ」
ブラドが杖で掲示板を指す。
そこには、俺たちが魔王を倒した後に歴史を救ったとされる「真の英雄」たちの名が刻まれていた。
カイル、セツナ、リィン。そして、俺のいた場所には、見たこともない白馬に跨った金髪の美青年が収まっていた。
「……『救世主レオナ・フォン・エリュシオン』? 誰だよ、そいつ」
俺の記憶のどこを掘り返しても、そんな男は存在しない。
歴史改変は、俺を村人に書き換えただけではない。俺の座っていた「英雄」という椅子に、全く別の存在を嵌め込んでいたのだ。
「あれが、この世界の『中心点』だ。お前から英雄の座を奪った、歴史の化身だよ」
ブラドの声が冷たく響く。
街の子供たちが、その偽りの英雄を称える歌を歌いながら、俺の横を通り抜けていく。
彼らにとって、この世界は幸福そのものなのだ。
俺を否定し、ルナを追い込み、カイルを壊したこの世界は、皮肉なことに、俺たちがかつて命を賭けて夢見た「平和」の完成形だった。
「アーク。……それでも、戻したいと思うか?」
カイルが問いかけてきた。その声には、深い迷いがある。
もし歴史を元に戻せば、この街の笑顔は消えるかもしれない。再び戦火が上がり、多くの命が失われるかもしれない。
俺は、錆びついた聖剣の柄を強く握りしめた。
指先に伝わる鉄の冷たさが、心地よいほどに鋭い。
「……偽物の笑顔で満足できるほど、俺は聞き分けのいい村人じゃない」
俺は、黄金に輝く王都の門を見据えた。
「この美しすぎる平和の裏側にある『真実の泥』を、白日の下に晒してやる」
俺たちは、祝福された光の中へ、呪われた者たちとして足を踏み入れた。
第二十一話 完
第二十二話:剣を振るう理由を忘れた腕
王都の裏路地にある酒場「黄金の麦穂亭」。
かつて俺たちが魔王討伐の旅に出る前、そして大きな戦いの後に、決まって集まった場所だ。だが、今の店構えは俺の記憶よりもずっと豪奢で、客たちが上品にワインを傾ける場へと変わっていた。
「……アーク、ここが本当にあの酒場か?」
カイルが不審げに鼻を鳴らす。かつては安酒の匂いと荒くれ者の怒号が絶えなかった店だが、今は静かな旋律の楽器が奏でられている。
「看板は変わってねえ。……だが、中身は別物だな」
俺たちは目立たぬよう、隅のテーブルに腰を下ろした。
カウンターの奥でグラスを磨いているのは、馴染みの店主・ガルガだった。
かつては傭兵崩れの強面で、俺たちが騒ぎすぎると拳で説教をしてきた男だ。
「いらっしゃい。見慣れない顔だが……旅の方かな?」
ガルガがこちらを見て、営業用の穏やかな笑みを浮かべる。
その瞳に、俺やカイルを映した驚きはない。ただの「客」として扱われている事実に、胸の奥がチリりと焼ける。
「……親父、いつもの『火酒』を三つ」
俺がそう言うと、ガルガの動きが一瞬だけ止まった。
「……火酒? お客さん、うちはそんな野蛮な飲み物は置いてないよ。今は魔王様が推奨された、この香草ワインが主流なんだが……」
「いいから出してくれ。お前の棚の裏、三番目の板を剥がせば、隠してあるだろ?」
ガルガの顔から色が失せた。
彼は震える手で、俺が指摘した場所――もはや自分でも忘れていたはずの「隠し場所」に手を伸ばす。
そこから出てきたのは、埃を被った古い酒瓶だった。
「……なぜ、それを。この店を改装した時に、捨てたはずなのに……」
ガルガが瓶を開け、その強烈なアルコールの匂いを嗅いだ瞬間、彼の表情が劇的に崩れた。
グラスを磨いていた布が床に落ちる。
彼は自分の右腕を、信じられないものを見るように見つめた。
「……なんだ、これ。……腕が、疼く。何かに、怒っているような……何かを、守らなきゃいけないような……」
ガルガの筋肉が、不自然に波打つ。
ブラドが小声で俺の耳元に囁いた。
「……肉体の記憶だ。頭は魔王の平和に書き換えられても、何千回、何万回と剣を磨き、拳を振るってきた『筋肉の記憶』までは消しきれん」
酒場にいた他の客たちが、異変に気づきこちらを振り返る。
その時、店の扉が乱暴に蹴破られた。
「平和な午後に、不浄な匂いがすると思えば……。やはり貴様らか」
現れたのは、銀髪を高く結い上げた女剣士――セツナだった。
だが、今の彼女は以前森で会った時よりも、さらに冷酷なオーラを纏っている。
彼女の腰には、俺が贈ったものではない、魔王から下賜されたという「漆黒の太刀」が吊るされていた。
「アーク。……いいえ、偽りの名を持つ村人。貴様がこの店に来ることは、計算済みだ」
セツナの背後には、王都の治安維持部隊が展開し、逃げ場を塞ぐ。
「セツナ……。お前も、その腕に聞いてみろ。その太刀の重さが、本当に正しいのかどうかを」
俺は錆びた剣を抜き、カウンターの上に置いた。
ガルガが、そしてセツナが、その「使い古された鉄」を見た瞬間、王都の美しい幻影が、ひび割れるような音を立てた。
第二十二話 完
第二十三話:揺らぐ忠誠、魂の叛逆
「計算済み、か。相変わらず、頭の固いことだ」
俺はカウンターに置いた錆びた聖剣を再び手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
セツナの構えは完璧だ。漆黒の太刀から放たれる殺気は、以前森で刃を交えた時よりも鋭く、そしてどこか「機械的」だった。
「問答は無用。魔王様が定めた安寧を乱す毒は、私がこの手で摘み取る」
セツナが踏み込もうとした、その刹那。
「――待ち、な」
低く重厚な声が、酒場に響いた。
声を上げたのは、店主のガルガだった。彼は呆然とした表情のまま、無意識にカウンターの下から一本の「錆びついた手斧」を取り出していた。
「店主、どきなさい。公務の邪魔よ」
セツナが氷のような視線を向ける。だが、ガルガの脚は動かなかった。
「……わからねえ。自分でも何をしてるのか、さっぱりわからねえんだ。だがよ……」
ガルガの右腕が激しく震える。
「この『火酒』を欲しがったこの坊主を、後ろから斬らせちゃいけねえって……俺の腕が、勝手に吠えてやがるんだ!」
ガルガだけではない。
酒場の隅でワインを飲んでいた客たちが、一人、また一人と立ち上がった。
彼らは魔王の施政下で穏やかに暮らす市民のはずだ。しかし、彼らの目は虚ろでありながらも、その手は近くにある椅子や瓶を、まるで「戦い慣れた武器」のように握りしめていた。
「……これか。ブラドが言っていた『肉体の記憶』ってやつは」
カイルが驚愕に目を見開く。
歴史を書き換え、記憶を塗り潰しても、彼らがかつて英雄アークと共に戦い、守り、生き抜いた「経験」そのものは、細胞の一つ一つに刻み込まれていたのだ。
偽りの平和に飼い慣らされた脳よりも先に、戦士としての本能が、アークという存在を「守るべき友」だと認識し始めていた。
「……狂っている。貴様ら、魔王様への反逆と見なしますよ!」
セツナが叫ぶ。だが、彼女の太刀を持つ手も、わずかに震えていた。
彼女の脳裏に、今の「正しい歴史」にはない光景がフラッシュバックする。
酒場で泥酔したアークを、彼女が厳しく叱り飛ばしながらも、その背中を貸して歩いた、偽りのない日々の断片。
「っ、ぐ……黙れ! 私は、平和の守護者だ!」
セツナが葛藤を振り払うように跳躍した。
漆黒の刃が俺の喉元を狙う。
だが、その一撃はこれまでになく「鈍かった」。
俺は錆びた剣を振るうまでもなく、身を翻してその刃をかわし、彼女の耳元で囁いた。
「セツナ。お前がその剣で守りたいのは、魔王が作った『箱庭』か? それとも……このうるさくて汚い、俺たちが愛した『世界』か?」
「あ……あああああ!!」
セツナは剣を振り抜き、そのまま壁に深く突き立てた。
彼女はそのまま崩れ落ち、乱れた呼吸の中で、自分の手を見つめていた。
治安維持部隊の騎士たちが動揺し、互いの顔を見合わせる。
王都の、完璧だったはずの歯車が、一軒の小さな酒場から確実に狂い始めていた。
第二十三話 完
第二十四話:鉄の意志、錆びた誇り
「逃げろ、坊主共! ここは俺たちが食い止めてやる!」
ガルガの怒号と、割れる瓶の音が背後で響く。
正気に戻ったわけではない。ただ「体が勝手に動く」という異常事態に混乱しながらも、王都の民たちは無意識に俺たちの退路を切り拓いていた。
俺たちは混乱する治安維持部隊を振り切り、王都のさらに深い路地裏、煙突から黒煙が立ち上る職人街へと逃げ込んだ。
「……ハァ、ハァ……。セツナを置いてきて、良かったのか?」
カイルが肩で息をしながら問う。
「彼女の魂は今、書き換えられた現実と激しく戦っている。俺たちが連れて行くより、彼女自身で答えを見つけるのを待つしかない」
俺はそう答えながら、一軒の古びた鍛冶屋の前に足を止めた。
看板すら出ていない、煤けた店構え。だが、こここそがかつて俺の聖剣『エターナル』を打ち出し、何度も研ぎ直してくれた伝説の鍛冶師・バンの工房だ。
店内に足を踏み入れると、熱気と共に鉄を叩くリズムが聞こえてきた。
カン……カン……と、どこか力強くも寂しげな音。
奥で槌を振るっていたのは、丸太のような腕を持つ白髪の老人だった。
「……客か。悪いが、今は『平和の儀仗』の量産で忙しい。個人の依頼は受けておらんよ」
バンは俺たちを見向きもせず、真っ赤に焼けた鉄を叩き続ける。
その鉄は、脆く、ただ美しく光るだけの「飾り」の剣だった。かつて魔王軍を斬るための剛剣を打っていた男が、今は歴史の整合性を保つための玩具を作らされている。
「親父。……これを、見てくれ」
俺は腰から、ボロボロの布に包まれた「錆びた鉄の塊」を取り出し、作業台の上に置いた。
バンは一瞬、槌を止めた。
彼はゆっくりと腰を伸ばし、その錆びた剣を、まるで汚物を見るような目で見つめ――次の瞬間、その瞳に鋭い火花が宿った。
「……おい。この『ナマクラ』は、どこで手に入れた」
バンの手が、震えながら剣の柄に伸びる。
「俺がずっと、持っていたものだ。世界がどれだけ『それはゴミだ』と言ってもな」
「……馬鹿な。ありえん。こんな無茶な鍛え方、世界に俺以外にできる奴はいない。だが、俺はこんな剣を打った覚えはない……はずだ……」
バンが剣を手に取った瞬間、彼の脳内に「打たなかったはずの記憶」が濁流となって流れ込んだ。
七日七晩、不眠不休で炎と向き合い、一人の少年のために魂を削って打ち出した一振りの名剣。
歴史の修正によって「無かったこと」にされた、彼の職人としての最高傑作。
「……お、おお……。俺は、何をしていた……。こんな、なまじ光るだけの鉄屑を、何千本も……!」
バンは台の上の儀仗剣を床に叩きつけた。
彼は泣きそうな顔で、だが狂おしいほどの喜びを湛えて、錆びた俺の剣を抱きしめた。
「待たせたな、相棒。……そして、よく持ち帰ってくれた、小僧」
バンは顔を上げ、火床の温度を爆発的に引き上げた。
「歴史がなんだ、神がなんだ! この腕が覚えている最高の鉄を、今ここで蘇らせてやる!」
伝説の鍛冶師の魂が、再点火された。
だが、その槌音が王都に響き渡ると同時に、店の外には「偽りの英雄」レオナの直属部隊が、音もなく集結しつつあった。
第二十四話 完
第二十五話:美しき救世主の正体
鍛冶場に響く、力強い槌の音。バンの振るう大槌が火花を散らすたび、錆びついていた俺の剣が、まるで血を流すように赤い光を放つ。
「アーク、来たぞ。……胸糞悪い『光』の気配だ」
カイルが剣の柄を握り、店の入口を睨みつける。
路地裏の湿った空気が、一瞬にして甘ったるい花の香りと、暴力的なまでの神聖さに塗り潰された。
光の中から現れたのは、肖像画そのままの男だった。
透き通るような金髪に、憂いを帯びた碧眼。白銀の鎧には一点の曇りもなく、彼が歩くたびに、汚れた路地裏の泥さえもが浄化され、消えていく。
彼こそが、俺から英雄の座を奪った男――レオナ・フォン・エリュシオン。
「悲しいですね。平和を愛するはずの民が、これほどまでに乱れているとは」
レオナの声は、聴く者の心を強制的に安らがせるような、魔力的な響きを帯びていた。
彼は俺を一瞥し、慈しむような笑みを浮かべる。
「村人の君。その汚れた鉄を捨てなさい。私が君の罪を許し、正しい『平穏』へ導いてあげよう」
「……あいにくだが、俺は泥臭い生活が気に入ってるんだよ。ところでレオナと言ったか? お前、この世界が書き換わる前は、どこのどいつだったんだ?」
俺の問いに、レオナは小首を傾げた。
「前? 何を言っているのですか。私は最初からここにいた。この世界が望む『理想の姿』としてね」
その言葉を聞いた瞬間、ブラドが忌々しげに杖を鳴らした。
「……やはりか。アーク、気をつけろ。そいつは人間ではない。歴史の修正力が、整合性を保つために無理やり産み落とした『因果の受肉体』……つまり、世界の免疫システムそのものだ!」
「お喋りが過ぎますね、賢者様」
レオナが細い指を弾いた。
瞬間、カイルが反応するよりも速く、凄まじい光の衝撃がブラドを襲う。
「ブラド!」
間一髪、俺がブラドを突き飛ばしたが、床の石材が音もなく蒸発し、深々と穴が開いた。
レオナは表情一つ変えず、腰の細剣を引き抜く。その刀身は透き通っており、実体があるのかさえ疑わしい。
「君は、あってはならない『染み』だ。消えてもらいましょう」
レオナが優雅に一歩踏み出す。
それは武術の域を超えた、空間そのものを滑るような移動。
俺は『雷鳴肺』を起動し、まだ熱を帯びたままの、研磨途中の聖剣を手に取った。
「……理想の英雄様が、ずいぶんと物騒なご挨拶だな」
バンの槌音が、一段と激しく響く。
「小僧! まだ研ぎは終わっちゃいねえ! その剣は今、生身だ……折るんじゃねえぞ!」
「……三秒でいい。そいつを、足止めしてやる!」
俺は、神のごとき速度で迫る「世界の化身」に向かって、不完全なままの相棒を振り下ろした。
第二十五話 完
第二十六話:理想を穿つ、泥の知恵
レオナの細剣が放つのは、剣技ではない。それは「対象を消去する」という世界の意志そのものだった。
一撃ごとに大気が削り取られ、俺の頬をかすめるだけで肉が焼き切れる。
「無駄ですよ。君の動きは、すべてこの世界の予測の範疇だ」
レオナは優雅な所作で俺の太刀筋をかわし、鋭い刺突を繰り出す。
速すぎる。だが、俺は知っている。こいつは「完璧な英雄」として振る舞うよう世界に設計されている。ならば、その完璧さこそが最大の隙だ。
「カイル、今だ! あの『汚い手』を使うぞ!」
「……ちっ、聖騎士のプライドが泣くぜ!」
背後でカイルが動いた。
彼はレオナに向かって突進すると見せかけ、鍛冶場に散乱していた「研磨用の砂」と「消火用の水瓶」を同時に蹴り飛ばした。
「――っ!? 卑劣な……!」
視界を奪われ、泥水にまみれたレオナの動きが、一瞬だけ停止した。
高潔な救世主という設定の彼には、視界を潰されて泥にまみれるという「不測の事態」への対処コードが存在しないのだ。
「悪いな、俺はただの村人なんだ。騎士道なんて知るかよ!」
俺は泥に滑り込みながら、レオナの足元にある「影」を狙って、研磨途中の赤い聖剣を突き立てた。
狙ったのは本体ではない。彼を支える「因果の接地面」だ。
ルナから借りた闇の魔力が、聖剣の熱と共に地面を伝わり、レオナの足元を凍りつかせる。
「君……! 私の美しさを、これほどまでに汚すとは……!」
レオナの碧眼が、激しい怒りでどす黒く濁った。
理想の英雄の仮面が剥がれ、世界の修正システムが「排除」のフェーズへと移行する。
彼の背後から、無数の光の触手が伸び、鍛冶屋の屋根を突き破って俺を押し潰そうとした。
その時。
背後から、これまでにないほど高く、澄んだ金属音が鳴り響いた。
キィィィィィィィィン!!
「……おい、小僧! 受け取れッ!」
バンの咆哮と共に、火床から一条の光が放たれた。
それは錆を脱ぎ捨て、数千年の眠りから覚めた本物の聖剣の姿。
俺は泥の中から跳ね起き、空中でその柄を掴んだ。
手のひらに伝わる、懐かしい熱。
剣が歌っている。
世界がどれだけ俺を否定しようとも、この一振りだけは、俺が誰であるかを完全に証明していた。
「――歴史の書き換え、終了だ」
俺は、光り輝く『エターナル』を振り下ろし、迫り来るレオナの光を真っ二つに切り裂いた。
第二十六話 完
第二十七話:英雄の帰還、空を覆う嘘の崩壊
俺の手の中で、聖剣『エターナル』が震えている。
それは恐怖ではない。数多の戦場を共に駆け抜けた相棒が、再び「真実」を斬れる喜びに打ち震えているのだ。
かつての輝きを取り戻した刀身が、レオナの放つ不自然な光を吸い込み、純白の閃光へと変換する。
「……バカな。世界が定めた『村人』という役割に、なぜこれほどの力があるのだ!」
レオナの叫びは、もはや救世主のそれではなく、壊れた機械のノイズのようだった。
彼は地を這い、泥にまみれた自身の鎧を見つめて絶望する。完璧を自負していた彼の存在は、俺が放つ「泥臭い現実の輝き」によって、内側から崩壊を始めていた。
「レオナ。お前が信じる『世界』は、お前のことなんて愛しちゃいない。ただの便利な道具として、そこに立たせていただけだ」
俺が一歩踏み出すと、聖剣から放たれる波動が、王都を覆っていた偽りの結界を次々と引き裂いていく。
空に見えていた完璧な青空が、鏡のように割れ、その向こう側にある「夕暮れの、赤黒い、本当の空」が顔を覗かせた。
「……ならば、すべてを消し去るまで。この完璧な世界を認めぬなら、何一つ残す必要はない!」
レオナが両手を天に掲げた。
王都・エリュシオンの地下を流れる膨大な魔力ラインが、彼の意志に呼応して逆流を始める。
街中の街灯や噴水から、青白い魔力が噴き出し、それらが巨大な渦となって王城の真上へと集束していく。
「狂ったか! 王都の魔力を暴走させれば、民もろとも消し飛ぶぞ!」
カイルが叫ぶが、レオナは冷酷な笑みを浮かべるだけだった。
「民? そんなものは、歴史を書き換えればまたいくらでも生成できる。……さらばです、バグの皆さん」
王都全土を巻き込む自爆魔法。
白光が膨れ上がり、すべてを飲み込もうとしたその時。
「……させないって、言ってるでしょ!」
ルナが、自身の影を巨大な「壁」へと変え、俺たちの前に立ちはだかった。
彼女の背中からは、先ほどよりもさらに巨大で、禍々しくも美しい闇の翼が広がっている。
「アーク、あいつを斬って! 私が、この爆発を全部『影』の中に閉じ込めるから!」
「無茶だ、ルナ! お前の体が持たない!」
「いいの! 私は……魔王の娘なんだから!」
ルナが歯を食いしばり、白光の渦をその小さな体で受け止める。
俺は、彼女が作ってくれた一瞬の隙間を、全力で駆け抜けた。
「レオナ――お前の作った歴史には、未来なんてなかったんだよ!」
俺は空中に跳び、聖剣をレオナの胸元にある「因果の核」へと突き立てた。
スキルでも、魔法でもない。
ただ、この世界をあるべき姿に戻したいという、ただ一人の村人の執念が、偽りの英雄を貫いた。
第二十七話 完
第二十八話:月下の戴冠、玉座に座る影
レオナの体が光の粒子となって霧散し、王都を覆っていた偽りの幕が完全に剥がれ落ちた。
空には、数年ぶりに見る本物の月が昇っていた。だが、その月は禍々しく赤く染まり、まるで世界が流す血のようだった。
「……終わったのか?」
カイルが膝をつき、激しい呼吸の中で問いかける。
王都の民たちは、強制的な多幸感から解き放たれ、自分たちが何を見て、何を信じていたのか分からぬまま、路上で呆然と立ち尽くしていた。
「いや……まだだ」
俺はルナを抱き上げる。彼女の闇の翼は消え、深い眠りに落ちていたが、その顔には微かな安堵の色があった。
街の喧騒が遠のき、代わりに重苦しい沈黙が王城から溢れ出してきた。
コツ、コツ、と。
誰もいないはずの王城の回廊から、規則正しい足音が響いてくる。
王都の魔力を吸い尽くし、レオナという「部品」を切り捨てた歴史の修正力が、ついに最後にして最大の障壁を形作ったのだ。
「……そこか」
俺たちは誘われるように、王城の最上階、玉座の間へと足を進めた。
かつて俺が魔王を討ち取り、世界の運命を決めたその場所。
重厚な扉を開くと、そこには月光に照らされた玉座に座る「人影」があった。
「……よくここまで辿り着きましたね、アーク」
その声を聞いた瞬間、俺の全身の血が凍りついた。
玉座に座っていたのは、死んだはずの魔王でも、レオナのような人形でもなかった。
それは、俺と同じ顔をし、俺と同じ傷を持ち、そして俺よりも遥かに深い絶望を瞳に宿した――「英雄としての俺」だった。
「な……なんだ、これは。俺が、二人いる……?」
カイルが絶句して剣を落としそうになる。
玉座に座る「俺」は、黄金の鎧に身を包み、手には錆びていない完璧な聖剣を携えていた。
「私は、君が捨てたはずの『英雄の残滓』。そして、世界が望んだ『幸せな結末を維持するための管理プログラム』です」
玉座の俺が立ち上がる。その存在感だけで、空気の質量が変わる。
「君が魔王を倒し、仲間と共に歩む未来……。それを維持するために、世界は君から『人間としての記憶と苦しみ』を剥ぎ取り、私という器に閉じ込めた。そして空っぽになった君を、安全な『村人』として野に放ったのです」
つまり、目の前にいるのは、歴史改変そのものが擬人化した、俺自身の「栄光の亡霊」だ。
「君が戻れば、この平和な歴史は崩壊し、あの血塗られた戦いの日々が再開されます。……それでも、君は自分を取り戻したいと言うのですか?」
「英雄の俺」が聖剣を抜く。
その光は、これまで戦ってきたどんな敵よりも鋭く、俺の魂を真っ向から否定していた。
第二十八話 完
第二十九話:己を超える、最後の一歩
玉座の間に、二人の「アーク」が対峙する。
一方は、完璧な黄金の鎧を纏い、歴史の全権を委ねられた「英雄」。
一方は、泥に汚れ、村人の服を着て、錆びを落としたばかりの剣を握る「敗残者」。
「……滑稽ですね。自分自身の影を相手に、これほどまで消耗して」
英雄の俺が、静かに聖剣を突き出す。
その一突きは、かつて俺が数多の強敵を屠ってきた「最速の刺突」。
ガギィィィィィィィン!!
俺は咄嗟に剣を合わせたが、骨が砕けるような衝撃と共に吹き飛ばされ、石柱に叩きつけられた。
「カッ、……は……っ!」
「アーク!」
カイルが飛び出そうとするが、英雄の俺が放つ威圧感だけで、その足が縫い付けられたように動かない。
「君は『村人』として生きるべきだった。そうすれば、戦いの痛みも、仲間を失う恐怖も、すべて私という器が肩代わりしてあげたのに」
英雄の俺が歩み寄る。その剣先から放たれるのは、一切の迷いがない「正解」の力だ。
「今の君にはスキルも、称号も、守るべき国さえない。何をもって、私という『完成された英雄』に勝とうというのですか?」
俺は、口の中の血を吐き捨て、震える足で立ち上がった。
確かに、目の前の「俺」は強い。俺がかつて積み上げた経験も、技も、すべてを完璧な形で体現している。
だが、そいつの剣には、決定的な何かが欠けていた。
「……お前の剣、軽いんだよ」
「何を……?」
「お前が持っているのは、世界から与えられた『記号』としての強さだ。……だが、俺がこの数日間、村人として這いつくばって手に入れたのは、お前が切り捨てた『重み』なんだよ」
俺は『雷鳴肺』を、もはや自分の命を燃料にするほどに、限界を超えて稼働させた。
肺が焼け、視界が真っ白になる。
だが、その白光の中で、俺はかつてないほど鮮明に「俺の弱さ」を自覚していた。
英雄だった頃の俺なら、仲間を守るために、自分の心を殺してでも正解を選んだだろう。
だが、今の俺は――ただの我儘な村人だ。
「記憶がないから、出会い直せた。力がなかったから、仲間に頼れた。……お前の中に閉じ込められた『栄光』なんて、もういらねえんだよ!」
俺は、聖剣『エターナル』を構え、己の未来(英雄)に向かって突進した。
英雄の俺が、冷徹に迎撃の構えをとる。
互いの聖剣が交差し、玉座の間が割れんばかりの衝撃波に包まれる。
俺の剣は、英雄の剣に押し込まれ、刀身にひびが入る。
だが、俺はそのひび割れた剣を、あえて手放した。
「勝負ありです、アーク」
「……いいや。お前の予測は、そこまでだろ?」
俺は空いた左手で、懐に隠していた「あるもの」を取り出した。
それは、バンの鍛冶場に落ちていた、ただの「鉄屑」――儀仗剣の破片だ。
英雄の俺が「無価値」として見向きもしなかった、ただのゴミ。
俺はその破片を、英雄の鎧の継ぎ目、あの日リィンを守るために負ったはずの「消えない傷跡」へと叩き込んだ。
第二十九話 完
第三十話:不完全な僕らの、完璧な明日
「――あ、が……っ!?」
玉座に座る「英雄の俺」が、信じられないものを見るように己の胸元を見下ろした。
そこには、俺が叩き込んだただの鉄屑が突き刺さっている。本来なら、黄金の鎧を貫くはずのないゴミだ。だが、その一点は、彼が「歴史の正解」として切り捨てたはずの、生々しい痛みの記憶だった。
「なぜ……そんな、価値のないもので……私が……」
「価値を決めるのは世界じゃない。俺たちだ」
俺がそう告げた瞬間、英雄の俺の姿がひび割れ、そこから眩い光が溢れ出した。
彼の中に封じ込められていた「俺の記憶」と、この数日間で得た「泥臭い経験」が、激しく混ざり合い、一つの魂へと収束していく。
同時に、王城が大きく揺れた。
玉座の背後の空間が裂け、そこから「歴史の筆」が姿を現した。それは意志を持つ巨大な針のように、不完全な存在となった俺を消去しようと襲いかかる。
「させるかよッ!」
カイルが叫び、ボロボロの体で俺の前に立ちはだかった。
「アーク、行け! 歴史を書き直すんじゃねえ、お前の手で、新しい白紙をぶち撒けてこい!」
「アーク……、信じてるから!」
眠りから覚めたルナが、残ったすべての魔力を俺の背中に託す。漆黒の翼が、俺を空へと押し上げた。
俺は光り輝く『エターナル』を両手で握り、世界の中心、歴史の筆の先端へと真っ向から激突した。
脳内に、世界のシステムの声が響く。
『……警告。整合性が失われます。このままでは、救われた人々が再び苦しみに戻ります。それでも、この歴史を否定しますか?』
「……ああ、否定してやるよ」
俺は笑った。
「苦しみも、悲しみも、全部ひっくるめて俺たちの人生だ。誰かに用意された『幸せな箱庭』なんて、これっぽっちも欲しくねえんだよ!」
俺は全身の力を剣に込めた。
パキィィィィィィィィン!!
世界を規定していた「筆」が、俺の一撃で粉々に砕け散った。
視界が真っ白に染まり、すべての音が消える。
……気がつくと、俺は草原に大の字になって寝転んでいた。
空は、あの禍々しい赤でも、偽りの青でもない。雲一つない、どこまでも透明な昼下がりの空だった。
「……おい、いつまで寝てるんだ、アーク」
聞き慣れた、ぶっきらぼうな声。
目を開けると、そこにはカイルがいた。鎧はボロボロで、相変わらず不機嫌そうな顔をしているが、その瞳には俺を知る「親友」の光が宿っている。
「リィンは、セツナと先に街へ向かったぞ。……ったく、お前が魔王を倒した後に倒れるから、運ぶのが大変だったんだからな」
俺は体を起こし、自分の手を見た。
そこには、英雄の証である紋章はない。ただ、剣を振り続けた者の分厚いマメがあるだけだ。
隣では、ルナが花を摘んで笑っていた。彼女の角は、まだ少しだけ生えかけたままだが、もう誰に追われることもない。
歴史は元通りになったわけじゃない。
俺が「村人」だった数日間の記憶は、俺の中にだけ残り、世界は少しだけ歪んだまま、新しい明日へと歩み出していた。
だが、それでいい。
不完全で、泥臭くて、予測不能なこの世界こそが、俺たちが勝ち取った「完璧な明日」なのだから。
「……さあ、行こうぜ。みんなが待ってる」
俺は錆び一つない、だが使い古された相棒の剣を腰に差し、一歩を踏み出した。
第三十話 完
第三十一話:魔王城の地下、止まった時計
陽だまりは、あまりに温かかった。
カイルの呆れたような笑い声も、ルナが摘んできた花の香りも、すべてが本物だと信じて疑わなかった。
「……なぁ、カイル」
「あ? なんだよ、藪から棒に」
「……俺たち、本当に勝ったんだよな」
俺が問いかけると、カイルは一瞬、奇妙なほどに長い「間」を置いた。
その顔から、表情が剥がれ落ちる。
「――勝った? 何にだ、アーク」
カイルの声が、低く、機械的な音に変わる。
見上げると、抜けるような青空に、一本の大きな「亀裂」が入っていた。
パリン、と。
薄い硝子が割れるような音と共に、草原が、風が、ルナの笑顔が、墨を流したように真っ黒に染まっていく。
「……あ、が……っ!」
肺に突き刺さるような冷気が満ちた。
目を開けると、そこは草原などではなかった。
湿った石壁。重い鎖の音。鼻を突くカビと魔力の焦げた匂い。
俺は、魔王城の最深部――光さえ届かない地下牢の壁に、両手首を鎖で繋がれた状態で吊るされていた。
「起きたか。……想定よりも三秒早い覚醒だ」
暗闇の中から、カチリ、カチリと時計の針を動かすような音が響く。
松明の炎が揺れ、一人の男の姿を映し出した。
レオナ。……いや、違う。俺が斬り伏せたはずの「偽りの英雄」レオナではない。
そこに立っていたのは、眼鏡を指先で押し上げ、冷徹な観察者の瞳をした青年――ブラドだった。
「ブラド……? お前、何を……」
「夢の続きはどうだった、アーク。君が望んだ『完璧なハッピーエンド』をシミュレートしてあげたんだ。脳に直接、最高級の麻薬を流し込むようにね」
ブラドの手元には、古びた懐中時計があった。その針は、ある一点で止まったまま動いていない。
「君が『自分自身の英雄像』を倒した瞬間、世界の修正力は君を殺すのではなく、君をこの『止まった時間』の中に封印することを選んだ。……君を野放しにするには、君の意志は少しばかり強すぎたからだ」
俺は鎖を軋ませ、ブラドを睨みつける。
「……カイルは、ルナはどうした。まさか、今のあいつらも……」
「カイルは洗脳を強化され、再び『魔王の近衛騎士』として表舞台へ戻ったよ。ルナは……魔王の核を維持するための『電池』として、今も玉座の下で眠っている」
ブラドは無感情に時計の蓋を閉じた。
「君が見たあの草原は、君の精神を摩耗させ、自我を消滅させるための『ゴミ捨て場』だ。……さあ、アーク。もう一度選ばせてあげよう」
ブラドが魔法陣を展開する。その中心には、先ほど俺が見ていたあの穏やかな草原の景色が映し出されていた。
「このまま夢の中で、英雄として死ぬか。それとも、この絶望的な暗闇の中で、歴史に抗い続けて消滅するか」
俺の右手首、鎖に食い込んだ皮膚から血が滴り、床に落ちた。
その痛みは、夢の中のどんな温もりよりも熱く、鋭かった。
「……決まってるだろ」
俺は、血の混じった唾を吐き捨て、ブラドを嗤ってやった。
「あんな退屈な草原で寝てるより、このクソみたいな地下牢の方が、よっぽど俺には似合ってる」
俺の心臓が、再び『雷鳴肺』の鼓動を刻み始める。
歴史の修正? 神のシナリオ?
知ったことか。
俺が求めているのは、綺麗な結末じゃない。
泥を啜りながらでも、奪われた仲間を、今度こそこの手に取り戻すことだけだ。
第三十一話 完
第三十二話:書き換え不可能な唯一の感情
「……ほう、夢を拒絶するか。合理的ではないな」
ブラドが眼鏡の奥の瞳を細める。彼の周囲に浮かぶ魔導書が、不吉な紫色の燐光を放ちながらページを捲った。
「あの草原にいれば、君の魂は摩耗せず、永遠の幸福の中にいられた。この現実に戻れば、待っているのは世界そのものからの『排除』だというのに」
「合理的、か。相変わらずだな、ブラド」
俺は両手首を縛る鎖を、力任せに引き絞った。
ジャリ、と重い鉄の音が地下牢に響く。
「俺たちが魔王軍の包囲網を突破した時も、お前は言ったよな。『ここで死ぬのが最も損害が少ない』って。……結局、お前は俺と一緒に突っ込んできたけどな」
ブラドの眉が微かに動く。
「それは書き換えられる前の、無意味な記憶だ」
「いいや。俺が今、お前の言葉を拒絶しているこの『不快感』だけは本物だ。歴史を何度書き直そうが、俺の中にあるこの『怒り』までは書き換えられなかったみたいだな!」
俺は心臓の鼓動を限界まで高め、全身の魔力を右腕一点に集束させた。
狙うは、ブラドが持つ懐中時計ではない。彼が俺を吊るすために展開している、魔力供給の「結節点」だ。
バキィィィィィィィン!!
鎖が弾け飛ぶ。と同時に、俺は床に降り立つよりも速く、ブラドの懐に飛び込んだ。
だが、ブラドは動かない。
俺の拳が彼の喉元で止まった。いや、止められたのだ。
見えない壁が俺と彼の間に存在し、俺の『雷鳴肺』による超加速を無効化していた。
「……忘れたのか。今の私は、この世界の理を管理する『賢者』としての権能を与えられている。君のような、ただの『村人』の物理攻撃が届く道理がない」
ブラドが冷酷に指を弾く。
衝撃波が俺の腹部を直撃し、再び壁まで吹き飛ばされた。
口の中に鉄の味が広がる。
「アーク、無駄な足掻きだ。君の仲間も、君の力も、すべては歴史の修正という巨大な奔流の中に溶けた。君がどれだけ叫ぼうと、今の君を『英雄』だと認める者は、この世界のどこにもいない」
「……一人、いるぜ」
俺は壁を背に、ゆっくりと立ち上がった。
右手の掌に残る、あの草原でルナがくれた「花の感触」を思い出す。
夢だった。偽物だった。
だが、あそこで俺が感じた「あいつを守りたい」という衝動だけは、ブラド、お前が作ったプログラムじゃない。
「世界が俺を忘れても、俺が俺を覚えている。……それだけで、反逆の理由には十分だ」
俺の手元で、折れたはずの聖剣『エターナル』の破片が、共鳴するように鋭い音を立てた。
ブラドの表情に、初めて「計算外」の動揺が走る。
「……馬鹿な。その鉄屑が、なぜまだ輝いている……」
「俺の感情は、まだ終わってねえんだよ!」
俺は、地下牢の暗闇を切り裂くような光をその手に宿し、再び「賢者」へと肉薄した。
第三十二話 完
第三十三話:アークと呼ばないで
石壁が剥がれ、地下牢の魔力場が激しく明滅する。
俺の拳に宿る光は、聖剣の輝きではない。それは記憶という名の、決して消せない「呪い」の炎だ。
「……計算が合わない。なぜ、一介の『村人』に設定された個体が、管理権限を侵食できる……!?」
ブラドが声を荒らげる。常に冷静だった彼の眼鏡にヒビが入り、その奥にある瞳が驚愕に揺れていた。
「ブラド! お前の数式には、最初から欠陥があるんだよ! 『心』を計算に入れてないっていう、致命的な欠陥がな!」
俺の突撃が、ついに見えない壁を貫いた。
拳がブラドの胸元を直撃する直前――彼は避ける素振りも見せず、ただ悲しげに口角を上げた。
「……やはり、君は変わらないな。アーク」
衝撃が走る。だが、俺の拳が打ったのは肉体ではなかった。
ブラドの姿が陽炎のように揺らぎ、霧となって霧散する。
後に残されたのは、彼が持っていた「止まった懐中時計」だけだった。
「……ホログラムか!?」
俺が時計を拾い上げようとした瞬間、牢獄の扉が激しい音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、武装した騎士たちを引き連れた、一人の女性。
かつて俺の背中を預けていた「聖女」リィンだった。
だが、その服装は俺の知る慎ましやかな白衣ではない。
血のように赤いマントを羽織り、冷酷な光を放つ魔杖を握る「異端審問官」の姿だ。
「――収容体、識別完了。覚醒を確認しました」
リィンの声は、氷の塊のように無機質だった。
「リィン! 俺だ、わかるだろ!? アークだ!」
俺が駆け寄ろうとした瞬間、彼女の杖から放たれた不可視の圧力が、俺を再び床に叩き伏せた。
彼女は、汚物を見るような冷たい目で俺を見下ろした。
「……その名で私を呼ばないで。不快です」
その言葉に、胸がえぐられるような衝撃を受けた。
「アーク……それは、かつてこの世界を滅ぼそうとした『大罪人』の名。そして、私の大切な記憶を汚した『亡霊』の名です」
「何を言ってるんだ……? 俺たちは、一緒に魔王を倒して……」
「黙りなさい、村人」
リィンが冷酷に言い放つ。
「魔王様を討とうとしたのは、貴様のような『バグ』が生み出した虚像に過ぎない。今の平穏こそが、私たちが祈り、手に入れた真実。それを乱す貴様を、私は絶対に許さない」
リィンの背後から、重厚な鎧に身を固めた騎士――かつての親友、カイルが歩み出てくる。
その兜の奥にある瞳には、かつての熱い友情の欠片もなかった。
「……リィン、下がれ。こいつの処理は、騎士団の役目だ」
絶望が、地下牢の湿った空気よりも重くのしかかる。
ブラドの裏切り(?)、そしてかつての仲間たちからの、心からの拒絶。
俺が守りたかったはずの連中が、今は俺を「世界を壊す悪」として抹殺しようとしている。
「……そうか。これが、お前たちの選んだ『正解』なんだな」
俺は膝をついたまま、力なく笑った。
拾い上げた懐中時計の蓋が、カチリと開く。
そこには、ブラドの筆跡で、たった一言だけ走り書きがあった。
『――地下のさらに下、300層へ向かえ。真実の遺骸がそこにある。』
「……アークと呼ばないで、か。いいぜ。なら、今の俺は、ただの『反逆者』だ」
俺は、立ち塞がる「かつての親友たち」を見据え、折れた剣の破片を握り直した。
第三十三話 完
第三十四話:偽史の終わり、真説の始まり
「……カイル、本気なんだな」
俺の声は、地下牢の冷たい壁に虚しく吸い込まれた。
カイルは答えない。ただ、大剣を正眼に構える。その所作一つに、かつて俺が叩き込んだ「護るための剣」の鋭さが宿っていた。
だが、その矛先は今、俺の心臓に向けられている。
「罪人アーク。……いや、もはや名など不要か。貴様の存在そのものが、この世界の毒だ」
カイルが踏み込んだ。
速い。重い。
衝撃波だけで地下牢の石畳が爆ぜる。俺は『雷鳴肺』を全開にして紙一重でかわすが、立ち上がったばかりの身体が悲鳴を上げた。
「逃がしません」
リィンの詠唱が響く。
かつては俺の傷を癒したその柔らかな光が、今は俺の自由を奪う「戒めの鎖」となって足元に絡みつく。
「……っ、クソがッ!」
俺は懐中時計を懐に押し込み、ブラドの指示通り床の「亀裂」へと飛び込んだ。
背後でカイルの怒号と、リィンの冷徹な追撃の魔法が炸裂する。
――地下300層。
そこは、王城の華やかさとは対極にある、歴史の「ゴミ捨て場」だった。
落下した俺を待ち受けていたのは、一面に広がる、朽ち果てた武具の山。
「……なんだよ、これ」
俺は息を呑んだ。
そこにあるのは、魔王軍との戦いで失われたはずの、兵士たちの遺品だけではない。
俺たちが旅の途中で立ち寄った村の看板、ルナが大切にしていた人形、そして――。
「……カイルの、以前の盾か?」
表面に大きな傷が入った、古びた盾。歴史が書き換えられた今の世界では、「存在しなかったはず」の傷跡が、そこには確かに刻まれていた。
ここは、修正された歴史から弾き出された「真実の残骸」が流れ着く、世界の墓場なのだ。
「ようやく来たか。想定より十二秒遅い」
暗闇の中から、今度は「実体」を持ったブラドが現れた。
彼は大きな古文書の山に座り、煤けた眼鏡を拭きながら俺を見ている。
「ブラド……。さっきのは、わざと俺を煽ったのか」
「君を本気にさせ、リィンたちの追撃から逃がすには、あの『精神的ショック』が必要だった。……彼らは本気で君を殺そうとしている。偽りの歴史に完全に同期しているからね」
ブラドは周囲の「ゴミ」を指し示した。
「アーク。君が見ていた『草原の夢』は、単なる安らぎではない。……このゴミ捨て場から、君の魂が真実を拾い集めないようにするための、検閲だったんだ」
俺は、足元に転がっていた「錆びた小さなメダル」を拾い上げた。
それは、魔王を倒した直後、王都の子供たちが俺にくれた「手作りの勲章」だった。
触れた瞬間、指先から熱い記憶が逆流する。
偽りの平和なんかじゃない。俺たちは確かに、血を流し、泥を這って、この世界を救ったんだ。
「……偽史の終わりだ、ブラド」
俺はメダルを強く握りしめた。
「あいつらが俺を忘れても、この傷と、このゴミたちが覚えている。……ここからが、俺たちの『真説(ほんとうの話)』の始まりだ」
地下300層の暗闇の中で、俺の瞳に、かつて魔王を射抜いた時と同じ「英雄の火」が灯った。
第三十四話 完
第三十五話:仲間を斬る覚悟、救うための嘘
地下三百層。歴史のゴミ捨て場に、冷たい沈黙が降り積もる。
俺が拾い上げた手作りの勲章は、今の世界では「存在しないはずのガラクタ」だ。だが、その角の取れた感触が、俺の指先に確かな熱を伝えてくる。
「ブラド。……あいつらを、元に戻す方法はあるのか?」
俺の問いに、ブラドは古文書から目を上げ、残酷なほど平坦な声で答えた。
「理論上は存在する。だが君には耐えられないだろう。……彼らの精神に上書きされた『偽りの平和』を破壊するには、その核となっている幸福な記憶ごと、魂を激しく揺さぶる必要がある」
ブラドが暗闇を指差すと、そこには鏡のような魔力の膜が浮かび上がった。
映し出されているのは、王都の広場で民衆に祝福されるカイルとリィンの姿。
今の彼らにとって、魔王は「守護神」であり、自分たちはその「忠実な僕」だ。そこには何の葛藤もなく、ただ穏やかな、偽物の幸福だけが満ちている。
「彼らを救うということは、彼らが今享受している『正しい世界の安寧』を完膚なきまでに叩き壊すということだ。……アーク、君は彼らにとって『平和を奪う魔王』に成り果てることになる。それでもやるか?」
「……ハッ、悪役になれってことか。村人Aの俺には、お似合いの役だな」
俺は無理やり口角を上げた。だが、拳は震えている。
救いたいと願う相手に、絶望を与えなければならない。
俺が彼らを斬れば、彼らは俺を心の底から憎むだろう。それでも、目を開けさせるためには、その憎しみさえも利用しなければならないのだ。
「一つ、策がある」
ブラドが懐中時計の針を逆回転させた。
「彼らの脳内に刻まれた『歴史の整合性』を一時的にバグらせる。そのためには、君が彼らの前で、徹底的な『偽悪者』を演じる必要がある。……彼らが愛する今の世界を、君が壊そうとする構図を作るんだ」
「……救うための、嘘か」
「そうだ。君が残酷であればあるほど、彼らの記憶の奥底に眠る『本物の怒り』が呼び覚まされる。その衝突のエネルギーを利用して、歴史の書き換えを弾き飛ばす」
上層から、激しい地響きが伝わってきた。
カイルたちの追撃が、この「ゴミ捨て場」の入り口まで迫っている。
俺は、足元に転がっていた折れた剣の破片を拾い集め、布で拳に固く巻きつけた。
「ブラド。……準備はいい。俺を、最悪の悪党としてあいつらの前に送り出してくれ」
「……アーク。君がどれほど傷ついても、私は計算を止めない。それが、私が君にできる唯一の友情だからね」
ブラドが禁忌の術式を展開し、俺の身体が漆黒の魔力に包まれていく。
英雄の光を捨て、俺は泥と悪意の鎧を纏った。
「待たせたな、カイル、リィン。……お前たちが愛するこの『綺麗な世界』、俺が今からめちゃくちゃにしてやるよ」
俺は暗闇を蹴り、かつての仲間たちが待ち受ける「光」の射す方へと駆け上がった。
心臓が、今までで一番激しく、悲しい鼓動を刻んでいた。
第三十五話 完
第三十六話:再会した魔道士、凍りついた情熱
地下三百層から這い上がった先は、王立魔道図書館の最深部だった。
かつては禁書を求めて共に潜り込んだその場所は、今や「歴史の整合性」を監視する巨大な魔力炉へと変貌を遂げていた。
「……そこまでです、不確定要素」
冷徹な声と共に、空間が凍りついた。
無数の氷の刃が天井を埋め尽くし、その中心に、蒼いローブを纏った女性が浮遊している。
セツナ。
かつて「真理を求める魔道士」として、俺の無茶な戦術を支えてくれた知恵袋。だが今の彼女の瞳には、かつて魔法の深淵に触れた時に見せたあの情熱の光はなく、ただ淡々と数式をこなすような冷機だけが漂っていた。
「セツナ。お前、そんなところで何をしてる。……魔法ってのは、誰かの自由を縛るためにあるもんじゃなかったはずだろ」
俺は漆黒の魔力を全身から放ち、あえて不敵な笑みを浮かべた。
「不敬ですね。私は魔王様より拝命した『世界調律官』。この世界の法則を乱すゴミを排除するのが私の仕事です。……あなたのその不浄な魔力、不快極まりない」
セツナが指先を動かした。
絶対零度の吹雪が襲いかかる。俺は『雷鳴肺』を回し、熱量を無理やり高めてその凍気を相殺するが、足元からじわじわと感覚が奪われていく。
強い。今の彼女は、歴史というシステムから直接魔力を供給されているのだ。
「……ハッ、調律官ね。お高くとまりやがって。お前、本当は分かってるんだろ? その知識のどこかに、説明がつかない『空白』があることを!」
「……黙りなさい」
「お前が夜な夜な書き溜めていたあの魔道日記、今の歴史のどこにある? お前が命をかけて編み出したあのオリジナル魔法、なんで誰も知らないんだよ!」
「黙れと言っているのです!」
セツナの叫びに合わせ、図書館の書架が激しく揺れた。
彼女の計算が乱れる。……ブラドの言った通りだ。今の彼女を支えている「完璧な平和」という前提を、言葉の刃で削り取らなければならない。
「セツナ! お前の情熱は、こんな冷たい石造りの部屋で管理されるようなもんじゃなかった! 泥にまみれて、血を吐いて、それでも『まだ見ぬ真理がある』って笑ってた……あの顔を思い出せよ!」
「……やめて。私の頭の中に、そんな汚らわしい記憶はない……はずなのに……っ!」
セツナが頭を押さえ、宙でよろめいた。
彼女の周囲の魔力場が激しく明滅し、書き換えられた記憶と、魂に刻まれた「本物」が火花を散らす。
俺は好機とばかりに、セツナの懐へと踏み込んだ。
拳に巻きつけた聖剣の破片が、彼女の胸元の魔力核を狙う。
救うためには、彼女の誇りであるその魔力結界を、この手で粉砕しなければならない。
「……悪く思うなよ、セツナ。お前の大好きな魔法、俺が今から全部ぶっ壊してやる!」
俺は、彼女の絶叫を背に、漆黒の光を一点に凝縮させた。
第三十六話 完
第三十七話:魔法は使えない、だが理は知っている
「計算外の熱量……!? 解析不能、出力、再上昇――!」
セツナの瞳が、青白い魔法陣の光に染まりきる。彼女はすでに個人としての意識を失い、世界を維持するための「自動迎撃機構」へと成り下がっていた。
図書館の床から巨大な氷の棘が次々と突き出し、俺の逃げ場を奪う。
「セツナ! お前、昔言ったよな。『魔法は計算だけど、奇跡は計算の先にある』って!」
俺は全身を氷の破片に切り刻まれながら、あえて防御を捨てて突進した。
今の俺に魔法は使えない。だが、数えきれないほどの戦場をセツナの隣で駆け抜けてきた俺は、彼女の魔力回路のクセを、その指先の震え一つまで知り尽くしている。
「……排除、開始」
セツナの手のひらに、絶対零度の極大魔法『コキュートス』が収束する。
触れれば一瞬で魂まで凍結する死の波動。だが、俺はその魔法が完成する直前、彼女の右腕の付け根――魔力が循環する「要」の経絡を、聖剣の破片を握った拳で殴りつけた。
「――が、っ!?」
セツナの絶叫とともに、完成間近だった魔法が暴走を始める。
本来なら制御不能の爆発が起き、二人とも消し飛ぶはずだった。だが、俺はそのまま彼女の身体を強く抱き寄せた。
「魔法ってのはな、セツナ。数式じゃねえ、お前の『心』が世界をどう変えたいかっていう、我儘の形なんだよ!」
俺は『雷鳴肺』を逆噴射させ、暴走する氷のエネルギーをあえて自分自身の体内に引き込んだ。
内側から凍りつく激痛。だがその「異物」としての熱が、セツナの魔力回路を強制的に再起動させる。
彼女の脳内に、封印されていた「本来の記憶」が、濁流となって流れ込んだ。
泥だらけでパンを食べた日。
最強の魔法を完成させて、子供のように飛び跳ねた自分。
そして、その傍らでいつも笑っていた、不器用な英雄の背中。
「……あ、あぁ……。アーク……? 私、何を……」
セツナの瞳から「世界の支配」を示す青い光が消え、温かな涙が零れ落ちる。
だが、その瞬間、図書館の天井が轟音とともに崩落した。
「――そこまでだ、裏切り者の魔道士。そして、忌まわしき亡霊」
瓦礫の中から現れたのは、黄金の光を背負った「聖女」リィンだった。
彼女の背後には、王都の魔道騎士団が展開し、無数の杖が俺たちに向けられている。
「セツナ。貴女もバグに感染したのですね。……残念です、ここで『処分』するしかありません」
セツナの身体が震える。正気に戻ったばかりの彼女に、かつての親友からの殺意はあまりに重い。
俺は凍りついた右腕を引きずりながら、セツナの前に立ちふさがった。
「理屈はもういい。リィン……お前のその『祈り』、俺が今から力ずくでへし折ってやるよ」
ボロボロの村人と、記憶を取り戻した魔道士。
二人の孤独な反逆者が、王都の光に牙を剥いた。
第三十七話 完
第三十八話:神罰の雨、英雄の盾
「神の秩序を乱す者たちに、等しき罰を――『裁きの豪雨』」
リィンが冷酷に魔杖を振り上げると、図書館の崩れた天井から、目も眩むような光の矢が降り注いだ。
それはかつて、俺たちが数千の魔物軍団を一掃した時に使った広域殲滅魔法。だが、今その矛先は、魔力回路がボロボロになったセツナと、魔法も使えない「村人」の俺に向けられている。
「セツナ、俺の後ろに隠れてろ!」
「ダメよアーク、今のあなたの体じゃ……!」
俺は叫びを無視し、落ちていた重厚な書架の扉を引き剥がすと、それを盾にしてセツナを覆い隠した。
ドガガガガガガッ!!
光の矢が盾を貫き、俺の肩や足を容赦なく焼き切る。
熱い。身体が炭になるような錯覚に陥るが、俺は歯を食いしばり、一歩も引かなかった。
「……なぜ、そこまでして抗うのですか」
リィンが静かに歩み寄る。その足元からは、彼女の意志とは無関係に、周囲の生命力を吸い取るような黄金の波動が広がっていた。
「貴方が死ねば、この世界は完璧な調和を保てる。セツナも、カイルも、民衆も、誰も悲しまない歴史が完成する。貴方の存在だけが、この世界の『汚れ』なのです」
「汚れ……か。上等じゃねえか」
俺は焼け焦げた盾を投げ捨て、血に濡れた顔でリィンを睨みつけた。
「リィン、お前が言ってる『完璧』ってのは、ただの死体と同じだ。変化もしない、間違いもしない……そんなもん、俺たちの生きてきた世界じゃねえ!」
「理解不能。……排除を続行します」
リィンの杖に、より高密度の魔力が収束する。
逃げ場はない。セツナはまだ魔力の再構築中で動けない。
その時。俺の胸元で、ブラドから渡された懐中時計が激しく熱を帯びた。
『――アーク。英雄の力とは、世界から与えられるものではない。君が守ろうとするその“痛み”そのものが、新たな理の鍵だ』
脳内に直接響くブラドの声。
俺は、拳に巻きつけた聖剣の破片を、自分の胸――心臓の鼓動が最も強く鳴る場所に押し当てた。
「俺が『英雄』だった証を、世界が消したって言うなら……。今ここで、新しい『俺』を刻み込んでやるよ!」
ドクン、と。
心臓が爆発するような衝撃。
聖剣の破片が俺の血を吸い、漆黒の魔力と黄金の光が混ざり合った「歪な輝き」を放ち始める。
それは「修正された歴史」が最も忌み嫌う、定義不能の異形なる力。
「……なんだ、その光は。禍々しい……!」
リィンの顔に初めて、形容しがたい「恐怖」の色が浮かんだ。
「これは、お前たちが切り捨てた『未練』と『泥』の輝きだ。……リィン、お前の偽りの祈り、その盾で受け止めてみろ!」
俺は、ボロボロの身体に溢れ出す未知の力を乗せ、聖女の結界へと真っ向から拳を叩き込んだ。
第三十八話 完
第三十九話:運命の分岐点、最善の絶望
「――ああああああッ!」
咆哮と共に叩き込んだ拳が、リィンの展開した「絶対不可侵」の多層結界を、硝子細工のように粉砕した。
聖剣の破片が放つ歪な光が、リィンの黄金の魔力を侵食し、どす黒く染め上げていく。
「……ありえない。神に選ばれた私の祈りが、ただの村人の暴力に屈するなんて……!」
リィンの杖が手元から弾け飛び、彼女の華奢な体が図書館の壁まで吹き飛んだ。
俺は血を流す拳を握り締め、一歩、また一歩と彼女へ歩み寄る。
「アーク、待って! そのままじゃ彼女の精神が……!」
背後でセツナが制止の声を上げる。今の俺が放っているのは、歴史そのものを否定する「猛毒」に近い魔力だ。これ以上近づけば、リィンの存在そのものが消滅しかねない。
だが、俺は止まらなかった。
「リィン。お前、さっき『誰も悲しまない歴史』って言ったな」
俺は倒れ伏すリィンの前に膝をつき、その冷たい手首を掴んだ。
「……教えろよ。その『完璧な世界』で、お前はあいつの死をどうやって消したんだ?」
「あいつ……? 何の話を……」
「忘れたとは言わせねえ。魔王城の決戦の三日前、俺たちを庇って死んだ見習い騎士の……テオのことだ!」
リィンの瞳が、大きく見開かれた。
テオ。それは、今の「修正された歴史」では存在そのものが抹消されている、若き犠牲者。
彼が死ぬことで俺たちは魔王に勝てた。その悲劇を「なかったこと」にすれば、確かにリィンの心は救われるかもしれない。だが――。
「テオが最期に、お前に何を託したか思い出せ! 『僕の死を、なかったことにしないでくれ』……そう言って笑ったあいつの想いまで、お前は『完璧』のために捨て去るのか!?」
「――っ、やめて……思い出させないで……!」
リィンが頭を抱え、絶叫した。
彼女の脳内で、歴史の修正プログラムが激しく火花を散らす。
幸せな偽りの記憶と、血に塗れた愛おしい真実。その二つが彼女の魂を引き裂き、目からは黄金の光ではなく、真っ赤な血の涙が溢れ出した。
「これが俺の与える『最善の絶望』だ、リィン。……苦しめ。悲しめ。その痛みこそが、お前が生きて、あいつらと一緒に歩んできた本物の証拠なんだ!」
ドォォォォォン!!
リィンの体から膨大な魔力が爆発的に放出され、周囲の書架がすべて塵に帰した。
沈黙。
土煙が晴れた中心で、リィンは力なく俺の胸に顔を埋めていた。
「……アーク……ひどい……ひどいよ……」
掠れた、震える声。
だが、その手はしっかりと、俺のボロボロのシャツを掴んでいた。
「……お帰り、リィン」
俺がそう呟いた瞬間、王都全土を震わせるような、不気味な鐘の音が鳴り響いた。
空が割れる。
ついに「歴史の編纂者」が、これ以上のバグを許容できないと判断し、世界の直接消去に乗り出したのだ。
第三十九話 完
第四十話:失われた宝具の墓場
王都の空が、まるで薄氷のようにひび割れていた。
その隙間から覗くのは星空でも闇でもない。数式の羅列が蠢く、無機質な「世界の裏側」だ。
「……修正が追い付かなくなった結果、世界そのものを初期化し始めたのね」
意識を取り戻したリィンが、震える声で空を見上げた。彼女の瞳には、先ほどまでの冷徹な光はなく、ただ友を想う悲しみが灯っている。
「初期化なんてさせてたまるか。ブラド、次の手は?」
俺が傍らの空間に問いかけると、影の中からブラドが姿を現した。その表情はかつてないほど険しい。
「今の君たちの武器では、空の『編纂者』には届かない。聖剣は砕け、セツナの杖は折れ、リィンの法衣は汚れた。……本物の力を取り戻す必要がある」
ブラドが指し示したのは、王都の地下、さらに深くにある立ち入り禁止区域――『忘却の回廊』だった。
「あそこには、修正によって『無かったこと』にされた過去の英雄たちの武具が、因果の塵となって堆積している。そこへ向かえ。君たちの魂に呼応する『真実の欠片』が眠っているはずだ」
俺たちは崩壊を始めた王都を駆け抜け、地下の最深部へと飛び込んだ。
そこは、無数の剣や盾が、まるで墓標のように地面から突き出した静寂の空間だった。
「これ、全部……」
セツナが息を呑む。
かつて世界を守り、そして歴史の改変と共に忘れ去られた英雄たちの遺産。
俺はその山の中に、ひときわ眩い光を放つ一点を見つけた。
それは、俺が英雄時代に愛用し、魔王との決戦で粉砕されたはずの、本物の聖剣『エターナル』の柄だった。
手を伸ばそうとしたその時、背後から凄まじい風圧が襲いかかる。
「――やはりここに来たか、アーク」
重厚な足音と共に現れたのは、黒い霧を纏ったカイルだった。
だが、その姿は異様だった。全身から歴史の修正力が溢れ出し、もはや人間というよりは、世界が遣わした「処刑執行人」の影に呑み込まれかけている。
「カイル! お前までそんな姿に……!」
「黙れ。私は王都を護る盾。秩序を乱す貴様を、ここで完全に抹消する」
カイルが構えたのは、かつての友情を象徴する大剣ではない。世界の理を凝縮したような、漆黒の『処刑刃』。
「リィン、セツナ、ここは俺が止める。お前たちは自分の武器を探せ!」
「でもアーク、今のあなたじゃ――」
「信じろ! 俺がこいつの『盾』をぶち破って、必ず目を覚まさせてやる!」
俺は拳に巻いた聖剣の破片を強く握り込み、闇に堕ちた親友へと突進した。
伝説の武具が眠る墓場で、かつての最強の矛と最強の盾が、火花を散らして激突する。
第四十話 完
第四十一話:村人A、魔神を穿つ
「ガアアアアアアッ!」
咆哮と共に振り下ろされたカイルの『処刑刃』が、地面の武具ごと俺の肩を叩き切ろうとする。
重い。世界そのものの質量をぶつけられているような錯覚。俺は『雷鳴肺』を限界以上に回し、骨が軋む音を聞きながら、その一撃を紙一重で聖剣の破片で受け流した。
「カイル! お前の剣は、こんなに冷たくなかったはずだ! 仲間の命を守るために振るう、熱い剣だっただろ!」
「黙れ、バグが……。秩序こそが正義。安定こそが救済だ!」
カイルの瞳に、黒い数式の羅列が走り、人間としての色が消えていく。
世界が彼を「最強の防壁」として固定し、その自我を塗りつぶそうとしていた。
リィンとセツナが、それぞれの武具の山から自らの「真実」を掴み取るのが見えた。
リィンの手には、穢れを払う純白の戦棍。
セツナの手には、因果を計算し直す虹色の魔導書。
二人の光が戻りつつある。だが、そのためには俺がここで、世界が遣わしたこの「魔神」を止めなければならない。
「……アーク、無駄だよ。君はただの村人だ。英雄の称号も、加護もない君が、世界の理を宿した私の盾を貫くことはできない」
カイルの声が、複数の重なり合ったノイズに変わる。
彼の周囲に、修正力の結界が幾重にも重なり、絶対的な拒絶の壁を形作った。
「……ああ、そうだな。俺にはもう、英雄の肩書きなんてねえ」
俺は、ボロボロになった村人の服を脱ぎ捨てた。
全身、傷だらけだ。英雄時代の栄光の傷ではなく、この数日間、這いつくばって、笑われ、泥を啜りながら戦ってきた「村人」としての傷。
「だけどな、カイル。英雄(特別な奴)にしか世界が変えられないってんなら……そんな世界、俺がここで終わらせてやる!」
俺は、心臓の鼓動を一度、止めた。
『雷鳴肺』による酸素供給を絶ち、全身の細胞に蓄積された「絶望」と「未練」を、右拳の一点に、熱量として変換する。
聖剣の破片が、赤黒く、そして白く、定義不能の輝きを放つ。
「これは、スキルじゃねえ。……俺という『ただの人間』の、執念だッ!」
俺は魔神の如きカイルの懐へ、死線を超えて踏み込んだ。
漆黒の処刑刃が俺の脇腹を貫く。だが、構わない。
俺はそのまま、カイルの胸元――世界の理が最も密集する「核」へと、村人の拳を叩き込んだ。
ドォォォォォォォォン!!
衝撃波が『忘却の回廊』を埋め尽くす武具を吹き飛ばす。
絶対的な盾が砕け、カイルを包んでいた黒い霧が、俺の一撃によって霧散していく。
「……あ、……ぁ……」
カイルの瞳から数式が消え、光が戻る。
彼は血を吐きながら、信じられないものを見るように俺の顔を見つめた。
「……アーク……。お前、本当に……ただの村人のくせに……無茶しやがって……」
カイルの巨体が、ゆっくりと俺の肩に崩れ落ちた。
俺は、その震える背中をしっかりと支えた。
「……遅いんだよ、バカ野郎。……お帰り、カイル」
ついに、三人の仲間が揃った。
だが、安堵する暇はない。空のひび割れから、ついに「編纂者」の巨大な腕が、王都を握り潰さんと降りてきた。
第四十一話 完
第四十二話:支配された少女の瞳
『忘却の回廊』を駆け抜け、俺たちは王城の最上階、かつて魔王が君臨した玉座の間へと辿り着いた。
だが、そこにあったのは懐かしい決戦の場ではない。
玉座を中心に、無数の光り輝く「糸」が空間を埋め尽くしていた。その糸の一本一本が王都の魔力を吸い上げ、天に広がる「空のひび割れ」へと供給されている。
そして、その中心。
無数の糸に絡め取られ、操り人形のように宙に浮いている少女がいた。
「ルナ……!」
俺の声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。
だが、その瞳に宿っていたはずの、俺を「大罪人」と呼んで睨みつけたあの勝ち気な光はない。
瞳孔には黄金の幾何学模様が刻まれ、彼女の背中の小さな角からは、王都全体を消去しかねないほどの高密度な魔力が溢れ出していた。
「……無駄です、アーク。彼女はもはや『魔王の娘』という個体ではありません」
玉座の影から、静かにブラドが現れた。その手には、先ほどまで持っていた懐中時計はなく、代わりに「歴史の編纂者」のものと同じ光を放つ魔導書が握られている。
「ブラド、お前……! 仲間を救う方法があるって言ったのは嘘だったのか!」
カイルが大剣を構え、吠える。だがブラドは悲しげに首を振った。
「嘘ではありません。ですが、彼女を救うための『コスト』を、君たちはまだ支払っていない。……彼女は今、世界のバグを修正するための『演算装置』にされています。彼女を切り離せば、この世界は支えを失い、完全に消滅する」
ルナの唇が、感情を失った機械のように動いた。
『――不確定要素の排除。および、旧世代の英雄たちの解体を推奨。これより、王都全域の物理構成を抹消します』
ルナが手をかざすと、玉座の間の壁が、まるで砂細工のように音もなく崩れ始めた。
ただの破壊ではない。存在そのものを「なかったこと」にする、因果律の消去。
「……ルナ、聞こえるか! 俺だ、村人のアークだ!」
俺は消えゆく床を蹴り、光の糸の檻へと飛び込んだ。
だが、糸に触れた瞬間、俺の記憶の一部が強制的に引き抜かれるような激痛が走る。
「アーク、近付かないで! 彼女に触れれば、あなたの『自分が誰であるか』という最後の記憶まで吸い取られてしまうわ!」
リィンの叫びが響くが、俺は止まらなかった。
「……上等だよ。俺の記憶なんて、全部くれてやる! その代わり――」
俺は糸を素手で掴み、強引に引きちぎりながら、ルナの冷たい頬に手を伸ばした。
「……お前が俺を睨みつけてくれたあの時の、あの『熱さ』だけは、返してもらうぞ!」
ルナの瞳の中で、黄金の幾何学模様が激しく明滅する。
「世界の部品」にされた少女と、それを「人間」として連れ戻そうとする村人。
二人の魂が激突した瞬間、王城が、そして空が、悲鳴を上げるように激しく震えた。
第四十二話 完
第四十三話:世界の歪みを喰らう男
視界が反転した。
ルナの肌に触れた瞬間、俺の意識は王城の玉座の間を離れ、真っ白な虚無の世界へと引きずり込まれた。
そこには、巨大な「本」のページが無限に積み重なったような異様な光景が広がっていた。一枚一枚の紙には、この世界の住人たちの人生が、文字となって刻まれている。
そのページを、巨大なハサミのような影が次々と切り刻み、書き換えていた。
「……やめて。もう、何も残らない……」
虚無の中心で、ルナがうずくまっていた。
彼女の体は半分透明になり、足元から文字となって崩れ始めている。
「ルナ!」
俺が駆け寄ろうとすると、空中から無数の黒い「文字」が槍となって降り注いだ。
『――不法侵入者を確認。物語の整合性を守るため、該当個体を削除せよ』
声が響く。それは人の声ではなく、システムそのものの意思。
「削除だと? ふざけるな!」
俺は拳を振るい、迫りくる文字の槍を粉砕した。
一撃ごとに、俺の右腕の感覚が消えていく。この世界では、攻撃することは自分自身の「存在」を削ることと同義なのだ。
「アーク、来ちゃダメ……! ここにいたら、あなたまで『意味のない落書き』にされちゃう……!」
ルナが涙を流しながら叫ぶ。
「いいぜ、落書きで。……綺麗な歴史の一部になるより、お前の隣で汚い落書きとして残るほうが、よっぽど俺らしい」
俺は、ルナを飲み込もうとする「歴史のハサミ」――編纂者の端末へと肉薄した。
ハサミが俺の胸を貫き、記憶を貪り食う。
修行時代の思い出が消える。
魔王を倒した時の高揚感が消える。
自分が「アーク」という名であることさえ、霧のように薄れていく。
だが、一つだけ。
この数日間、最弱の村人として、ルナと一緒に泥水をすすり、罵倒されながら歩いた、あの「最悪で最高の時間」の記憶だけは、なぜか消えずに熱を帯びていた。
「……食えよ、編纂者。だが、この『歪み』だけは、お前の腹には収まりきらねえぞ!」
俺は自分を貫くハサミを逆手に掴み、逆に編纂者の力を自分の中に引きずり込んだ。
世界の歪みを、システムのエラーを、すべて俺という「村人」の器で喰らい尽くしてやる。
俺の全身が、真っ黒なノイズに包まれる。
それは英雄の輝きでも、魔王の闇でもない。
物語から追い出された者たちの、執念の結晶だ。
「ルナ……手を貸せ。こんなクソみたいな本、二人で破り捨てて、白紙のページに戻してやろうぜ」
俺の差し出した手に、ルナが震える指先を重ねた。
その瞬間、真っ白な虚無の世界に、猛烈な「嵐」が吹き荒れた。
第四十三話 完
第四十四話:聖女の告白、届かぬ指先
視界を埋め尽くしていた白い虚無が、ガラスのように砕け散った。
気がつけば、俺は王城の玉座の間で、ルナの体を強く抱きしめていた。ルナの瞳から黄金の模様が消え、ただの少女の潤んだ瞳に戻っている。
「……戻った、のか?」
「ええ。でも、世界の崩壊は止まっていないわ」
セツナの焦燥を含んだ声に顔を上げると、天井のひび割れはさらに広がり、王都の建物が次々と光の粒子に変わって空へ吸い上げられていた。
その時、俺たちの前にリィンがふらりと進み出た。
彼女の手にあった聖なる杖は、先ほどの戦いの余波ですでに半ばから折れている。
「アーク。……私がこの『歴史の編纂』を、一時的に食い止めます」
「リィン? 何を言ってる、お前の魔力はもう――」
「魔力ではありません。……私の『存在』を使うのです」
リィンが静かに微笑む。その体が、淡く、透き通るような白光を放ち始めた。
彼女は、この「修正された世界」において聖女としての最上位権限を持っている。その権限を逆流させ、自分自身を「楔」として、消えゆく世界に打ち込もうというのだ。
「待て! そんなことをしたら、お前が世界から消えちまう!」
俺が手を伸ばそうとしたが、リィンの周囲に展開された絶対不可侵の光が、俺を拒絶した。
「いいのです。……アーク、私、ずっと怖かった。あなたが『村人』として現れたとき、私の記憶の奥でテオが泣いていた。……本当は、あなたが正解だと分かっていた。でも、私はこの綺麗な世界を捨てて、また誰かが死ぬ残酷な真実に戻る勇気がなかった」
リィンの頬を、一筋の涙が伝う。それは血ではなく、混じりけのない人間の涙だった。
「これは、私の罪滅ぼしです。……そして、最後に一度だけ、あなたに『嘘』を吐かせてください」
リィンは、俺に触れようとした指先を、寂しげに空中で止めた。
「……大好きでした。英雄だったあなたも、今の、泥臭い村人のあなたも」
「リィン……!」
「さあ、行って。この隙に、空にいる『編纂者』の本体を。……あなたたちなら、新しい白紙の明日を、書けるはずだから」
リィンの体が、巨大な光の柱となって空へと昇っていく。
彼女が自らを犠牲にして作り出した「十秒間」の停滞。
俺は、届かなかった彼女の指先の残像を振り払うように、聖剣の破片を強く握りしめた。
「……行くぞ、カイル、セツナ、ルナ。……あいつの想いを、無駄にするんじゃねえぞ!」
俺たちは、光の柱を道しるべに、世界を書き換える「神」が待つ天の裂け目へと向かって地を蹴った。
第四十四話 完
第四十五話:偽りの平和を守るべきか
リィンの光の柱に押し上げられ、俺たちはついに「世界の境界線」を超えた。
そこは、重力も空気も存在しない、数多の物語が「データ」として浮遊する座標軸の墓場だった。
中心に浮いているのは、一本の巨大な水晶の針。
それが『歴史の筆』――この世界の過去と未来を、整合性が取れるように書き換え続けているシステムの本体だ。
「――来たか。我らが愛した、不完全なバグ共よ」
針の傍らに、ブラドがいた。だが、その姿はもはや人間の形を保っていない。全身が半透明な幾何学模様に覆われ、世界のシステムと完全に同期している。
「ブラド、そこをどけ! リィンが……あいつが命を削って道を作ったんだ!」
カイルが大剣を構え、吠える。
「リィンの献身は尊い。だが、アーク。君たちは本当に理解しているのか?」
ブラドが静かに指を指すと、空間に無数の「窓」が現れた。
そこには、俺たちが元に戻そうとしている「真実の世界」の光景が映し出されていた。
そこは、戦火で焼け野原になった村々だった。
魔王との戦いで親を失い、泣き叫ぶ子供たち。
食糧が尽き、飢えに苦しむ民衆。
そして――。
「真実の世界に戻るということは、この『地獄』を復活させるということだ。今の『書き換えられた世界』なら、この子供たちには親がいて、飢えを知らずに笑っていられる。……君の言う正義は、この子供たちの笑顔を奪ってまで、血生臭い真実を突きつけることなのか?」
俺の足が止まった。
ルナが俺の服の裾を強く握る。セツナも、構えた杖を微かに震わせた。
ブラドの言うことは、残酷なまでに正しい。
俺たちが「英雄」として勝ち取ったはずの勝利は、あまりに多くの犠牲の上に成り立っていた。今の歴史の修正は、その犠牲を「なかったこと」にして、人々に幸福を与えている。
「このまま筆を折れば、世界は再び混沌と悲劇に満ちた『真実』に戻る。……アーク、君にその責任が取れるのか? 救うために戦ってきた君が、今度はその手で、何百万人もの平穏な日常を破壊するのか?」
沈黙が、宇宙のような静寂を支配する。
俺の背中には、今も消えゆくリィンの光が、必死にこの時間を繋ぎ止めている感覚がある。
彼女が信じた俺は、どちらの道を選ぶべきなんだ。
「……ハッ、相変わらず嫌なところを突いてくるな、ブラド」
俺はゆっくりと、聖剣の破片を掲げた。
「地獄を復活させるのかって? 違うな」
俺の瞳に、漆黒と黄金が混ざり合った「村人」の火が灯る。
「俺は、地獄も、悲劇も、お前の用意した偽物の幸福も、全部ひっくるめて、俺たちが『自分で選べる』ようにしに来たんだよ!」
「……選択の自由、か。それは管理を放棄した、無責任な言葉だぞ」
「無責任で結構だ! 誰かに決められた幸せなんて、俺たちの人生じゃねえ。……死んだテオの涙も、生き残った子供たちの空腹も、全部俺たちが背負って歩いてやる。だから――」
俺は、迷いを断ち切り、世界の心臓部である『歴史の筆』へと真っ向から飛び込んだ。
第四十五話 完
第四十六話:反逆者の凱旋
『歴史の筆』の表面を、俺の拳が打った。
衝撃波が次元の狭間を駆け抜け、書き換えられた物語の「ページ」たちが悲鳴を上げる。
だが、その瞬間、俺の脳内に数百万人の「声」が直接流れ込んできた。
『やめて……。お父さんを、返して……!』
『今のままでいい。この平和を、壊さないで!』
『英雄なんていらない。この温かいパンと、静かな夜を奪わないでくれ!』
「――ぐ、ああああああッ!」
それは世界のシステムによる攻撃ではなかった。
俺が壊そうとしている「偽りの平和」を享受している、無辜の民衆たちの、心からの拒絶の叫びだった。
「聞こえるか、アーク。これが君が否定しようとしている『幸福』の重さだ」
ブラドが静かに告げる。彼の体からは無数の光の糸が伸び、それが地上の全人類の意識と繋がっていた。
「君がこの筆を折れば、彼らの父は消え、平和は戦火に変わり、飢えが戻る。君は救世主などではない。何百万人の安寧を奪う、史上最悪の『反逆者』だ」
俺の腕が止まる。
聖剣の破片が、その重圧に負けてひび割れた。
俺が守りたかった人たちが、俺を「悪魔」と呼び、死を願っている。
かつて世界を救った瞬間の万雷の拍手とは正反対の、憎悪の濁流。
「……アーク、苦しいなら止めて。私は、あなたの隣にいられるなら……」
ルナが俺の背中に手を添える。彼女の瞳にも、民衆の悲鳴が届いているはずだ。
だが、俺は顔を上げた。
唇を噛み切り、鉄の味で意識を繋ぎ止める。
「……ブラド。お前が忘れてる、一番大事なことを言ってやるよ」
「……何だと?」
「人ってのはな……勝手に死なされたり、勝手に生き返らされたりするために生きてんじゃねえんだよ! 悲しむ権利も、絶望する権利も、そいつ自身のものだ。お前みたいな『設定者』に、勝手に掃除させてたまるかッ!」
俺は叫び、自分の心臓を拳で打った。
自分の中にある「英雄だった記憶」を燃料に、今この瞬間の「村人の怒り」を爆発させる。
漆黒のノイズが俺の体を焼き、世界の拒絶を逆に喰らい尽くす。
「凱旋だ……。拍手も歓声もねえ、世界中から石を投げられる『反逆者の凱旋』だ! 責任なら俺が全部取ってやる。だから――その筆を、離せッ!」
俺は、民衆の呪詛を背負ったまま、世界の理そのものを物理的に引きちぎらんと力を込めた。
光の柱の向こう側で、リィンが「信じてる」と笑った気がした。
第四十六話 完
第四十七話:歴史改変の正体
俺の拳が『歴史の筆』を捉え、次元の狭間に亀裂が走ったその時だった。
荒れ狂っていた民衆の呪詛が、ピタリと止まった。
時間が静止し、ブラドも、カイルも、セツナも、まるで精巧な彫像のようにその場に固まる。
「――実に醜く、そして美しい抵抗だ。アーク」
筆の奥底、虚無の裂け目から現れたのは、一人の「老人」だった。
豪華な法衣を着ているわけでも、神々しい後光を背負っているわけでもない。どこにでもいるような、疲れ切った庭師のような風貌。だが、その瞳には数万年の孤独が沈殿していた。
「……誰だ。お前が、ブラドの言っていた『上位存在』か」
「名などない。私はただの『記録係』だ。あるいは、君たちの言葉で言うなら『世界の敗北』そのものかもしれない」
老人が虚空に指を走らせると、崩壊しかけた世界の外側――「本当の宇宙」が映し出された。
そこにあったのは、星々が消え去り、無機質な鉄の塊が支配する「死に絶えた未来」だった。
「アーク。君が魔王を倒し、世界に平和をもたらした歴史……。それは、最短で『滅亡』へと至るルートだったのだよ」
「何……?」
「英雄が生まれ、争いが終わり、人々が安寧を享受する。その結果、人類の成長は止まり、外宇宙からの侵食に耐えきれず、世界はわずか百年後に塵となって消える。……それが、書き換えられる前の『真実の結末』だ」
老人の言葉が、俺の心臓を冷たく締め上げる。
歴史の修正。それは単なる神の気まぐれではなく、世界を存続させるための「延命処置」だったのだ。
魔王を『守護神』に変え、人々に偽りの活力を与え、英雄を『村人』に格下げしてでも、人類という種を存続させるための計算。
「君がこの筆を折れば、世界は再び『滅亡の歴史』へと戻る。救ったはずの民衆を、数十年後に確実に死なせることになる。……アーク。君の正義は、人類の絶滅と引き換えにするほど価値のあるものかね?」
老人の問いは、ブラドのものより深く、重く俺を刺した。
俺が求めていた「真実」は、世界を終わらせるためのトリガーだったというのか。
「……ハッ。そうかよ」
俺は血の混じった笑みをこぼした。
聖剣の破片を握り直す。震えは止まらない。だが、俺の魂はまだ折れていなかった。
「百年後の滅亡? そんなもん、その時に生きてる連中が、また泥を啜って抗えばいいだけの話だ。……俺たちの今を勝手に消して、勝手に未来を繋ごうなんて、お前ら『記録係』の傲慢なんだよ!」
俺は老人の鼻先に、折れた剣先を突きつけた。
「人類を舐めるな。絶滅したって構わない、なんて言わねえ。……でもな、誰かが用意した『生存ルート』を歩かされるくらいなら、俺たちは自分たちの手で、最高に格好悪い『滅亡』を選んでやる!」
俺の背後で、固まっていたカイルたちの意識が、老人の静止を振り切って動き出す。
「……いいだろう。ならば、その『格好悪い意志』の強度を測らせてもらう」
老人の姿が膨れ上がり、世界の理そのものを体現する巨大な「巨神」へと変貌した。
第四十七話 完
第四十八話:過去からの呼び声
「記録係」の老人が放った光が、次元の狭間を真っ白に染め上げた。
眩い輝きが収まったとき、俺たちの前に立っていたのは、見覚えのある「四人の影」だった。
「……嘘だろ」
カイルが息を呑み、大剣を握る手が激しく震えた。
そこにいたのは、三年前、魔王城の玉座の間で最強を誇っていた頃の、俺たち自身だった。
黄金の全身鎧に身を包み、一点の曇りもない正義を宿した「英雄」カイル。
聖なる光を無限に放ち、慈愛の笑みを浮かべる「聖女」リィン。
神の数式を操り、万物を分解する「賢者」セツナ。
そして――。
その中心で、伝説の聖剣『エターナル』を構え、無敵の覇気を纏った「勇者」アーク。
「彼らは、君たちが望んだ『最高の自分たち』だ」
巨神と化した老人の声が響く。
「彼らは滅亡を回避するための理想のデータ。今の、傷だらけで、村人へと堕ち、絆を疑い、泥を啜った不完全な君たちが、この完成された輝きに勝てる道理はない」
かつての俺――「勇者」アークが、音もなく踏み込んだ。
速い。今の俺の『雷鳴肺』でも追いきれない、神速の踏み込み。
ズバァッ!!
俺の胸元が裂け、鮮血が舞う。
「……ぐ、ああッ!」
「アーク!」
ルナが叫ぶが、彼女の前には「賢者」セツナの放った極大魔法が壁となって立ち塞がる。
カイルも、かつての自分自身の圧倒的な膂力に押し込まれ、自慢の盾に亀裂が入っていた。
「……分かっているはずだ、アーク。君が信じる『真実』とは、この輝きを失うことだ」
「勇者」の俺が、感情のない瞳で俺を見下ろす。その剣先から放たれるのは、かつて俺が誇りとしていた、世界を救うための「眩しすぎる光」だった。
「どうした、村人。……これが、お前の捨てたかった『最強』の姿か?」
かつての俺が、俺の喉元に剣を突きつける。
視界が、血で赤く染まる。
確かに、目の前の俺は強い。美しくて、完璧だ。
それに比べて、今の俺はどうだ?
聖剣は折れ、服はボロボロ。救いたい仲間を一度は斬り、自分を信じてくれたリィンを消滅(一時的だとしても)に追い込んだ。
「……ああ、そうだ。お前は強いよ。羨ましいくらいにな」
俺は、喉元の剣先を手で掴み、強引に引き寄せた。
手のひらが裂け、骨が鳴る。だが、俺は笑った。
「でもな……お前には、この『痛みの味』が分からないだろ」
俺は、折れた聖剣の破片を、かつての自分の胸へと突き立てた。
「俺は、お前が知らない『最悪の絶望』を、ルナと一緒に歩いてきたんだ。……ただ完璧なだけのお前に、俺たちの『今』を語らせてたまるかッ!」
俺の咆哮に呼応するように、カイルとセツナからも、絶望を越えた者特有の、暗く、熱い魔力が噴き出した。
第四十八話 完
第四十九話:物語の終焉、そして……
「勇者」としての俺が放つ黄金の輝きが、俺の「村人」としての漆黒の執念に侵食されていく。
かつての俺は完璧だった。だが、完璧であるがゆえに、この「泥沼を這いずり回って掴み取った答え」の重さを知らなかった。
「……カイル! セツナ! 今だッ!」
俺の叫びに、かつての自分の幻影を力ずくでねじ伏せた二人が応える。
カイルは砕けた盾を捨て、剥き出しの拳で「英雄」の顔面を殴りつけた。
セツナは魔導書を閉じ、数式ではなく、荒れ狂う感情そのものを魔力に変えて「賢者」を飲み込んだ。
「記録係! お前が作った『完成された過去』なんて、今の俺たちには一撃も重くねえんだよ!」
俺は自分を貫こうとする聖剣『エターナル』を、腹筋の力だけで受け止めた。
驚愕に目を見開く「勇者」の俺。その無機質な瞳に、今の俺の、狂気じみた笑顔が映る。
「……これが、お前が切り捨てた『無駄な時間』の力だ」
アークが拳に巻きつけた聖剣の破片に、腰の『黒い剣』が共鳴し、液体のように溶けて混ざり合った。
ルナの魔王の血、カイルと歩んだ泥臭い日々、セツナの失われた計算式??。
それらすべてを燃料にして、アークの右腕から「世界の理を否定する黒い稲妻」が爆発的に吹き上がる。
もはやそれは剣の形すら成していない。
不完全で、歪で、だが何よりも熱い「人間の意志」そのものが巨大な光の杭となって、アークの拳に宿っていた。
俺は、拳に巻きつけた聖剣の破片――その最期の輝きを、背後に立つ『歴史の筆』へと叩き込んだ。
「勇者」の俺を通し、巨神の核を貫き、世界を縛るすべての「文字」を粉砕する。
バキィィィィィィィィン!!
次元を揺るがす轟音とともに、巨大な水晶の針が、真っ二つに折れた。
「……馬鹿な。滅びへと続く道を選び、システムを自ら破壊するとは……」
巨神の姿が崩れ、老人の姿に戻った「記録係」が、驚愕とともに虚空へ消えていく。
世界を覆っていた「偽りの空」が、硝子のように剥がれ落ちた。
「あ……」
ルナが声を漏らす。
現れたのは、美しい夕焼けでも、穏やかな夜空でもなかった。
半分が崩壊し、煙が立ち昇る王都。
記憶を取り戻し、自分が犯した罪(魔王への隷属)に震える民衆。
そして、空には「百年後の滅亡」を暗示するように、赤く不気味な彗星が輝いている。
――真実の世界だ。
そこには、リィンの姿もなかった。
彼女が楔となって繋ぎ止めたこの世界には、もう彼女自身の居場所は残っていなかった。
「……勝った、のか?」
カイルが膝をつく。その腕からは血が絶え間なく流れていた。
「……ええ。最悪の、真実の世界にね」
セツナが空を見上げる。そこには、魔力を失い、ただの「元・賢者」に戻った彼女の、疲弊しきった顔があった。
俺は、隣に立つルナを見た。
彼女もまた、角を失い、魔王の娘としての権能をすべて使い果たしていた。
「……アーク。これから、どうするの? 世界はボロボロで、みんなあなたを恨んでるわ。百年後には滅びが待ってる」
ルナが、震える声で俺に問いかける。
俺は、折れた聖剣の柄を、ゴミでも捨てるように足元へ投げ捨てた。
そして、ただの「村人」として、大きく背伸びをする。
「決まってんだろ。……まずは、リィンを連れ戻しに行く。そのあとに、このクソみたいな滅亡の運命を、もう一度全員で殴り倒しに行くんだよ」
俺の言葉に、ルナが、カイルが、セツナが、呆れたように、そして晴れやかに笑った。
第四十九話 完
第五十話:村人Aの叙事詩
歴史の筆が折れ、世界を覆っていた「心地よい嘘」は剥がれ落ちた。
王都の広場には、混乱と、怒りと、そして深い悲しみが渦巻いている。人々は失った「偽りの家族」の名を呼び、天を仰いで泣き叫んでいた。
その光景の片隅に、俺たちはいた。
カイルの鎧は砕け、セツナの魔導書は白紙に戻り、ルナはただの震える少女として、俺のボロボロのシャツを掴んでいる。
「……見てよ、アーク。これがあなたの選んだ世界よ」
ルナが、涙を堪えながら呟く。
「ああ。最高に最低な気分だ」
俺は、広場の中央へと歩み出た。
かつて「勇者」として喝采を浴びたその場所で、今は数千人の憎悪の視線が俺を突き刺す。
「人殺し!」「英雄が、俺たちの幸せを盗んだんだ!」「死ね、アーク!」
投げられた石が、俺の額を割る。血が視界を赤く染めるが、俺は一歩も引かなかった。
「――静かにしろッ!」
俺の咆哮に、広場が静まり返る。魔力による威圧ではない。ただの、一人の「村人」としての、魂の叫びだ。
「お前らが愛した平和は、全部偽物だった! だがな、その偽物の時間を過ごしたお前らの『想い』まで偽物だったなんて、俺は言わせねえ!」
俺は石を投げた男を、真っ向から見据えた。
「父さんが消えた? 幸せが壊れた? 当たり前だ、そんなもん、いつか全部壊れるもんなんだよ! 誰かに与えられた平和なんて、お前らの人生じゃねえだろ!」
俺は自分の胸を叩き、血を吐きながら続けた。
「百年後に世界が滅ぶ? 知るかそんなもん! 俺たちは今日を生きる。明日を奪い取る! 運命に負けて泣く暇があるなら、その手で今日食うパンを、自分で焼いてみせろッ!」
広場を支配したのは、沈黙だった。
やがて、一人の子供が、泣きながらも地面に落ちたパンを拾い上げ、泥を払って口にした。
それは、世界が再び「自らの足で歩き始めた」瞬間だった。
――それから、数ヶ月。
王都の復興は遅々として進まない。人々は今も俺たちを「大罪人」として忌み嫌っている。
だが、カイルは一兵卒として瓦礫撤去に汗を流し、セツナは魔法を失った人々に火の起こし方を教えていた。
そして俺とルナは、王都の門の前に立っていた。
「……本当に、行くの? どこにいるかも分からないリィンを、探しに」
ルナが、旅支度を整えた背嚢を背負い直す。
「ああ。あいつの『大好きでした』って言葉に、まだ返事してねえからな」
俺は空を見上げた。
赤い彗星は、今も不気味に輝いている。
百年後の滅亡。世界のシステムが予言した、回避不能の結末。
だが、俺の腰には、再び打ち直された「ただの鉄の剣」が差してある。
「アーク。……私、まだあなたのこと、大嫌いだからね」
「分かってるよ。魔王の娘」
「……でも、あなたがまた死にかけたら、私が助けてあげる。……『村人』一人じゃ、何もできないでしょ?」
ルナが、かつての勝ち気な笑みを浮かべて、俺の手を引いた。
英雄の時代は終わった。
神の書いた物語も、ここで完結だ。
ここから先は、名前も、加護も、称号も持たない俺たちが、ただの足跡で刻んでいく「新しい歴史」。
俺の名はアーク。
世界を救い、世界を壊し、そして、今この瞬間を生きている、ただの「村人A」だ。
「――よし、行こうぜ。新しい絶望と、最高の明日を探しに」
荒野の向こう側、昇り始めた太陽が、俺たちの長い影をどこまでも伸ばしていった。
第五十話 完
エピローグ:欠落した祈りの行方
世界から「黄金の加護」が消え、人々が自らの足で歩き始めてから三ヶ月。
王都の外れ、かつて「勇者一行」が旅の準備を整えた思い出の丘に、二人の影があった。
「……ねえアーク。やっぱり、ここには何も残っていないわ」
ルナが、風に吹かれる髪を押さえながら呟く。
彼女の視線の先、丘の頂にある古い祠には、本来なら「聖女の象徴」である白い百合が供えられているはずだった。だが、今の歴史においてリィンは存在せず、そこにはただの枯れ草が広がっている。
「いや、残ってるさ。……俺たちの頭の中にだけはな」
アークは、腰に差した無骨な鉄の剣の柄に手を置いた。
魔力を失い、称号を奪われた。だが、その代わりに手に入れた「村人」としての逞しさが、その背中には宿っている。
その時。
アークの視界が、一瞬だけ白く明滅した。
(――ああ、やっと見つけてくれた)
耳元で、鈴の音のような声が響いた気がした。
それは、世界の理の中に溶け、概念の楔となったリィンの、消え入りそうな祈りの残滓。
(アーク。あなたが選んだこの世界は、とても残酷で、とても眩しい。……私の居場所はもうどこにもないけれど。あなたが私の名を呼んでくれるたび、私は『私』でいられるの)
アークは目を閉じ、その「届かぬ声」を全身で受け止めた。
リィンは今、次元の狭間で、百年後の滅亡を食い止めるための「観測者」として孤独な戦いを続けている。彼女を救い出すことは、世界そのものと再び戦うことを意味する。
「……待ってろよ、リィン。俺たちはまだ、誰一人諦めちゃいねえ」
アークが振り返ると、坂の下から二人の男と女が歩いてくるのが見えた。
大剣を背負い、かつての重厚な鎧を脱ぎ捨てて軽装になったカイル。
魔導書を捨て、腰に薬草袋を下げたセツナ。
「遅いぞ、カイル。準備はできたのか?」
「ああ。王都の連中には『疫病神が消えて清々する』って言われたがな」
カイルが豪快に笑う。その瞳には、英雄時代のような義務感ではなく、友と共に歩む純粋な喜びが宿っていた。
「魔法がなくても、理屈がなくても、私たちは行ける。……そうでしょ、アーク?」
セツナもまた、晴れやかな顔でアークの隣に並んだ。
四人の視線の先。
地平線の彼方には、歴史の修正からこぼれ落ちた「未知の領域」が広がっている。
そこには、失われたリィンの魂の手がかりがあり、そして人類を滅亡へと導く赤い彗星の正体が眠っているはずだ。
「さあ、行こうぜ。……村人Aとその仲間たちの、歴史に載らない『本当の冒険』は、ここからだ」
アークが先頭に立って歩き出す。
かつて世界を救った勇者たちは、今、世界に背を向けて、一人の友を救うために。
丘を吹き抜ける風が、四人の足跡を優しく撫でていった。
―完―
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